前回といい今回といい、いろいろ筆が走りすぎて、ちょっと読者置いてけぼりになってますね、反省。
暑い。
羽織ってきたケープをかなぐり捨て、アリスは額に流れる汗を拭った。
地上は秋口で吹く風も冷たいというのに、噴出する地獄の蒸気のせいだろうか、地の底へと続く坑道は、梅雨中に訪れた真夏日のようだった。近頃、寒暖差に鈍くなっているアリスであるが、そのアリスをすら辟易させる程の、地獄のような暑さだ。……なるほど、此処は地獄の入り口だった。思考回路も鈍り気味。
地上と地底を繋ぐ巨大な縦穴。
それが、封印されし妖怪たちが住まう忘れ去られた都である旧地獄、いわゆる地底へ行く為の唯一の道だ。
地上の妖怪と地底の妖怪の間には、一種の不可侵条約が有り、一部を除き、以前は全く交流が無かった。地上の妖怪が無許可で地底に立ち入れば、食い殺されても文句は言えない。そんな場所だったのである。今代の博麗の巫女、博麗霊夢が地底で大暴れしてからは、その条約も緩和されつつある……、と言うより、無視されつつあり、地底の妖怪が博麗神社や紅魔館の酒宴に参加することも多い。対立する理由すら大半の妖怪が忘却し始めている今となっては、当然の時流なのかもしれない。
しかし、それを快く思わない勢力がいる事も確かだ。
まして、アリスの目的が目的である。害される可能性は十二分にあった。
だからこそ今、往路の確立された涼しい風穴でなく、敢えて道を逸れ、灼熱の横穴を通って地底に向かっているのだ。
以前、魔理沙を唆して地底へ向かわせた時には分からなかったが、地底というのはやはり苛酷な環境である。人妖の通り道として整備された公道以外は、旧名の示す通り、まさに地獄だった。無理に通ろうとすれば、入っていった生物と同じ質量の屍の山が出来上がるだろう。
横穴は狭く、立って歩くには少し背を屈めなければならないほどだ。奥の方からは絶えず蒸気が吹き出し、視界は白い闇の中。さらに、縦横無尽に道が分かれ走り、天然の迷路となっている。なるほど、ここは地獄だろう。こんなところで死んだ日には、死んでも死に切れずに怨霊となって永久に惑い続けるに違いない。
久しくかいていなかった汗を拭い、首元をはだけ、袖を捲る。進めば進むほど、温度が上がって行くように思える。並の人間ならば血液が沸騰して死んでいることだろう。持って来たカンテラの重みはまだしも、放つ光熱が鬱陶しい。胸元の上海が小さな団扇で扇いでくれる風だけが、唯一の快事だ。
ふと、蒸気の吹き出す音に混じって、バシャバシャと水の音がした。
音は狭い坑道内を反響し、何処から聞こえたのか分かり難い。が、どうやら前方からしたようにアリスには思えた。それきり聞こえないが、聞き間違いとは思えない。つまり、近くに一定量の水が有り、さらにそこには何者かがいるということになる。
歩みを緩め、聞き耳を立てながら、アリスはスカートの中から折り畳み式ボウガンを取り出す。上海も団扇から小さな剣に持ち替えた。
大量の汗を流しながら、摺り足でそろりそろりと進んで行く。
地底の妖怪がどんなものか、アリスは知らない。しかし、この地獄の熱気の中に好んで住むような妖怪も居るかもしれない。戦闘体制を崩さないよう、気を張り続けた。
そうして二十間ほど進んだ時、また水音が響いた。アリスはその音の出所を探ろうと、聴覚に全神経を集中した。そこで歩みを止めなかったのは、軽率だったと言える。
あっ、と思った時には遅かった。踏み出した足は空を切り、バランスを崩したアリスの体は、パックリと口を開けた亀裂の底へと落下してしまった。
しばしの落下感の後、衝撃、そしてその次に襲ってきたのは、体中があらゆる方向から圧迫される感覚だった。
それが全身水に包まれる感覚だと理解できたのは、開けた目に水が入り込んで起こる、濡れているのに乾いたような、矛盾したあの痛みを感じてからだ。
その次に感じたのは、全身を包む鋭い冷気。
灼熱の洞窟から一気に凍える水底に叩きこまれ、温度差でアリスの肌理が悲鳴を上げた。高温で開ききった毛穴が一気に閉じるの感じる。体中を引き絞られるが如く。皮膚表面に亀裂が走るような痛みを感じ、アリスは水底で呻いた。
夢中で手足を動かして、なんとか水面までもがき上がり、呼吸をする。灼熱の空気は去り、しんと染み入るような静寂と凍気が、濡れた顔と喉とを刺激した。
見上げた先に、落ちてきた岩の裂け目が小さく見えた。かなりの距離を落ちたようだが、それでもこの気温差は異常だった。地底は地上の物理法則と異なる法則が適用されているとでもいうのだろうか、そんな馬鹿な。独り言ちたその言葉が、がらんどうの洞窟内部を木霊した。
左右を見渡す。
近くの水面にカンテラが浮いているのを見つけた。魔理沙から分けてもらった発光茸を使ったカンテラ。落下の衝撃で破損していて、直接空気と水に触れた発光茸は輝きを失っていた。凍みる水を掻き分けカンテラに近づき、回収する。破損したとはいえ、直せばまだ使える。無駄と浪費を嫌うのは、シティ派の美徳というものだ。
気付けば、ボウガンを失っていた。落ちた時に手放してしまったらしい。カンテラは見つかったが、ボウガンは周囲を見回しても見つからなかった。何処かへ流されてしまったのだろうか。
視線を上げると、その先に寄る辺が見えた。縮こまった手足を動かし、岸まで泳いで這い上がる。
体を軽く振るい、水気を落とす。
どうやら、水に塩気が含まれていたらしい。身体中が不快なベタつき纏って、アリスは舌打ちした。上海も顔を顰めていたが、上海本体には金属部品が無いのでその点は安心である。
一方アリスの方は、全身塩水に浸かったせいで、装備の殆どが水没して使い物にならなくなっていた。サバイバルナイフ、仕込み靴などは手入れすればすぐに使えそうだが、スカートの中に仕込んだ手製の手榴弾や発煙筒、信管などの火器類はもちろん、ポシェットに入れた応急キット、鎮痛剤や止血剤などの薬品類、水に携帯食料、マッチにロウソク、ハンケチーフとポケットティッシュにナプキン、それに上海の武器防具はとても使用に耐えそうにない。中でも一番痛いのは、携帯用ソーイングセットと予備パーツをやられたことだ。これでは上海が怪我をしても治す事が出来ない。ポシェットを防水性の物にしておけば良かったと後悔した。あの古道具屋の店主の口車に乗ってデザイン性重視にした事が仇となった。あの店主、もう一度しばき倒さなければ気が済まない。
洞窟内は、原理は不明だが、壁それ自体がほんのりと発光しているようで、手許は見える程度の光量があった。とは言え、十分かと言うとそうではない。瓶に詰めていたお陰で難を逃れた裂傷用のオリーブオイルを、破損したカンテラ内に注ぎ、上海が持っていた起爆用の小さな火打ち石を使って火をつけ、当面の明かりを確保する。
服を軽く乾かし、装備の点検を終えた後、周囲の探索をしようと、アリスは破損したカンテラを持って立ち上がった。
視線を上げたとき、あっ、とアリスは声を上げてしまった。
光の向こう、視線の先に、博麗の社があった。苔生して、緑の斑になった灯籠の側には、真新しい幾つもの花束が置かれている。まるで墓前の様に。
やはり。
アリスの頭の中で、様々な事実が交錯する。
古城の砂の成分。魔界の森の地下や緋想天にあった博麗の社。因幡てゐの言葉。図書館の魔女が仄めかしたこと。風見幽香の涙。そして、博麗の血にまみれた儀礼刀。
なぜ神霊廟に博麗の社が無かったのか。
博麗霊夢は、上手くやったのだ。
逆に言えば。博麗の巫女が調伏に失敗した場合、そこに博麗の社が出来るのだ。血に染まった儀礼刀を残して……。
アリスは社に近づき、祭壇の扉を開けた。
祭壇の中には、何も無かった。
先を越されていたのだ。
「八雲……紫……」
無意識に、その名前を口にしていた。
幻想郷を創った最強の妖怪。博麗大結界の管理者。境界を操る存在。そして、アリスの友人でもある。不安定とナンセンスを好み、常に道化めいて人を煙に巻き、放たれる言葉は出鱈目で曖昧で嘘八百、真実と幻想の間で四六時中綱渡りをしているような女。
これでいよいよ確信が強まった。アリスの行為は、八雲紫の弱点を的確に突いている。だからこそ、紫が妨害をしてくるのだ。
そう思ってみれば。地下の古城で遭遇したあの頭足類や、花果山の汚らわしい猿など、まさに紫好みの「生理的に悍ましい」化け物共である。
そして、今まさに襲い来る者も、きっと。
横っ飛びに避けると、直前まで居た場所で爆発が起こった。いつも嗅いでいる火薬の匂い。
カンテラを掲げ、背後から近づいた攻撃者の方へ顔を向ける。
砂利を踏みしめる音。
カンテラの放つ炎の輝きの中、ぬらりとそれは現れた。
そいつの姿を見た途端、アリスは呻いた。頭部を鈍器で殴られたような衝撃を感じ、意識が飛びそうになる。胃液が逆流して、胸が業火に焼かれるよう。あまりの嫌悪感に、視界が定まらなくなり、そいつの悍ましい姿が右へ左へ、節操無く揺れ動いた。
「……うふふ。何を動揺しているのかしら?」
更に不快なことに、そいつは言葉を放った。
聞き覚えのある声。
当然だ。自分の声なのだから。
金色の髪と瞳、頭に巻いた青いリボン、フリルの付いた白い服に青い吊りスカート。そして手にした「グリモワール」。
そいつは、かつてのアリスの姿をしていた。同じ顔に同じ服、同じ声に同じ表情。唯一違うのは、その周りに剣や斧などで武装した上海人形達を侍らせていることだ。
「ゆ、紫……よくも、こんな……、こんな……」
さらに強まる、脳を直接揺さぶられるような激しい目眩。耳鳴りの大オーケストラ。目の前にはバチバチと火花が散り始め、視界がホワイトアウトしてゆく。アリスの足は自重を支えられないほど弱り、膝を折り地面に手を付いてしまう。呼吸は過ぎて酸素を取り込むことが出来ずに、全身の細胞一つ一つが悲鳴を上げ、体が小刻みに震え始めた。
単なる嫌悪感だけではない。敵の攻撃だ。既に術中に嵌ってしまっていたらしい。
「私を偽物だと思う? なら、幻視してみれば? したって無駄だろうけど。だって私は本物のアリスだもの」
張り付いたような笑みを浮かべながら、そいつが手を差し伸べると、上海人形達がアリスに向かって殺到する。
よろめく手足を何とか動かし、アリスは地面を転がって伏せた。突撃した上海人形達はカンテラに激突して爆発し、炎で焼かれた人形たちの苦悶の表情が、四散し転がった物言わぬ首に張り付いていた。
揺れる視界を気力で制し、アリスは敵を睨みつけた。
そいつは嘲笑うようにして、傍らに侍る人形を無意味に爆発させた。
「なあに? その顔は」
次々と爆発してゆく人形達。従順に佇むその姿はしかし、アリスには怯え助けを求めている様に見えた。
爆影の中に、狂気に狩られた少女の笑みが鮮やかに浮かび上がる。
「気に入らない? でも、あんたもやっていることじゃないのさ」
そうかもしれない。
そうであったのかもしれない。
しかし、アリスは狂女のその行為を鼻で笑った。
「私はあんたみたいに下品で不器用じゃあないわ。私の美しい人形だったら、そのくらいの爆発、平気で耐えている」
金色に濁った瞳を睨みつけながら言い放つ。
「さすが私、減らず口も一級だわ!」
狂った少女はタガが外れたかのように声を上げ、ひとしきり笑った。
「あんたは、私じゃあない」こんな悍ましい化け物が、この美しき世界に存在していて良いはずがないのだ。「紫が創った偽物だ。狂った化け物の幻影だ」
「くっ、ふふふ」腹を押さえて、心底楽しげに。「これを見ても、そう言えるかしら?」
狂女は恐るべきあの「グリモワール」を開き、呪文を唱え始めた。聞き覚えのある旋律。七色の音階、これは……、
「そうよ。私達が見つけた、究極の魔法」
詠唱が進むにつれて、狂った少女の髪が七色に輝き始める。間違いない、あの魔法だ、アリスは確信した。
「馬鹿な、なんでそれを紫が……」
「あはは、だから言ったでしょう、私は本物のアリスだよ、アリス・マーガトロイド」その細く白い指先でアリスを指す。「偽物はあんたのほうだわ」
「何……?」
「私はあるべき姿のアリスだわ。魔法の国の死の少女アリス。でもあんたは? 今のあんたは、父親の妄執に囚われた、只のしがない人形使いじゃないか」
虹色の髪をした少女は、アリスの手をグリグリと踏みにじりながら言う。
「魔法使いとしても未熟者、人形師としても父親を超えられない。無様に惑い、叶いっこないユメを追いかけるだけ」
人を貶し、傷つける事に快楽を見出しているのだろうか、恍惚の表情を浮かべながら少女は言う。その姿はまさに、かつての自分そのものだった、
「諦めなさい、あんたの前に、二度と白兎はやってこないよ」
「くっ……」
アリスは呻いた。
狂った少女の言葉は、的を射ていたからだ。アリスは反論の術を持たなかった。それは、心の奥底で確かに感じていた焦り、劣等感だった。アリスはまだ、何者でもない。大地に根付かぬ根無し草、妄想の国を彷徨う異邦人、帰るべき場所を探し求める迷い子。体は大人になっても、力は他者を凌駕しても、人である事を捨ててさえ、それは変わらなかったのだ。
「半端者には半端な死がお似合いだわ、偽物のアリスちゃん」
いまや全身虹色に輝いている少女は、その手を眼下のアリスの方へ向け、究極の魔法を放つべく、指先に七色の死の旋律を凝縮する。
その時、胸の間に隠れていた上海が飛び出し、狂った少女の鼻っ面を、手にした小さな剣で切りつけた。
一瞬の出来事で、少女も不意を突かれたようだ、仏蘭西人形のように整ったそのあどけない顔に、真一文字、血傷が走った。狂った少女は怯み、一歩下がって呻いた。
「こいつ!」
アリス自身が弱っていたからだろう、上海の動きが遅れ、狂った少女の手の内に捕まってしまう。
少女は上海を右手でぎりぎりと締め上げ、上海の部品が破損する、悲鳴にも似た音が、洞窟内に無慈悲に響き渡った。
「上海!」
アリスは、絶叫した。
「あはははっ、パパの創ったお人形がそんなに愛おしいのかしら?」
狂った少女は、上海もてあそぶように手の内で握りしめ、苦しげな上海の表情と歯噛みするアリスを交互に見ては笑った。
「あんたの迷いの源を、優しい私が掻き消してあげるわ!」
虹色の煌きを、上海を掴んだ右手に集中させて。
「やめなさい!」
アリスは声の限り叫んだ。かつての自分の姿をした少女と同じように、アリス自身の体からも、虹色の輝きが発せられた。あの魔法。魔界を飛び出す時に封印した、究極の美を司る七色の禁断呪文。アリスの虹は、色の狂った少女の華奢な体を弾き、その体を包む虹の膜を吹き飛ばした。
同時に振り上げた足が、仕込んだブーツの白刃が、上海を掴んだままの少女の右手首を切り落とす。
右手を落とされた少女は、失った手の先を見て、信じられない、という顔をした。そのすぐ後に、この世のものとは思えない、耳を劈く悍ましい叫び声を上げた。
アリスは、切り落とされた手首に掴まれたままの上海の、その上に覆いかぶさって、上海を隠した。
「悪あがきを!」
ボドボドと大量の血が垂れるのにも構わず、再び虹色を纏った狂女は、上海を庇うアリスに対し、容赦なく蹴りを入れた。
壊れた自動人形のように、アリスの顔と腹を狙い、執拗に蹴りを入れる。ヒステリーを起こしたのか、口元から泡を飛ばし、罵詈雑言を吐き飛ばしながら。
アリスは血を吐きながらも、その様を笑った。
「聞いてあきれるわ。その下品さで何処が魔法の国の死の少女なの、何処がアリス・マーガトロイドだって言うの」
血を失い顔色に青みを増した虹色の少女は、その言葉を聞くと、ピタリと止まった。大きく肩で息をすると、微笑を浮かべた。
「そうね。でもそれは、あんたが心配することじゃないのよ」本当に自分の声かと疑う程の、この上なく冷たい声で少女は言い放った。「あんたはここで死ぬんだからね」
狂った少女は、アリスに止めを刺すべく、虹色の煌きを残った左手に集中させた。煌きは集まり、凝縮し、実体を持った一振りの剣を形作った。
「今度こそ、さようなら、アリス」
少女がそう言って虹剣を振りかぶった瞬間、その頭にボウガンの矢が突き立った。
「あ?」
少女は、何が起こったのか分からない、という顔をした。頭に刺さった矢を引き抜こうとしたのか、手先を失った右腕を頭へやる。途端、だらりと鼻血を流して、少女は卒倒した。剣が落ちる、がぁらんという音が、虚しく響いた。
アリスはしばらく呆然として、倒れた少女を見ていた。虹色の輝きは次第に失せていった。死んだのだろう。落ちた剣も魔力を失い、溶けるように消えた。
ボウガンの矢が放たれた先を見やると、そこに立っていたのは、見たことのない女性だった。
肩にかかる程の流れるような金髪に、瑪瑙色に煌めく瞳。尖った耳を持ち、首元には上品なスカーフを巻いている。どことなくオリエンタルな服装をまとった美しい、しかし無表情な女性。アリスの折り畳み式ボウガンを右手に構え、左手にはなぜか花束を持っている。
「危なかったわね」
女性はボウガンを下ろしながら言った。その声には、聞き覚えがあった。
「貴女は、あの時の……橋姫か」
以前、魔理沙をけしかけた時に道を阻んだ、地上と地底を結ぶ道に掛かる橋の守り神。名は水橋パルスィ。嫉妬心を支配する能力の持ち主だと言う。
「上流からこれが流れてきて、何かと思って来てみたのだけれど。これ、貴女の?」
「え、ええ」
パルスィはアリスを抱き起こして座らせると、そのそばにボウガンをそっと置いた。
アリスの額にパルスィ手を当てると、耳鳴りと目眩が消え、なんとか手足を思い通りに動かせるまでに回復した。嫉妬心を支配する能力を応用すれば、脳内物質の操作もできるのだろうか。
パチン、と指を鳴らすパルスィ。緑色の優しい光を放つ蛍達が集まって来て、アリス達の周りをくるくると回った。洞窟内の仄かな明かりは、この子達とお陰だったようだ。
「その人形、なんとかなりそう?」
「ええ……上海は丈夫だわ」
蛍光の中、上海の具合を見たアリスは、ホッと胸を撫で下ろしながら言った。外側はかなり損傷しているが、内部機構は生き残っている。
しかし、いくら丈夫な上海とはいえ、究極魔法を食らってただで済むわけはない。今すぐに手当をしたいが、ソーイングセットや予備パーツは塩水でやられている。地獄の旧都で調達出来るはずもない。今は撤退するしかなかった。折角ここまで来たのに、調査の道半ばで引き返すことになろうとは。すべては自分が迂闊だったからだ。アリスは自分を責めた。
「帰るのなら、送るわ。アリス」
パルスィは立ち上がりながら言った。
「なぜ、私の事を?」
「なぜ? 馬鹿を言わないでよ」パルスィはニコリともせずに言う。「魔界の姫、魔法の国の死の少女を、地底の私達が知らないとでも思ったのかしら」
「そう……」
アリスは目を伏せた。
余り思い出したくない思い出だった。幻想郷に迷い込んだ当初、アリスは魔界で暮らしていたことがある。その時に魔神に師事し魔法を修め、人間を捨てた。元々、妄想の世界を彷徨い続け、人間であるかどうかも疑わしかった身だ。そのことに迷いは無かった。しかし、魔界に元人間の少女がいるのは珍しかったようで、なにかとちょっかいを出されることが多く、その都度、実力で叩きのめしてきた過去がある。そのときに付いた渾名が「死の少女」であった。
「魔界には戻らないほうがいいわ。今の貴女じゃ、殺されるだけでしょう。こんなモノに頼っているようでは」
ボウガンに目を落としながら、パルスィは言う。
「力は、今のほうが強いわ」
それは、アリスの精一杯の強がりだった。
「心はどうかしら」アリスの心を見透かしたようにパルスィは言う。「昔の貴女の伝説が本当なら、あんな幻影にやられるわけがないわ」
パルスィが指し示す方には、かつてのアリスの姿をした少女の死体がある。
いや。いつの間にかその姿は、牛馬ほどの大きさもある、翼を持った緑色の水蛇の姿に変わっている。
「あれが私に幻影をかけていたのか。それでも、まったく本物と遜色がない力だったわ。地底には怖ろしい化け物がいるのね……」
「あれは私が仕掛けた罠よ」
「えっ?」
驚いてパルスィを見やる。
相変わらず、パルスィは無表情だった。
「あの社を守るために、私が仕掛けたのよ。あの祭殿に近づくと発動するように仕掛けたの。近づいた者の最も嫉妬している相手の姿に変身するのよ」
その話を聞いて、アリスは複雑に思った。
罠を仕掛けたパルスィに対する怒りからではない。
自分自身が、かつての自分に対して嫉妬を抱いていたなどとは……。確かに、あの頃は何も考えず、手に入れた力に溺れているだけで良かった。魔界での生活は楽しかったし、充実もしていた。少なくとも、妄想の国をさまよっていたあの頃よりは。
しかし、アリスは思う。自分の過去は嫉妬するものではないと。憧れるものでもないと。
今はもう、ただ無邪気に力を振るっていたあの頃とは違う。アリスにとって、過去は今の自分を形作る重要な足跡だが、出来れば目を逸らしたいものでもあった。あの頃の自分は、正気を失っていたから。
「でも、ちょっと脅かして、祭壇に近寄らせないようにするだけのつもりだったのだけれど……そこまで危害を加える気はなかったのよ。謝るわ」
パルスィは頭を下げた。相変わらず、無表情だったが。
つまり、とアリスは脱線しかけた思考を遮った。
溜息を一つ吐く。
「……社の中には、何があるの?」
アリスも立ち上がって聞いた。
返事は、聞く前から分かっていた。
「儀礼刀よ」
答えた瞳は、無表情。
ああ、そうかとアリスは思った。この人は、自分に似ているのだ。それは、容姿や仕草ではなかった。
「そうだ。帰る前に、お参りをしていっていいかしら」
「ええ」
パルスィは社の前に行くと、手にした花束をその下に備え、しゃがみこんで手を合わせた。初めて表情を変え、辛そうに、少し涙を滲ませていた。
「花束を供えていたのは、貴女だったのね」
「ええ。昔……ここで、友達が亡くなったの。いい奴だったのに……」
アリスもしゃがみ、一緒に手を合わせた。
「お墓も無いから、ここがお墓代わり。本当は間違ってるんでしょうけど」
「いいえ。正しいわ。どんな形であれ、祈る心が供養になるって、知り合いの巫女が言ってた。魔術的観点から言ってもそうよ。人は二度死ぬ。体が死んだ時と、そして大切な人に忘れられた時に」
「……ふふ、ありがとう」
少しはにかんだように笑うパルスィ。美しい。普段無表情な分だけ、笑った時により際立つ。緑の蛍に囲まれた、異国の地の姫君。なるほど、確かにパルスィには嫉妬心を支配する能力があった。アリスの胸の内にも、なんだかもやもやしたものが生まれてしまったから。
パルスィは社に供えられた花束のうち、古くなってしまったものを回収し、社に積もった埃を払った。
おそらく定期的に手入れをされているであろう灯籠は、それでも苔で斑になっている。それが指し示す事実は、一つしかない。
「そのお友達……私、名前、知ってるわ」
アリスが切りだすと、パルスィは少し驚いたように言った。
「えっ。でも、かなり昔のことよ?」
しかし、きっと彼女も答えを予感をしていたことだろう。
「博麗、でしょ」
アリスがその言葉を発すると、パルスィは無表情に戻ってしまった。
それは、アリスには悲しんでいるように見えた。
「そう。アリス、貴女も、探索者なのね」
「貴女も、そうだったのね」
パルスィは虚空を見上げる。
蛍舞う幻想的な中空に、昔の情景を見出しているのだろうか。
「昔……本当に昔。旧地獄が幻想郷に併合されたころ、私も探索者だった」
「ま、待って。今、なんて?」
驚いて、アリスは話を切った。
「へ、併合?」
パルスィは意外そうな顔をする。
「そこまでは知らなかったのね。幻想郷は他の妖怪勢力をその土地ごと吸収することで、領土を拡げて来たのよ。最近の紅魔館や山の上の神社、噂の聖人が造った神霊廟なんかもそうでしょう?」
「なんてこと……」
アリスは絶句した。
「それが幻想郷に張られた『幻と実体の境界』の力なのよ。土地の境界すら曖昧にしてしまう」
パルスィの話に、アリスは肌が粟立つのを感じた。八雲紫の力は予想を遥かに上回っていた。大地の接合、従属、支配など、正に神にも匹敵する力だ。
「そして」パルスィは話を続ける。「異なる文化を持つ勢力同士が出逢えば、必ずそこに摩擦が起きる。それを解決するのが、博麗の巫女というわけ」
それは、アリスも予想していたことだ。
「お友達の博麗の巫女は、地底の異変解決に失敗したのね」
パルスィは涙を堪えるように目を細めた。
「ええ……」
何代前かは分からないが、その巫女は地底の併合という大異変に立ち向かったものの、力敵わず、調伏を果たせなかったのだろう。そしておそらく、異変解決に失敗した巫女は、儀礼刀によって……。
「私が調べたのは、それだけ」
「貴女はこの幻想郷の在り方に疑問を持たなかったの? そんな、継ぎ接ぎだらけの世界に」
アリスは責めるように言ったが、パルスィは首を振った。
「いいえ。それでも私達が、此処以外の居場所を亡くしてしまったのは事実だもの。今の私が出来ることは、地底と地上の交流に祝福を与えることだけよ」
「貴女の友達は、死んでいるのよ」
「彼女は戦ったのよ。自分の居場所を守るために、自分の意志で。そして命を賭して守ったの。それは、立派なことだわ」
アリスは唇を噛んだ。
狂っている、とは言えなかった。守り戦う、それもまた、人の営みの一つだろう。
神霊廟で見た、人々が造った高い城壁。自分たちの営みを阻害するものが現れれば、平穏な街に暮らすあの人々も、剣を手に戦うだろう。いや、豊聡耳神子は、それを見越して城壁を造らせたようにも思える……。あの城壁は、まったく使用されることが無くても、修復と整備がされ続けている。戦うことで、人は人であることが出来るとも言えるのかもしれない。
しかし。
「そうね。それは立派なことだわ。でも私は、探索を止めない。貴女のようには、ならないわ」
アリスは、パルスィを拒絶した。
アリスには帰るべき場所があるのだ。根無し草は、地に落ちなければ根を張れない。迷い子は家に帰る、それがあるべき正しい道のはずだ。
「そう」
パルスィは声を落として言った。しかし、それでもどこか、嬉しそうだった。
アリス達は怪我をした上海に包帯を巻いてポシェットに入れ、岸辺を歩いて、大きな橋の袂までやってきた。
パルスィが守護する、地底と地上とを繋ぐ風穴から続く深道の終わりにある橋だ。朱塗りの見事な欄干を持ち、ゆるいアーチを描いている。幾つもの橋脚を持ち、その全てに精巧な百鬼夜行の彫り細工が施されていた。全長はどのくらいあるのだろうか、遠目には五百間以上あるようにも見える。地上では類を見ない大きさだ。仄かな緑光の中にぼんやりと浮かぶその姿は、見るものに威厳を感じさせる。手放しで美しい。きっと名のある名工が創ったに違いない。
脇に設置された階段を登って、橋の入口までやってくると、パルスィは立ち止まった。
橋を通って旧都へ行くか、風穴を通って地上へ戻るかの分かれ道。
今は、選択の余地は無い。
「ここまでね」
「助かったわ」
「いいえ、私が撒いた種だし。私のほうこそ、ごめんなさい」
パルスィはまた頭を下げた。
「お詫びにもう一つ、情報をあげる。さっき思い出したんだけれど」パルスィはやはり無表情のまま。「私の調べた限り、一番最初に幻想郷へ併合された土地は、魔法の森よ」
「魔法の森……」
あの古城のあった洞窟。アリスは思い返した。魔法を無効化するトラップが仕掛けられている辺り、ただの遺跡ではないとアリスも感じていた。魔理沙が頭突きしたあの閉ざされた扉の中には、何が眠っているのだろうか。
「まだ探索を続けるつもりなら、調べてみたらいいわ。何か手掛かりがあるかもしれない。でも、気を付けなさい。幻想郷の賢者達は、探索者の存在を快く思わない」
「ふふ。知ってるわ。心配はいらない」
アリスは胸元の人参のペンダントに手をやった。
パルスィはそれを見ると、得心がいったように嘆息した。
「良かったら、最後に一つ、質問をしたいのだけれど」
「別に、いいわよ」
「なぜ、そんな武器に頼るのかしら」アリスの手の中にあるボウガンを指さしながら、パルスィは尋ねる。「あの魔神に師事していた貴女なら、いくらでも強い魔法を使えるでしょうに」
アリスは首を振った。
「そんなの簡単よ。私はね、人間に戻るために探索をしているの」
「人間、か」
「そうよ。だから私は、この探索の間は人間として戦う。魔法は使わない。ま、たまに空くらい飛んじゃったりするけど、それはいいでしょ。あの霊夢とか魔理沙とかもやってるしね」
パルスィは、ふふっ、と声を上げて笑った。
「可愛いわね。まったく、妬ましいわ」
「貴女に言われたくないわよ」
つい憎まれ口が出てしまう。橋姫に嫉妬心を煽られているのだろうか、そうに違いない。
「前へ進む力を持っている貴女には、この死んだ都は似合わないわね。貴女は既に人間だわ。幻想は、夢は見ない。私はここから離れるわけにはいかないけれど、せめてここから、貴女の夢が叶うように、祈らせてもらうわ。貴女の前途に、祝福を」
パルスィは別れの言葉を口にすると、緑色に光る蛍達とともに、長い橋の向こう側へと歩いて行った。
小さくなるその背に、アリスはそっとつぶやいた。
「ありがとう」
風穴の中を登る間、アリスは思考する。
パルスィは、罠を仕掛けたのは自分だと言った。
だが、明らかにあの怪物は、敵意以上のものを持ってアリスを迎えた。そしてその姿は、アリスが目を逸らしたいと思っている、過去の自分の姿をしていた。人の嫌がることをするのがあの化け物に与えられた能力だったのだ。無意味に人形達を爆発させたことや、封印した虹色の魔法を使ったことがそうだ。
アリスの確信は揺るがない。あれは、八雲紫の仕業だ。あんな悪趣味は、紫以外では考えられない。
あれは、アリスが地底へ行くと確信した上で紫が仕掛けた罠だったのだ。博麗の儀礼刀が社の中に無かったのが、その証左だった。おそらく紫は、パルスィの仕掛けをより攻撃的に、より悍ましく改造したのだろう。アリスに警告を与えるために。
「紫……この借しは、高くつくわよ」
上海を傷つけてくれた礼はきっちりさせてもらう。アリスはそう心に誓った。