月が輝いている。
天上よりふわりと放られた月光は、まばらな雲を抜けて静かに地上へと舞い落ちてくる。絶えず積み重なる透明な光幕は周囲の音を巻き込んでその地に静寂をもたらしているかのようだ。
その光の恩恵は分け隔てなくその地にあるもの全てに与えられていた。深い谷底で流れて落ちる水にも、森の木々の葉を微かに揺らす風にも、その下の巣穴で眠りについている動物達にも。
そして深く暗い森の中、決死の逃亡と追撃を繰り広げる者たちにも。
薄暗い森の中をただ駆ける。滑るように、飛ぶように。飛び出しそうな心を抑え、徐々に重さを増していく体を叱咤しながら。
苦しいが立ち止まることは出来ない。木々の合間から差し込む僅かな月光は起伏に富んだ前方の地形を浮かび上がらせるのと引き換えに追っ手にもこちらの姿を教えてしまう。
張り出した木の根を勢いを落とさずに飛び越え、着地した時すぐ後ろに続く兄の口から微かにうめき声が漏れた。傷に響いたのかもしれない。決して浅くない傷を抱えているせいか、徐々にこちらに遅れを取り始めている。
どうやら自分も兄も心身共に限界が近いようだ。できれば休息をとりたいが、追っ手がすぐ後ろまで迫っている以上それも出来ない。数こそ多くは無いが油断の出来る相手ではないことはここに至るまでの逃亡劇で思い知らされている。
それでも万全の状態ならば兄一人でも討ち果たすことはおそらく可能だろう。しかしここ数日の戦闘で装備の多くは消耗し、兄も深い傷を抱えている。そして私はといえばつい先日初陣を迎えたばかりの未熟者だ。これでは返り討ちはおろか相打ちさえ望めはしないだろう。つまりひとたび追いつかれたらこちらの生は無いということだ。
不意に後方が騒がしさが増した。どうやら追っ手が合流し、こちらを追い込みにかかったらしい。あと少し、後少し距離を稼げば国境を越えて険しき山々の間をはしる入り組んだ山道へと辿り着ける。そこに逃げ込まれる前にこちらを網に捕らえるつもりのようだ。
このままでは半刻以内には追いつかれてしまうだろう。取れる選択肢は多くなく、猶予も刻一刻と無くなっている。ならば追い詰められる前に兄だけでも逃がすと心に決め、残された装備を確かめる。刀が予備を含めて2本、短刀が数本、槍は森に入る前に捨ててきた。心もとないが何とか持たせるしかないだろう。いざとなれば相手の武器を奪ってもよいのだ。出来れば兄の持つ装備も融通してもらいたいがそれは諦めるしかないだろう。
そう、兄に言う事は出来ない。言えば必ず自分が残ると言い出すだろう。しかし初陣を済ませたばかりの未熟者の私と若手随一の異名を取っていた兄、どちらを生かすなど考えるまでもない。
(私でも足止めぐらいならば。)
少し前方に浮かび上がったやや広めの場所、両端から大きな岩と木が張り出し守りやすそうなそこを決戦の場と決める。兄を先行させてから身を返そうと走る速度を緩める直前に、突然兄が速度を上げてこちらに並んできた。
「兄上、何を?」
訝しげに放たれた問いの続きを遮るかのごとく、兄は手に持ったものを無言でこちらへ押し付けてきた。
「いったい何を?これは?」
問い返しても兄は無言であった。仕方なく微かに差し込んできた月明かりの元でその正体を確かめる。手の中にあるそれは一枚の石版であった。薄暗い森の中で微かな月光をよって表面に刻まれた文様が浮き上がって見える。それは滅ぼされてしまった我らが故郷の遺産とも言うべきものだった。その遺産を自身の鎧からはずした兄は私を見やり、言った。
「お前はそれを持って先に行け。」
やや早めの口調で告げられたその言葉の意味はただ一つ。先程私が考えたように追っ手を足止めして逃げる時間を稼ぐつもりだ。負傷かそれとも消え行く時間のせいか常よりも強い口調でこちらの反論を封じるかのように兄は続けた。
「未熟なお前では奴ら相手に十分な時間稼ぎは出来ん。ここは私が引き受ける。奴らにそれを渡すことは出来んのだ。すまんがお前の刀を借りるぞ。」
自分より八歳年長で実践経験も豊富な兄の言だ。疑いようもなく事実であろう。しかしだからと言って傷ついた兄を置いていくわけには行かない。自分も残ると引きとめようとする私に兄は止めの言葉を継いだ。
「先に逃がした息子を頼む。ではな」
そう言って笑顔を見せた兄は私の肩当を軽く叩き、背に負っていた私の予備刀を手に取ると反転する。注意を引き付けるためか叫び声を挙げて追っ手に向かっていく兄に背を向けたまま私は走る速度を上げた。耳に残る兄の言葉が私に立ち止まることも、振り返ることも許してはくれない。徐々に大きくなる戦闘音に背を押されるように、前方へ身を投げ出していく。
目元を横に流れる熱さすらも振り切るように私はどこまでも続く闇の中を走り続けた。
無言で斬りかかって来た相手の一撃を肩の装甲で受け流し、一閃。月光を断ち切るかのような斬撃は相手を地へと切り伏せた。それを一瞥し、もはや満足に動かない体を交代させる。数歩後ろには暗く深い谷が口を空け、底を流れる激流の音と吹き上げてくる湿った風がもう後が無いことを教えてくれる。
あれからおよそ一刻(2時間)。こちらから討って出ることで注意を注意を引き付けつつ、先手を取って追っ手を引っ掻き回した。数に押されてこの崖の上に追い詰められながらも、襲い来る敵を幾度と無く物言わぬ骸へと変えてきた。しかしそれももう限界であろう。すでに刀を握る手に力は無く、鎧を貫いた深い傷が痛みを失って久しい。体全体が熱を持ち、意識も朦朧としてきた。
その隙を突いたのか暗い森から矢が2本こちらに向かってくる。1本をかわし、残る1本は刀で弾き返すがその勢いに押され、構えが揺らいだ。こちらの体勢が崩れたのを見て取ったのか霞んだ視界に二人こちらに突撃してくる様子が見える。しかしもはやその攻撃をかわす力は残っていなかった。
衝撃が体を貫き、一瞬蘇った感覚が痛みと鋼の冷たさを伝えてくる。朦朧としていた意識が戻るにはそれで十分だった。自分を貫く槍を持つ仮面の男の脇へ右手の刀を突き入れて手を離し、左手で刀を突き刺している男の腕を取って固める。振り払われる前に残る右手で相手の襟を掴み、最後の力を振り絞って後方へと飛んだ。
だが飛んだ先に着地するべき大地は無く、自分と男は底知れぬ闇へと落ちていった。
長く引き伸ばされたように感じる時間と浮遊感の間に、視界に写ったのは透き通るような夜空と大きく輝く満月であった。霞みゆく視界にもはっきりと見える光円が自分に一つの記憶を呼び覚ました。
あれはいつの頃だったのだろうか。かつて今のような満月を家族揃って見ていたことがあった。傍らには先刻別れた弟の他、戦死した父が居て共に庭に出て空を見上げていた。少し離れた縁側では戦火に消えた母と妻が幼い息子をあやしながら笑っていたのを憶えている。
空に浮かぶ月を掴もうとしたのか天に向かって手を伸ばす息子の様子を微笑ましく見守っていた息子を思い出し、それをなぞるかの様に右手を視界一杯に広がる月へと伸ばす。
伸ばした先に見えるあの夜の記憶の中、今は亡き家族と離別した弟と息子に笑いかけながら、彼の意識は暗く深い底へと沈んでいった。
とりあえずここまで。SDガンダムや武者頑駄無についてはそのうち設定などで補足説明するつもりです。