「皆、聞いてくれ。この戦いは本当に辛いものになる。犠牲者が出ないとは言い切れない。それだけ恐ろしい戦いなんだ。でも、僕たちは引くわけにはいかないんだ」
第75層の迷宮区のボス部屋の扉の前にて、ディアベルが話をする。俺たち攻略組は真剣な眼差しをディアベルに向けながら聞く。俺も、拳をグッと握りしめながら、覚悟を決める。
「下の層にいるプレイヤーが、解放を待っているんだ。だから……勝とう。勝って、この世界から出るんだ!! 俺たちは攻略組だ、だったらそれを果たす義務がある。そうだろう!?」
ディアベルの熱い言葉に、心強い返事が幾度も飛び交う。ディアベルはそれを軽くなだめながら、剣を引き抜く。
「よし……準備はいいな? ヒースクリフからは何か言うことはあるかい?」
ディアベルの横に立つヒースクリフは目を閉じて話を聞いていたが、首を縦に降った。
「一つだけ話があるんだ。最も、たいした話じゃないがね」
ヒースクリフは扉の真ん中まで移動し、十字剣を地面に突き立てて声をあげる。
「先程ディアベル君から頼もしい鼓舞を受け、士気も十分に上がっていることだろう。私からはボス戦の対処法を改めて確認させてもらう」
ヒースクリフは目を細めて、無機質な表情を保ち続ける。落ち着きすぎているとは思うが、それが逆に頼もしい。
「まず、敵の行動パターンを見極めて私たち血盟騎士団が攻撃を防ぐ。その隙を他のプレイヤーが突く。これだけしかないが、重要なことだ。特にキリトくん」
ヒースクリフはちらっと奥の方にいるキリトに視線を移した。キリトはしばらく前線に出ていなかった。何故なら血盟騎士団副団長のアスナと結婚して遥か下の層で結婚生活を送っていたからだ。その情報が来たのはつい昨日の夜だ。しかし俺には理解できない。あんな淡白で冷淡な女の何処に惹かれたのだろうか。
キリトのとなりにはアスナがいる。どうやら夫婦揃って戦闘に参加するようだ。これほどまでに豪胆なカップルはいないのではとついつい苦笑をしてしまう。
「君の二刀でどれだけダメージを削れるか。これが勝敗を分けると言っても過言じゃない。キリトくんをいかに活かすか。これが重要になることを頭にいれておいてくれ」
キリトのエクストラスキルの強さはあの決闘で十分に思い知っている。何とか攻撃を躱し、キリトの攻撃に繋げる。これが唯一の勝利への道筋だ。
全員が頷いたのを確認したヒースクリフは、ボス部屋の扉をそっと手のひらで押す。ぎぃっと重々しい開閉音が響き、緊張でバクバク鳴っている心臓の動きを加速させる。ドアが完全に開き、ボス部屋を奥まで見渡せるまでになった。中は暗闇そのもので、光を拒むようにすら思える。今回のボスはただ者じゃないと教えてくれそうだ。
「突撃ーー!!」
ヒースクリフは息をのみ、叫んだ。全員が内に宿る恐怖を打ち消すように絶叫しながら部屋に雪崩れ込む。俺もそれに続いて全力で駆け出した。
部屋の中央とおぼしきところまで来たところで俺たちは立ち止まる。ボスが見当たらない。部屋の視界は良いとは言えず、若干暗い。外から見たときよりは明るいと言えるが、戦うのに不便な場所というのは変わらない。
ボスの姿が見当たらないという事態に皆が困惑する。キョロキョロと辺りを見回して探すが気配はない。何処かに隠れているのか。俺は目を凝らして場所を特定しようとした。
ふと微かな音が鼓膜を揺らした。
カサカサ……カサカサ……。
何かが動く音。ちょうどムカデ系のモンスターが歩行するときの音に似ている。一体どこからだ? まさかボスは俺たちを見ているんじゃないか? 襲うタイミングを見計らっているのでは?
俺の連鎖する不安の感情を根こそぎ凪ぎ払うように、アスナの叫びがボス部屋に響いた。
「上よっ!!」
その声に皆が一斉に反応し、上を見る。すると、天井の上に何かがいた。かなり大きい。それは天井の上をカサカサと這い回り、俺たちを見つめている。大きな頭部は骨でできており、ちょうど人間の頭蓋骨によく似ている。目は血のように赤く、小さな戦士たちを捉えている。足はムカデのように何十本も生えていて、二本の手には鋭く光る鎌が設えてある。あれは間違いなくボスだ。
「ガアアアアアアアアーーーーーーッ!!!!」
大地を揺らすほどの雄叫びをあげながら5本のHPゲージと名前が出現する。《The skull Reeper》。骸骨の狩り手、という意味だろうか。これはヤバイ。生きて帰れなくても可笑しくないレベルだぞ……!!
ボスは恐怖を抱く俺たちをじっと眺める。そしてニヤリと笑った気がしたーーーと思うと……。
「固まるな、散れっ!!」
突然ヒースクリフの叫びが俺を現実に引き戻す。見ると、ボスの巨体がまっすぐこちらに落ちてくるではないか!! こんなのに押し潰されたら死んでしまう。俺は一目散にその場から離れ、ボス部屋の端まで全力で走った。
どうにか命からがら逃げ延びた俺は、中央を見る。ボスはいまだに地についていない。何とか全員逃げ切ったか。
いや、逃げ切っていなかった。3人ほどまだ、落下地点にいる。何をしているんだ……!?
「早くこっちに来い!!」
キリトの叫び声が部屋にこだまし、ようやく3人は動き始めた。しかしおぼつかない様子だ。このままでは、間に合わない……!
間に合ってくれという俺たちの祈りは意図も容易く砕かれた。ボスが地に降り立ち、大きく地面がぐらついて土煙が舞う中。
二本の鎌が素早く、空を斬り裂いた。煙は割れ、ボスの邪悪な眼を覗かせる。その時、ある現象が起こったのを俺たちは、凝視した。
3人のプレイヤーが一瞬の内に胴体を真っ二つに裂かれて宙に舞い。HPが0になって簡素なポリゴンの粒子と化していくのを。
パリン。硝子が割れるときに起こる、儚い音。開始数秒で、この音を、死亡宣告を受けるプレイヤーがいたなんて。しかもただのプレイヤーじゃない。このゲームにてトップクラスのプレイヤーたちの3人が一撃で死んだのだ。
なんという攻撃力。
なんという強さ。
すぐに死亡者が出現。
俺たちに絶望を与えるのに、十分すぎる材料が一瞬にして揃ってしまい。
「う、うわああああああっっーーーー!!」
誰かが絶叫しながらボスから離れる。その声が波のように周囲のプレイヤーの恐怖心を揺らし、彼らも逃げ出し始める。
だが、現実は不条理だ。恐慌し死に怯えるものほど、神は拒む。
「あ、開かねえぞ!! 出せ、出してくれよぉ!! し、死にたくねえ……!!」
男はシステムによって閉じられているドアをどんどんと力強く叩いている。そう、俺たちはもう逃げられない。勝つか、全滅するか。どちらかしかないのである。
「クソが……!」
俺はボスをにらむ。近づくことすらままならない。無数の足が蠢いていて、一瞬で狩り取られそうだ。二本の鎌は近くにいるプレイヤーを容赦なく切り裂き、散らせていく。このままでは犠牲者が増えてしまう。そしていずれは俺も……。
「うわああっっ!! た、助けてくれぇ……!」
悲鳴がまた聞こえる。助けたい。助けたいけれど、動けない。俺は目をつむり、死の瞬間から逃げようとした。
が、彼は生きていた。パリンという、破裂音が聞こえなかったためだ。俺はそっと目を開けて何が起きたか確認する。すると、ディアベルが庇っていた。剣を振り上げてボスの鎌を受け止めている。これでどうにか助かった。
しかしディアベルの剣がギリギリと悲鳴をあげている。鎌が重いのだろう。このままではやられるのも時間の問題だ。俺は息を思いきり吸って駆け出した。
ボスはディアベルを殺そうと鎌に全力を込めている。ディアベルは目を閉じて最後の力を振り絞る。そこへ……俺の剣が光を帯びて鎌へとぶつかった。
「ギィアッ!?」
鎌を弾き飛ばされたボスは短く悲鳴をあげた。何とか攻撃をしのげた。
「キョウマ!! 助かったよ」
「何とかなったな……」
俺はそう答えながらも目線をもうひとつの鎌へと移す。鎌が捉えているのは腰を抜かしているプレイヤーだ。このままそこにいれば串刺しにされてゲームオーバーだ。だが俺は動けない。ディアベルと支えるのが限界だ。
その刹那、一つの影が釜とプレイヤーの間を遮った。ガァンと甲高い金属音が響き、鎌が弾き飛ばされる。そこにいるのは……ヒースクリフだった。巨大な十字盾を掲げて剣で応戦する最強の騎士。あれほどの一撃を一人で食い止めるとは……。
だがこれで安心した。これならば、勝機はある。ディアベルもそれを察したようで、大声をあげる。
「いいか皆、ボスの攻撃は俺とキョウマ、ヒースクリフで食い止める!! 皆は側面から攻撃してくれっ!!」
ディアベルの声はボスの奇声すら上回るほどの声量だった。それゆえに皆の怯えきった心に鞭が打たれたようで、士気を取り戻した。それを目で確認した俺たちはこくりと同時に頷いた。
再び、鎌が降り下ろされる。俺たちもそれに合わせ、対空ソードスキルを放つ。素早く上に振り上げられた二つの剣は鎌とぶつかる。同時に金属音が鳴り、大きく鎌を飛ばす。これならばいける……!
「キョウマ……まだいけるかい……?」
「当たり前だ……俺には心強い味方がもう一人いるからな……」
俺は指にある輪をちらりと見ながら言う。これさえあれば、俺は何度でも立ち上がれる。例えくじけそうになっても……必ず助けてくれる。勇気をくれる。
俺はきっとボスをにらむ。ボスも俺たちを裂き殺そうと躍起になる。だがここで死ぬわけにはいかない。
「うおおおぉぉっっーーーー!!」
「はぁぁっっーーーー!!」
腹の底から叫びながら、俺たちは鎌目掛けて地面を蹴った。
***
ラボには、今は誰もいない。ただ一人の少女を除いて。少女は焦点を失った目で、部屋をふらふらと彷徨いている。ただ目的地は決まっているようで、ラボの倉庫に向かっているようだ。
アイテムが収容されている箱形のオブジェクトに触る。すると、パスワード認証が出てきた。ただ、少女はそのパスワードを知っていた。このラボの一員だから。
少女はその中から回廊結晶というアイテムを取り出した。これは任意の地点を記録し、その場所に瞬間移動できるゲートを生成できるという、高性能なものだ。希少度は高く、プレイヤー間で高価で取引されているほどのレアアイテムだ。
少女はそれを掴み、倉庫の箱を閉じる。そしてラボを出て、立ち止まり。
「コリドー……オープン」
一言、発動コマンドを呟く。すると、黒く染まった穴が、空気を穿つように現れた。少女は躊躇なく中に足を踏み入れ、その先にある場所へと消えていった。
回廊結晶は、場所を設定すれば何処でも行けるという優れものアイテムだ。すなわち行ったことの無い場所だって行ける。
少女の設定先は、第75層のボス部屋前。つまり……トップクラスの剣士たちが、死に物狂いで戦っている場所だ。
***
あれからどれくらいたっただろうか。
俺とディアベル、そしてヒースクリフがどうにか攻撃を凌ぎ、他のプレイヤーたちが全力を奮ってボスのHPを全損させたのはどれくらい前だったか覚えていない。数秒前かもしれないし、数年前かもしれない。それくらいに、俺の神経は疲弊していた。
俺は大の字になりながら天井を見つめた。床はひんやりとしていて昂った体を冷やすにはちょうどいい。しばらく立ち上がれそうにないな……。
場は静まっている。ボスが倒されたというのに。しかしそれも当然と言える。圧倒的な破壊力をもつボスを相手にして疲れないわけがないのだ。俺とディアベルだって何度もくじけかけた。近くでプレイヤーの断末魔が聞こえたりもした。その度に萎えかけていくのだ。だから今回勝ったのは、奇跡以外の何物でもない。誰も勝利を喜ばない。喜べない。自身の傷もそうだが、死傷者が想像できないほどの数字になっていることが推測できてしまうという事実から、歓喜することが出来ない。
「なぁ……何人死んだ?」
静寂を破ったのは、攻略に参加していたクラインの声だった。声は掠れていて生気はない。友人のキリトはアスナの背にもたれ掛かりながら、死者数を確認する。そして一瞬目を見開き、絶望の色を帯びた声で答えた。
「……14人死んだ」
14人だと?
過去の戦いでもこの死者数はまれだ。最大級だ。もしかしたら最大の死者数かもしれない。死んだのか? 本当に? 14人も? 俺には信じることはできない。だが嫌でも認めざるを得ないだろう。
これからどうすればいいんだろう。元々攻略組は人数が少ないのだ。その内の14人が一気に失われてしまった。となれば……ラストの第100層は最悪一人ということになりかねない。そうなったら、アインクラッドの攻略は不可能に等しい。つまり俺たちは帰れないのだ。ボスを倒す剣士が現れない限り、希望はない。俺たちが全滅するのも、あり得ない話じゃないのだから。
誰もがそう絶望し、悲観に暮れているーーーー。
その時だった。
地面を蹴る音が聞こえた。はっと俺は顔をあげてそちらを見る。すると……キリトが突然ヒースクリフへと駆け出していくではないか。しかも、右手には剣が握られている。まさか殺すつもりか? 気でも狂ってしまったのか?
やめろと口にしようとしたが、キリトの動きが速すぎて間に合わなかった。ヒースクリフも慌てて反応するが、キリトの剣がそれを読んでいたようで、盾を躱す。そして彼の鋭利な顔面にペールブルーの光を纏った剣が突き刺さるーーー。
そうは、ならなかった。
キリトの剣は、止まっている。顔に突き刺さる直前で、制止している。まるで剣がピタリと時間を止めてしまったかのようで。必殺の威力をもつ剣が、嘘のように阻まれている。
ヒースクリフを守る物の正体。それは、紫色の表示だった。キリトの剣尖はプルプルと震えている。一体何が起こっているんだと、目を凝らした。
《
それが答えだった。
通常では、NPCや建物につけられる属性で、こちらがいくら攻撃しても破壊できないことを示すものだ。だから一般プレイヤーがそれを発動させることはできない。はずなのに。
まさかキリトは、それを試したくて、攻撃したのか……? 最初から奴が一般とは違う存在だと疑って。
「キリトくん、何をーーー」
キリトの攻撃が阻まれるや、アスナが駆け出す。キリトの不遜な行いに関して一言言おうと思ったのだろう。けれど、その口から言葉を発することはなかった。あの紫色を見てしまったから。
いつのまにか、全員の視線がヒースクリフに移っていた。その中で、すべての元凶である紫色の表示は、虚空の中に消えていった。
「これは、どういうことですか……団長?」
アスナが恐る恐る尋ねる。きっともうこの場にいる全員が答えを察していることだろうが。
それに対し何も返さないヒースクリフの代わりに、キリトが落ち着いた声で答えた。
「これが伝説の正体だ。この男のHPは黄色にならないように設定されていたのさ。破壊不可能オブジェクト、不死属性を持つのはNPCと管理者以外存在しない。でも、このゲームには管理者はいない。ただ一人を除いて」
キリトはヒースクリフを見る。その目は、確信に満ちている。ヒースクリフは、自身が糾弾されているのにも関わらず、動揺もたじろぎもせずただじっと話を聞いている。
キリトはヒースクリフから視線を外し、ボス部屋の天井を眺める。
「ずっと前から気になっていたんだ。あいつは何処から俺たちを見ていたのかってな。でも、俺は単純な心理を忘れていたよ」
再びキリトはヒースクリフに顔を向ける。まるで宣告を下すように、犯人を言い当てるように目を細め、言い放った。
「¨他人のやっているRPGを眺めているほどつまらないものは無い゛。……そうだろ、茅場晶彦」
その名が放たれた瞬間、場が騒然とした。
茅場晶彦。俺たちをこの死のデスゲームに放り込んだ全ての元凶。その名を聞くだけで憎しみが溢れてくるほどに、忌むべき存在。
そんな奴が、俺たちと共にいた……だと?
一緒に戦っていただと……?
俺たちを、眺めていただと……?
そうだ……何かが変だったんだ。あいつは、規格外の強さを持っていたし、今回のボスの防御だって比類無いものだった。そして何より……足掻いていなかった。絶対的安心を持っていたんだ。もうすでに知っているから。死なないことは確定しているから。
俺たちは、最初から踊らされていたのか……!
頭の中が熱くなってくる。殴りたくなる。味方として存在していたヒースクリフが壊され、茅場晶彦が現れた。味方が一瞬にして敵に変わる。怒りが沸々と沸き上がる。無情だ、理不尽だ。
「なぜ気づいたのか、参考程度にまで教えてもらえるかな?」
ヒースクリフはキリトに笑いながら尋ねる。冷たい笑みだったが、この状況でも笑えるなんてどんな心の持ち主なんだ。それとも、もう心は死んでいるのか。
「おかしいと思ったのは、あのデュエルの時だ。あの一瞬だけ、あんたあまりにも速すぎたよ」
「やはりそうか。あれは痛恨事だった。余りにも君が速かったものでついシステムアシストを使ってしまったよ」
あの決闘とは、恐らく俺とルカ子とまゆりとフェイリスと見に行った、キリトとヒースクリフの戦いのことだろう。あの戦いでそんなことが起こっていたとは。俺にはわからない次元かもしれない。
ヒースクリフは、いや茅場は、キリトから視線を外して両腕を広げながら宣った。
「確かに私が茅場晶彦だ。付け加えれば、このアインクラッドの最終ボスだ」
なっーーー!?
全員が驚きで目を剥いた瞬間だった。まさか、茅場晶彦が最終ボスだとは思いもしなかったからだ。中には膝をつくものもいる。絶望を覚えたのだろう。俺も、もう絶望しかけている。逃げたい。帰りたい。こんなのは聞いていない。
「貴様……俺たちの希望を……忠誠を……よくも……よくもっ……!!」
後ろから声が聞こえる。はっと振り返ると、斧を震わせながら茅場をにらむ血盟騎士団の男がいた。ぎろっと茅場を見据えてーーー。
「よくもーーー!!!!」
男は飛び上がって斧を振り降ろす。だが……茅場の方が反応が早かった。通常ではあり得ない左手を降ってウィンドウを呼び出し。
男は空中で嘘のように落下した。糸を失った操り人形のように力なく地面に這いつくばっている。まさか麻痺を食らったのか。
と、思考を巡らせている間にも、俺も動けなくなっていた。体に力が入らず、起き上がることもままならない。気づけば、キリト以外全員が、麻痺を食らって動けなくなっていた。
「この場で全員を殺して、隠蔽するつもりか?」
キリトが怒りを孕んだ声で問う。だがヒースクリフは余裕のある声で首を横に振りながら答える。
「まさか、そんな理不尽な真似はしないさ。邪魔されては困るのでね」
茅場は更なる追い討ちをかけるように平然とした顔で言葉を続ける。
「本来なら第95層にて正体を明かそうと考えていたのだが予定が狂ってしまった。キリトくんはこの世界で最大の不確定因子だとは睨んでいたが、ここまでとは思わなかった。二刀流スキルを与えたのも、最大の反応速度を持つからだ」
仮にもし、ヒースクリフの正体が看破されていなかったら俺たちはこの上ない絶望を味わうことになるだろう。手のひら返しのタイミングとしては最高だ。そういう意味では、キリトに感謝しなくては。
「こうなってしまったら致し方ない。私は最終層の《紅玉宮》にて君たちの訪れを待つとするよ。私の育ててきた血盟騎士団を放棄するのは惜しいが……なぁに、君たちなら90層のボスを突破できるはずだ。ーーーだが、その前に」
ヒースクリフは含みのある声で会話を切る。自身の右手に握られている剣をキリトに向け、静かに告げた。
「君には、私の正体を看破した報酬を与えなくてはな。今この場で私とデュエルをし、勝ったら全プレイヤーがこの世界からログアウトできる。無論不死属性は解除する。どうだ、いい条件だとは思わないか?」
なるほど……そのために全員を麻痺にさせたのか。
つまりヒースクリフは、キリトを殺す気なんだ。不確定因子にこれ以上邪魔されたくないから。ここは引くべきだ。
確かにログアウトできるかもしれない。でも、その可能性は低いとしか言えない。何故なら、相手はゲームマスター、つまり神だ。神に抗うなんて不可能に等しいんだ。俺だって、運命の神にどれだけ抗っても、駄目だった。神を欺くことしかできなかった。
だから引くべきだ。
「キリトくん、あなたを排除する気だわ。ここは引きましょう」
アスナも同意見のようでキリトに撤退を促す。キリトは一瞬顔を俯かせ、考え込んだ。
だが、キリトの選んだ答えは否だった。
「いいだろう……決着をつけよう」
「キリトくんっ!」
アスナが悲痛な声をあげてキリトに迫る。しかしキリトはヒースクリフを睨んで、剣を突きつけるだけ。闘うという、確固たる意思の現れだ。
キリトの考えは愚策だ。ゲームマスターに勝てる見込みなど、有りはしないのだから。ただ、こうとも言える。自身の感情に愚直なのだ。茅場を本気で憎み、この世界からの脱出を本心から望む。その想いが、彼に剣を握らせたと言えよう。
「ごめんな。でもここで逃げるわけにはいかないんだ」
キリトは安心させるように、優しい笑みをアスナに向ける。アスナの顔はさっきまで興奮して真っ赤に染まっていたが、やがて信頼の笑みを浮かべていた。
「死ぬつもりじゃ、無いんだよね……?」
「ああ。必ず勝ってこの世界を終わらせる」
「分かった。信じてる」
そういうとアスナはもう引き留めるのを止め、キリトはアスナのもとを離れた。
「キリトーっ!!」
「やめろっ、キリト……!!」
キリトが茅場と対峙すると、エギルとクラインの叫びが聞こえた。キリトは立ち止まり、二人の方を見て右手の剣を軽くあげて答える。
「エギル、サポートサンキューな。知ってたぜ、お前の店の売り上げ、全部中層プレイヤーの育成につぎ込んでたこと」
キリトの言葉に、エギルは何も言うわけではなく口をパクパクと開閉させていた。しかしあのドケチ商人がそんなことをしていたとは意外だ。
続いてキリトは、クラインの方を見る。少し憂いを持ったその表情に、何かあるのか。
「……クライン。あのとき置いていって悪かった。お前と一緒にいけばよかった。ごめんな……」
俺には、何のことかは分からない。けれど二人にしかないものがあるのだろう。
クラインはキリトの謝罪の言葉を聞いてわなわなと体を震わせて、涙を流した。やがてどうにか自由が効くのであろう両腕を地面に叩きつけて泣き叫んだ。
「バカヤロウッ!! 今更そんなことで謝ってんじゃねえよ!! 許さねえからなっ! 向こうで飯ひとつでも奢んねえと、絶対許さねえからなっ!!」
「ああ、分かった。向こう側でな」
キリトは笑いながら答えた。それ以上は、キリトは会話をすることはなく茅場に再び向き合う。いよいよ、始まるのか……。
「茅場、一つだけ頼みがある」
「何かな?」
「簡単に負けるつもりはないが、もし俺が負けたときアスナを……しばらくでいい、自殺させないようにしてほしい」
「キリトくんダメだよ……そんなの……そんなのないよーーーー!!!!」
アスナの悲痛な叫びが耳を貫く。俺は見ていられず、顔を背ける。キリトは、死を覚悟している。負けることも考えている。俺には見ていられない。遺されたもののやりきれなさを、悔しさを、大切な人を失った悲しみを知っているから。アスナはこの苦しみを、死なずに味合わなくてはいけないのか。何て酷なんだ。キリトは、分かっていないんだ。
空気が緊迫する。ビリビリと震える。二人の剣士が再び対峙する。俺たちは、それを見ているしか出来ない。全ての結果は、運命は、この二人に委ねられているのだ。
キリトはスッと腰を落として二刀を構える。茅場は盾と十字剣を持っているだけだ。構えと言えるものじゃない。それだけの余裕があるということの証明。これこそが、神と一般人の違い。
どくどくと激しく鼓動を打つ心臓をどうにか押さえながら……俺は死闘の始まりを見届けた。キリトの、限界まで抑え込まれた理性を解き放つような……静かな叫びと共に。
「ーーー殺すッッ!!」