―――月曜日。
それは週における始まりの一日で、多くの人間にとっても始まりの一日だ。
休みが終わって仕事や学校に行かなくちゃならない、憂鬱な曜日。
ゲームで言えば、章の始め。タイトル画面からスタートボタンを押して直ぐ。
本当は日曜日が一週間における第一日らしいんだけど、僕はそんな印象は持っていない。
というか、殆どの人は日曜日って週末だと認識してると思う。
日曜日は土曜に続いて休日だからね、何となくセットで週末ってイメージがあるから。
イギリスではどうなのか分らないけど、少なくとも僕はそう思って生活してる。
だって引き篭もって学校にも保育園にも行ってないし、仕事も無いからそんな常識なんて必要ないからね。ふひひ。
ともかく月曜日とは始まりの日であり―――……そして、僕はそんな月曜に毎週絶対に欠かさず行っていたことがあった。
―――自己確認・自己肯定の作業だ。
簡単に言うと【西條拓巳】を自分に再確認させる儀式のようなもの。
……やってることは、PCのテキストに書き出された自分の置かれた状況を唯眺めてるだけなんだけどさ。
でもこれをやらないと、僕は不安で不安で堪らなくなっていたんだ。
……何でかって?
だって、そうしないと僕は【ネギ】を受け入れてしまうかもしれなかったから。
……くそ。
僕がこの環境に置かれた当初は、その基地外じみた自分の状態に困惑し、恐れ、憤り、発狂しかけて壊れかけた。
食べ物も碌に喉を通らず胃は常に空っぽのまま。ストレスによって胃液が過剰分泌され、お腹はいっつもキリキリ痛んで、それが更にストレスを増大させるという悪循環。
もう【ネギ】って呼ばれる度に嘔吐感がこみ上げて来て、胃液だけの吐瀉物を撒き散らしたのだって一度や二度じゃない。
……でも、それでも皆は僕のことを【ネギ】って呼んで。僕を【ネギ】にしようとして。
昔はそんな状態だったため、当然僕は【ネギ】に強い嫌悪感を抱いていて。
そして絶対に受け入れることは無い筈だったんだ。
勿論今だってその感情は変わらない。
前ほど酷くはないけれど、やっぱり自身を【ネギ】と呼ばれると少なくない嫌悪感と共に吐き気も押し寄せる。
僕があまり外に出たがらないのだって、対人恐怖症の他、アーニャ以外の……他のDQN達が【ネギ】と呼ぶのを聞きたくないからだ。
ネカネやスタン、他の老人達やその家族といった比較的僕に友好的な奴らは一回言えば―――話す度毎回だけど―――ネギって呼ぶのは止めてくれる。
でも、若い奴ら……理想に燃えている様な頭の固い奴らはそうじゃない。
僕の心情や感情なんか知ったことじゃない、と言った風情で僕に【ネギ】を強要して来るんだ。
幾ら僕がネギと呼ぶなって言っても、DQNどもは『ナギさんから貰った名前を否定するのは良くない』とかうざい事言って聞きやしない。
その度にネカネやスタンが取り成してくれて一応は引き下がってはくれるんだけど、絶対に呼び名を改めようとしないんだ。……ほんと何なんだあのDQNども、終いにはアジフライ投げつけんぞ。
……とにかく、その時から多少落ち着いたとはいえ、僕は【ネギ】が大嫌いなのには変わり無い。
変わりは無いんだ。
変わりは無い……無いんだけど――――――だけど、今は少し余裕が出てきてしまった訳で。
言わずもかな、アーニャの所為な訳なんだけどね。
勿論、僕が【ネギ】と呼ばれることを受容したって訳じゃない。
そんな事したくもないし、する気も今後一切ありえない。
……でも、ほんのちょっと。
僕は、この【設定】に―――【ネギ】に付き合ってやってもいい、と思ってしまっている事も確かで。
―――それに気づいた時、僕はまたもや恐怖した。
このまま絆されて行ってしまったら、僕は【ネギ】を受け入れてしまうかもしれない。
一年や五年でそうなる事はまず無いだろうけど、十年や二十年先の事は分からない。
感じている嫌悪感も無くなっていくかもしれない。違和感を感じなくなっていくかもしれない。
そうして最後には―――【西條拓巳】と【ネギ】の配分が入れ替わって、僕は完全にネギになってしまうかもしれない。
……十年も二十年もこのままなんて考えたくは無いけど、何をどうすれば【西條拓巳】に戻れるのかすら分らないんだ。
僕は、もう元の場所―――梨深達が居たあの場所へ帰れないかもしれない。
でも、それでも【西條拓巳】であった事は……ある事だけは捨てたくなかったんだ。
―――だから僕は、自分に言い聞かせる意味を込めて【僕】の記憶を記録として書き出した。
毎週定期的に自分の置かれた状況を確認して、僕が【西條拓巳】だって事を確認する。
自分の記憶とこの状況との相違点を粗方書き出して、今が異常である事を確認する。
僕が今までやってきた事を思い出して、僕は僕だと確認する。
【ネギ】と呼ばれる事に対する嫌悪感を思い出して、周りの雰囲気に流されないようにする。
……意味の無い行動かもしれないけど、将軍を探す事と同じ。
それでも、やらずには居られないんだ。
―――……いや、やらずには【居られなかった】、が正しいね。
最近、僕はそれを行う事が億劫になってきてるから。
……理由は、僕のディソードにある。
僕が【ネギ】になった後、初めてディソードを見つけてから。
ふと見上げた空に浮かんでいた、何の変哲も無い雲だった筈のそれを見つけた時……僕の頭の片隅に、ほんの一片の疑惑が生まれてしまって。
……それから、【西條拓巳】の記録を見る事に苛々するようになったんだ。
苛々して、ムカついて、足元が揺らぐ錯覚。
そこに書かれた僕は、本当に【僕】なのか。
まだ100%僕はそれを【西條拓巳】と断言できてはいるけど、先の事に関しては自信がなくなってしまったんだ。
―――僕が【僕】だって思う事に、何か良く分からない感情のざわめきが伴うようになったから。
……だから、僕はアーニャに【タク】って呼ばれるたびにひっそりと安堵していたりするんだ。本人には絶対に言わないけど。
―――それと、ディソードの件は僕がリアルブートを忌避している理由の一つにも加えられた。
ここ最近に出来た後付の理由。山の如く積まれた問題点の一番上、最新の出来事。
元々ギガロマニアックスに関する力は使うつもりは無かったけれど、これで絶対に使いたくなくなったんだ。
僕はディソードを通さなくてもリアルブートが使えちゃうみたいだから、意味の無い想いかもしれない。
でも、使うと使わないでは雲泥の差がある筈だ。
……ディソードに触れたくないし、見たくも無い。
それが、ギガロマニアックスの力を使いたくない二つ目の理由になったんだ。
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カーテンの隙間から、うっすらと朝日が差し込む。
それは目の前にあるPCの人工的な明かりとは違って、僕の網膜を柔らかく焼く優しい光。
何か、種類の知らない鳥が鳴いている声が鼓膜を震わせ―――そこで僕は外が既に朝になっていることに気が付いた。
時計を見ると、朝の7時。
……昨日の夜からぶっ続けで、あのダメダメオンラインゲームをプレイし続けて8時間。
始めた頃はまだ外は真っ暗だったのに、もう日の出の時間帯だ。
「……さむ」
僕の居る場所―――ウェールズとか言う場所は今は冬を迎えているらしく、とても寒い。
それが朝早くなら尚更だ。
部屋の隅に置いてある達磨ストーブが赤く発光して熱を発しているけれど、まだ少し肌寒い。
それなのに外の気温とは結構差があるらしく、その気温差でガラスが結露している。木の壁が湿って、何とも言えない木の香りが部屋の中に充満しちゃってるよ。
臭いって訳じゃないんだけど……何か、妙な匂いだ。
「……木組みの小屋は、こういう所がイヤなんだ」
コンクリとか金属とかと違って、匂いは強いし直ぐカビが生える。
今のこの部屋がベースと違って汚れていないのだって、それがあるからだ。少しでも気を抜いて食料の食べ零しを床とかに撒いておくと、際限なく虫が沸いてくるんだ。本当に嫌になる。
……冬なんだから冬眠するか死んでろよ。
「…………ぁっ、ふ……」
そのまま何となくぼんやりしていると、僕の口から欠伸が漏れ出てきた。
瞼が重くて重くてしょうがない、脳が睡眠を求めてるんだ。
……本当、不便な事極まりないよ。
17歳だった時は一日30時間は余裕でエンスれたのに、今じゃ8時間程度でこのザマだ。
目がしょぼしょぼして、頭が痛くなって。無理な酷使に子供の身体が悲鳴を上げている。
……この程度じゃ一流の廃プレイヤーなんて自称できないっていうのに。
「……疾風迅雷のナイトハルトが、聞いて呆れるよ……」
まぁ、今使ってるハンドルネームはリーゼロッテの方だけどね。
別に他の全く新しいハンドルネームを使っても良かったんだけど、それだと将軍が分かってくれないかもしれないって危惧があった。
でも、だからと言ってナイトハルトの名に汚点を残したくもなかったんだ。
……僕にとっての「ナイトハルト」の名は、僕が【僕】として生きてきた―――彼のものとは違う、正真正銘の僕自身―――西條拓巳として歩んできた、その証みたいなものだから。
決して、そんざいに扱う事なんて出来なかったんだ。
―――だから、そんな訳でのリーゼロッテ。
折衷案、とも言うね。
何せ彼が意識を取り戻してからずっと、僕は思考盗撮されてたみたいだから。
彼なら、この名前でも僕の事だって分かってくれるはず。
「…………」
……自分でも分かってるよ。無意味な事してるっていうのは。
彼が僕の事に気づいてくれるって事に、ネトゲのハンドルネームなんて全然関係無い。
だけどしょうがないんだ。
―――これを止めたら、きっと僕は―――……。
「……くっそ、ムカつく……!」
いろいろな意味で自分が昔とは違うって事を改めて自覚して、イラッと来た。
そして、その衝動のまま耳栓代わりのヘッドフォンを外して床に向かって投げつけたけど、全力で投げつけた割には弱弱しくて頼りない音しか響かない。
―――それがまた、僕を苛立たせる。
それもこれも全部、このゲームがクソ過ぎるのが悪いんだ。
もしこのゲームがエンスーだったら……いや、そこまでは言わないけどもうちょっとマシな出来だったら。
僕はこんな苛々せずに、少しはゲーム自体を楽しめたかもしれないね。余計な事を考える暇も無かった筈だ。
……幼児の時って時間が進むのが遅く感じるとか言うけど、きっと17歳の身体でも同じ感じだったよ。
このゲームをプレイしている最中は、一分一秒経つのが待ち遠しかった。
やってたことはソロプレイでのアイテム収集だったけど、フィールドの切り替えに30秒もかかるし、キーのタイピングとキャラの動きにズレがあるし、まともに動くことすら難しい。
エンスーの快適なゲームシステムに慣れ過ぎた僕には、このゲームにはどこもかしこも不満点しか見当たらない。
あとPCも古杉。
キーボードは海外仕様で使いづらいし、読み込み遅いし、煩いし、何より容量少なすぎ。PCがデータを処理できなくてフリーズとか、テラワロス。
その度に苛々がたまって、早く時間が過ぎてくれって思わずにいられなかったね。何でこんな苦行を強いられなくちゃなんないんだ、って。
ほんっとクソゲーだ、ほんっと使えないPCだ。
ゲームはもうしょうがないにしても、PCに関してはもう少し容量が欲しい。贅沢は言わないから、せめてもう500GB。
「…………」
そんな恨み辛みを心中で愚痴りつつ、進行状況をセーブ。
表示されたセーブデータを見てみると、プレイ時間は既に三桁台の終盤に突入している。
……よくもまぁ、こんなゲームにここまで時間をつぎ込めたもんだ、と我ながら呆れた。
身体能力に制限があるからエンスー時代のデータには遠く及ばないけど、それでも結構な数字だ。
これだけやれば当然、リーゼロッテの名前もゲーム内じゃそこそこ有名になってる。
何せ彼女はナイトハルトとみたいなガッチガチの前衛職ではなく、サポート中心の中衛職だからね。
このゲームには基本高火力で敵を叩き潰すか、逆に叩き潰されるかの二択しか選択肢のない脳筋が多いから、サポートに優れた高レベルPCはあちこちのパーティに引っ張りだこだ。
それ故彼よりも人を助ける機会が多くて、その人達から情報が広まるのも速い。
BBSでは「俺らの聖女」「リーゼロッテたんマジ天使」「リアルのリーゼロッテは病院に入院している薄幸の美少女」とか言われてる。
オタってちょろいね。
この頃のネカマプレイしてる連中は、まだイライザみたいな自分の利益を優先させるクソプレイヤーばっかで、純粋に「ネカマ」を楽しんでる奴は意外と少ないらしい。
あからさまなぶりっ子を演じて女に扮し、僕らみたいな純粋な男心を持つ奴らを惑わして、貢がせるだけ貢がせる。
そうしてお目当てのレアアイテムを手に入れたら、パーティメンバーから切ってそのままオサラバ、ってパターンが多いみたいだ。イライザ死ね。
だからあまり露骨に女って主張をせずに、礼儀正しく控えめに相手を立てる古き良き清楚キャラを演じていれば、この頃の男プレイヤー達は何も言わなくても勝手にリア女だって勘違いしてくれるらしいよ。
ソースは@ちゃん。前にネトゲ板で自称ネット黎明期からの最古参プレイヤーがそう言ってた。
「……ふひひっ。げ、現実はこんなキモオタだけどな」
まぁ、それでも今のこの姿を―――女顔のショタがリーゼロッテの正体って知られれば、一部の層では逆にファンが増えそうではあるんだけど。
……改めて思うけど、3歳児の時点で女顔とかイケメンとか分かるってありえないよね。どんだけ将来有望株なんだよ。
体のスペックも魔力保有量?やら何やらが凄いらしいし、親が英雄とか美人の姉とか幼馴染ありとか、これ何てテンプレ厨二主人公?
これで悲しい過去(笑)とかあったら完璧だね。オプーナを買う権利が貰えるレベル。
ちょっと前ならこれでリア充になれるとか喜んでたかもしれないけど、実際なってみると気味悪さが勝るよ。
……こんな事になるくらいだったら、あの油っぽいキモオタフェイスのままで十分だった。
つらつらと、そんなく下らない事を考えつつゲーム画面を閉じ、別のプラウザ……何時も巡回してるチャットルームのページを開いた。
「…………」
そしてチャットルームが開くまでの間僕は朝食をとろうかと考えて、食料を取りに部屋の外へと出るべく棚の上に無造作に投げ捨てられたコートを着込む。
このPCじゃプラウザが開くまでに最悪数分近くかかるからね、時間の効率的活用ってやつさ。
クリスマスのプレゼントに貰った、裾に緑色の糸で「ネギ」って刺繍が施されたちょっとくすんだ白色のコート。
僕はそれを肩に羽織って、扉の近くに置いてあったブーツを履き壊れかけの扉を押す。
ぎぎぎ……と鈍い音が響いて、その際に細かい木屑がパラパラと床に落ちて扉が倒れるんじゃないかと不安になった。
早くスタンの爺さんに言って直してもらわないと……とは思うんだけど、中々踏ん切りがつかないで居る。
……もしかしたら、ネカネが既に頼んでくれているかもしれないけど。
「っひ……」
そうして、部屋から廊下へと一歩踏み出した瞬間―――今までとは比ではないくらいの冷気が僕を包み込み、思わず変な悲鳴を上げてしまった。
咄嗟に口を押さえたけれど、今この家にいるのは僕一人だった事を思い出して安心する。
……ネカネとアーニャは、もうこの村にはいない。昨日の夜に魔法学校へと帰って行ったんだ。
だから、次の休みの日……少なくともあと一カ月近くはこの家には僕一人だけ。
これでやたらと気を使われることも、無理矢理外に出される事もなくなった訳だ。
「……………」
……訳なんだけど、何故かあんまり嬉しくない。
恐怖と面倒。二つの大きなストレスからは解放されたはずなのに、何故か精神が安定しないんだ。
……何でかな。歩きながら考える。
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「……そ、そんな事より、今は食べ物だ……」
―――何かこれ以上深く考えると、色々取り返しがつかなくなりそうだったからやめた。
ああ、あと何時もは後ろ髪を引かれるような表情のネカネが、その日に限って期限がよさそうにニコニコ笑ってたのが気になったよ。
アーニャも不思議に思っていたみたいだし、何か良い事でもあったのかもしれない。
……もしかしたら、僕と一緒にお茶をした事が原因かな。わかんないけど。
まぁそれはそれとして。
居間へ続く扉を開いて、今は沈黙している暖炉を通り過ぎる。
暖炉の中にはまだ新しい木切れが燃えやすいよう、キャンプファイヤーの時に燃やすアレみたいにかっちり組まれていて、直ぐに使えるようにしてあった。
……多分、ネカネかアーニャが気を使ってくれんだろう。
この組み方から見る限り、これを用意してくれたのはネカネの方かな。アーニャの組み方はただ木切れを投げ入れてるだけだし。
「……意味、ないのに」
使いやすいように配慮してくれているのかどうか知らないけど、僕は基本あの物置部屋から出ないから暖炉なんて使わないし、使えない。
火を起こす事なんて、僕は直接やった事ないからね。人力でも、機械でも。
だから、こんな事をしても全くの無意味だっていうのに。
「…………」
何か妙な罪悪感を覚えつつ、キッチンへ向かう。
何時もは埃が積もってて酷い有様な場所だけど、昨日までネカネが使っていたおかげか、そこにはまだ生活感が漂っていた。
そして部屋の隅にに設置されている大き目の冷蔵庫の取っ手を背伸びして掴む。身体を振り子みたいに前後に揺らして、勢いをつけたところで一気に力を入れて引く。
いちいち面倒くさい工程だけど、今の僕は背が低いからそうしないと上手く扉を開けられないんだ。
……まさか、こんな具合に大人と子供の身体機能の違いを実感する羽目になるなんて夢にも思わなかったよ。
「……よ、よっ…ぐ…」
そうして苦労して開けた扉を使ってよじ登り、冷蔵庫の中身を覗くような姿勢で見る。
昨日ネカネが作ってくれた手料理が1・2日分と、ハムが少し。トマトとチーズがそれぞれ一袋ずつに、あとはペットボトルのコーラが三本と紙パックの牛乳が一本入ってる。
冷凍室と野菜室には何も入っていないから、実質この中にあるものだけがこの家にある食料の全てだ。
……これなら最低3・4日なら食料を補充しに行く心配は無い、かな。
冷蔵庫の中に入っている量は良くて二日分くらいだけど、今の僕は小食だから一食分を二食に分けても十分足りるんだ。
僕は三つのサンドイッチをが乗った皿を手にとって、その内の一枚を小さく千切って抜き取った。
―――ネカネの作る料理は、それなりに美味しい。
僕は当初、色々な所で言われている通りイギリスの料理なんて不味いと思っていて、大して期待はしていなかったんだけど……そんな事は無かった。
味付けは確かに日本人好みの物とは離れているけど、イコール不味いって訳じゃない。好みにもよるんだろうけど、僕は美味しいと感じた。
スコーンとか、スープとか。そういったものばかりだったけどね。
何ていうか……ほっとする味、とでも言えばいいのかな。月並みな言葉だけど、まずそれが思い浮かんだよ。
……悪いけど、僕は味に関するボキャブラリーはあんまり引き出しが多くないからこれくらいしか言う事は無い。
菓子とインスタントを主食としてきた僕に、女性の手料理をレビューしろなんて無理ゲーもいい所だ。
……まぁ、どうでも良い話かもしれないけど。
そして扉の部分に置いてあったコーラを一本取り出して、身を引いて地面に着地。
未だ開いたままの扉、その下部分に手を引っ掛けて手前側に引き寄せた。
ゆっくり扉が閉まっていく様を何となく見ていると、扉の部分に仕舞われている牛乳パックの色が少しおかしく見えて。
カビでも生えたかな、とちょっと疑問に思って良く見てみると―――茨が絡みついた剣に、
「――――――ッ!!」
―――バン!
叩きつけるようにして、扉を閉めた。
「……っ、くっそ、くそっ……!」
……嫌なものを、見た。
僕は胸のざわつきを抑えながら、そう呟いて。
冷蔵庫から視線を外せないまま、じりじりと後ろへと後ずさる。
―――扉を閉める間際。
それこそ、一瞬にも満たない時間。
扉が完全に閉まる瞬間―――視界の端に映った牛乳パックが、剣の形に見えた気がした。
「…………」
……なんだか、胸が苦しい。
胸の部分の服を握り締めつつ、そのままゆっくりと冷蔵庫から距離をとる。
何の変哲も無い冷蔵庫が、さっき自分で中身を確かめたはずの冷蔵庫が―――何か、得体の知れないものを内包しているように見えて。
……それなのに。「見たくない」と頭が悲鳴を上げているのに、視線を逸らす事が出来ない。
目を逸らしたその瞬間―――また、別のものが剣の形に見えるんじゃないかって思って……それが、たまらなく嫌なんだ。
―――【剣】を見たくない。
見たくないからこそ、目を逸らせない。逸らさない。
冷蔵庫に緊張しながら向かい合っている様は端から見たらとても滑稽な姿に映るんだろうけど、そんなこと考えてる余裕なんて無い。
後ろ歩きの姿勢のまま、下がり続ける。
「……さ、さい、最悪だ……!!」
見て。
―――眼球が、痙攣する。
見て。
―――僕は今、何も見ては居なかった。
見て。
―――何にも、何にも、見ていない。
見て。
―――きっと目の錯覚だ、それか勘違い。絶対に認めない。
見て。
―――あれを見続けたら、僕が本当に僕であるのか分からなくなるじゃないか。
……背ける。
「……っ!!」
ぐっ、と。苛つきを飲み込んで。
直ぐ背後まで迫ってきていた扉を振り向き様体当たりするように押し開き、自分の部屋に向かって駆け出した。
腕の中のサンドイッチはぐしゃぐしゃになってコートに張り付いていたけど、今は気にならなかった。
……無性に「タク」っていう台詞が恋しくなって、たまらない。
「っぐ!!」
壊れかけの扉を押し倒して、ベットの上に転がり込む。倒れた扉がけたたましい音を立てるけど、どうだっていい。
僕は横になったまま目をきつく閉じて、今見たものを忘れようとしたんだ。
―――あの、僕の細く直線的なフォルムをしたディソードに絡みついた、気味の悪い茨の姿を。
僕が僕である限り変わらない形状を保つ筈のディソード。……それが変化していると言う、意味を。
■ ■ ■
この作品は過去編が主軸となります。ゴメンネ!