七色の探索者   作:チャーシューメン

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 実はこの小説は東方キャラを出来るだけ可愛く書くという目的しかありません。
 話の筋なんてあったもんじゃ無いんです。すいません。




愚鈍なる賢者

 その人形師、名前をアリス・マーガトロイドと言った。

 普段は魔法の森の中に住んでいるようだが、頻繁に人里にやって来ては、子供達に人形劇を披露する。元人間であるから、歴とした妖怪、幻想の中の魔女となっても、人間との繋がりを断ち切れないのだろう。知り合いの骨董屋はそう評価していた。その点、その言葉を発した半妖の骨董屋自身や、幻想に片足を突っ込んではしゃぐ彼の妹分霧雨魔理沙、そして幻想それ自体である、他ならぬ自分自身とも似ている。だから、普段は決して人当たりのよくないアリスのことも、嫌いではなかった。ある種の共感を持てるのだ。

 昼休みの休憩中、叩かれた戸を開いた先にその人形師が立っているのを見ても、笑顔を崩さなかったのはそういう理由だ。

「何よ、気持ち悪いわね」

 西洋人形のように整ったその面からは、辛辣で容赦のない言葉が吐かれる。誰にでも平等に刺々しいその態度は、逆に好感が持てるというものだ。

「会うなりそれか。相変わらずだな」

 苦笑しながらそう言うと、アリスはしれっと言ってのけた。

「思ったことを口に出しただけよ。仕方ないじゃない、根が正直なんだから」

 ……普段は決して、人当たりは良くない。

「何の用だ」

「貴女が呼び出しておいて、何の用だもないでしょう」

「そうだったか?」

「呆けるにはまだ早いわよ、慧音」

 降神によって半人となった自らの身の上は、元人間の魔女アリス・マーガトロイドのそれと重なる。

 慧音が寺子屋の中へ招くと、アリスは黙ってそれに従った。不機嫌そうな表情を顔に貼り付けているが、それはアリスのニュートラルだ。「以前、道に迷った旅人を泊めてやったとき、精一杯にこやかにもてなしてやったのに、陰気で不気味で恐ろしいって言われたわ。ちょっと泣きそうなんだけど」酒宴の席でアリスがそう洩らしていたのを思い出して、慧音はクスリと笑みをこぼした。

「何笑ってるのよ、気持ち悪いわね」

「いや、かわいいなと思ってな」

「かわいい? 私が? 何言ってるの、そんなの当然じゃない。まさか、本当に呆けたの?」

「その減ら口がなければ尚更なんだがな」

 卓袱台の上には、先程まで行っていた学業試験の採点作業が中途半端のままで放り出されている。慧音は試験紙や採点用具を隅に追いやって席に座り、アリスには向いの席を示した。

「おや? いつも持っていた本はどうした」

「ーー今は必要無いから、置いてきたわ」

「そういえば、文が探していたぞ。何かやらかしたのか?」

 射命丸文は、高位妖怪の天狗の中でも一際強い力を持つくせに重役に就かず、気ままに人里に出入りする、変わり者の妖怪である。新聞記者であるから当然なのかもしれないが、下らないゴシップが大好きで、お家芸とも言えるその突撃取材という名の無差別破壊行為には、慧音も閉口している。

「ちょっと前、妖怪の山に登ったのよ。それを根に持ってるんでしょ、天狗にアポ取らなかったって。知るかってのよ、そんなの」

 アリスは煎餅みたいに薄い座布団の上で足を伸ばす。処女雪ように細く白い足が、少しはだけたスカートの裾から露わになる。同性とはいえ、つい目が行ってしまう。アリスの容姿は性や生を超越した美しさを匂わせる。並の人間ならば、空恐ろしいと感じる程に。

「この畳って奴、どうにも好きになれないわ。直に座るには固すぎるし、椅子を置くには柔すぎるのよね」

 十二分に弛緩した表情をしながら文句を言う。この娘は自分をポーカーフェイスだと勘違いしている節がある。

「昼食は?」

 慧音が聞くと、アリスは首を振った。

「そういうあんたは?」

「まだだ。もうすぐ届くころだが、一緒にどうだ?」

「ものにも寄るわね」

「今度、その減らず口を弾幕に応用してみたらどうだ」

 慧音がそう言ったとき、丁度、寺子屋の職員室の戸が叩かれた。

「あいてるよ」

 入ってきたのは、言うまでもなく。

「慧音、弁当……って、なんだ、人形師も居たのか」

 もんぺに軍手にほっかむり、いかにも今まで農作業をしていたという出で立ちの、藤原妹紅。服は泥で汚れ、頰には幾つも擦り傷を作っているというのに、輝くような笑顔を見せる。

 色褪せたほっかむりを取ると、錦糸の如き銀髪が微風を含み、ふわりと柔らかく広がる。その髪一つ一つが神秘の宝物のように、窓から差し込む真昼の陽射しを反射して煌めく。身なりは薄汚れても、品の良さは隠せない。妹紅は野に咲く薔薇だ。

 どっか、と風呂敷に包んだ重箱を卓袱台の上に置く。

「丁度良い、今日は少し作り過ぎちゃったんだ、お前も食べて行けよ」

 ガサツな言葉使いとは対照的に、妹紅の声は細く高い。

「今日は茗荷のいい奴が手に入ってさあ。それで炊き込みご飯を作ってみたんだ」

 そそくさと重箱の蓋を取りにかかる妹紅。心底楽しそうだ。慧音と出会った頃の妹紅は死んだ魚のような目をしていたものだが、人は変われば変わるものである。

 開かれた重箱の中には、妹紅自慢の五目飯で作ったお結びが並ぶ。ほのかな醤油色をした五目飯は、隠元や牛蒡などの具をたっぷりと含んで、見た目にも色鮮やかだ。作りたてなのだろうか、湯気と一緒に茗荷の爽やかな香りが立つ。重箱の別の段には、これまた妹紅お得意の甘い卵焼きと、迷いの竹林の竹炭で焼いた雉肉の串焼き、そして河童連中からせしめたのだろうか、胡瓜と蕪のお新香が盛られている。確かに、二人で食べるには少々量が多い。

「汚らしいわねぇ。田舎の料理ってのは、どうしてこうも土気色なのかしら」

 憎まれ口を叩くアリス。

「ああ?」

 楽しい気分に水を差されて本気で腹を立てたのか、妹紅は声を荒げた。

「嫌なら食うんじゃねーよ」

「別に嫌いだとは言ってないわ」

 スッ、と取り出したるマイ箸を誰よりも早く構える、準備万端のアリス。流石の妹紅も怒る気を失くして、ケラケラと珠が転がるように笑った。

 食事というものは、人間にとって重要な意味を持つ。活力を得るためや快楽のためだけではない。ある種の儀式的要素も含んでいる。一つの食卓を囲むと言うことは、相手を自分のテリトリーに迎え入れるという事であり、愛情や友好の印でもある。定期的に食卓を囲む事は、だから人間にとって重視されるべき行事であり、それが遂行されない家庭は十中八九、崩壊する。それが慧音の持論である。

 人間の生活を続ける慧音たち人外も、それは変わらない。美味いものを一緒に喰えば、あらゆるわだかまりも融解するというもの。

「見た目の田舎臭さの割には、上品な味付けじゃない」

 卵焼きを箸でつまみ上げながら、アリスは言う。

「分かってるじゃねーか。やっば卵焼きは甘くなきゃな」

 アリスの減らず口に妹紅が一々目くじらを立てなくなったのも、食卓を囲む事で生まれる連帯感のおかげだろうか。

 弁当はかなりの量があったのだが、結局、三人でペロリと平らげてしまった。……と言うより、ほとんどアリスと妹紅で食べたのだった。この二人、華奢な体をしている割に、食は太い。食べても太らないというのは妬ましい限りである。人生というのは不平等に出来ているのだ。

 妹紅は空になった重箱を見て、満足げに茶を啜った。今日のは会心の出来だったようだ。料理は妹紅の趣味の一つで、時々、祭りなどで屋台を出す程の腕前を持っている。

「で? 悩み事は何かしら?」

 湯呑みを片手に、アリスが慧音に言う。その顔はいつもの仏頂面に戻っていた。

「何故悩みがあると思うんだ?」

「牛女の癖に、食がやけに細かったじゃない」

「嫌味符『毒舌仏蘭西人形』とかどうだ? お前の新スペルカード」

「冗談じゃなくて」その無表情は唯の仏頂面ではなく、真剣故なのだと気付いた。「あんた、一目で分かるほど、やつれてるわよ」

 ハッ、として顔に手をやる。荒れた肌と少しこけた頬、枝毛混じりの髪。自分でも分かる程に。きっと目の下には隈も出来ているだろう。

「そこの蓬莱人の気遣いを無駄にしないほうがいいわ」

 アリスの言う通り。妹紅が弁当を必要以上に多く作って来たのは、少しでも多く慧音に食べさせたかったからだろう。結局、慧音はあまり箸を付けることが出来なかったが……。

「何か私に頼みたい事があるんでしょう」

「うむ」

 慧音は小さく溜め息を吐いた。自らの不甲斐なさを恥じたのだ。自己管理すら出来ないようでは、人里の守護など、とても出来はしない。

「実はな」

 事件それ自体は、幻想郷では良くある事だった。人の失踪、即ち、神隠しである。

 神隠しは一般に人身売買や口減しの言い訳として使われる事が多いが、それと同じくらいの割合で、妖怪による誘拐、食害も含んでいる。しかし、各勢力の力関係が拮抗し安定した現在の幻想郷では、人里と不可侵条約を結ぶ妖怪達も多い。条約は、人間にとっては妖怪による無差別の被害を軽減出来、妖怪にとっては自分達の支配領域を人間の開発から守り、さらには人間達に自分達の存在とその恐ろしさを認めさせるという、一石三鳥の効果がある。条約を締結している主な妖怪と言えば、妖怪の山の天狗や河童などが挙げられる。河童の一部が人間の事を盟友などと呼ぶのは、そういう背景もあるのだ。

 だから、無秩序だった昔に比べ、今の幻想郷では、妖怪による神隠しは激減している。無秩序に神隠しを起こす妖怪は、勢力に属さない一匹狼か、それ程の知能を有さない原始的な妖怪、もしくは極一部の跳ねっ返りくらいなのだ。

 今回の事件の特殊性として、まず一つに、短い期間中に連続して発生している点が挙げられる。通常、条約を締結するような妖怪が神隠しをする際、人里への警告と脅迫を目的に行われる。例えば、自分達の縄張りを侵犯した事に対する警告だとか、行き過ぎた開発を止めさせるための人質などである。そのような目的を持って行われる、妖怪達の政治活動としての神隠しは、連続して発生することはない。彼らの目的は人間を怖れさせる事であり、行き過ぎた活動は怖れよりも敵意を生むことを知っているからである。幻想郷の妖怪は、人間と本気で戦争をしようとは考えない。人間が居なければ、妖怪も存在出来ないからだ。人間を滅ぼして一番困るのは、妖怪自身なのである。

 では野良妖怪や一部の跳ねっ返り達の仕業かと言うと、その可能性も低い。一般に人間というのは一個の弱小妖怪にとって高栄養価すぎ、連続して食害出来ないものなのだ。さらに大きな理由として、条約によって成り立つ秩序を乱されて一番困るのも、妖怪である点が挙げられる。前述の通り、妖怪による神隠しとは、一種の政治活動であり、一定の統制の下に行われるものだ。その統制が破られれば条約は破綻するだろうし、妖怪達の主張も通らなくなる。人間との戦争の危険も増す。だから、必要以上に混乱を招く行動をとる妖怪は、妖怪自身の手によって速やかに排除される。妖怪の山の哨戒天狗などは、実はその役割も負っている。

 特殊性の第二は、その神隠しが昼間、太陽の輝く間に多く行われている点だ。一般に妖怪は夜を好む。夜の暗さは人間の恐怖心をより煽ることが出来るし、さらに重大な理由として、妖怪の妖力の源である月が出ているからだ。月の無い昼に活発な活動を行えるのは、人間の近くに暮らす人に近い比較的無害な妖怪か、強力な妖力を蓄えた妖怪だけだ。

 第三の特殊性としてーーそしてこれが最も厄介であるのだがーーこの神隠しは時と場所を選ばないということだ。夜の森の中や川縁などの危険な場所ではなく、文字通り人里の中心にいた人間が忽然と消え失せてしまうのだ。今まで目の前にいた人間が、ほんの一瞬、目を離した隙に消えていた例も報告されている。並の妖怪の出来る事ではない。

「なら、紫でしょう」アリスは直ぐさま断言する。「そんな事が出来るのは、紫以外に居ないわ。何と言っても、神隠しの主犯だからね」

「だが八雲殿には、動機が無い」

「あんな何考えてるか分からないような奴の動機を考えたって無駄よ。どうせ楽しいからとか、そんなんでしょ」

「確かに、事件現場周辺では八雲紫らしき人物の目撃例もあるんだよな」妹紅が頬杖つきながらいう。「だけどな、多分、違うと思う。八雲紫じゃあないよ」

「何でそんな事分かるのよ」

「勘だよ、勘」欠伸をしながら、面倒臭そうに言う。「お前みたいに若い奴には分からないかもしれないけど、長く生きてると、分かるんだよ。これは八雲紫のルールじゃあない」

「ルール? 何よ、それ」

「人間てな多かれ少なかれルールに縛られて生きてるもんだ。妖怪もそう。長く生き強い力を手にして、誰にも束縛されなくなっちまった妖怪は、今度は己で課した制約に縛られるようになるんだよ。あの八雲紫がこんな分かりやすい痕跡を残す事を良しとするかいな」

「そういうものかしら」

「お前もその内、分かるようになるさ」

 千年以上前の姫君であった妹紅の口から語られるその言葉は、さしもの毒舌アリスも反論を諦める程の説得力がある。理論は、良く分からないが。

「八雲殿が犯人ではない事は、私も同意見だ。何と言っても、霊夢が居るしな。ちょっかいを出すなら、先にそちらだろう」

 八雲紫は博麗霊夢の後見人でもある。

「なら天狗かなんかの仕業でしょ。誘拐なんてあいつらの十八番じゃない」アリスは脳を止めた様に惚けた顔で言った。「あの下らないゴシップ新聞書くあいつ、射命丸文ならできるでしょ。幻想郷一の疾さがご自慢なんだからさ。文字通り、人間の目には止まらんでしょうよ」

「文はそういう事はしないよ。政治はあいつの嫌いな話題だ。あいつなら、もっと低俗で卑猥でしょうもないことをやらかすだろう」

 アリスは何か言いたげに口角をキュッと上げた。が、何も言わなかった。

 妹紅は茶を一つ啜ると、口を開けた。

「まあ、天狗も一枚岩じゃないだろうしな。アリスの言うとおり、文の他の、所謂、天狗連の政治屋連中が今回の事件に噛んでいる可能性もある。むしろ文がいるから、そういう事が起こりそうな気がする」

「何故だ、妹紅」

「決まってら。出る杭を打つ為だろうよ」

 ブスっ、とデザートのよもぎ団子を串刺しながら言う。

 アリスがクスクスと鈴が鳴る様に笑った。

「存外、怖いのね。平安の姫君の物の見方っていうのは。物騒なくらい鋭いじゃない」

「待て」慧音は両手を開いて二人を制した。「決めつけて掛るのは危険だ、視野を狭くする」

「じゃあ、一体誰がやってるって言うのよ」

「分からん」

「分からんて、あんた」

「分からんから、こうしてお前を呼んだんだろう」

「忘れてたくせして良く言うわ」

「兎に角。今、人里は神隠しの脅威にさらされている。対応に協力してくれないか」

「何をやれって言うのよ」

「今は警備を増やす以外の対応が思い付かない。何か良い案を出して貰えると有難い。単純に警備シフトに入ってくれるだけでも助かる」

「嫌よ」

「そうか。お前ならそう言ってくれると思っていたよ」

 慧音には確信があった。アリスは人里で子ども達に人形劇を披露するのが日課だ。口には決して出さないが、相当の子ども好きである。人里で問題が起これば、必ず力を貸してくれるはずだ。魔理沙と一緒に度々異変解決に出向くのも、

「嫌ぁ?」

 あまりに予想外過ぎて、慧音の声が裏返った。

「そりゃそうでしょう。私にメリット無いじゃない」

 茶を啜りながら、アリスはしれっと言い放った。

 信じられなかった。アリスは紛れもない妖と言えど、元々は人間である。里の人間にも友好的で、過去には人里で起こった事件解決に奔走してくれたこともあった。魔理沙と一緒に度々異変解決に出向くのも、異変の影響を人里まで波及させないよう、早期解決を図るためだと信じていたのに。

「利のない話には、誰も食いつかないわ。私は忙しいのよ」

 非情にも、アリスは言う。声の調子は淡々とし、照れ隠しや嘘を吐いている風でもない。

「貴様……」

 妹紅が目を怒らせて、アリスを睨みつけている。その瞳は今にも真っ赤に燃え上がらんばかりだ。

 危険を感じた慧音は、妹紅を手で制した。

「力を貸してくれないのか、アリス」

 慧音の問いかけには答えず、アリスは立ち上がった。

「話が終わりなら、私は行くわ。ご馳走様、お弁当、美味しかったわよ」

「おい、待てよ! 薄情者!」

 妹紅が怒って吠える。慧音は妹紅の手を握り、争いにならぬよう、妹紅を抑えた。

「……意外と嘘が上手いのね、慧音。私は」怒号に答えるようにアリスは立ち止まったが、振り返ることは無かった。「真実を見て来たわ。此処を出て行くつもりよ」

 それだけ吐き捨てると、アリスは寺子屋を去って行った。金色の波が引くように、後には彼女の甘い香りだけが残った。

「あいつ、あんな非情な奴だったとは」

 妹紅は目を怒らせて、アリスの出て行った扉を睨んでいる。

「……仕方がない。人の考え方はそれぞれだからな」

 頭痛を覚えて、慧音は眉間に手を当てた。

「真実って、一体何を言っているんだ、アリス…‥」

 がらんどうの寺子屋に、蝉達の最期の大合唱だけが喧しく響いていた。

 

 

「あややや、これは珍しい、旅芸人の方とは。どうぞ一つ、お話を聞かせて頂けませんか?」

 アリスは溜め息を吐いた。喧しいのは覚悟していたが、その覚悟が揺らぎ始める程の鬱陶しさだ。

 射命丸文。

 妖怪の発行する新聞である「文文。新聞」の記者にして、妖怪の山に住む鴉天狗の一人。里に最も近い天狗の異名を持ち、人妖問わず広い顔を持つ。ネタを求めて幻想郷を所狭しと飛び回り、取材という名の迷惑行為を行い、インタビューという名の挑発行為を繰り返す、幻想郷きってのトラブルメーカーである。

「団扇を下ろしなさいな。あんたと争う気は無いわ」

 アリスはそう言って諸手を挙げた。

 射命丸文。

 鴉天狗の中でも飛び抜けた力を持つ、天狗の異端。千年天狗の異名を持つ、長い長い時を生きた妖怪。空を裂く烈風をまるで自分の手足の様に操り、その団扇の一閃は大嵐を巻き起こすと言う。かつて幻想郷を支配していた鬼達すらも恐れたという、底知れぬ実力を秘めた恐るべき女。

「おや、素直ですね。殊勝なのは良いことです。ジャジャ馬の跳ねっ返りだと聞いていましたが、なかなかどうして。聞き分けの良い子は好きですよ」

 射命丸文。

 それほどの力を持ちながら、一天狗の地位に甘んじる、巫山戯た妖怪。身分格差が激しいと言われる天狗社会にあって、剥き出しの特異点となって里を駆ける、爪を隠した鷹。

「最初に言っておくけど、私は旅芸人では無いわよ」

「なら、チンドン屋か何かですか」

「こんなに地味で質素で静かで上品で奥ゆかしくて気品溢れる美しいチンドン屋がいますか」

「十分喧しいし、十分派手な色をしていますよ、人形師さん」

 ようやく団扇を下ろしながら、射命丸は言う。気を抜くように息を吐くと、その背から伸びた二対の巨大な黒翼が、するりと解けるようにして消える。

 鉛色の曇天を背に、自身の黒い羽根の舞い乱れる中、射命丸はゆったりとした動作で地上へ降り立った。その様は、さながら堕天使。鋼嘴のように端正なその顔をするりと崩して、ニヤニヤ笑みを浮かべるその不真面目面をアリスの方に向けた。片方の高下駄で大地を抉り、もう片方の高下駄は戯けるように膝の横で揺れている。天狗特有の高足立ち、戦闘態勢を示す姿勢だ。顔はだらし無く笑っていても、油断なくアリスを警戒しているのだろう。無理もない。あまり親しくもない人間が自分の家に土足で入り込んでいるのを見れば、誰だってそうする。まして射命丸は、縄張り意識の強い、自負と自惚れだけは一人前の天狗の一人である。

 妖怪の山の山中には今、風吹き荒び、木々ざわめき、有象無象の叫び声が木霊している。低い天を覆う分厚い戦雲が渦巻き逆巻き、とぐろを巻いた龍となって飛翔し駆け抜けて行く。雨も無いというのに、パラパラと水が降り注いだ。巻き上げられた小川の水が大地に還る、その帰り道にアリスの肌理を選んだのだろうか。緑色の針葉樹の葉がちぎれ飛び、風車のようにくるくると回り乱れ飛びながら、天へと登ってゆく。荒ぶる自然を前に、まるで場違いとも思える、美しい少女が一人。首からフィルム式のカメラを下げ、楓の葉型の団扇と分厚い文花帖を手に、ニヤニヤ面に殺気を込めて立つその嘘のような、幻想のような光景。御伽噺の中の妖山。狂気の山脈。

 まともな神経の人間なら、一秒だってこんな場所には居られまい。今更ながら、自分が妖である事をアリスは実感した。そう、死線の際に立つ今この時をすら、冷静に風景観察などしている自らの精神構造にこそ、戦慄している。

「今日は良い天気ですねぇ。空も低くて、風も気持ち良い。こんな日は、空を一掴みに出来そうな気がしてきませんか」

 射命丸は紅い楓の葉の団扇でゆったりと空を扇ぐ。その度生まれ落ちる風龍の爪の閃きが、宙にばら撒かれ、触れるもの総てを捻り斬る破壊空間を形成している。それは、射命丸の戦闘半径にしては狭い。射命丸はアリスに似ているのだ。隠した爪の大きさは、アリスよりも大きいかもしれないが。

「ほらっ」

 天高く、手を掲げる射命丸。

 雲が割れ、血のように赤い夕陽が射命丸を照らしだす。

 気象をすら支配するその恐るべき力。その威圧感に、胸に抱えたグリモワールをすら重く感じる。

「こういう天気の日は、古来より絶好の日とされています。絶好の、戦日和です」

 射命丸がそう言ってにっこりと笑うのを、アリスは視界の端で捉えた。

 行く手を遮る大妖怪の、一挙手一投足を注視し警戒しなければならないこの状況。なのに、アリスの視線は射命丸の股間付近を離れる事が出来ない。嘘のように短いそのスカートが刻む激しいフラメンコを、開いたその足の、肉付きの良い太ももの、揺らめくその肌色の影を、その先を。

 射命丸が何か言って動く度に、ピクリピクリと跳ねるスカート。しかし、この強風の中でも決してめくれ上がったりせず、下着が露わになることも無い。さっき上空に居た時にも、チラリともしなかった不思議なスカート。

「前から聞きたかったんだけど、あんた達のそれ、どうなってるの?」

 アリスが射命丸の股間を指さすと、千年天狗は慌ててスカートの裾を押さえた。

「あやや、ど、どこを見てるんですか!」

 顔を赤らめて、一歩下がる。わざとらしいくらい若々しい反応だ。

「ホント鉄壁ねえ。それどうやってやってんの? 今度教えてよ。そうすれば、弾幕ごっこのとき、ドロワ履かなくて済むじゃない」

「何の話ですか、何の!」

 針葉樹の葉の乱舞の中、射命丸は団扇を脇に挟んで文化帖を開き、サラサラと万年筆を動かした。

「えーっと、里の人形師は視姦が趣味、女子の皆さんはご用心、と」

「ちょ、ちょ、ちょっと! 何意味不明な事書いてるのよ! 事実無根よ!」

「現行犯じゃないですか。流石はガチ百合の総本山」

「勝手な渾名を付けるな! 私はノーマルよ!」

「嘘おっしゃい。野獣のような眼光をして」

「誰がそんなものしますか!」

 くるりくるりと回る針葉樹の葉。天に昇るその道の最中、アリスの近くをふわりと舞ったそれは、次の瞬間、張り巡らさられた鋼鉄の極細ワイヤーによって、バラバラに切り刻まれ爆散した。

 アリスの結界である。

 それと同時、弾かれたように射命丸がアリスの方へ突っ込んで来る。文化帖も万年筆も投げ出して、砲弾すら止まったように見える程の速度で。魔法で強化した動体視力によってその姿を捉えたアリスは、右手を突き出して、前方にワイヤーの防御壁を集中させる。

 それを認めたはずの射命丸はしかし、そのままの速度で防御壁に突っ込んだ。

 すわ、射命丸の五体がバラバラに四散する……その寸前、射命丸の姿がどろりと溶けて中空に消えた。

「残像です」

 背後からその声が響いた瞬間、アリスは手を開いてワイヤーを後方へ殺到させたが、間に合うべくもなく。ワイヤーの結界をすり抜けた射命丸は、全体重に幻想郷一の速度を乗せてアリスの背を蹴りつけた。アリスの背骨がミシミシと音を立て、身体全体が弓状に大きく湾曲するほどの衝撃。事前に予想して張った魔法障壁による緩和がなければ、確実に即死している威力だ。

 もちろん、アリスに掛る重力と摩擦力は、その衝撃を受けてもアリスの体を拘束し続けられるほど強くはない。風塵の中の木の葉のように、アリスの肢体は吹き飛ばされた。

 その前方には、アリス自身の張ったワイヤー結界がある。射命丸はそれを狙って残像を使った攻撃を仕掛けたのだろう。そしてそれは、アリスも予想していたことだ。

 途切れそうになる意識を気力で手繰り寄せる。足を突き出し、鋼鉄を仕込んだブーツの踵で結界のワイヤーを蹴った。反動を使って跳ね返った速度そのままに、反対に射命丸へと突っ込む。握った銀色のナイフの切っ先で、空を切り裂きながら。

 切っ先を嫌ったのか、射命丸は身体を躱してアリスの突撃をいなした。

 無防備な側面に回り込まれた形だが、しかしそれは並の魔法使いであればの話だ。アリスに死角はあり得ない。なぜなら、アリスには強力な味方がいるからだ。

 射命丸が団扇から発生させた風の牙を振りかぶったその時、伏せ隠していた無数の武装人形達が射命丸へ殺到し、反射的に防御に回った射命丸のその態勢を崩した。ワイヤー結界の中ならば、人形達は自由自在に移動する事ができる。結界の中に飛び込んだ射命丸は、蜘蛛の巣に掛かった蝶に等しい。アリスはそのまま、態勢を崩した射命丸を、手にした切っ先で狙う。射命丸は人形の攻撃を無視し、風の牙をアリスへと向けた。

 白刃と風刃が交錯し、閃光が爆ぜる。

 発生した強力な衝撃波に、人形達が吹き飛ばされ、張り詰めたワイヤーが弛む。

 その瞬間、アリスの胸の谷間に隠れた上海が飛び出し、射命丸の喉元へ剣を構えて突撃した。

 しかし、射命丸の身体は再びどろりと溶け消える。後には焔の軌跡を残し、結界の外側で高足立ちする射命丸の姿が、視界の端に映った。ワイヤーの弛みの隙間を抜けたのだ。素早く的確な判断。速度自慢は、飛翔だけではなかった。

 手強い。

 分かっていた事ながら、そう思わずにはいられない。

「ほら、しているじゃないですか、その眼ですよ」

 喉元からだらりと血を流しながら、射命丸は言う。

「氷の微笑と言って欲しいわね」

 はだけた胸元を直しながら、アリスは言う。その言葉は、吐き出した血反吐で濁った。鈍痛が連続的に続く。背骨へのダメージは大きいようだ。次は射命丸の速度に追いつける自信が無い。

 アリスは、上海と一緒に深呼吸をして、気脈を整えることに努めた。

「息が上がっているようですね。運動不足ではないですか?」

「そういうあんたは、貧血なんじゃないの?」

 射命丸の高足立ちも、小刻みに震えている。上海の付けた傷は、浅くは無いようだ。

「どうやら、私は貴女の実力を過小評価していたようですね。たかが魔法使いごときが、ここまでやるとは。正直、侮っていましたよ。その点は謝罪しましょう」

 射命丸は、手にした団扇を放り投げた。両足で大地を踏みしめ、大きく両手を広げると、その背から再び、巨大な二対の黒い翼が広がる。

 風が、濃くなった。

 天に空いた穴より差し込む赤光に紛れ、空気の塊がごうごうと音を立てながら射命丸へと流れ落ちて行くのが見える。圧縮された空気の流れが光を歪め、ぐにゃりと景色が揺らめく。

 ひしひしと、危険が迫っている気配を感じる。

 気づけば、全身の産毛が逆立っていた。

 射命丸から発せられるドス黒い気配は圧倒的で、千年天狗の名に相応しい。ただ在るだけで国の一つや二つは統べることが出来そうなほどの威容。アリスすら、ひれ伏しそうになるほどの。かつ、それでもまだ、射命丸の業には深みを感じる。隠した爪は、アリスよりも大きい。

 しかし、今、一つの決意を胸にしたアリスには、相手の爪の大小など関係は無かった。

 アリスはグリモワールを開く。

 封印していた禁呪、七色の旋律を口ずさむと、アリスの身体から七色の虹が発せられ始める。

 それは七つの色、即ち美を支配する魔法。一つ間違えれば世界を滅ぼしかねない、恐ろしい毒を含んだ旋律。

「む。その魔法は、一体……」

 流石、危険性を見ぬいたのか、射命丸は一歩、距離を取った。

 アリスは、十指に絡みつく、人形たちの紐を切り捨てた。アリスの愛しい人形たちを、この禁呪に巻き込みたくなかったからだ。力と命令の供給が止まった人形たちは、がらがらとその場に落ち崩れた。ふわりと風になびく白い糸が、虹色に輝くアリスの髪に触れ、炭屑のように色を失い、風に舞い消える。

 ふと、糸が切れたはずの上海が、もぞもぞと動くのが視界の端に映った。風に靡く糸を掴み、自力で糸を繋ぎ直して、再び飛び上がる。その身は虹色の旋律を纏っても炭にならず、むしろその輝きを増している。

 父がアリスのために創ったこの人形は、どこまでもアリスとともに行こうとしてくれている。

「最初に言ったように、私はあんたと争う気は無いわ。だけど、ここで死ぬつもりも無い。そして」

 全身を覆い始めた虹色の輝き。糸を通じて、上海へも七色の毒が回って行く。

 刮目する射命丸に指を突き付け、アリスは宣言する。

「あんたと争う気は無いが、天狗たちには滅んでもらう」

 射命丸は、鼻で笑った。

「ハッ、無謀な。たかが一個の妖怪が、我等全てを皆殺しにするなどと、馬鹿げた夢想も良いところです。気でも触れたのですか。貴女はもう少し理性的な人だと思っていましたが……一体何が貴女をそうさせたのですか」

「自分の胸に聞いてみなさい」

「……はて?」

「最早、言葉を交わす必要は無い」

 虹色の光を纏った上海を、射命丸へ突撃させる。射命丸の二つの結界、風龍の爪と圧縮空気の壁をいとも簡単に切り裂いて、上海は射命丸の懐へと飛び込んだ。

 射命丸は真横に飛び退いてそれを躱し、地に落ちていた団扇を拾い上げて、同じく射命丸へ突撃を掛けていたアリスへと投げ付ける。

 紅い楓の葉型の団扇は、アリスを覆う虹色の光の膜に触れると、見る見る色を失い、モノクロになって崩れ落ちた。紅色は七色に吸収され、光の膜の上を生き物の様にうねる。いや、生きているのだ。色とは、美とは、命そのものなのだから。

 アリスは手に入れた紅色を紐状に伸ばして、射命丸へと投げ付ける。

「これはあの伝説の、色を奪う!」

 禁呪の正体をその豊富な経験から察知した射命丸は、瞬時に複雑な印を組むと、小さな竜巻を生み出し、アリスへと投げ付ける。素早く的確な判断である。色の無い竜巻は、七色の禁呪では殺せないと読んだのだろう。

 放った赤い糸は竜巻によって千切れ飛んでしまった。竜巻はそのままアリスの方へ向かって来たが、間一髪、アリスはそれを躱した。掠めただけで、服がズタズタにされ、アリスの肌理が切り裂かれる。竜巻の中には真空の刃が仕込まれているらしい。並の防御壁ならば余波だけで死んでいただろう。オーロラバリアの上からでもこの威力。一瞬でこれ程の攻撃力を放つ射命丸はやはり、恐るべき大妖怪である。七色の光の風の中に、アリスの血煙が舞い行く。

 竜巻の余波で吹き飛ばされたアリスは、転がりつつ体勢を整え、意識を失う事を防いだ。地面に這いつくばった手足を突っ張り、上体を起こす。

 眼前には、射命丸の揺れるスカートがあった。

「正気ですか? その虹は、一度暴走すれば周囲凡ての色を奪い、壊し奪い殺し尽くすまで止まらない、貪欲なる美の魔法だと言います」

 射命丸の声に、天から降る射命丸の声が重なる。上空を見上げると、其処にも射命丸がいた。

「かつて光あふれた魔界を、生命の住めない暗黒の世界に変えたのも、暴走したその魔法だと言うではありませんか」

 アリスの後ろからも輪唱が聞こえる。

「そんな魔法を地上で使うとは、貴女はどうやら本気で狂ってしまったようですね、アリス・マーガトロイド」

 右にも、左にも。

 無数の射命丸が、アリスを見下していた。

 天狗の十八番、影分身である。

 無数の射命丸は、その指先で一斉にアリスを責め立てた。

「貴女はこの世界の調和を乱す源だ、生かしておくわけにはいかない。ここが貴女の墓場と心せよ、アリス」

 アリスは、笑った。

 高らかに、腹の底から。

 訝しむような、憐れむような射命丸の視線が突き刺さる。

 射命丸の言う通り、アリスは狂っているのかもしれない。だが、此処に、この幻想郷に、いまだ正気を保ち得る者など存在するのだろうか。刹那に生きる人間ですら狂気に狩られ、妖へと身を落とす。況や、妖怪をや。世界自体が狂っているのなら、アリスの狂気は寧ろ健全であろう。

 しかし。

 それでも。

 だから。

 なお。

 恥知らずの「真実」には、激しい怒りを禁じ得ない。アリスを今突き動かすのは、純粋な憤怒だった。

 アリスは大きく息を吸い、そして吐いた。

 ゆっくりと立ち上がる。

 虹は感情のうねりを現す。乱れる髪、裂ける服。アリスの全身の毛孔から、七つの色が迸る。くねりうねる虹の糸は絡まり集まり、巨大な八つ首の龍の姿を形取る。

 上海が手にした剣が煌めいた。それは、虹を固めて作った、美しき生命の剣。

 上海がそれを高々と掲げると、八つ首の貪欲なる邪龍が呼応するように咆哮する。天が、地が、七色の極光に満たされて行く。

 その力の表現を目の当たりにしても、射命丸はなお毅然と立つ。

「……最後に聞きましょう。貴女は、天狗の里に侵入して、一体何をしていたのです?」

 降り注ぐ極光の中で、射命丸達が今更に問う。

「真実を、見てきたわ」

「真実とは人々の心の中にある妄想の最大公約数を言うのです」

「賢者らしい、穿った物言いね。反吐が出るわ」

 アリスの感情の昂ぶりを反映して、一匹の巨大な虹龍が射命丸達の一人に飛びかかった。

 射命丸はそれを片腕で往なし、砕き、拉ぎ、屠る。事も無げに、どうということもなく。それは、水が上から落ちて下へ流れてゆくが如く。宇宙の法則、絶対真理、逃れ得ぬ運命のように。出来て当然、そう思って疑いもしないその意思の強さこそが、射命丸の射命丸たる所以。

「賢者? ああ、そう言えば、今日は丁度あれの日ですね。成る程、見てきたんですか」

 射命丸は皮肉めいた笑みを浮かべた。

「ふ、ふ。ま、怒る気持ちは分かりますがね。老人達のごっこ遊びに、そう目くじら立てる事もないでしょう」

「……ごっこ遊び?」

「賢者達の集いなど、実際には意味の無い戯れです。八雲紫も十分に承知している。この幻想郷で、統一された意思決定機関の存在など不可能でしょう。ましてそれを構成する者たちが、あんなに愚かで私欲に塗れているようでは」

「……まさか」

「一部の愚か者共を理由に全てを破壊しようなどと、それは飛躍しすぎた考えでしょう。やはり貴女は狂っている」

「まさか、あんたは……」

「無用な問答でした。その狂気が他へと感染する前に、貴女には退場して頂く」

 射命丸達は両手を構え、それぞれ違った印を組んだ。これだけの量の影分身をしながら、しかもそれぞれが別々の術を放つなど、あり得ない術力だ。射命丸文は幻想郷でも最大級の力を持つ、八雲紫はそう評価していたが、それも頷ける。

「では、さようなら。アリス・マーガトロイド」

 アリスはゆっくりと首を回し、景色を眺める。

 天より降り注ぐ赤光はまるで、大地に突き立てられた断罪の剣だ。千切れ飛ぶ雲、吹き荒れる烈風、木霊する有象無象の阿鼻叫喚。妄想の中で見慣れた、終末の光景。悲しいくらいに、美しい。

 世は事も無し。何もかもが狂っている。

 今、ようやく、アリスは気付いた。

 自分はいまだ、不思議の国を彷徨っている最中なのだと。

「……何故、魔法を止めるのです?」

 虹色の龍の輝きは、縺れた糸が解けるように柔らかな光の帯に変わり、空気中に散乱して消えた。天を貫かんばかりに猛った光の奔流は、鼻を突くオゾン臭へと変わり、空を覆っていた極光はもはや跡形も無い。

 アリスは糸に魔力を込め、断ち切った糸を再び繋ぎ直した。飛び上がった人形達を武装解除させ、魔法で小さくする。ポシェットの中に入るよう命令すると、従順な人形達は整然と所定の場所に戻って行った。たった一人、上海だけは、アリスのボロボロに破れたケープに捕まり、ポシェットの中に収まろうとはしなかった。それでいい、そう、アリスは思った。

「何故です? 答えなさい、人形師!」

 珍しく声を荒げて、射命丸が言う。

「つまんないのよ。あんたのスカート、いくら動いてもチラリともしないんだもの」

「はあ?」

「鉄壁過ぎるのよ」

 それ以上何も言わず、アリスは地面に散らばった糸や服の切れ端などを拾い集めた。地球に優しい、それはシティ派のステータス。

 射命丸は暫く警戒していたようだが、アリスの様子が変わらないと見ると、影分身を解除したようだ。射命丸達の姿は一陣の風とともに掻き消え、たった一人に戻った。

「勝ち目が無いことを悟って降参したというわけですか。しかしそれでも、貴女には縛に就いて貰わねばなりません。幻想郷の秩序のために」

 納得が行かない顔をしつつも、射命丸は言った。千年生きた天狗としての使命感だろうか。

 しかしそれは、足りないのだ。圧倒的に。

 憤りを通り越して、憐れみをすら覚える程に。

「もう天狗なんかに興味は無いわ」

「ハッ。天狗を滅ぼすなどとうそぶいたのは法螺だったのですか」

「いいえ、嘘じゃないわ。遠からず、天狗は滅びる。でもそれを為すのは私じゃあないと分かった。だから私は、もう興味は無いの」

「馬鹿げた事を」

「滅ぼすのはあんただ、射命丸」

 人差し指で、射命丸の神を突く。

 射命丸は、突き付けられた指を見て、しばらく息を止めていたようだ。

 やがて、震える声で、射命丸は声を絞り出し、

「――馬鹿げた事を」

 自動人形のように繰り返した。

「これは予言よ、射命丸。天狗共は、あんた自身の手によって滅ぼされる」アリスは、ありったけの感情を込めて、言った。「いつかあんたが、真実にたどり着いた時に」

「そんな戯言に付き合うつもりはありません」

 怒鳴るようにして、射命丸はそれを一蹴した。

「さあ、おとなしく就縄されなさい」

 射命丸は迫るが、アリスは背を向けて、ボロボロのケープを羽織り直し、さっさと山を降り始めた。

 こんな場所に、これ以上用は無い。

「アリス! 煩わすな!」

 射命丸が、彼女には珍しく、感情を剥き出してヒステリックに叫んだ。

 アリスは、振り返って言った。

「煩わしているのはあんただ、射命丸」

「な、何!」

「あんたは命を掛けて戦うにも値しない。穢れた真実に喰い殺されるのが、あんたにお似合いの死に方よ」

「何を言って……」

「意味が知りたければ、自分で探しなさい。私はもう、あんた達に構うつもりは無い。自分達の業に溺れるがいいわ。……帰るわよ」

「待て……ッ?」

 射命丸は身を乗り出しかけたが、寸前、静止した。

 その喉元に、いつのまにか、鈍色に光る短刀の切っ先が突き付けられているのに気付いたからだ。

 あの射命丸が今の今まで存在に気づかないほどに、その妖は気配を消すことに長けていた。

 まるで路傍の石のように、さり気なく、無邪気に。

「なぁんだ、つまんないの。もっと派手なの見たかったのになー」

 そいつは、古の血に赤黒く濁ったその凶器をぽいっと放り投げると、とすっ、と手にした白鞘に収まった。そして、とてとてとアリスに近寄って、屈託の無い笑顔を見せる。

「ね、ね、さっきのかっこいいやつ、もっかい見せてよ」

「駄目よ」

「いーじゃん、ケチ」

「ケチで結構。倹約は美徳よ。お姉さんにそう教わらなかった?」

 アリス達はそのまま談笑しながら山を降りて行った。

 背後で射命丸が何か叫ぶのが聞こえる。しかし、それはアリスには届かない。届く必要はない、聞く耳も持たない。

 山を降り切った頃、ポツポツと雨が降り始めた。

 梅雨の残り香がする。

 これから、憂鬱な暑い夏が始まるのだ。

 射命丸文は、何も知らなかった。

 アリスは、堪らなく徒労感を覚えた。

 

 

 その存在に気が付いたのは、本当に偶然だった。

 梅雨の晴れ間の昼休み、人里の子ども達に寺子屋の庭で、人形劇を披露していた。あの日は蒸し暑く、子ども達は団扇片手に観劇していた。

 演目は、アンデルセンの「人魚姫」。悲劇的で陰気なラブロマンスで、アリスは大嫌いだが、子ども達、特に少女達へのウケはいい。古今東西、悲劇のヒロインというのは、少女たちのあこがれの的だ。愛に命をかける情熱的な生き方が魅力なのだろうが、そこにはやがて来る老いへの恐怖、もしくは美しいまま死にたいという欲求が隠れている気がする。だから、その恐怖や欲求が無くなった人外の自分には、理解ができないのだろう。そうアリスは考えている。

 劇が終わった後、多くの生徒は教室に戻って行ったが、劇の余韻が冷めやらぬ女児たちは、庭にある砂場でままごと遊びをしていた。劇の舞台装置、と言っても小さな机に布を被せて小物を飾った程度のものだが、それらを旅行鞄の中にしまいこみながら、女児達の遊びをぼんやり眺めていた。

 最初に違和感を感じたのは、匂いだった。バラ科の植物の、脳を突き貫かんばかりの甘ったるい香りがした。匂いは強烈なのにその印象は酷く曖昧で、いつからしていたのか、さっきからなのか、もっとずっと前からしていたのか分からない。その匂いを嗅いでいると意識が朧げになってくる。鼻腔の奥に麻薬を塗りたくられているかのようだ。しかし不思議と、嫌悪は覚えなかった。

 そのうち、ぼんやりと眺めていた女児達のままごと遊びが、少しおかしいことに気づく。女児たちは誰も居ない方向に向かって手を叩いたり、泥で作った団子を差し出したり、話し掛けたりしているのだ。すわ拐かしの妖かと身構えるが、どうも気配を感じない。幻視をしても何もおらず、アリスは首を捻るばかりだった。ただ、きゃっきゃっと嬉しそうに笑う女児達の笑顔は眩しく、心底楽しそうであった。その声に毒気を抜かれ、ただその様を無心に眺めていた。

 そのうち、寺子屋の教師である上白沢慧音が庭に出てきて、子ども達を寺子屋の中へ戻らせた。慧音は律儀にアリスへお辞儀をして、子ども達の後に続いた。慧音は真面目すぎるきらいがある。アリスが好きでやっている事なのだから放っておけば良いのに、そう思う。あまり気を遣われると、逆に警戒されているようで不快な場合があるから。まあ、慧音に限って、それはあり得ないのだが。

 一人残されたアリスは、何気無く砂場へ近寄った。子ども達の様子が気になったのか、それとも単に遊びっぱなしの砂場を片付けしようと思ったのか、今となっては分からない。

 砂場に近づくにつれ、薔薇の匂いは一段と強まった。蒸せ返るような、しかし不思議と息は詰まらない、得体の知れない甘い香り。

 女児達が描いたのだろうか、砂絵が描いてあった。塗り潰された大きなマルに、手を伸ばす人々の絵。手のひらを太陽に、だろうか。それにしてはマルが黒く潰れている。きっとこれは月だ、ぼんやりとそんな事を考えた。

 戯れに上海を取り出し、砂の上でステップをさせる。月に手を伸ばす人々の上で、くるりくるりと舞う上海。この絵に、権力に群がる人々の淺ましさを見出していたアリスは、上海がそれを超越したかのようで、満足した。我ながら子どものようだ、そう思った。

 命令してもいないのに、上海はスカートの裾を少し持ち上げ、誰も居ない方向に向かってぎこちなくお辞儀をした。完全自立稼働にはまだ研究が足りていないが、こういう事はままあった。其の時アリスは、特に気にもしていなかった。

 ふと目を上げると、いつの間にか、目の前に少女がぺたり座りしていた。

 黄色いラインリボンが目立つ大きな黒い帽子を深く被って、顔が見えず、やや緑が掛かった灰色の髪が覗くばかり。胸元には、青い、何か丸いボールのようなアクセサリがついており、その丸い物体から伸びる管が、彼女の体を束縛するがごとく捻じれ巻き付いていた。バラのような花が描かれた緑色のスカートが、花のように砂の上に広がっている。体の左右脇に拡げられた足や、浅黄色の衣の袖から覗く手は驚くほど白く、雪のよう、というより、光を浴びない深海生物のようですらある。

 蜉蝣みたい。

 それが第一印象だった。今も、その印象は変わっていない。清く、儚く、美しい、薄羽蜉蝣。

 気が付くと、少女が手を叩いていた。

「わあ、すご~い」

 耳に残るその音も、はしゃぐ黄色い声も、不思議に不気味に朧げで、一体全体、いつから耳に届いていたものか、見当がつかない。たった今始まったようにも思えるし、もっと昔からずっと聞こえていたようにも思える。

「お人形さん、お上手ね」

 少女はその夏の終わりのような白い手を伸ばし、上海の頭を撫ぜた。くすぐったそうに、上海が身を捩った。

 少女が顔を上げた。

 大きな緑色の瞳に、少し上気した桃色の頬をした、美しい少女だ。細い眉毛を快活そうにくゆらせ、ニコニコと屈託の無い笑顔を浮かべている、が。アリスと目を合わせているはずなのに、その瞳は虚空を揺れていて、焦点が合っていないようにも見えた。

「人形師さんは、どうしてそんなに人形劇が上手なの?」

 いきなり質問をされて、なんとなく惚け気味だったアリスの脳は慌てた。

「え、そりゃあ、まあ。好きだからね」

「ふーん、好きだと上手になるのか。じゃあ私はお姉ちゃん上手って訳ね」

「お姉ちゃん?」

「お姉ちゃんの作るフレンチトーストは美味しいのよ~。甘くってフワフワで、おそらの太陽みたいな味がするのよ~」

「へえ」

「今日はいいお天気よね~。ちょっとジメジメするけど、おそらも高いし」

「はあ」

「あ、お空もお燐も元気かなぁ。心配だわー。あの子達、おばかだからな~。あ、昨日会ったばかりだった」

「ん?」

 少女の話は飛び飛びで、少しズレている。アリスと会話をするというより、心に浮かんだ事をそのまま口に出しているようだ。言葉の滝である。

 少女は上海をくわっと掴むと、持ち上げて眺め回した。手を引っ張ったり、髪を手漉きしたり、スカートの中を覗き込んだりしている。アリスは慌てた。

「ちょ、ちょっと、止めなさいよ。上海が嫌がってるじゃないの」

 少女の手から上海を引っ手繰った。

 ボサボサになった髪を櫛で梳き、乱れた着衣を整える。関節の具合を確かめ、肌に傷が付いていないかチェック。問題は無かった。

 上海を肩に乗せ、顔を上げると、少女の姿が消えていた。

 何処へ行ったのかと首を回して探しても、とんと見当たらない。

「あのさ」

 すぐ隣りから声がして、目玉を真横に向けると、少女が立っていた。アリスは驚き、持っていた旅行鞄を取り落としてしまったので、慌てて拾った。

 少女には、気配が無かった。

 思い当たる妖怪を一人、思い出す。

 地底の管理者、古明地さとりの妹にして、覚妖怪の証であるサードアイを自ら閉じた少女。その影響で、覚妖怪の十八番である「心を読む」力を失い、代わりに「無意識を支配する」力を手に入れた妖怪。

「貴女、古明地こいし?」

 彼女のサードアイは、未だ固く閉じられたままだった。

 以前、魔理沙を地底へ潜入(と言うか乱入)させた時、妖怪の山の神社で会ったことがある。と言っても、魔理沙に持たせた遠隔通信用人形越しで、顔を見たことは無かった。声から幼い印象を受けていたが、古明地こいしは思った以上に少女であった。

「怒ったってことは、人形師さんは、そのお人形が好きなんだね」

 ふらりふらり、陽炎の様に揺れながら、古明地こいしはとめどない言葉の滝を吐く。

「好きな人に嫌な事されたら、自分も悲しいもんね。分かるよ、こんな私でも」

 後手を組んで、拗ねたように、パッと砂場の砂を蹴り上げる。

 砂煙が舞って、気付いた時には、こいしはアリスの後ろに背合わせで立っていた。ほんの一瞬でも視界から消えたら、次の瞬間には全く別の所に居る。

「じゃあさ。人形師さんは、嫌いな人が誰かにいじめられてたら、なんて思うのかな?」

「そりゃ、ざまあみろって思うわ」

 即答したのを覚えている。

 こいしは腹を抱えて笑っていた。

「人形師さん、正直だね」

「嘘付く必要無いじゃない」

「面白~い。地底の鬼さんも正直だけど、人形師さんも負けてないや」

 こいしはの翠玉ような瞳をキラキラ輝かせながら、アリスを見ている。その様に、何故か、一抹の不安と恐怖を感じた。

「ねえ。じゃあさ、もし……」

 あっけらかんと野放図に笑っていたこいしが、その時だけ、顔を曇らせたことが、今も印象に残っている。

「もし、人形師さんの全然知らない人が、目の前で誰かに辛い目に遭わされてたら……貴女は、どう、思うかな」

「そう、ね……」

 古明地こいしが何を思ってそんな事を口走ったのか、そのときのアリスには分からなかった。

 だから、負けじと、というわけではないのだが、アリスも頭に浮かんだ言葉をそのまま、素直に口にした。

「多分、不快に思うでしょうね」

 結果的にその言葉が、アリスが探索を始める切っ掛けになってしまったのだ。

「不快……不快……」

 こいしはその言葉を反芻するように、何度も口にしていた。

 曇った顔は、みるみる明るくなってゆく。

「そうか、これは不快なんだ。私、ちゃんとイヤだって思えるのね、ふふっ」

 一人でうんうんと頷くこいしを見ていると、なんだかほのぼのとしてきてしまう。

「まあとりあえず、止めるんじゃないかな、多分。でも勘違いしちゃダメよ。あくまで不快だから止めるんであって、人助けじゃあないわ。シティ派にとって偽善は恥よ。人間素直が一番」

「うんうん」

 ニコニコこいしは、前触れもなく、いきなりアリスの手を掴んだ。

「うぇ、な、何よ?」

「人形師さんにね、見てもらいたいものがあるんだ。一緒に来て」

 言うなり、どんどんとアリスを引きずって歩いて行ってしまう。足がもつれて転びそうになり、アリスは叫んだ。

「ちょ、ちょ、ちょ、待ってよ! こいし!」

「ばあ!」

 振り返ったこいしの顔には、真っ白い子どものアルカイックスマイル。

 アリスは面食らって、後ろにのけぞった。

 能面だ。

 面がずれると、元のこいしの太陽笑顔。

「あっはっは、いいでしょ、この間、拾ったんだ~」

「貴女ホント、マイペースね……」

 こいしは歩きながら天に手のひらを突き出して、それを仰いだ。

 その先の空には、白い上弦の月がかかっていた。

「あの月を掴み取ろうだなんて、思いあがりも甚だしいよねぇ」

 つぶやくようにこいしが言ったその言葉の意味を、数刻後、アリスも知ることになる。

 あの日。

 古明地こいしに連れられて行った妖怪の山の中で、アリスは真実を見、そして、この妄想の世界から抜け出すことを決めたのだ。

 希望の面を手にし、感情を取り戻した古明地こいしは、真実を前にし、それでもこう言っていた。

「これから良くして行けばいいんじゃない? 此処は、みんなの幻想郷なんだしさ」

 

 


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