七色の探索者   作:チャーシューメン

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 今回は一応、パチュリーちゃんカワイイ小説です。
 小悪魔カワイイ、嫁に欲しい。
 今回もちょっと、オリジナル要素強すぎました。



魔女たちのマッド・ティーパーティー

「結論から言えば」

 動かない大図書館は、痩せっぽちなその身体からは想像も付かないような、強くハッキリとした声で言う。言葉とは裏腹に、小さな鼻眼鏡を細く白い右中指で押し上げるその仕草は、十分に勿体振っていた。

 三つ覚悟の無い者は、この魔女、パチュリー・ノーレッジと会話をしてはならない。即ち、複雑怪奇かつ難解至極の言葉を無意味に脳に刻み付ける覚悟と、その堪え難い苦痛に長時間耐え忍ぶ覚悟と、その間湧き起こり続けて止まない、目の前の女を殴りつけてやりたくなる衝動を抑え続ける覚悟である。

 円卓の向こう側で、紫色の衣を纏う魔女は、はぁ、と息を吐き出すと、文字で濁ったその紫瞳を手許に開いた本の上に落とした。結論はどうした、結論は。早くも湧き上がった暴力衝動を、髪を掻き上げる仕草で誤魔化すアリスだった。

 パチュリー・ノーレッジはそのまま魔道書のページをめくった。白く滑らかな陶器のような指先が、ゆっくりとした動きで色褪せた羊皮紙を摘みあげ、反対側へと倒す。指先は舐めるように、愛撫するように紙面の上を滑り、また摘み上げる動作を繰り返す。その度、アリスの奥歯を噛みしめる力が強くなる。ギリリ、と音が鳴るほどに。

 たっぷりと時間を掛けて四十六頁ほど捲った後、ようやくノーレッジは……、

 本を閉じた。

 パタン。

 乾いた音が、静寂の図書館を駆け巡った。

 一体、何の為に四十六頁も本を捲ったんだ、この紫もやしは。嫌がらせか? 気紛れか? 其れともその行為は何か秘密めいた儀式の一部だとでも言うのか?

 空しい疑問がアリスの脳内を駆け巡る。湧き上がる暴力衝動を飲み込むように、アリスは深く息を吸い、それを共に吐き出しながら言った。

「それで」

 その時、背後で扉が開く音がした。

「おや。いつもの白黒かと思いきや、五月蠅い色の方かい」

 幼い子供のカン高い声と、それに似つかわしくない大人びた物言い。扉を開けて入って来たのは、この館の主であり吸血鬼、レミリア・スカーレットその人だった。このレミリア・スカーレット、容姿こそ幼いが、アリスよりも遥かに長生きで、五百歳を数えるほどらしい。

「あら。こんな時間に起きているなんてね」

 アリスが会釈しながら言うと、レミリアは眠そうに目を擦った。

「いやぁ、朝更かししちゃって」

「レミィ、客の前ではしたないわ」

 一色の魔女が言うとおり、レミリアは薄白のネグリジェ姿で、一言で言えば、あられもない姿だった。レミリアの裸など欠片も興味は無いが、吸血鬼の誇りとやらは何処へ消えたのだろうか、それは少し気になる。

 寝間着のままのレミリアは、つかつかと円卓のへ近寄ると、アリスの隣の手近な椅子を引き、その小さな尻を無造作に落とした。

「今は人形は頼んでいなかったはずだがな」机の上に置かれた、彼女の従僕が作った焼き菓子を頬張りながら言う。「しかし、丁度良い。夜会用のドレスを新調して欲しかった所だ。小さくなって来てしまってね。成長期だからさ」

 レミリアの体格をさっと目で測ってみても、以前と寸分違うことはない。薄い胸板、短い手足、痩せぎすの首、相変わらずの身長。涙ぐましい程の見栄張りである。

「成長ね……」

 アリスは嘆息した。見栄と誇りで成り立っているのが吸血鬼という妖怪だが、こうも程度が低いと、呆れを通り越して微笑ましくもある。

「日々是躍進さ。レミリア・スカーレットの辞書には衰退の二文字は無いのだよ」

 精一杯気取っているつもりなのだろうが、焼き菓子の屑を口の周り一杯に付けながら格好付けられても困る。

「レミィ、物を食べながら本を読むのはやめてって、いつも言ってるでしょう」

 焼き菓子片手に机上に積まれた本へ手を伸ばしかけた五百歳児は、紫色の出不精に機先を制せられて、すごすごと手を引っ込めた。普段はノロノロしている癖に、こういう時だけ妙に素早いのだ、この引き籠もりは。

 レミリアは頬杖ついて、焼き菓子をカリコリと食べる。吸血鬼の癖に、この幼女が血を飲んでいる所を見た事が無い。人間と同じ食物を好んで食べているようにも見える。噂では此処の食事に人間の肉が混じっていると言うが、アリスは嘘だと見抜いている。この間、アリスが捌いてやった鹿肉とその残骸を見て、悪魔の従僕が今にも卒倒せんばかりに顔を青くしたのを知っているからだ。

 レミリアは気だるそうに、焼き菓子を頬袋に入れたまま言う。

「おパチェさん、おパチェさん、何か面白い本はなぁい? 最近、寝付きが悪くてさぁ」

 おパチェさんはいつものように、手許の本から目も離さずに、つっけんどんに言う。

「その手に持ったカロリーの塊を処分して、清潔なナプキンで口元を拭ってくれたら、今すぐにでも教えあげるのだけれど」

「今度はちゃんとした奴を貸しておくれよ。前に寄越したのは絵本だろ、あれ」

「あら、稀代の吸血鬼殿は、どの様なご本をお探しなのかしら」

「そうねぇ……。やっぱり、挿絵がたくさん付いてるやつかしら」

「人それを絵本と言う」

 吸血鬼の威厳も何もあったものではない。レミリアの様子は腑抜けきって、種族由来の圧倒的なカリスマ性すら影を潜めている。だるそうに「退屈だ」と連呼する姿は、博麗霊夢のそれにも似ていた。惰性は伝染するらしい。

 有り体に言って、普段のレミリアはただの大人ぶった子供だった。その点、正直に言って、アリスはレミリアを見下している……いや、手の掛かる妹分くらいに考えている。きっとそれは、パチュリーも同じなのだろう。

 それでもアリスは、レミリアが幻想郷でも指折りの危険人物であることを弁えている。殊、単純な闘争に関してだけ言えば、レミリアが最凶でまず間違いない。彼女の有名な狂った妹など、比べるべくもない。あの八雲紫ですら相手にならないだろう。博麗霊夢がスペルカードというお遊びを作ったのも、彼女を安全に調伏するためなのかもしれない。本気の闘争に臨む彼女を一度だけ目撃したことがあるが、その様は老婆のように老獪で、勇者のように勇敢、猛獣のように獰猛かつ君子のように己を律し、将帥のように的確な判断を下す、魔王のように怖ろしい姿だった。彼女の瞳が黄金色に輝く時、何者も行く手を塞いではならぬ。幻想郷の実力者達の、暗黙のルールである。

 尤も、目の前でダルそうに焼き菓子を貪る幼女の姿は、そのような脅威を微塵も感じさせることは無いのだが。

 閑話休題、レミリアが来たことで、ジェリーフィッシュプリンセスの出した結論とやらは益々遠ざかってしまった。

「ところで」

 アリスが口を開いた途端、大きな音がして図書館の扉が威勢良く開け放たれた。

「おっス、邪魔しに来たぜ」

 入って来たのは、黒白のトンガリ帽子のシルエット、霧雨魔理沙だ。

「おっ、アリスもいるのか」

 魔理沙は目をぱちくりとさせて驚いた様に言った。

「足はもういいのかしら」

「何の事だ」

 ドカドカと喧しい足音を立てて円卓までやって来た魔理沙は、アリスの隣、レミリアの反対側に陣取ってドカッと座った。足を組んで、腰深く。我が物顔、ひと動作でそう思わせる能力を持つ人間も、そう多くは居るまい。魔理沙はその幻想郷代表と言ったところだ。

 ヒョイ、と焼き菓子を宙空に放り投げ、落ちて来たそれにパクリと食いつく。もちろん、館の主には断り無しだ。霊夢が天衣無縫なら、この女は傍若無人が服を着て歩いていると例えられよう。

「ンまいな、流石、咲夜だぜ」

 ボリボリと下品な音を立てて、魔理沙は焼き菓子を食べた。見ているだけで嫌な気分になる食べ方だ。普段はそうでも無いが、人が大勢集まる場所では、魔理沙はつとに豪快に振る舞う。よせばいいのに。アリスは見るたびそう思う。

「泥棒が正面玄関から堂々と入って来るなんて、世も末だわ」

 いつもの様にクラゲ女が悪態を吐けば、

「正面から入って来たのなら泥棒じゃないだろ。客だ、客。オラ、茶を振る舞え、茶を」

 これもまたいつものように魔理沙が悪態で返す。最早、様式美である。

「パチュリィ様。お紅茶が入りました」

 呼ばれて飛び出て、なのかはさて置き、本棚の影からハイカラな着物姿の小悪魔が、銀のトレイに白いカップとポットを載せて現れた。長い赤髪をひっつめにして、丸眼鏡など掛けている。その姿を見て、パチュリィは頭を抱えていた。

「今日は大正浪漫?」

 アリスが尋ねると、小悪魔は満面の笑み。

「はいっ! どうです? 似合ってます? ます?」

「そ、そうね」

 機嫌を良くした小悪魔は、鼻歌を歌いながら紅茶をカップに注いだ。アリス、魔理沙、レミリア、パチュリィの順で。格好はアレだが、何だかんだで主の顔を立てる事を忘れない小悪魔だ。……毎度毎度思うのだが、この娘の真名は何と言うのだろう?

「お、気が利くな、小悪魔」

 要求通り茶が出てきたので、魔理沙も上機嫌だ。

 一方、パチュリィは肝でも舐めた様に顔をクシャッとさせた。

「小悪魔、そんな犯罪者に茶なんて出すことないわ。塩撒きなさい、塩」

 主の後ろに下がった小悪魔へ言う。

「はい、パチュリィ様」

 小悪魔は小さな壺から白い粉をひとつまみすると、手を高く掲げ、魔理沙のカッブにファサ~ッと振りかけた。小悪魔のふっくら柔らかそうな指から零れ落ちて広がる粒子は、灯火の光を受けて、キラキラとプリズムの様に輝く。しかし一粒も余すことなく、カップの中に吸い込まれていった。美しく見事な技だ。

「ますます気が利くな、小悪魔」

 手を叩いて喜ぶ魔理沙。言うまでもなく、小悪魔が振りかけたのは砂糖である。パチュリィの顔が岩になった。

「魔理沙が来ると、パチェ之助の表情がコロコロ変わって、楽しいな」

 レミリアがニヤニヤ笑いながら言った。旧友であるレミリアにとって、普段は能面のパチェ之助が、福笑いの様に顔を崩す様は、丁度良い暇つぶしになるのだろう。霧雨魔理沙には、人の『本当』を引き出す力があった。

 確かに。確かに、見ていて退屈だと言ったら嘘になるし、暇つぶしにも持って来いではあるのだが。

「で。話を戻すのだけれど」

 無意識のうちに手揉みしながらアリスは言った。日陰女の出した結論を前に暇つぶしをしていられるほど、アリスは悠長ではない。

 アリスの視線を受けると、ラクトガールは元の仏頂面に戻って、サッと視線を図書館の入り口へ注いだ。

「ノーレッジ」

 多少、語気を強めて言う。無意識ではない、意図的にである。

 突然強い声を出した事に驚いたのか、視線が一斉にアリスへと集まった。小悪魔は胸の前で銀盤を抱いたまま身構え、魔理沙は何気無く帽子へ手をやった−−八卦炉を取り出せる様にしたのだろう。レミリアは両手で焼き菓子を抱え、それにかぶりついたまま、目をまん丸くしていた。げっ歯類みたいでかわいい。

 と。

 図書館の扉から、控え目なノック音が響き渡った。

「入りなさい、咲夜」

 待っていたとばかりに、パチュリーが言う。

 果たして、十六夜咲夜が一礼をしてから、図書館の中へ入って来た。この時間、門番の美鈴は寝ているだろうし、この館でノックをするような存在は、あとはこの悪魔の犬くらいしかいやしない。

「パチュリー様。お客様がいらっしゃいました」

「……お邪魔するわ」

 咲夜の背から、静かな声を発する者が居た。咲夜の陰から歩みでたその存在は、張り詰めた図書館の空気を更に引き絞った。

「アリス。久しぶりね」

 チェック柄の赤いツーピースに植物の蔓のように伸びた緑暗色のショートボブ、その隙間から覗く切れ長の目が、長く整った睫毛の間から理性の煌きを放つ。優雅な白い傘、曰く「幻想郷で唯一枯れない花」を持つ、花と暴力と生命を象徴する妖怪。

「風見……幽香……」

 予想だにしていなかった人物が現れたことで、アリスはしばし呆然としてしまった。

 風見幽香は、慈愛に満ちた、悪く言えば人を見下したその目を円卓に向け、微笑した。

「ゆ、幽香? 珍しいな、お前がここに来るなんて」

 魔理沙が上ずった声を出す。

「――幻想郷最強を決めようってハラかしら?」

 レミリアが吸血鬼の目をして言う。その瞳は、今にも黄金色に輝きだしそうなほどだ。

 パチュリーはそれを手で制した。

「レミィ、私が招待したのよ」

「パチェが? なんだって、こいつを?」

 レミリアの疑問はアリスの疑問でもあった。

「あのね」ノーレッジは少し面倒くさそうに言う。「レミィは知らないかもしれないけれど、ウチの庭の花は幽香に分けてもらっているのよ。ねぇ、咲夜?」

「はい。その辺りは美鈴が詳しいかと。よく美鈴と一緒に、庭の手入れを手伝って頂いておりますし」

「マジか。まったく知らなかったわ……」

 レミリアは机に突っ伏してヘコんだが、一瞬で立ち直って顔を上げた。

「まあ、カチ込みに来たんじゃないならいいわ。お座りなさいな」

 ニコリと屈託無く笑う。その無邪気さは容姿相応のそれなのか、はたまた主人としての度量の広さを示すのか。アリスとしては前者だと思う。

 レミリアは自分の隣の席を引いて幽香を誘おうとしたが、そこには既に先客がいた。

「うわっ! い、いつの間に!」

「はっひひっしょひ」

 焼き菓子を頬袋いっぱいに頬張った霊夢が、いつの間にか円卓についていた。焼き菓子が乗った皿を腕で囲って、誰にも渡さない! と威嚇の視線を配している。食い意地の張った巫女だ。

「先客万来だな」

 苦笑する魔理沙。そういうお前も客の一人ではあるのだが。

 例の微笑を湛えたまま、風見幽香はアリスのすぐ隣に来ていた。

「ここ、いいかしら?」

「――いいわ」

 一瞬の逡巡の後、アリスは答えた。

 アリスは風見幽香が苦手であった。その微笑が、慈愛の眼差しが嫌いだった。アリスの全てを見透かすような目が、堪らなく不快なのだ。涼やかなその物腰が、強者であるというその自負が、何者にも対等に接するその余裕が、全てを児戯だと見下すその傲慢が、あらゆる命を我が子と見做すかのような博愛が、アリスの自我を強力に攻撃するのだ。

 風見幽香を見る度、アリスは疑問に思う。こいつは本当に花の妖怪なのだろうかと。本当はもっと大きな力の化身なのではないかと。風見幽香の持つ力は、種族名の無い一妖怪としては突出しすぎている。地獄の神である閻魔とも渡りあったと言うその力、とても測り切る事は出来ない。夜の帝王、レミリア・スカーレットと並び、幻想郷屈指の危険人物である。

 それに。

 因幡てゐの言葉を信じるのならば。風見幽香は、幻想郷の呪われしシステムを作り上げた、賢者達の一員だという事になる。

「なら、遠慮なく」

 アリスの思いを知ってか知らずか、風見幽香は涼しげな顔でアリスの隣の席に着いた。

 胸の間に控えていた上海が、トコトコと円卓の上を歩き、風見幽香に向かってお辞儀をする。それを見た幽香は嬉しそうに顔を綻ばせ、人差し指で上海の顔をくすぐった。上海も幸せそうに、幽香の指にもたれかかっていた。どういうわけか、上海は幽香に懐いているのだ。まったく、主の心、人形知らずである。

「私の顔に何か付いている?」

 幽香の横顔を睨み付けていたアリスは、不意の反撃を食らって、内心、狼狽した。

「別に。似合わないなと思って」

 咄嗟に嫌味で返す。しかし直ぐに気付く、それは、

「まるで魔理沙みたいね」

 恥部を言い当てられて、アリスは自分の頰が紅潮するのを感じとった。あれだけみっともないと小馬鹿にしていた魔理沙と同じことをしてしまい、しかもそれを指摘されてしまうなんて。恥辱以外の何者でもなかった。だから、風見幽香は嫌いなのだ。

 それを見ていた魔理沙は、声を上げて笑った。

「真っ赤になってら。おい幽香、あんまり虐めてやるなよ。そいつには人形くらいしかオトモダチがいないんだからさぁ、嫉妬しちゃうのも無理ないぜ。返してやれよ」

「ふふ」幽香は意味ありげに笑った。「そうね。さ、上海。一番好きな人の所に戻りなさい」

 上海は幽香にぺこりとお辞儀をすると、アリスの胸元に帰ってきた。

「で、お前は何しに来たんだよ?」

 魔理沙は幽香に話しかける。話題は変わった。アリスは悔しさと情けなさで血の気が引く思いだった。魔理沙に助けられる形になってしまったのが許せない。完全に分かっているのに、わざと惚けて、他人の自我に立ち入らない様にする。霧雨魔理沙はそういう気の使い方をする女だ。組んだ腕に爪を立てて、恥を痛みに変えた。

 幽香は魔理沙の問いに答えず、小悪魔が淹れた紅茶に口を付けた。ルージュを引いた唇に、高貴な赤樺色が吸い込まれて行く。香りと余韻を楽しむようにカップを顔の前に少し止め、涅槃の向こう側にたゆたうような表情。その気取り様は、やはり気に入らない。

「んがくっく!」

 突然、頬袋をパンパンに膨らませた霊夢が、胸の辺りをドンドンと叩き始めた。

「れ、霊夢、大丈夫〜? 十枚も一気に食べようとするからよ〜」

 涙目のレミリアが霊夢を見上げている。どうやら、霊夢が焼き菓子を詰まらせたらしい。

 溜め息を一つ付いた後、アリスは自分のカップを霊夢の方に差し出した。霊夢は引っ手繰るようにカップを手にし、慌ててそれを一気飲みする。と、

「あっつー!」

 今度は盛大に紅茶を吐き出した。巫女汁が、図書館の床に散乱した。

 魔理沙と咲夜と小悪魔が、大爆笑しながら、

「いきなり何やってんだ、霊夢、馬鹿みたいだぜ」

「誰が片付けると思ってるのよ」

「霊夢さん、汚いです」

 それぞれ言った。珍しくパチュリーも口に手をやって、真っ赤になって笑いを堪えている。レミリアはのたうち回る霊夢にすがりついて泣いていたが、一人、幽香だけは例の微笑を湛えたままだ。

「っていうか、喉詰まらせた奴に、あっつあつの紅茶を渡すなんてないぜ、アリス」

「え? ああ、そうね、失念してたわ。ごめんね、霊夢。でも、あんたが悪いのよ」

 床上でびくんびくんと痙攣する霊夢に放った言葉は、一層高まった魔理沙の下品な笑い声に半ば掻き消された。

「貴女に会いに来たのよ、アリス」

 喧騒の中で、独り言のように幽香が言った。アリスの耳にだけ届いたであろうほど、密やかに。

 魔理沙の問いへの答えだろうか。その言葉の真意を測りかね、アリスは眉を顰めるばかりだった。

「おぼろろろろ……」

「うわっ、こ、こいつも吐きやがった!」

「お、お嬢様ー!」

 魔理沙と咲夜が叫んだ通り、レミリアがもらいゲロし始めた。巫女汁と混じり合う、お嬢汁。その色は鮮血の真紅……ということもない。やっぱり血なんて飲んでいないのだろう、吸血鬼とは一体何だったのだろうか。

 霊夢とレミリアは、吐いて体力を使い果たしたのか、ぐったりとしていた。やがて、魔理沙と咲夜に引き摺られ、それぞれ図書館から出て行った。吐瀉物塗れの衣服を替えにでも行ったのだろう。何時の間にか、床からは吐瀉物が消え去っていた。瀟洒なメイドが時を止めたに違いない。

「全く、騒がしいわね」

 溜め息混じりに言うと、すかさずノーレッジが言う。

「半分は貴女のせいじゃないの」

 そうでも無いと思う、と言い訳するのも面倒である。アリスは反論を控えた。

 ようやく邪魔も無くなったので、アリスは花曇の魔女の方へ向き直った。

「話を戻すけれど」

「小悪魔」

 アリスの言葉を遮って、置物のような魔女は、従者へ声を掛けた。

「茶菓子が切れたわ。新しいのを作って、持って来なさい」

「はいっ、パチュリィ様。腕によりを掛けてっ」

 従順な従者は、ハイカラな着物をはためかせながら、嬉しそうに図書館から出て行った。この魔女は滅多に食物を口にしないので、手作りの菓子を要求されたのが嬉しいのだろう。パチュリィの意図は別にあるだろう事は明らかなので、その健気が少し気の毒に思う。

「何のつもりよ。人払いまでして」

 問い掛けても、来た時と同じ様に本の虫。

「私も席を外しましょうか」

 席を立ちかけた幽香を引き留めるように、ノーレッジが鋭い声が響いた。

「結論は」

 薄汚れた羊皮紙の本に目を落としたまま。

「既に、示している」

 パチュリー・ノーレッジは静かにそう言うと、またもや口をつぐんでしまった。

 イライラに耐えかねて、遂にアリスは平手を机に打ち付けた。思った以上に大きな音がした。

「それじゃあ分からないわ! 私は覚妖怪じゃない!」

 そして、思った以上に荒げた声を出していた。

 一度出した怒りを飲み込むように大きく深呼吸した後、もう何度目だが分からない責めの視線を、もやしの妖精に叩きつけた。もやしは素知らぬ顔で、羊皮紙の頁をめくっていた。

「落ち着きなさい、アリス。貴女らしくもないわ」

「お生憎様、十二分に私らしいわ」

 なだめる幽香への言葉も、自然、刺々しいものになってしまう。

「いいえ、貴女らしくないわ。こんな簡単な事に気付かないなんて」

「簡単な事?」

「沈黙は金なり、その格言を知らぬ訳ではないでしょう。沈黙は時に弁舌よりも能弁だわ」

 幽香に言われてアリスは気付いた。

 ノーレッジは結論を示していると言った。提示されたものが沈黙だというのなら、それは、

「つまり……、解無し、分からなかったって事?」

 紫の魔女は否定も肯定もせず。ただ頁をめくるばかり。

「分からないって……何よ、それ」アリスは無意味なやり取りに時間を割かれた事を怒っていた。「ご自慢のこの図書館には、宇宙の全知識が集まっているんじゃなかったの? 聞いて呆れるわ!」

 アリスがまくし立てると、知識の名を冠する魔女はようやく顔を上げ、アリスを見据えた。

「本当にどうかしているわ、アリス。何を焦っているの。シティ派の余裕は何処へ行ったのかしら。冷静になりなさい」

 流れる様な滑らかな口調で、本の魔女は冷静そのものだった。

「私は冷静だわ!」

 激昂しているのは自覚していたが、それでも判断力は平静のつもりだった。

「いいえ、冷静じゃないわ。平常の貴女もよく理解しているように、この図書館には凡そ凡ての知識が集約している。調べようと思えば、それこそ全宇宙のあらゆる知識が手に出来る。此処で、しかもこのパチュリー・ノーレッジが調査をして 、何らかの解を得られないなんて事はあり得ないのよ」

「でも、分からなかったんでしょう?」

「そうよ。そして貴女はこの事実をもっと冷静に捉えるべきだわ。無知の知という言葉があるでしょう。分からないということは時に、分かるという事よりも、多くの情報を含んでいる」

「どういう意味よ……?」

 風見幽香が口を挟んだ。

「これは」

 その手の中には、小瓶があった。魔法の森の地下、版築の古城から採取した土粒の欠片を封入したものである。アリスがパチュリーに分析を依頼したものだ。

「この地上の物質ではないわ」

 フラワーマスターはそう断言した。

「やはりね」

 パチュリーは予想していたのか、アリスとは違い、表情を変えなかった。

「ど、どういう事? ただの土粒じゃない、未知の物質だっていう事?」

 予想と異なる方向に分析結果が示された事で、アリスは少し動揺していた。アリスの予想では、大陸の黄砂の成分が検出されるはずであったのだが。

「いいえ」パチュリーが首を振る。「既知の物質よ。ただの鉱物、石英や長石などの塊。だけどその組成や魔術的構造は、この図書館のあらゆる文献を紐解いても、完全一致するものはない。微妙に違うのよ。もちろん、外の世界のものでもないわ」

「なら宇宙から来たとでも言うつもり?」

 或いは、あの月の都から? そう考えたアリスの思考は、パチュリーの言葉で掻き消された。

「アリス。まだ理解していないようね。私は、この図書館には宇宙の凡ての知識が集約していると言ったのよ。この図書館の知の範囲外にあるという事は、つまり」

 七曜の魔術は、その独活の様な滑らかな指先で、アリスの身中を指し示した。

「この物質の出処は、貴女と同じ、妄想の世界からという事になるわ。不思議の国のアリスさん」

 アリスは、息を飲んだ。そしてようやく、全てに気付いた。

 パチュリー・ノーレッジは、アリスの真実に辿り着いていた。今更ながら目をやれば、パチュリーが瞳を落としていた古書、そのセンテンス一つ一つに見覚えがある。原題『アリス・イン・ワンダーランド』。この幻想郷に来てから、諳んじれるほど読んだ物語、その写本だった。

 アリスは脱力して、豪華な椅子の上に体重を預けた。

 秘してきた事実を暴かれてしまった虚無感からではない。

 寧ろ肩の重荷を降ろしたように感じ、安堵で力が抜けたのだった。

「その呼び方は不適切よ。私はアリス・リデルその人ではないわ。彼女と同じ妄想をした、ただの女よ。リデルと違って、私はそのまま幻想に飲み込まれてしまったけれど」

 他者にこの話をしたのは初めてだった。

「ホワイト・ラビットを深追いして、幻想から抜け出せなくなったのね」

「私の身の上話など、どうでもいいわ」

 今のアリスにとって重要なのは、新たな白兎を探すこと。今はそれだけだ。

「妄想の世界に戻るつもりかしら」

 パチュリーはなおも聞く。

「逆よ。私は人間になりたいの。幻想のまま消えるつもりは無いわ」

「幻想郷に詳しいフラワーマスターなら」パチュリーは幽香へ目を向けた。「白兎の行方を知っているかしら?」

 幽香は。

「茶番は止めなさい。無意味だわ」

 相変わらず、例の微笑を湛えたまま。

「茶番? 貴女にとっては茶番でも、私にとっては人生そのものなのよ。軽々しく言われると、腹が立つわ」

 ムッとして、アリスは幽香を睨んだ。

「私にカマを掛けようとしているようだけれど」幽香はアリスを見ていなかった。「無意味だわ。私には隠し立てする義理も理由もないのだから」

 幽香は、パチュリー・ノーレッジを見据えていた。

「結論から言いましょう。貴女の予想は、全く正しい」

 幽香は怒るでもなく、哀しむでもなく、朧気で捉えどころのない、まるで隙間妖怪のそれに似た口調で、しかしはっきりと言った。

 途端、パチュリーはまたもや手許の本に顔を正対させた。だが、その本を持つ手が小刻みに震えるのが見えた。本を読んでいるのではなかった。顔を伏せ、感情を隠そうとしたのだ。

 およそ、普段は図書館の一オブジェに成り下がっているこの魔女をして、この様な激情を発する事は稀有である。その隠そうとした激情は、憤怒か憎悪か、はたまた喜悦か。零れ出した感情が震わせるその手を見ても、判別がつかない。あるいは、それはパチュリー本人にすら分からないのかもしれない。

「予想……?」

 反芻したその言葉。パチュリーは一体、何を予想したというのか。

 幽香は手の中で件の小瓶を弄ぶ。

「大地は世界の一部。その大地の一部である砂粒もまた、世界の一部だわ。ならば、この世界のものではないこの砂粒は、貴女達の話すように、妄想の国、夢の国、不思議の国のものでしょうか」

 さらさらさら……。

 小瓶を開け、幽香は中身を円卓の上に静かに撒いた。

「答えは調べるべくもないわ。これは妄想の産物などではない。歴とした、大地の一部。そう、歴とした。この砂粒には重ねてきた過去があり、幻想郷での未来がある。何故、こんな物が此処に、この幻想郷にあるのかしら」

 砂粒から、にょきりと緑色の小さな植物が芽を出した。

 芽はみるみる伸び、葉を付け、蕾をふくらませ、やがて真っ赤な花を咲かせた。赤い鉤十字の花弁が特徴的だが、今まで見たどの図鑑にも載っていないような姿形をしていた。

 これが、この砂粒がかつて咲かせていた花の形なのだろうか? だとしたら、こんな形の花は一体、どこで咲いていたものだと言うのか?

 それに。

「貴女、さっき自分で、この砂粒はこの大地のものではないと断言していたじゃない」

 幽香の言葉は、自身で矛盾していた。

「そうよ」

 幽香が手で触れると、不可思議な赤い花は、灰のように色を失って崩れ、砂粒の中に混ざってしまった。

「これは、この世界の物質ではない。ならば……」

 くるぅり。

 風見幽香は、アリスの過去でも覗きこもうとしているかのように、深紅の瞳を爛々と輝かせた。赤い月のようなまんまるの瞳の向こう側には、濁った混沌が広がっている。

 

――汝が深淵を覗きこむ時、深淵もまた等しく汝を覗いている。

 

 ふと、その言葉が頭を過ぎて、アリスは我知らず、体を震わせた。風見幽香は「それ」だと、直感的に感じ取った。あの畏れるべき神子や因幡の白兎とも違う。もっと根源的な、本能的な脅威、恐れ。あるいは、毒草に当たった時の白昼夢のような。あるいは、子どもの頃に見た悪夢のような。あるいは、そう、あの時、あの場所で見た、あの白兎を追って行き着いた、あの不可思議な……。

 息も出来ない。体中の筋肉が痙攣し、強張り、ひきつけを起こしたようにアリスの体が震える。

 視界が深紅に染まってゆく。全てが、風見幽香の赤に飲み込まれてゆく。

 幽香の真っ赤な唇が開く。発せられる言葉は、断頭台の刃。

「答えは、既に出ている。これは――」

「博麗」

 幽香を遮ったその言葉に驚いたのは、ほかならぬアリス自身だった。

 知らず、アリスの右手は、胸元に伸びていた。

 人参のペンダント――てゐの贈り物を、握りしめていた。

「それが、あんた達の創りだしたシステム、全ての原因だわ」

 風見幽香は目を細めた。すると、視界を包んでいた赤い闇は、解けるようにして消えていった。

「因幡てゐを味方に付けたのね」幽香はうふふ、と小さく、嬉しそうに笑った。「あの子は悪戯好きで性格が捻くれているけれど、困っている人は放っておけない子だからね」

 因幡てゐをすら子ども扱いして。

 風見幽香は、席を立ち、アリスの前へと歩いてきた。

「お話は、終わり。今日は貴女に会いに来たのよ、アリス。おいたが過ぎたわね」

 ぬっ、と白く滑らかな絹のような手の平を突き出して。

「儀礼刀を返しなさい」

 毒花のように怖ろし美しい微笑みを浮かべて。

 風見幽香は有無を言わせぬ迫力を放っていた。アリスはやむを得ず、袖に隠した一振りの血塗れた儀礼刀を取り出して、幽香の手の中に置いた。

「もう一振り」

 下唇を噛みつつ、もう一振りも取り出し、渡す。

 風見幽香は二振りの儀礼刀をまじまじと眺めると、ふっ、と息を吐いた。

「――いいでしょう」

 そう言って背を向け、図書館の扉へ向かった。

「レミィは」

 ノーレッジが顔を上げて、幽香の背に声を投げつけた。

「あんたより、強いわ。レミィが全てを知ったら、どうなるでしょうね。あの子が本気になったら、幻想郷なんて一夜で破壊できるわよ」

 まるで負け犬の遠吠えである。

 幽香は歩みを止めたが、振り返りもしなかった。

「だから? 私には関係無いわ。破壊も虐殺も一時の遊戯にすぎないでしょう。形あるものは、いずれ滅びるのだから」

「あんたは賢者達の一員じゃあないのか」

「さあね……。興味が無いのだけは、確かだわ」

 風見幽香は、再び歩みを始めた。

 扉に手が掛かった、その時。アリスの脳裏に、ある考えが閃いた。

「幽香」

 立ち上がって、アリスは言った。

「形見の品は、確かにあんたに渡したわ。隙間に取られるんじゃあないわよ」

 振り返った幽香に、初めて、感情の影が見えた。

 無垢な少女のような驚く顔と、その頬を伝う水晶のような涙が、アリスの言葉を裏付けていた。幻想郷に執着しない風見幽香が、儀礼刀に執着する理由は、それしか無いと思ったのだ。

 幽香は手で涙を隠すと、早足で逃げるように図書館を出て行った。

「あいつがあんな顔するなんて……」

 パチュリーは意外そうに言った。さもありなん、アリスも意外だった。恐るべき風見幽香の意外なる一面。ブン屋に売りつければ高い金になりそうだが、これ以上幽香を怒らせるのは怖い。やめておくことにした。

「しかし、見逃してもらえたようで、何よりね」

「ツイていたみたいね。二本とも取られていたら、困ったことになっていたわ」

 アリスは、懐から二振りの儀礼刀を取り出した。

 パチュリーに複製を依頼していたのだ。

 しかし、風見幽香に渡したもののうち、一本は本物だった。風見幽香は偽物だと気づいていたようだが、目的の「形見の品」を手に入れたので、見逃してもらえたのだろう。二つの本物のうち、どちらを渡すか迷ったが、直感が当たっていたらしい。緋想天で手に入れた儀礼刀が、幽香の「形見の品」であるようだ。

「これは、八雲紫との交渉に必要だから」

 風見幽香がそうだったように、八雲紫の弱点も「博麗」というシステムにあるに違いないのだ。

「そういえば。パチュリー、貴女の予想ってやつは、一体なんだったのかしら」

 紫色の魔女は、既に冷めているであろう紅茶を啜った。

「貴女は」相変わらず、手許の本に目を落としたまま。「一人じゃあないってことよ」

「はぁ?」

 意味がわからず、アリスは不機嫌な声を出した。やはりこの紫もやしと話しているとイライラする。

「パチュリィ様ぁ! クッキィが焼けましたよ!」

 顔中ススだらけのミニスカパティシエ小悪魔が、扉を蹴破るようにして図書館に突入してきた。またお色直しをしたらしい。

 そのまま、山盛りの山盛りの焼き菓子を、ドン、とパチュリィの目の前に置いた。胸焼けするほど美味しそうだ。

「さ、たんと召し上がれ」

 ニコニコと屈託の無い笑顔を浮かべる。小悪魔というより、小天使のようだ。

 パチュリィは見ただけで吐き気を覚えたのか、青い顔をして口へ手をやり、哀願するようにアリスを見た。

「じゃ、私はこれで」

 儀礼刀を回収して、アリスはそそくさと図書館を出た。

 背にノーレッジの恨めしげな視線を感じたが、無視する。

 今日のイライラの分のささやかな仕返しだった。

 


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