ウェールズはワルドとともに礼拝堂へと入った。先を行くワルドはやたら足早で、何かを焦っているようにも見える。
そこにはすでにルイズがおり、こちらを振り向く。
「ワルド様」「僕のルイズ」
二人同時に口を開き、二人の声が重なり合う。
ワルドは苦笑して、譲った。
「君からどうぞ」
「はい……」
ルイズは一呼吸置いて、決心したようにワルドを見据える。
「申し訳ありません、ワルド様。わたしは、あなたとは結婚できません」
「……なんだって?」
ワルドの表情は平静を装っているが、不機嫌さが滲み出していた。
面食らったような顔になったのはウェールズの方だ。ルイズは求婚を受け入れたとワルドから聞いたのだが。
「ミス・ヴァリエール、君はーー」
「殿下、少し待っていただきたい」
焦りとも苛立ちとも取れる声でワルドは制した。
「ルイズ、なぜだい? 僕のなにが不満なんだ?」
「不満があるわけではありません。ただ、急すぎます。何年かぶりに再会して、いきなり結婚だなんて……もう少し、お互いのことを知るべきだと思うんです」
「いったいなにを平民のようなことを言っているんだ!?」
唐突に、ワルドはルイズの両肩を掴む。駄々をこねる子供を叱りつけるかのように。
その剣幕に、ルイズとウェールズは驚いた。
「僕たちの婚約は親によって決められているだろう? それを反故にするのか?」
「反故だなんて……ただ、時間が欲しいんです」
苛立たしさを隠しきれないのか、ワルドの眉間に深々とシワが入った。
「あの男か? あの使い魔に、なにかを吹き込まれたんだね?」
「そ、そういうわけではーー」
ルイズの言葉が詰まったところで、ウェールズはワルドの肩に手を置いた。
「子爵、君はまだ振られたわけではないだろう? これから少しずつ溝を埋めていけばいいではないか」
その言葉が届いていないのか、むしろ熱が入ったかのように声を荒げる。
「僕には君が必要なんだ! 君は気づいていないが、偉大な力が君には備わっている。頼むから力を貸してくれ!」
「なによ、それ……あなたはわたしと結婚したいんじゃなくて、ありもしないわたしの力が欲しいっていうの?」
「っ……」
図星を突かれたかのように、ワルドの顔が歪んだ。それは無言で肯定したようなものだ。
「なんて侮辱。あなたとは時間がいくらあっても無理ね!」
「ルイズ……」
「子爵、もうよしたまえ」
ウェールズが強くワルドの肩を引くと、ワルドはすんなりとルイズから手を離し、ふぅとため息をひとつ漏らす。
「やれやれ、今日は散々だな……邪魔者が一人ついてくる……もう一人の邪魔者は消えてくれず……ルイズにも嫌われるとは……だがーー」
ワルドの冷たい視線がウェールズを向いた時、気づいた。
言葉の節々に、声を発していないにもかかわらず唇だけが動いているのだ。会話をしながら呪文を唱えている!
背筋に悪寒が走り、反射的に体が動いた。
「ーー諦めが悪いのでね!」
倒れるように横へ飛びのいた直後、ワルドの刺剣型の杖が繰り出される。
「くっ!?」
杖がかすめた。服がほつれる。一瞬遅れたら心臓を貫かれていたことだろう。
ウェールズは即座に杖を抜き、もっとも早い呪文を唱えた。射線上にルイズはいない。ここなら巻きぞえは食わないだろう。
「ウィンデ!」
突風が吹く。木屑や石礫が舞い上がる。
ワルドはジャンプし、それらを回避。距離をとった。
「きさま……『アオギリの樹』か!?」
「いかにも。我々『アオギリ』は大陸を、ひいては世界を支配する。とはいえ、僕としては聖地にさえ行ければ、あとはどうでもいいのだがね」
睨みつけた。
リンが言っていた通り、大陸の支配がやつらの目的か。そしてアルビオンはその手始めということか!?
「戯言を……エア・ハンマー!」
「エア・ハンマー!」
同時に同じ魔法を放った。両者の間で二つの風魔法がぶつかり合い、余波が暴風となって吹き荒ぶ。
“風はあらゆるものを切り裂く刃となり、あらゆるものを遮る盾となる”
では同じ風と風がぶつかればどうなるか?
答えは単純だ。強い方が勝つ。
数ヶ月前までなに不自由なく暮らしていた皇太子と、なんの後ろ盾もなく自身の実力だけで衛士隊隊長に上り詰めた男。
ともにスクエアクラスとはいえ、どちらが強いかなど比べるまでもない。
「く……」
ウェールズが呻いた。単純な力押しで負けているのがわかる。ついには押し切られた。風圧がウェールズへと押し寄せる。
体が宙に浮き、とっさに頭をかばう。壁に激突、落下。
今晩だけでもう何度目になるのかわからないが、いまは不満を言う余裕はない。
「ワルド!」
出入り口から叫び声。ぐらつく眼で一瞥すると、ハヤトが駆け込んできた。
ワルドが鼻を鳴らして呪文を唱える。……これは、まずい!
止めなければ。しかし軋む体は言うことを聞かず、焦りだけが空回りする。
「ーーイル・フラ・デル・ソル・ラ・ウィンデ」
詠唱を止められなかった。風系統上位魔法を唱えられてしまう。
「み、ミスタ・ハヤト、気をつけろ、風の偏在……分身だ!」
ワルドの体が蜃気楼のように揺れ動き、分裂した。ワルドが三人に増える。
この分身全てがワルド本人と同じ能力を持っているのだ。
「さっき俺の前にいたのがその分身か」
どうやらハヤトはすでに分身と接触していたらしい。
「その通り。これこそが風が最強と呼ばれる理由だ」
三人のワルドが告げ、嘲笑う。
「わかったら死ね」
二人のワルドが、ウェールズとハヤトに杖を向け、躍り掛かった。
><><><><><><
ルイズは歯噛みする。
皇太子であるウェールズはもちろんのこと、平民でしかないハヤトでさえもワルドと戦っている。
じゃあわたしはなに!?
目の前の男にただ震えて怯えているだけ? そんなの貴族じゃない、ただの力ない小娘じゃないの!
ルイズが杖を取り出した瞬間、残ったワルドが一気に足を踏み込み、杖ごと右手を掴まれた。
「おっと、妙な気は起こさないでくれ。君には生きて役に立ってもらわなくては」
「だれがあんたみたいな奴に従うもんですか!」
ルイズが貴族でなければ唾を吐きつけているところだ。
「従わせるとも。それこそアヘンを二、三本ほど吸い込めば自分から腰を振るようになるさ」
ニタニタと下卑た笑みを浮かべるワルドと、その下品極まりない言葉に背筋が凍る。
「なんて人なの」
こいつが貴族? こんな、男が?
いいや違う。声を大にして言う。大声で否定する。
「あんたなんか貴族じゃないわ。ただの最低なクズよ!」
パン!
乾いた音が聞こえた時には、華奢なルイズの身体は床に倒れていた。
叩かれたと理解したとき、左の頬がじんじんと痛み出す。
「ルイズ、言葉には気をつけるんだ。君の顔に傷をつけたくない」
叩かれた頬をさすりながらも、ルイズは立ち上がって睨みつける。
「思い通りにならないなら暴力で言うこときかせようってわけ? でも生憎ね、わたしはそんなことで泣いたりしないわ」
「くっ、ははは……おいおい、そんな気丈なことを言わないでくれ、加虐嗜好に目覚めてしまいそうだよ? くふふふふ……」
「ファイア・ボール!」
杖を向け、唱えておいた呪文を放つ。しかし、ギーシュの時と同じように、明後日の方向で爆発が起きるだけだった。
こんな時こそ当たって欲しいのに!
一方のウェールズは魔法の威力で力負けしているらしく、ワルドと正面から魔法の応酬を繰り広げているが、いずれも押し返されていた。
ハヤトは言うまでもない。ハヤトの攻撃範囲はあの剣が届くせいぜいニメイル前後だ。ワルドはその外側から一方的に魔法を撃つだけでいい。完全に防戦一方となっている。
どうしよう? どうしよう? どうしよう?
頼るべきリンは港にいて、ここにはいない。焦燥がつのり思考が同じところを回り続ける。
だから、
「ファイアーー」
「おっと」
目の前のワルドが一歩踏み込むと、ルイズの右手首を掴んで握りしめる。ギリギリと悲鳴をあげた。
「いたっ、痛い!」
ワルドはその訴えを無視してルイズの胸元や腰回りを撫で回す。
触れられた場所を、蜘蛛がなにかが這い回っているような気分になる。恐ろしく気持ち悪い。
「なにすんのよ変態!」
「手紙をもらうだけだ」
面倒くさそうに言って、スカートのポケットから例の手紙を抜き取った。
ワルドはそれを自分の懐にしまうと、暴れるルイズを床へ放る。
ウェールズがくぐもった声を出した。そちらをみると、胴体を斜めに切り裂かれて出血している。
致命傷ではなさそうだが、放っておけるようなものではない。
「ミスタ・ウェールズ!」
ハヤトの注意がウェールズへと向く。
「エア・ハンマー!」
「っ!?」
一瞬の不注意を見逃すほどワルドは間抜けではない。
わずかな隙を突いた突風がハヤトの体躯を吹き飛ばし、床へと叩きつける。
「よそ見をするとは余裕だな? ええ?」
「ぐ……」
立ち上がろうとするハヤトに杖を突きつけたまま、ワルドは嘲笑った。
「まあ、平民が貴族に勝てるはずもないが」
「さてルイズ、君はそろそろ眠ってもらおう……ぬっ!?」
なにかに弾かれたかのように、ルイズの目の前にいたワルドが後ろへ飛びのいた。
直後にワルドが立っていた場所をめがけて、なにかが高速で飛び抜けていく。ワルドが避けなければ間違いなく命中していた。
飛んできたものを目で追うと、突然体が浮き上がった。
「きゃうっ……」
肺から空気が絞り出て、足にかかっていた自分の体重がなくなる。そして短い無重力のあと、ふわりと包まれている感覚がした。
「平気?」
微笑みかけてくるリンの顔がそこにあって、そのリンに抱きかかえられている。
ここにきてようやく理解が追いついた。
リンはワルドになにかを撃ったあと、ルイズを安全そうな壁際へ運んだのだ。
心の底から安堵した。自然と顔がほころぶ。
「お、遅いじゃないバカ!」
ここで『ありがとう』と言えない自分が悲しくなった。顔は嬉しそうにしているのがルイズ自身でもわかるのに。
「バカはひどいな。場所がわからなかったんだよ」
リンはルイズをおろすと、こちらに背を向けてワルドへと向きなおり、背中のデルフリンガーを抜いた。
左手の甲にある使い魔のルーンは、相変わらず月明かりのような微光を放ったままだ。
「けどルイズちゃんの見てるものが見えたからね、どうにかここがわかった。それで……ちょっと目を閉じててくれるかな?」
「目? どうしてよ?」
「人の内臓が飛び出るところなんか見たくないでしょ?」
リンは顔を半分向けて、赤黒い瞳でにっと笑う。それを見てルイズは不思議に思った。
どうして『がんばれ』でもなく『気をつけて』でもなく、『バケモノ』なんて言葉が浮かんだのだろう?
どうしてリンの目と口が、まるで三日月を横に倒したような、醜悪なものに見えてしまうのだろう?
「ふん、やってみろ」
「もちろん」
リンと同時に、三人のワルドが動いた。ウェールズもハヤトも、もう敵ではないと判断してのことだろう。
リンの腰から生える蛇が、うねりをあげてワルドへ襲う。抜剣したデルフリンガーが空気を切り裂く。
そのワルドはステップを踏み、フライを交えて距離をとった。離れての攻撃はメイジの基本だが……リンは速い。簡単に追いつく。そしてなによりーー
「ウィンド・カッター!」
「ライトニング・クラウド!」
「エア・ハンマー!」
ーーそれら魔法の中へ、リンは突き進んでいった。
学院のときと同じようにデルフリンガーで魔法を吸収し、吸収しきれないものや対処できないものはかまわず受ける。
メイジであっても飛んでくる魔法には少なからず恐怖を感じるものだが、リンにはまったく恐怖やためらいなどない。まさに『メイジ殺し』そのものだ。
ただ、そのリンが怖くもなった。
赤黒い両目も、その口元も、戦いを楽しんでいるかのように笑っていた。
リンの腰から生える蛇が、二人のワルドの杖に貫かれた。
直後、リンの肩から褐色のモヤが噴き出したかと思うと、そこから同じ色の『矢』が放たれる。
一人のワルドが風の魔法で吹き飛ばし、二人のワルドは杖を引き抜いて距離を取り、呪文詠唱。
「エア・カッター!」
「シルフィック・ジャベリン!」
打ち出したのは空気の刃と真空の槍だ。
リンはそのモヤを翼状にさせると、さながらマントのように体にまとわせる。
だが空気の刃はそのマントを引き剥がし、真空の槍がリンの左腕を貫いた。コルクを抜いたような孔が穿たれ、血が渦を描くように噴き出る。
「いっ、たいな!」
「は! よく『痛い』で片付けられるものだな? さすがはバケモノだ」
「どういたしまし、て!」
リンが駆ける。開いていた距離が瞬時に縮まり、剣閃としなる蛇がワルドを襲う。
袈裟斬りのデルフリンガーとワルドの杖がぶつかり、ガチンガチンと冷たい音を立てる。
ワルドは身をひねり、かがみ、黒蛇を回避。空振りした黒蛇が床を叩きつけ、長椅子を薙ぎ飛ばす。
ふと視線を変えると、ハヤトがウェールズに肩を貸して壁際へと移動させていた。ウェールズは傷口を押さえて苦悶の表情を浮かべている。
いくつもの攻撃の応酬の後、三人のワルドは一斉に距離を取った。
「喰種と魔法を吸収する剣。厄介な組み合わせだな。だが、これならどうだ?」
二人のワルドが杖に『エア・ニードル』をかけ直した。
そして一人のワルドがこちらに杖を向けた。つまり、ルイズに。
「……!」
これが殺気というのか、全身に焼け付くような感覚がして、体が固まってしまい動けない。
リンの表情が、苦虫を噛み潰したように歪んだ。そして走る。
「ライトニングーー」
リンが移動した先。それはルイズとワルドの間だ。
つまり杖の先へ。
「ーークラウド!」
落雷のような音と光。しかしそれらはデルフリンガーが吸収。
安堵する暇もなく二人のワルドが『エア・ニードル』をまとわせた杖で左右から躍りかかる。
リンはデルフを横薙ぎに振り、二人の杖を弾く。
ぶづ
嫌な音がして、ルイズは目を疑った。
右のワルドの胸から、ワルドの杖が生えて、さらにその先端がリンの左目から左後頭部へと抜けていた。
ワルドは自分の分身を目隠しにして、分身ごと貫いたのだ。リンの、頭を。
「あ……るぇ?」
頓狂な声を出すリン。
ワルドの分身が一つ消える。その向こうにいるワルドが嗤う。
「頭を潰せば死ぬのだろう?」
にいっと、ワルドの口が歪んだ。
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアあああああああああああああアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっがああああああああああああああああアアアアアアアアアあああああああああアアアあああああああああああああああ!!!
本当の叫び声はもはや『声』などではなく音に近いものだと、ルイズは初めて知った。
リンの名前を叫ぼうとした時、リンの腰と肩が一気に泡立つかのようにぶくふくと膨らむ。皮膚の下で何かがうごめきながら膨張し、破裂した。
腰からはすでに二匹の黒蛇。だがさらに七匹の蛇が食い破るように飛び出した。合計九匹。
肩からは巨大な翼。それはさながら地獄に住まう悪魔のものか。
「わ、る、どおおぉぉぉぁぁあああああああ!」
「ぬっ!?」
ワルドが杖を引き抜いて後ろへ飛ぶ。
いったいどこに収まっていたのか疑問に思うほどに巨大な九匹の黒蛇がのたうち、暴れ狂った。
鈍く重たい音を立てて壁が、床がひび割れ、陥没する。吹き飛ばされた長椅子が飛び散り、ルイズのすぐそばに落ちた。身がすくむ。
そこへ黒蛇の一つが横殴りにルイズへと迫る。
「危ない!」
「きゃ……」
とっさにハヤトが飛びかかるようにルイズを突き飛ばす。ハヤトの頭上すれすれを黒蛇は過ぎ去る。
床に押し倒され、それでもルイズはリンから視線を外せない。
リンの双翼が全身を覆い隠すように丸まり、表面におびただしい数の棘が現れた。
あれはそう、『矢』の先端だ。
ハヤトはとっさに剣を盾の形に変え、ルイズを守るように身をかがめる。
直後、翼が爆発した。
熱と衝撃波の代わりに醜悪な『矢』が、真下を除いた前後左右、そして上方。リンを中心とした全方向に飛び散る。
ハヤトの盾がそれらを防いだ。ウェールズとワルドはそれぞれ風魔法で払い飛ばす。
無数の『矢』は長椅子をたやすく貫通し、石の床や壁に深々と突き刺さった。
もしここにいるのが魔法も盾もない人間だけだとしたら、間違いなく皆殺しになっていただろう。
「あいつめ、見境いなしか」
ハヤトが呻く。
そうだ、今のはルイズさえも殺しかねない一撃だった。それだけ危機に瀕しているということか。
「ああああっ、ああああうぅあああ……」
「リン落ち着いて! リン!」
叫んだが、その言葉は聞こえていないようだった。リンは歯を食いしばり、呻くように声をひりだす。
「……こ、ろす、コロス、コロス殺すぅゥゥ……」
バキ、ビギ、キ……
背中を丸めたリンの肩と腰から、暗褐色のドロドロとしたものが溢れ出して、上半身を覆っていく。
「……グチャグチャに、すり潰して……喰い、殺す!」
覆った部分は鱗のようにひび割れ、リンの顔左半分を隠し、仮面のように新たな顔を作り出した。
右半分はリンだが、左半分はバケモノだ。耳まで裂けた口。そこからはみ出るむき出しの白い牙。潰された左目は醜く渦を描き、こぼれ落ちそうなぎょろりとした眼球が成形される。
そして気づいた。
リンの左手。そこにある使い魔のルーンが、一切の光を失っていることに。
ーーそのルーン、どうやら『人喰い鬼』を押さえ込むのに力をほとんど使っちまってるみたいだーー
たしか船で、デルフがそう言っていた。ルーンの光が失われたということは、押さえ込まれていた『人喰い鬼』が外に出てきたということだ。
「まだ死なないか!」
二人となったワルドが、再び呪文を唱えた時、リンの姿が消えた。
ワルドとハヤトが目で追って、ようやくルイズもその先を見る。ルイズの動体視力では追いつけないほどの速度でリンは壁を駆け抜け、跳ぶ。
ゴゴン!
岩を高所から落としたような音と土煙。その中から二人のワルドが飛び出し、九匹の黒蛇が片方のワルドを追う。
「エアーー」
魔法でそれらを防ごうとしたらしいが、黒蛇はさらに早くワルドの体を喰い破るように貫いた。
そのワルドも分身だ。ついに残るは本体一人。
「カアアァァァ……」
土煙の中にいるリンの口から、うなり声のような、絞り出された空気の搾りかすが出てくる。
「ひっ……」
ワルドの表情が恐怖に引きつり、冷や汗が伝った。それでも呪文詠唱を怠らない。
「ミス・ルイズ、聞いてくれ」
唐突にハヤトに肩を掴まれ、そちらへと体ごと顔を向けられた。
「な、なによ?」
「もしもの時は俺が奴を引き付ける。その隙に皇太子を連れて逃げてくれ」
「リンなら負けないわよ」
頭を貫かれたにも関わらず、リンはワルドを圧倒している。負けるはずがない。
「そうじゃない、俺が言っているのはリンの方だ。奴が襲ってきた時のことを言ってるんだ」
「リンが? そんなわけないじゃない」
「よく聞いてくれ。『人喰い鬼』が共喰いを繰り返すと、あんな風に強大な力を手に入れる。だが共喰いを繰り返せば、それだけ正気を失いやすいんだ。いまの奴が、君のことをちゃんと認識できるかかなり怪しい」
説明するハヤトの口調や表情から、かなり切羽詰っていることがわかった。
『人喰い鬼』専門の狩人だからこそ、リンの状況が自分たちにとってどれほど危険なのか理解しているのだろう。
けれど、だからと言ってはいそうですかとは言えない。リンに対する信用を捨てたくない。
「そんなのわからないじゃーー」
「うおおああああ!」
唐突なワルドの悲鳴がルイズの弁を遮った。
とっさにそちらを見ると、リンがワルドの左腕に噛り付いている。ボキゴキと湿った厭な音が聞こえてきた。
九匹の黒蛇が、さらにワルドの体を喰い破ろうと上から迫る。
完全に恐怖したワルドは、その杖を自らの左腕に振り下ろす。
肘から先を自ら切り離した。
「かあああああああああっ!」
雄叫びと血しぶきを上げてワルドは床を転がり、黒蛇は何もない床へ喰らいついた。
ワルドは『フライ』を唱え、ルイズの頭上を飛び越えて、割れたステンドグラスに足をかける。
「バケモノめ!」
捨台詞を吐き残して、その向こうの夜空へと飛んだ。
ここからでは見えないが、大きな羽音が聞こえてくる。おそらくグリフォンだろう。その羽音はすぐに遠ざかっていった。
ゴキッ、ゴリ、グチッ
いつか聞いたことがある、水気を含んだ咀嚼音。硬い骨と、柔らかな肉を噛み砕く音だ。
リンはこちらに背を向けて、ワルドの、その……残していったものを貪っていた。
目をそらした。わかっていても見るのは気分がいいものではない。
その咀嚼音が止まり、改めて目を移した。リンは自分の口から服の切れ端を引っ張り出して、放り捨てる。歯にものが挟まった時のように。
そしてげっぷを一つ漏らして、呟いた。
「……腹が、減ったな」
ぐるりとこちらを振り返ったその顔は……左顔を埋める『鬼』さながらの怪物じみた褐色の仮面と、あらわになったままの人間の右顔。
そのどちらもが、飢えの中でご馳走を見つけた時の表情だ。
いまこの瞬間におけるリンにとってのご馳走とはつまり、ルイズたちだ。
ハヤトはすぐにルイズの前に立ち、剣を構える。戦うつもりだ。
「待って!」
リンの、ワルドの血で汚れた口がゆっくりと開き、ヨダレが糸を引いて垂れ落ちる。
「行くんだ! 皇太子を連れて、早く!」
ハヤトが叫んだとき、リンの左手にあるルーンがまばゆいばかりに輝きを放つ。
「う、うぅ……」
表情が苦悶に歪む。呻き声を漏らして、リンは左手で左顔を隠すようにおさえた。
「相棒、落ち着け。よく見ろ」
デルフが語るように、静かな口調で話す。
「あの娘っ子をよく見るんだ。あれは誰だ? 言ってみろ。あの娘っ子の名前は? 知ってるだろ?」
「……」
リンは右半分の顔でこちらを見た。
そこだけを見ると、目の色が赤黒いだけの、普通の人間にしか見えない。
「るい、ず……?」
「そうだ。そのルイズはおめえにとっての何だ?」
「……」
「答えろよ! ルイズ・フランソワーズはおめえにとっての何だ? ええ?」
「……ぼく、の……だいじ、な……」
リンの腰から生える黒蛇が小さく縮んでいき、左顔を隠す仮面が大きくひび割れてパラパラと剥がれ落ちていく。
リンの右目が普通の色に戻ると、力なく膝をついてうなだれた。
ルイズは立ち上がり、ハヤトの制止を振り切って駆け寄った。もう大丈夫。根拠はないけどそう言い切れる。
「しっかりして」
「ああルイズちゃん、そこに……っ!」
リンは思い出したようにルイズから顔をそらすと、自分の破れた裾や袖で口周りをゴシゴシと拭う。
ルイズは言葉を失った。リンはかつて、喰べるところをルイズにだけは見られたくないと言っていた。
「リン……」
正気を失い、人体の一部を貪る姿を見られてしまう気分とはどれほどのものなのか、人であるルイズには知るよしもない。
「うー、きもちわるい。右が左にあるみたい。はは、は、は……」
誤魔化すようにリンは笑ってみせて、左顔に手を当てた。
ルーンは相変わらず眩しいばかりの光を放っている。もしもこの光が消えたら、リンは正気を失ってしまうのだろうか。
ふと、やや離れた場所の床が盛り上がった。ガリガリと何かを削り、岩を砕くような音もする。
「なんだ?」
ハヤトはルイズから……むしろリンから距離をとってその床を注視する。
「ルイズちゃん、離れてて」
リンはルイズを遠ざけるように肩を押した。そしてデルフを杖のようについて、足に力を込めた。まだ戦うつもりだ。
「ダメよ!」
「そうだぜ相棒。ハヤトだったか? あいつに任せろよ」
「はは……『人喰い鬼』が『白鳩』を当てにするわけないじゃん」
それはそうかもしれないが……と、ルイズの思いは杞憂に終わった。
盛り上がり、床の石畳から出てきたのは非常に見覚えのあるものだった。
つぶらな瞳と大きな鼻が特徴のジャイアントモール。
それがモグモグと鼻を鳴らしながら這い上がってくる。ハヤトやリンはそろって頭に『?』マークを浮かべた。
「あれって、ギーシュの使い魔じゃない」
ルイズが言うと、ジャイアントモールが出てきた穴から声が聞こえてくる。
「おーい、ヴェルダンデー。いったいどこまで行くんだーい?」
と、出てきたのは金髪の癖っ毛が特徴のギーシュ。それに続くようにキュルケとタバサも穴から出てきた。
ハヤトもリンも、再びそろって安堵したようにため息をつく。
「おやルイズじゃないか。そうかその指輪の匂いを辿ってきたのだね。偉いぞヴェルダンデ」
そう言ってギーシュはヴェルダンデに頬ずりを始めた。
「君たちの知り合いか?」
壁に背中を預けたウェールズが問いかけた。
すっかり失念していたが、傷口を押さえるウェールズの顔色は悪い。それだけ失血している。
しかしルイズはリンから離れられない。リンの暴走を押さえ込んでいるのがルーンの力だとしたら、離れるとその効力が失ってしまいそうな気がする。
それにハヤトがリンを殺したがっていることも知っている。いまリンを守ってやれるのはルイズしかいない。
「ウェールズ様……。そうです、わたしの学友です。ちょっとハヤト、ウェールズ様を早く治療してもらわないと」
言いながら、リンに肩を貸してゆっくり立ち上がった。
ハヤトは忌々しげに顔をしかめ、不承不承といった風に剣を箱の形に変える。
そしてウェールズに肩を貸して軽々と立ち上がる。
「……ミス・ヴァリエールの学友といったね。ついてきてくれ。君たちに、依頼したいことがある」
弱々しい声で、ウェールズは三人に告げる。
どこか遠くの方で、何かが崩れる音がした。
城を解体する音だった。
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〜〜ある喰種の独白〜〜
喰種は夢を捨てる。
大人になったらサッカー選手になりたい、パティシエになりたい、パイロットになりたい、歌手になりたい……子供のうちはそういう夢を見る。
けれどあるとき、ふと気がつくんだ。そんな夢、叶うはずがない、って。
一生もののおもちゃが、ある日突然 “ただのプラスチック” にしか見えなくなるときが来る。
将来の夢や希望が “ただの幻” でしかなくなるとき、喰種は夢を捨てる。
夢は希望を捨てた喰種は努力を辞める。叶わない夢を追いかけることほど辛いことはないから。
だから、夢を持ち続けて、目標を追い続ける人が羨ましく思う。
僕はもう夢を持てない。
持てないから、手伝ってあげたい。