七色の探索者   作:チャーシューメン

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 ただの衣玖さんカワイイ小説です。
 イクアリってあんま見ないですねぇ。




完璧な天女

 レインコートの表面を、ザラザラと雨が滑り落ちてゆく。ビニル質の表皮から浸み出した冷たい雨粒が、アリスの繊細な肌理を、舐るように伝い落ちる。既に下着まで侵食されつつあり、ぐっしょりと湿ったそれが肌にまとわりつく感覚が、アリスを堪らなく不愉快にさせた。やはり、紛い物をつかまされたらしい。香霖堂の店主は今度、しばき倒す事にしよう。

 フードを被ったまま首を回して、空を見回す。荒ぶる天の涙が、その蝋人形のような顔に当たり、弾け、アリスは手で庇を作った。雲の中に入ったのだろうか、視界がまるで効かず、一面、巻き荒れる雨粒の乱舞と、紫煙のようにどす黒くけぶる、闇の雲だけだった。まだ昼前だというのに、夜の帳が降りている。後ろを振り返ると、たった今登ってきた筈の道さえも見えない。岩肌が剥き出しの鉛色の斜面に、地に落ちた天の涙が幾重にも折り重なり、徒党を組み、我先に堕天せりと下界へ殺到している。宛ら、滝の如く。下界に儚い夢でも見ているのだろうか、そんなに気の利いた所ではないというのに。

 アリスは姿勢を低くし、斜面に手を掛け、這うように登った。吹き付ける風雨は強く、駆け抜ける流れは速く、ぬらりと滑る岩苔乗は鬱陶しいほど生い茂り。いつもの革製のブーツでやって来たことを、アリスは後悔した。駄虫と同じように、汚らしく地面を這いずり回る羽目に陥るとは。おまけに、岩苔乗のぬらぬらとぬめる感触が、白く柔いアリスの指と指とに絡みつき、嫌悪感で気も狂わんばかりだ。胸の谷間に隠した上海も、主のそんな様子に、顔をしかめている。近頃の上海は、情けないアリスを嫌う。究極の人形に近づいているのは喜ばしいことだが、少し釈然としない。

「こんな所で、何をしているのですか」

 突然、上から声を掛けらかれる。知った声だ。這いつくばったまま、情けなく顔だけ上げる。

 雨粒を羽衣の様に纏い、風と雷光を従えた永江衣玖、その世にも美しい姿が、ふわりと事もなげに、唐突に絵空事の様に、其処に在った。風にふくらみ大きくはためく、赤色のフリルの付いた桃色の衣が、名画のワンシーンの様に、いちいちアリスの目に焼き付いた。

「素敵……」

 挨拶よりも先に、アリスはそう漏らした。這いつくばった格好で、嵐の山で、風雨の中で。アリスにも場面にも、まるでふさわしくない言葉。たが、アリスにすらそう言わせてしまうような、魔術めいた魅力、圧倒的な美が、目の前の永江衣玖には有った。まさに、天女。今なら橋姫の気持ちが分かるアリスだった。

「下界の方がそのような軽装で、この天界の花果山にいらっしゃるなど、無謀もいいところですよ」

 衣玖は嗜める様に言う。しかしその口調は、ゆったりとして優しく、声からも甘い香りが漂うのではないかと思われるほどだった。

 衣玖が優雅な手付きで空をなぞると、一筋の光の線が浮かび、見たこともない幾何学模様を作り出した。そのまま印を突き破るように、衣玖が両手を突き出すと、アリス達は輝く雷球に包まれ、風雨は遮られた。魔術に造詣の深いアリスですら、解読不能なそれ。天界の術は、人界のそれを圧倒しているとでもいうのだろうか。単に見た目を格好良くするために、適当にそれっぽい模様を描いたようにしか見えないのだが……。

 衣玖は腰を低くし、アリスに手を差し伸べ、顔を優しく綻ばせた。

「さ、どうぞ」

 その様に扱われることを、アリスのプライドは許さなかった。

 衣玖の手を払って起き上がると、同じ高さまで浮き上がった。

「無粋ね」フードを外し、たっぷり水を含んだ髪を絞る。「折角、不自由を愉しんでいたところだというのに」

 短めに切った金色の髪から、じゃらじゃらと水が伝い落ちた。全身、濡れ鼠だったが、あながち強がりという訳でもなかった。

 衣玖は気分を害するどころか、逆に嬉しそうにクスクスと笑った。

「その言い方。貴女、総領娘様にそっくりですわ」

「あんなペチャパイと一緒にしないでくれる?」

 言ってから、衣玖の胸元に目をやり、しまったと思うアリスだった。

 衣玖はそんなアリスに気づいているのかいないのか、

「ここは風雨がひどいですね。一旦、凌げる場所に移動しましょう」

 話を変え、雷球をゆっくりと山の上方へ飛翔させた。

 ふよふよと優雅に、雷球は飛び行く。

 羽衣が揺れる幻想のような後ろ姿に、アリスも付いて飛んだ。

 雷球は山を少し登ると、斜面にぽっかりと開いた洞窟の中へと入った。洞窟は長く続いているようで、奥の方は雷光に照らされても暗く、得体が知れなかった。ただ一時、風雨を凌げればよい二人は、奥に進まず、洞窟の入り口近くに留まった。背の高い衣玖が立って歩けるほどの十分な広さがあり、少し雨宿りするには打って付けの場所だ。

 衣玖は大きく手を開き、楽団の指揮を執るかのように、腕を振るった。途端、雷光は小さく萎み、いくつかの散光になって、洞窟内に散り、そこで滞空した。明かりを作ったのだ。やはり、天界の術なのだろうか。その格好つけるだけにしか見えない仕草にも、何か計り知れない意味があるというのだろうか……。

 衣玖は振り返ると、ニコリと笑った。

「さ。少しお話でもしていましょう」

 そう言って、しゃなりと腰を下ろした。膝を折って、女性らしい座り方。アリスはなんだか対抗したくなって、わざと胡座をかいて座った。

 洞窟の外は、まだ雷雨が続いている。

「今日はツイているわね。空飛ぶレアアイテムさんにお目に掛かれるとは」

「レアアイテム、ですか。はて?」

 衣玖は小首を傾げる。

「貴女のことよ」つい、と衣玖を指差す。「知らないの? 天狗の新聞せいで、貴女、有名なのよ。見かけた日にはいいことがあるって」

「ああ、道理で。何気なく空を飛んでいると、皆様、私を指差されて」得心がいったように、ポンと手を打つ。「若い殿方など、カメラを乱射するものですから、何事かと思っていたのですよ」

「……それは絶対、別の目的だわ」

 天女のローアングルショットなら、さぞかし高値で売れるに違いない。

「今度から、下に人がいるときは、空を飛ばないように気をつけなさいな」

「はあ。左様ですか。まあ、気を付けます」

 本当に分かっていないのか、衣玖は簡単に頷いただけだった。アリスは溜め息を付いた。

 洞窟の中、妙齢の女性が二人でぼんやりと雨を眺めている。本来なら、画になる光景だったろう。雨が降るのを眺めるのは好きなアリスだが、豪雨は別だ。災害を眺めても面白いことなど何もあるまい。それもまた、アリスは溜め息の種になった。

 ふと、かぐわしい香りがアリスの鼻孔をくすぐった。衣玖の方を見ると、キャンプ用のバーナーを炊き、何やら小さな鍋を火にかけていた。鍋の中には、卵とハムが落としてある。さらに、どこから取り出したのか、携帯用のポットから湯気の立つ液体をカップに注いでいた。少し甘酸っぱくて香ばしい香りの源、珈琲だ。

「い、何時の間に」

「丁度、お昼にしようと思っていたのですよ」

 鼻歌を歌いながら、衣玖は言う。

「コーヒーはお好き?」

 カップを差し出しながら。

「……紅茶派だけど、頂くわ」

 おずおずと、アリスはカップを受け取った。

 口を付けてみる。

 苦味よりも酸味が強い、少し薄めで飲みやすい味だ。温度も丁度いい。何より、香りが心地いい。モカだろうか? 珈琲には詳しくなく、それかブルーマウンテンぐらいしか知らないアリスだった。

「ムカつくわね……」

 何時の間にか焼いていたトーストに、出来上がったハムエッグをのせていた衣玖は、アリスの言葉に意外そうな顔をした。

「お口にあいませんでした?」

「いいえ。生憎」

 アリスはまた、溜め息を吐いた。カップをもう一啜りする。

「完璧すぎるわ、貴女。まるで私が馬鹿にされているみたい」

「そ、そうですか?」

 衣玖は顔を曇らせながら、出来上がった昼食をアリスに差し出した。受け取り、一口噛じる。美味い。パンの焼き加減、香り、卵の半熟具合、全て完璧だ。しかも、ただのトーストだというのに、何故か格調高い味わいがある気がする。

「このパンも卵もハムも、珈琲だって。全部下界で分けてもらったものなんですよ」

 衣玖も自分の分のトーストを噛りながら言う。齧り付く様も可愛らしい。ブロマイドにして人里で売りつければ、一財産出来るだろう。

「褒めるなら、これらを作った下界の人々を褒めるべきですよ」

 その気遣いもまた完璧過ぎて、アリスの気に障った。天女が伝説に残るのも、仕方の無いことだと思った。

 その時、洞窟の奥から、獣の荒い唸り声が聞こえてきた。

 衣玖は、眉を潜めた。

「はて。天界には、危険な獣など入れるはずがないのですが……」

 自然な反応にしか見えない。

「いるじゃない。花果山には、昔から。危険な獣が、ね」

 アリスは言う。

 もちろん、衣玖は気づいているのだろう。アリスに花を持たせるために、無知の振りをしているに決まっている。だからこそ、腹が立つ。まるで自分が、釈迦の手のひらの上の孫悟空になったようで。

 凶暴な獣の唸り声は、洞窟の奥の方から、次第に入り口の方へ、アリス達の方へ近づいてくる。

 衣玖は怯えるように、身を捩ってアリスの方に身を寄せた。

 アリスは溜め息を吐いて立ち上がり、衣玖の反応に乗ってやることにした。

 指を弾き、白色の糸を洞窟の壁に打ち込み、結界を作る。

 やがて、洞窟の奥から、唸り声の主が現れる。

 猿だ。しかし、大きい。洞窟の広さ一杯に使ってもなお体が余るようで、にじり寄るように、もぞもぞとアリスたちの方に這いよってくる。全身毛むくじゃらで、土の中を這いまわっていたのか、汚泥にまみれた醜悪なその姿。瞳は赤く輝き、知性の輝きは感じられない。あるのは獣欲だけだろう。アリス達の肢体を狙っているのだろうか。一瞬、この汚らわしい猿公に蹂躙される己の姿を想像してしまって、アリスの体が熱病に浮かされたようにガクガクと震えた。吐き気も酷い。

 アリスはぺっ、と込み上げた反吐を吐き捨てる。

 化猿は猛々しい牙を剥き、怖気だつ涎を撒き散らしながらアリスたちの方に手を伸ばし、アリスの仕掛けた糸に絡まった。

「気をつけて! 花果山の猿は、仙丹を飲んで怪力を持っています!」

 言葉の通り、化猿はアリスの糸を引きちぎって、手を伸ばしてきた。が、途中で躊躇するように、手を中空で止めた。

 その隙に、アリスはスカートの中から折畳式のボウガンを取り出すと、矢を番え、化猿へと放った。矢は化猿の瞳に当たり、化猿のけたたましい悲鳴が、狭い洞窟内に響き渡った。

「いけません! 花果山の猿は……!」

「不老不死だってんでしょ。知ってるわ」

 アリスはボウガンを連射する。その度、化猿の悲鳴が響き渡る。

 そのうち、化猿は動かなくなった。

「どうして……」

 衣玖は不思議そうに首を捻った。

「矢に毒を塗っておいたのよ。象も昏倒するような、強力な麻酔薬をね」

 アリスはボウガンをスカートの中にしまいながら言った。アリスは、化猿がいる事を予想していたのだ。

「悪いわね、上海。また出番がなかったわ」

 胸元の上海は、しかし、満足気に主を見つめていた。

 洞窟の外へ目をやると、何時の間にか、雨が止んでいた。

「外へ出ましょう。こんな汚らわしい場所、一秒だって居たくないわ」

 アリスと衣玖は、広げた昼食をすぐに片付け、洞窟の外へ出た。

 洞窟の外には、輝く太陽が在った。先ほどの嵐が嘘のように、穏やかな風が吹いている。衣服はまだ濡れて不快だったが、さわやかな風は心地よかった。

「上がりましたねぇ」

 衣玖は髪を押さえて、涼しい顔をしている。天空の山に、風の中で微笑む美しき天女。全く、妬ましくなるほど絵になる光景だ。

 アリスは洞窟の中へ、スカートの内側から取り出した手榴弾をニ、三個放り込む。

「ひぇっ! そんなものまで持っていたんですか!」

 慌てて物陰に駆け込む衣玖。もちろんアリスも続く。

 ド・ドォン! と大きい音がして、汚らわしい化猿のいた洞窟の入口が潰れた。

「五百年もすれば、お釈迦様が出してくれるでしょうよ」

 アリスも涼しい顔で言う。

 衣玖は唖然としていたが、やがてクスクスと鈴が鳴るように笑った。

「面白い方ですね」

 アリスは山頂を指差した。

「山頂はもうすぐよ。ここまで来たんだから、ちょっと付き合ったら?」

「ええ」衣玖は輝くような笑顔で。「喜んで」

 二人は山頂を目指して歩いた。衣玖もアリスに合わせ、自分の足を使って登った。

 険しい道。しかし、傍らの衣玖は顔色を崩さない。

「やっぱり貴女、ムカつくわね。こんな道で、顔色も変えないなんて」

「貴女だって、変わっているように見えませんよ」

「変えないように努力しているだけよ。私はクールなシティ派だからね」

「私も、シティ派ですから」

「ふん、気を使っちゃって。貴女、余計なお世話がお好きなようね。さっきの洞窟の中でだって」

 化猿が手を止めたのは、衣玖が風の塊を投げつけたからだ。

「変わってるわ、まったく」

「貴女だって、相当な変わり者じゃなくて? こんな不自由を、自分で買ってやっているんだから」

「そんなことは無いわ」

 アリス達は、山頂へ到着した。

 開ける視界。輝きに目を細める、アリスと衣玖。

 真白の雲海が、眼下に広がっていた。

 太陽の輝きを受けて、白光弾ける雲の波が、風が吹く度、さざめき立つ。遠く、空の青を背に。飛び出せば、何処までも飛んで行けそうな程に。

 幻想郷にも、海は在った。美くしく清らかな、純白の海だ。

「綺麗ね……」

「本当に」少し息を弾ませながら、衣玖は言った。「こんな風に雲海を見たのは、初めてです……」

 アリスは衣玖を振り返って、ニヤリと笑った。

「不自由も、たまには悪くないでしょう?」

 衣玖もニコリと笑った。

 衣玖は右手で天を差し、左手を腰に当て、さらに腰を少し撚るポーズを取った。雷光が、衣玖の指先からほとばしり、触発された雲海の雲々の間で、イルミネーションのように、青白い雷光が小さく光った。天女の粋な計らいだろうか。美しく、幻想的で、絵空事のような光景……。

 アリスは、ずっと訊ねてみたかったことを、素直に訊いてみた。

「もしかして、そのポーズ。ただカッコイイからやってるだけ?」

「あ、ようやく気づいてくれました?」ほっ、としたような顔で言う衣玖。「反応悪いから、ウケてないのかと思って不安でしたよ」

 アリスは、声を上げて笑った。

「……けれど貴女」アリスは笑いながら、意地悪く言った「殿方には、モテないでしょう?」

 途端、衣玖は腐った。

「実は……、そうなんですよ。何故なんでしょうか……?」

「そりゃ貴女、殿方のやるべき事を全部自分でやっちゃってるんだから、当然じゃないの」

「ええっ、そ、そうなんですか?」

「きっと、女にだったらモテるわよ。いっそ男になれば?」

「ううん……永遠亭に行って、噂の薬を処方してもらったほうがいいんでしょうか……」何時になく真剣な顔で、衣玖は言う。「でも私、オムコさんより、オヨメさんになりたいんです!」

 アリスは腹を抱え、呼吸困難になって涙が出るほど、笑い転げた。こんなに笑ったのは久しぶりだった。

「もうっ、ホントにムカつくわね!」涙を拭い、ひぃーひぃー悲鳴を上げながら。「そんなんじゃ私、貴女のこと、嫌いになれないじゃないの」

「いや、ごめんなさい」ペコリと頭を下げる衣玖。「お気持ちは嬉しいんですが、やっぱり私、そのケはないです!」

「私だって無いわよ!」

 二人、顔を見合わせて笑い転げる。

 ひとしきり笑いあって、腹が痛くなった頃、ふと山陰に目をやった衣玖が声を上げた。

「あら? 何かしら、あれ」

 指差した先。

 山頂にぽつりと、古びた小さな社が、寂しげに佇んでいた。

「あんなの在ったかしら? 人間がここまで来れるはずはないですし、天界の人間が、こんなところに社を作るとも思えませんが……」

 アリスと衣玖は、その社に近寄ってみる。

「まあ、博霊の紋章だわ。霊夢さん、案外マメなんですね。天界にも社を建てていらっしゃったとは」

 アリスは小さな祭壇の扉を開いて、中から一振りの儀礼刀を取り出した。

「御神刀ですか。あれっ、その赤いものは……」

 衣玖が追求する前に、アリスはそれを、懐に隠した。

「これは、私が霊夢に渡しておくわ。ちゃんと手入れしとけって、注意しておく」

「はぁ。そう、ですか」

 衣玖は首を捻ったが、アリスが背を向けると、それ以上、何も聞かなかった。

 


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