『2ヶ月前に終結したSAO事件についてお伝えします。首謀者の茅場晶彦の行方は未だ分からず、現在捜索中です。死亡者は11139人と過去最大級の被害を出したこの事件の本当の終結は、いつになるのでしょうか?』
古臭いブラウン管に映っているニュースキャスターがコメンテーターに質問をする。
『茅場晶彦の潜伏先は不明とされておりますが、彼の元恋人の神代凛子に警察が事情調査をしているという情報を聞きました』
『そうですか……早く捕まるといいですね』
小さな冷蔵庫にあるドクペを取り、ゆっくりと喉に流し込みながらニュースを聞く。2年以上も味わっていなかったこの独特の苦味と甘味が最高だ。誰もいないラボに一人いるこの寂しさが少し和らいでいく。
いつも着ている白衣からはみ出す白い腕を見る。痛々しいほどに細い。少しでも力を加えてやればポッキリと折れてしまいそうなほどに、脆く見える。これではルカ子の事は言えなくなってしまうな。
小さく苦笑し、ドクペをゴミ箱に入れると、再び視線をブラウン管に戻す。
『それと、SAOから未だに帰還していないプレイヤーがまだ2000人近くいるとのことですが、一体どういうことなのでしょうか?』
『こちらについては詳細は不明です。茅場の陰謀だと囁かれておりますが、その辺はあくまで仮説でーーー』
近くにあったビット粒子砲を手にとって電源を切る。記念すべき未来ガジェット第一号で、テレビの電源のON/OFFを格好よく出来るという代物だ。もっとも、チャンネルの切り替えや音量の調節機能は備わっていないが。
ソファーに座り、息を吐く。見上げると、ボロい天井が目に移る。そばにはうーぱのぬいぐるみが鎮座しており、テーブルには紅莉栖がよく読んだ洋書が積まれてある。ラボのパソコンデスクには、ダルが溜めていたエロゲーがばらまかれており、開発室には未来ガジェットがたくさん散らかっている。
「帰ってきたんだな……」
俺は一言呟いた。2年たっても、変わらないこの場所の風景は、懐かしくて、可笑しくて、恨めしくて堪らなかった。あの世界にも、ラボはあったけれどやはりこっちのラボの方が落ち着く。もう、俺の家のようなものだったから。
少し眠くなってきたな。俺はソファーに横たわり、まゆりのうーぱのぬいぐるみを枕にして目を閉じる。するとあっという間に睡魔が侵入してきて意識が遠ざかっていきーーー。
「オーイ、オカリンー」
だが来客者によってそれは阻まれた。俺は目を開けて無理矢理起き上がる。誰が入ってきたか確認しようと、目を擦るとそこには巨体が見えた。オカリンという呼び名とその膨れ上がった身体を見て俺は判別した。
「ああ、ダルか」
「ああ、寝るとこだったん? 起こしてサーセン」
「いや、別に構わないがな。どうしたんだ、昼間からラボに来て」
「いやぁ……今日新作アニメの同人誌を買いにいこうとしたけどまだ空いてなくて……暇だからここに来たっつー訳」
「そうか……それにしても、お前随分痩せたな」
「まあ二年も寝たきりじゃそうなるわ」
ダルの体型は見違えるほどに痩せている。ぶっくりと膨れて飛び出している腹は谷ができてしまうのではと思わせるほどに凹み、ぶよぶよな輪郭を描いていた顔も余分な部分を切り取られたように細くなっている。足だって、俺と同じくらいに削られている。中身は変わっていないが。
「そういえば、病院には行った?」
「いや、まだだ。これから行こうと思っていた」
「そっか。牧瀬氏によろしくな」
おうと答え、俺は上着を羽織る。白衣だけでかつては外に出ていたが、その気力はない。靴を履き、ドアを開けて外に出た。
「はぁ……」
自然とため息が出る。空気が白く変化する。虚しい。すごく、寂しい。
ゆっくりと階段を降りていく。ポケットに手を突っ込んで歩いているとどこか落ち着く。
階段を下り終えていくと、日差しが俺を射る。思わず手で顔をかばう。そのまま病院の方向に足を向けて歩き始めた。
何故俺が病院に行くのかというと、深い意味はない。昏睡状態にある紅莉栖の見舞いだ。
紅莉栖は、SAOから帰ってきても目覚めることはなかった。他のラボメンは問題なく現実に戻ってこれたのに、紅莉栖だけこの世界に帰ってこない。
ダルと共にどうしてこうなったのか模索した。けれど原因は不明だった。とうとう俺たちは諦めて、紅莉栖の見舞いに行くくらいになった。
実際紅莉栖以外にもこうして帰ってこられないプレイヤーはいるようで、2000人はまだ目覚めていないそうだ。今日もこうして、紅莉栖の元へといく。無駄だと、分かってはいるけれど。
紅莉栖のいる病院は昭和通りの辺りにある。そのためには一度、駅を抜けなくてはならない。かなり歩くことになるが、もう慣れている。
「ラジ館も、変わっていないな……」
俺は、電気街口の辺りにある世界のラジオ館の横を通る。2年前と全く変わらない。しかもとなりの電気屋では、ナーヴギアの後継機、アミュスフィアと呼ばれるものが販売されている。事件の爪痕を、必死に隠そうとしているのだろう。だから、SAO事件について報道するのも希になってきた。今朝のニュースも数分で終わってしまい、もはや世間から、強引に忘れ去られようとしている。
無理もないのは分かっている。1万人以上の死者を出して、2000人以上の未帰還者がいるのは、日本にとって大打撃もいいところで日本という国そのものの信用すら危うくなっている。隠したくなるのも、終わらせたくなるのも無理はない。
だが、紅莉栖が帰ってきていない。紅莉栖が帰ってきていないんだ。世間から、その事実さえ忘れられようとしているんだ。だとしたら、何と残酷だろうか。助けを求めているのに、その手を握ってもらえないその苦しみは、耐えがたいものだ。
だからせめて、俺がその手を握り続ける。俺一人じゃどうしようもないけれど、握り続ける。出来ることがなくても、だ。
一人そう誓っていると、足が重くなっていく。もう何度この距離を往復したとはいえ、やはり足腰はなれていない。とりあえず少し休もうと、近くにある自動販売機へと向かう。ドクペを飲もうとしたが、その自動販売機にはなかった。昔はあったはずなのに、撤去されたのかもしれない。落胆の溜め息を隠せず、俺は素直に麦茶を買った。
自動販売機にもたれ掛かり、麦茶を飲んでいると、不思議な感覚に襲われる。見慣れたはずの秋葉原が、見慣れないのだ。当然のことだろう、二年もいなかったのだから。
だけどそれだけじゃない。何と言うのだろうか、遅れている気がするのだ。駅を行き交う人間たちは、仮想世界などとは無縁に生きることが出来ているため、その時間軸にしっかりと足がついている。だが、俺はそうではない気がする。二年ものの歳月を、現実じゃない場所で生きてきて、ようやくこちらに戻ってこれた。秋葉の町はあまり変わったところはないけれど、何と言うか馴染めない。ついていけない。どこか違う場所に思える。秋葉に似た、どこかという認識がずっと離れない。
ダルだってそうだ。あいつが同人誌の雑誌の購入時間を間違えるわけがない。言い過ぎかもしれないが、あいつも、俺と同じように時間に取り残された存在なのだ。
そんな俺が、どうやってこの町で生きていけばいいのだろうか。答えのない問いを考えながら、麦茶をちびちびと飲むことしか、俺にはできない。
そんなとき、誰かが俺に、声をかけてきた。
「あ、岡部さん……?」
俺は麦茶のペットボトルを口からはなして、その人物を見る。学ランを着ていて、体がすごく細い。顔は女のようにきれいで、馴染みがある。間違いない、漆原るかだ。
「ルカ子か。久し振りだな、学校か」
「はい。今日は授業が早く終わったので、それで帰るところなんです。岡部さんは?」
「俺は、紅莉栖の見舞いにいこうと思ってな」
「牧瀬さん、大丈夫なんでしょうか……」
「分からない。ただ、それしか俺にできることは、ない」
そう答えて、暫し黙る。ふと俺は、あることに疑問を持った。まゆりがルカ子と一緒でないことだ。まゆりとルカ子は同じ学校のはず。仲が良いので一緒に登下校をしているのだと思っていたのだが。
「今日は、まゆりは一緒じゃないのか?」
とりあえず聞いてみる。すると、ルカ子は悩むような顔をして答えた。
「まゆりちゃん、今日学校に来ていないんです。今日からSAOにいた人たちの登校日なんですけど……」
「なんだと?」
まゆりが来ていないのか。そういえば、あいつはラボにも来ていない。ということはずっと家にいるということなのだろうか。
「だから、帰りにまゆりちゃんの家に行くので、岡部さんもご一緒にと思ったんですが」
ルカ子が躊躇いがちに話す。俺が紅莉栖の見舞いに行くといったから遠慮しているのだ。ただ、俺も気が変わった。
「いや、俺もいく」
「え?」
ルカ子はわずかに驚いた。
「まゆりが学校を休むなんてほとんどなかったからな。それに……個人的にも聞きたいことがあるしな」
「そうですか……じゃあ、紅莉栖さんのお見舞いは?」
「紅莉栖の見舞いは遅くなっても問題あるまい。きっと起きていないだろうしな」
「そうですか。じゃあいきましょう、岡部さん」
ルカ子と俺は秋葉原の改札へと向かい、山手線に乗る。ルカ子の学校は秋葉原から離れたところにあるのだが、どうしてルカ子が一度最寄り駅の秋葉原によったのかと聞くと、荷物を置いていきたかったからだそうだ。俺と一緒でなければ重い荷物を背負うことはなかった。申し訳無く思い、俺がルカ子の荷物を持つと言った。最初は遠慮していたが、弟子に負担はかけられんと言って黙らせた。
まゆりがすむのは池袋。割りと近いので直ぐ着いてしまう。電車のつり革に捕まりながら、ルカ子がおずおずと口を開いた。
「あの、僕最近ラボに行けなかったんですけど……」
確かにSAOからログアウト出来て以来、ルカ子に会ってはいない。だが、仕方のないことだと割りきっていた。
「気にするな。元の生活に戻るのに忙しかったのだろう? ならば仕方のないことだ。ここ最近でラボに来たのはダルしかいないしな。俺だって、本当につい最近からラボに来るようになったんだ」
「そうだったんですか……」
「ああ。足が痛くて動けなかったからな。アキバどころか池袋駅まですら無理だったよ」
ルカ子と話をしていると、あっという間に池袋までついた。ホームを降りて、改札を抜けてバスに乗る。今でもまゆりの家までの道のりを覚えている。不思議と、どうでもいいことは覚えているものだ。もうまゆりの家など、行っていないというのに。
バスに乗って数分たち、まゆりの家の近くにつく。バスを降りて少し歩き、まゆりの家の門にたつ。ここは、変わっていない。スタンダードな家で、いかにも一般家庭な感じのする場所だ。
「ここがまゆりちゃんのお家ですか……始めてきました」
「まあな。俺もここに来たのはいつ以来だろうか……」
近くにあるインターホンを押して、応答を待つ。軽快なサウンドと共に、声がスピーカーから聞こえる。
「はい、どちら様ですか?」
膨らみのある女性の声だ。少し変わってしまったけれど、間違いない。まゆりのお母さんだ。懐かしく感じて、俺は内心嬉しかった。
「岡部です。岡部倫太郎です」
「おかべ……岡部倫太郎……って、輪太君!?」
「え、ええそうですが……」
「やだ輪太君久しぶり!! どうぞ上がって上がって!!」
お母さんはようやく俺のことを思い出したようだ。俺はおばさんから輪太君と呼ばれている。理由は大したことはない。まだ俺が鳳凰院凶真を名乗る前、まゆりが俺のことをそう呼んでいたからだ。その呼び名は今聞いても恥ずかしい。
しばらくたたないうちにドアの解錠音がすると、まゆりのお母さんが出迎えてくれた。容姿はまゆりによく似ていてこの親ありにしてこの子ありと言えるくらいだ。ちなみに性格も非常によく似ている。
「輪太君久しぶりねぇ……大きくなったわね」
「お久しぶりですおばさん」
「本当にねぇ……最後に来たのはいつかしらね? ーーーおや、その子は?」
まゆり母が訝しげにとなりのルカ子を見る。ルカ子はもじもじとしてしまっている。だから俺が代わりに紹介した。
「ああ、彼はまゆりの友達でクラスメートの漆原るかです。プリントを届けに来たそうです」
「う、漆原るかです。よろしくお願いします」
「か、彼……? 女の子じゃないの輪太君?」
「え、ええ彼は男です。女に見えて男です」
まあこれはルカ子に一生付きまとう問題であろう。まゆり母はへぇと不思議そうに呟いたが、疑うのをやめたようで俺たちを家に入れてくれた。やれやれ、そういうところもまゆりらしい。
リビングに通され、お茶を出されるとまゆり母は饒舌に話していた。内心辟易としながらも話し相手になってあげて、ようやく一段落ついたところで本題に入るべく、俺は口を出した。
「あ、あの……ひとつ聞きたいのですが、きょうまゆりはいるんですか?」
そういえば、今日家でまゆりを見ていない。というかそもそも変だ。俺がこの家に来たということは、少なくともまゆりに用があるということはわかるはずだ。であるのに、まゆり母はまゆりを呼ぶどころか身の上話しかしない。まゆりに、何かあったのか……?
いや、何かはあった。
二か月前、まゆりは不可思議な行動を取った。俺が攻略組として第75層に赴いたとき、ヒースクリフが正体を現した。ヒースクリフの解放するという言葉に乗ったキリトは戦い、負けてしまったが、とどめをさされる直前……まゆりが奴の体に剣を突き立てたのだ。そもそもまゆりは、剣なんて持てるほどの力を持っていないはずなのに。もしかして、それと関係しているのかもしれない。
まゆり母は考え込むような表情をする。案の定というべきか、そうではないのか。やがて、さっきとはうってかわって暗い口調で話し始めた。
「……まゆりはね、ずっと家にいるの。それも、自分の部屋にね」
「つまり、引きこもっているんですか……?」
「ええ……部屋にいたきりなにもしないの。トイレにいったり、お風呂に入るくらいね。ご飯もほとんど食べないし。一応お医者さんにはわざわざ通っていただいて、容態を見ていただいているんですけど……精神疾患の疑いがあるらしくて。そういえば、さっきも来てくださったの」
相当深刻な状況だ。この状況は、前にもあった気がする。まゆりのおばあちゃんが死んだ時だ。まゆりのおばあちゃんが亡くなったとき、まゆりは墓で心神喪失状態になったように、動かなかった。家に戻ってもろくに物を食べられず、学校にもいけなかった。まさに、今のまゆりみたいだった。
「それは、何時からですか……?」
「あの変なゲームから帰ってきたあとからよ」
「なるほど……」
「なにか心当たりになること、知らない?」
まゆり母は悲しそうな顔で俺に聞く。隠しておこうか迷ったが、まゆりのお母さんだ。知るべきことだろう。俺はまゆりに起こった出来事を話した。
まゆり母はビックリした表情を浮かべた。だが、俺の言うことは信じてくれたようだ。
「そんなことが……でも、あの子は人を殺すような子じゃないわ。それは、信じてくれるわよね、輪太君」
「もちろんです。まゆりは、そんなことをする奴じゃないことはわかっています。だからこそ……話を聞きたいんです」
もしかしたら、あの事について気を病んでいるかもしれないという憶測は正しいのかもしれない。ただ、疑問に残るところがある。まず、あれは本当にまゆりだったのか。まゆりだったとしたら、どうしてあの場所に行けたんだ? どうしてあの場所にいく手段を知っていたんだ? どうして、奴を刺したのだろうか……。あれは、まゆりの意思だったのか……。
まずは、確かめなければ。
「……まゆりに、会いに行ってもいいですか?」
「いいけど、まゆりきっと出てこないわよ」
「構いません。ただちょっと、あいつと話をしたいだけなんです」
「そう……分かったわ。私はここで待ってるわ。そろそろ昼御飯作らなきゃいけないし。それに……輪太君の方が、話を聞いてくれそうだしね」
「…………そうですか。分かりました。いくぞ、ルカ子」
「あ、はい」
これまでずっと黙っていたルカ子を引き連れて、まゆりの部屋まで向かう。まゆりの部屋には何度も入ったことはある。本人がかわいいと認めたぬいぐるみがたくさん飾ってある部屋だというのは覚えている。今はどうだかは分からないが。
まゆりの部屋につく。゙まゆしぃの部屋゙と書かれた掛札がある。きっとこれだろう。俺はノックをしようと、拳を軽く握る。だが……その寸前で俺はやめた。
「どうしたら……どうしたらいいの……まゆしぃは……どうしたらいいの……気持ち悪いよぉ……酷いよぉ……」
まゆりの声が、ドア越しに聞こえる。ルカ子がどうしたんですかと聞くが、しっと黙らせる。まゆりは、泣いている。声を潜めて、泣いている。どこか嫌な予感がする。
「助けてよ……もういやだよ、誰も……誰も信じられないよ……」
ノックをして、話をしよう。そう思い、再び拳を構えるのだが……。
「何で、まゆしぃがお母さんにならなきゃいけないの……?」
え……?
いま、何て言った? お母さん? それってまさか……!!
……おいおい冗談だろ?
まゆりの戯れ事だろ?
でも……まゆりは嘘はつかない。もし、真実だとしたら……!!
嫌な予感が増幅し、頭のなかを駆け巡る。まさかそんなことが……。女としての尊厳を、汚す行為があったとでも言うのか……?
「くそったれが……!」
俺は毒を吐くように、拳を強くドアに叩きつける。まゆりのうわずった悲鳴が上がる。
「おい、開けろまゆり! おい、おい!!」
俺の声なんて、慣れ親しんでいるはずだからきっと開けてくれるだろう。そう思っていたが……。
「だ、誰!? 嫌!! 来ないでほしいのです!! もう、許してほしいのです!!」
何を言っているんだ……? やっぱり、俺の予感は当たってしまっているのか……!?
「まゆりちゃん開けて!! 僕だよ、漆原るかだよ!!」
ルカ子が声一杯に叫ぶ。だが、聞こえるのはまゆりの拒絶の声。パニックになっている。仕方がない、近所迷惑だが、大声を出すしかない。
「まゆり!!!! 俺だ、岡部だ!! 岡部倫太郎、いや……鳳凰院、凶真だッッ!!!!」
ドアすら破るほどの音量で叫んだ。すると、まゆりのその悲しそうな声は途切れた。そして、か細い声が聞こえた。相当震えている。怯えているのだろうか。
「その声は……オカリン? それに……ルカくん?」
「ああ……だから開けてくれ」
俺の言葉に返事はしなかった。代わりにドアの解錠音が鳴り、ガチャとドアが開く。俺たちはその中に入る。
まゆりの部屋はほとんど変わっていなかった。ぬいぐるみの数が少なくなったくらいで全体的には変化はない。あるとすれば……出迎えてくれるまゆりの笑顔が、ないことだ。服はしわくちゃで、涙のあとが光っている。
「いらっしゃい、オカリン。ルカくん」
「あ、うん……まゆりちゃん今日、学校に来なかったね。はい、今日のプリント」
「ああ、ありがとね、ルカくん」
まゆりは笑顔を浮かべてプリントを受けとる。しかし、ぎこちない。無理して笑顔を作っている。俺は、胸がいたんだ。まゆりは、傷ついているんだ。トゥットゥルーを言わないのが、何よりの証拠だ。
「久し振りだな……。なあ、まゆり、会ったばかりで悪いが聞くぞ。何があった?」
本当はここで他愛のない話がしたい。だが、それが許されない状況にあるのかもしれない。俺は険しい表情を向けて、まゆりを見た。
「…………」
まゆりは黙る。それは言いたくないのかもしれない。このまま粘るべきだ。今のまゆりに供述を強要することはできない。
痛い沈黙が流れるなか、俺は目をふとそらす。すると、あるものが気になった。カーペットのシミだ。しかもかなり濃い。飲み物でも溢したのか?
いや、それはない。何故ならまゆりはほとんど飲食をしていないからだ。それに朝御飯の時間からもうかなり経っているから、何かを溢したという訳ではない。
「岡部さん……?」
ルカ子が訝しげに尋ねる。俺が突然シミを嗅ぎ始めたからだろう。俺は嫌な予測をもとに、臭いを嗅いでいく。もし、俺が想像する臭いだとしたら……最悪だ。
「っ!?」
鼻につく臭いがする。鼻孔を深く刺激し、不快感を覚える。だが、どこか慣れしたんでいる臭いだ。思春期の男子ならば必ずと言っていいほど放出をする、生命の源の臭いに近い。もっと具体的に言うならば……イカ臭いものだ。
……まさか、そんな馬鹿な……。
背筋が寒くなる。視界がぶれていく。頭が沸騰し始める。まゆりが恐らく遭ったであろう出来事はーーー。
『何で、まゆしぃがお母さんにならなきゃ行けないの……?』
「っーーーまゆり!! お前まさか……まさか……」
俺はとっさにまゆりの肩を掴んで叫んだ。まゆりは、俺から視線をそらし、涙を溜める。
その瞬間、全てを察した。まゆりは、奪われたのだ。処女を。女としての尊厳を、汚されたのだ。
「……ふざけるなッッ!!」
床を思いきり叩き、怒鳴り散らす。許せない。許さない。何でまゆりにこんなひどいことをっ……!?
憎悪が頭をぐるぐると回る。視界が赤く染まる。頭が真っ白に焦げていく。俺は、まゆりの顔面に向かって叫んだ。
「誰がこんなことをしたんだ!? 言え、誰がやったんだ!!!!」
「…………分からないのです」
「分からないだと!? 冗談はやめろ!!」
「名字しか分からないのです」
「それでいい、教えろ!!」
まゆりは、躊躇っていたが、悲しそうな表情で告げた。
「須郷って人なのです……」
「須郷……そいつなんだな……。わかった。話を聞いてきてやる」
俺は立ち上がり、ドアノブに手をかけて、外に出る。ルカ子もあわてて俺についてきた。
「ルカ子、お前はまゆりのお母さんにまゆりに何が起こったのか伝えろ。そして須郷という奴の情報を聞き出せ!!」
「は、はい……でも、岡部さん。僕には何があったか……」
「分からないのか!? ーーー強姦されたんだよ。その須郷とかいう奴にな!!」
「ご、ごごご強姦って……!? そんな……酷いです……」
「ああ、俺だって嫌だ!! 畜生、何でこんなことに……!! とにかく俺は警察に通報してラボに戻ってラボメンにこの事態を伝える。頼んだぞルカ子!!」
まゆりのあの謎の行動についてはよくわからなかった。だが、そんなまゆりに漬け込んで卑劣なことをするとは……許せない。あいつの幼馴染みとして、兄同然の俺として、許さない。
何故こんなことになっているのだ? SAOに戻って、すべてが元通りになるはずだったのに。まゆりが引きこもった理由とは、もしかして……。
そうだ、一日で孕むなんてありえない。ずっと前から、須郷とかというやつと接していたんだ。無理矢理されたんだ……!! まゆりが引きこもった理由はただ一つ、男に汚されたからだ。ならばあのSAOの出来事は何だったのか? そこまでは分からないが、今考えることじゃない。今は、まゆりを汚した奴を探すだけだ。
「お邪魔しました!!」
勢いよく外へ出た俺は、早速ラボメンたちに一斉にメールを送る。内容は無論ぼかしている。ラボメンは女子が多いためだ。
その後警察にも伝えて、未来ガジェット研究所へと向かう。電車に乗っている間にも、須郷という男を調べていたが、当然なにも出てこない。下の名前が分からないからだ。
その時、ブーブーとメールが鳴る。急いで開くと、ルカ子からのメールだった。
『岡部さんへ
名前は、須郷伸之という人らしいです。れっきとした精神医療を経営していて、資格も持っているそうです。あと、まゆりちゃんのお母さんは、知らなかったようです……』
須郷伸之、か。聞いたことはない。とりあえずググってみるしかあるまい。まゆり母が気づかないのは仕方がない。きっと猿ぐつわでもされたのだろう。
須郷伸之と検索すると、それなりにページが出てきた。だが……精神医療なんていう表記は、どこにもなかった。ためしに゙須郷伸之 精神科゙とやってみても無駄だった。やはり嘘をついていたのだ。
「む? もう秋葉原か……」
携帯画面を見ていて気がつかなかった。歩きながら携帯をするのは危ないので、一旦画面を閉じる。調べものの続きはラボだ。そこで徹底的に突き詰めてやる。俺は、逸るような気持ちで、ホームからラボへと走っていった。
だが……俺は知らなかった。気づくはずもなかった。
これは、単なる序章にすぎないということを。これから始まる、過酷で無意味な、仮想と現実、そして時間が混ざり合う戦いが始まろうとしていることを。
実はこれだけではないのだよ……。