ようやく一日が終わりを告げた。
一人土手を歩く大和の目には、ビルの合間を沈み行く太陽が何とも物寂しく感じる。
茜色に染まった空を感傷と共に眺め、今日と言う日を思い返していた。
人生で最も過酷な一日だったと言えるだろう。乗り越えられたのは日頃の行いが良かったからに違いない。
しかし、そうは言ってもまだ山場を一つ越えただけだ。この先に連なる巨峰を考えると不安に押しつぶされそうになる。
油断すると涙が零れそうだ。ぐっとこらえ顔を俯かせる。
ふと、河川敷の砂利道にタイヤを引き摺った跡が残っているのに気がついた。
世間では、今日と言う日とて普段と何も変わらない日常が流れている。
ふとすれば忘れかけていた当たり前のことを思い出し、しかしながら心身の疲弊はどうにもならず、大和は沈む夕日を背にして身体を引き摺るように寮へと戻った。
「ただいまー」
何とか帰宅して玄関を開けたとき、そこに一足の見覚えのない靴があった。
男物のスニーカーだ。かなり履き古した感じで、誰かが新しく買ったと言う物ではなさそうだ。
誰かお客さんかなと思う。
靴を見る限り源さんもキャップも居ない。
京は部活で、クリスはマルギッテと買い物だと聞いている。
まゆっちもいないようだ。最近出来たと聞く友達と遊んでいるのだろうか。
リビングの方から軽い駆動音が聞こえてきた。
扉を開けて紫色の物体が姿を見せる。
「帰ったな大和」
「ああ、ただいま」
クッキーがいつもの卵みたいなフォルムから戦闘用の第二形態に移行していた。
機械とは言え、一見人型のフォルムから滲み出ている警戒心に大和は首を傾げる。
加えてその手に抜き身のサーベルが握られているのはあまりに物々しくないか。
せめて室内ではそれしまえ。
指摘しようとサーベルを指さす。それを制するようにクッキーは告げた。
「お客さんだ」
「え、おれに?」
「ああ」
誰だろうなあ。
何か約束していただろうか。
考えても心当たりはない。本当に誰だろう。
「誰?」
「私も知らん。だが学生証を提示してもらった」
クッキーも知らないということは川神学園の学生ではないのだろうか。
一応、クッキーのメモリにはその辺りも入っているはずだ。
元々は九鬼英雄がワン子にプレゼントとして送ったものが、巡り巡ってここにいるのだから。
「最近物騒なことが多いからな。つい第二形態になったが……少しやり過ぎたかもしれん」
「なにしたの」
「突きつけただけだ。ぷすっと」
「刺さってんじゃねえか」
これは謝らなきゃいけない。
うちのペットがご迷惑をおかけしました。
大和はクッキーから学生証を受け取る。
見たことの無い物だった。川神学園のとは違う。
他所の学校はこんな感じなのかと少し感心して名前を見る。
天神館の三年生、工藤祐一郎と書いてあった。
工藤……。
頭が真っ白になった。
「――――どういうことだ!!」
「お?」
リビングの扉を勢いよく開けたら椅子に座って茶を飲んでる工藤がいた。
びっくりした表情で大和を振り返っている。
「どういうことですか!?」
「え、なに……?」
「なんでいるんです!」
一向に携帯に繋がらず、捕縛を依頼した大友からも何の返信もない。
返信がないならこれはやられただろうと冥福を祈っていたのに、家に帰れば本人がいた。
意味が分からない。
「携帯にも出ないのに!!」
「そっちの方がハラハラして面白かったろ?」
「そんな面白さは求めてねえ!!」
つい敬語が抜ける。
それに気づいてまず落ち着こうと息を整えた。
工藤が愉快気な顔をして、テーブルの上に置いてあったビニール袋を差し出した。
「これ、お土産」
「ああ……どうも……」
中は激辛唐辛子せんべいでいっぱいだった。
このチョイスからしてツッコミたいが、スルーするのが賢明だろう。
このせんべいは京の茶菓子に消えるだろうし何も問題はない。
「それで、どういうことですか?」
「遊びに来たよ」
「そっちじゃなくて」
工藤の真向いに座ってクッキーからコーラを貰う。
ぷしゅっと炭酸の抜ける小気味良い音が響いた。
酷使した喉を炭酸が駆け抜ける。美味い。
ぷはーっと爺くさい声が出た。
「ふーっ。……昼に電話かけてきたでしょ。それですよ」
「林冲たちのことだろ? 言った通りだよ。……え、まだ聞いてないの?」
「聞きましたけど……」
聞いたことは確かなので、大和は不承不承頷く。
「でも、色々言葉足らずでしたよ。林冲なんかあなたの名前出したらいきなり怒るし」
「うわぁ……」
工藤は顔を歪めた。まだ怒ってるのかと呟きが漏れる。
あんなに怒るなら最初に言っとけと大和は声を荒げそうになるのを必死に抑えた。
「曹一族のことは本当なのかとか、なんであなたがそんなこと知ってるのかとか、ひょっとしてMなんじゃないかとか、色々聞きたいことがあるんです。ここに居るなら教えてくれますよね?」
「とりあえず、Mっていうのが性癖の話じゃないのは知ってるなあ」
工藤の茶化す様な口調に大和の堪忍袋もいよいよ限界を迎えつつある。
ただでさえ今日は色々あったのだ。性質の悪い冗談に付き合える体力は残ってない。
どうやって口を割らせようか。大和が一計を案じ始めたのを察した工藤は、降参と言うように両手を挙げた。
「まあ俺も話をしに来たんだし、喧嘩するつもりはないんだ。順番に答えていこうか」
「ならキリキリ話してください」
「はいはい」
じゃあまず一つ目。
工藤は人差し指を立てる。
「曹一族のことは一応本当。ちょっと面と向かって脅してきたから。まああっちが約束守るかどうかは知らないけど」
「脅した……?」
「脅しちゃった」
あっけらかんと犯罪紛いな告白をされて大和はドン引きした。
その手法を知りたいような知りたくないような、知らない方がいいような複雑な気持ちになった。
「で、二つ目。はっきり言って俺はMじゃない。実はMは俺の知り合いなんだ」
「……じゃあ、その人から話を聞いたってことですか?」
「いや、俺がやってくれって頼んだ」
「やっぱりてめえ主犯かよ!!」
ついに堪忍袋の緒が切れて、一発殴ってやろうと詰め寄った。
「待て待て。言い訳聞いてくれ」
「姉さんに突き出してやる!」
「何で武神? まあ待てって」
大和は工藤が自分の腕を掴んだところまでは覚えている。
だがその後どうやったのか、気が付けば床に倒れていた。
座る工藤の足元で天井を見上げる形で仰向けになっていた。
痛みもなく、本当に気がついたらこの形になっていた。
訳が分からず呆然とする中、遅れてクッキーの「大和!」と言う声が聞こえた。
見ればサーベルを工藤に突きつけている。
「これは言い訳だけど」
工藤は突きつけられるサーベルを意に介することなく、淡々と大和を見下げて話を続けた。
「俺がやってくれって頼んだのは梁山泊のことで、曹一族のことは知らなかったんだ」
立ち上がろうと身動きした大和の額に人差し指が置かれた。
それだけで大和は動くことができない。話を聞けと工藤の目は言っていた。
「曹一族とかそんな奴らのこと知らないし、コネもない。だから調べてみてびっくりした。こいつらやべえって」
「……」
「でもやっちゃったもんは仕方ないし、なら最低限フォローしとこうと思って、とりあえずクリスマスまで安全の約束してきたよ。ごめんね」
最後には拝むように謝られた。
しかし誠意が全く感じられない。口調の軽さもあるだろうし、何かほかに隠してることがあるだろうと疑ってるのもあった。
人差し指から解放されて、大和はその場に胡坐を組む。そしてはっきりと言ってやった。
「まったく信じられないんですが」
「そうだろうと思って、少し考えて来た。直接Mに聞けば信じられるかな?」
答えを待つこともなく、工藤は携帯を取り出してどこかに電話を掛け出した。
「あーどうも。ご無沙汰です」
『――――』
「え? いやあ。あなたが余計なことしてくれたおかげであっちこっち走り回ってますよ。ええ、あなたのせいで」
『――――』
「やっすい試練ならやらない方がましだと思うんですがね。いや、紫陽花の匂いとか知らんし」
『――――』
「ああ、はいはい。気が向いたらで。ええ、俺あいつ嫌いなんで。それより今回の曹一族のことが俺の本意じゃないって誤解といてもらえます? 今本人目の前にいるんで」
電話向こうの声は聞こえなかった。
工藤の表情は終始顰められていて、あまり親しい仲ではないように思える。
工藤が差し出した電話を受け取り一度画面を見る。
通話相手の名前は最上幽斎と書かれていた。
「もしもし」
『こんにちは。初めましてだね。私は最上幽斎。Mと言った方が話は早いかな?』
「直江大和です」
最上……。
その苗字には凄く心当たりがあった。
知り合いの評議会議長と同じ苗字だ。
「ひょっとして最上先輩の――――」
『娘を知っているのかい? いや、自慢の娘だよ』
やっぱりそうだった。
この人は最上旭の父親だ。変なところで繋がるものだ。
『娘がお世話になっているようだね』
「いえ、逆に俺がお世話になってるぐらいで」
大和と旭の間にはほとんど接点がない。
だからこれは社交辞令だった。それを知ってか知らずか、幽斎は心の底から嬉しそうに笑っている。
『だとしたらよかった。僕は君に試練を与えることができたみたいだね』
「試練? 何のことですか?」
『魂の試練だよ。これを乗り越えると人は成長するんだ。私は人の成長を見るのが好きでね。恩返しの一面もある』
「はあ……」
ひょっとして、これは真面目に話したらいけない類の人なのでは?
何となく察してきた大和。チラッと工藤を見るも、にこっと微笑まれた。その顔には諦観が浮かんでいる。
『本当は工藤君への試練のつもりだったんだが、期せずして君への試練になったようだ』
「その口ぶりだとあなたが主犯のように聞こえますが」
『半分その通り。梁山泊のことは工藤君に頼まれた。曹一族は僕の独断だ』
「どうしてそんなことを? おかげで余計な危険に晒されて凄く迷惑してます」
『本当は彼に試練を与えたかったんだ。残念ながら少し足りなかったようで、君への試練になってしまったけど』
「……」
この人はいったい何様なんだろう。
試練だとか成長だとか。余計なお世話だ。
こう見えて俺は武神の舎弟だぞ。毎日が試練みたいなものだ。
『理解されないのは慣れてるよ。ただ分かってほしい。僕は君たちのことを何より考えて、誰よりも愛してる。君たちが成長できると信じてるんだ。今回の試練も頑張って乗り越えてほしいな』
「……」
さすがに言葉を継げなかった。
悪意の欠片もない語り草と、電話越しにも伝わる狂気。
言いたいことは山ほどあったのに、その狂気を身に浴びて、これ以上何を話せばいいのか。
強烈な個性は周りに掃いて捨てる程いるが、本当に頭逝っちゃってる類の人間への耐性はないに等しいと自覚してしまった。
「変わろうか」
大和の状況を察して工藤が申し出る。その言葉に大和は甘えた。
電話を受け取った後、工藤は幽斎と二言三言会話して、
「じゃ、その内試練吹っ掛けますんで楽しみにしててください」
と通話を切った。
その後の僅かな沈黙は大和に考える時間を与えるものだった。
「俺の言いたいことは分かってくれただろうか」
「あんな人に頼み事する方がどうかしてる」
「ぐうの音もない」
乾いた笑いで頭を掻くこの人に文句を言うことは簡単だろうが、それで解決するわけでもなく、言った分だけ疲れるだけだ。
帰ってきた時点ではまさかこれ以上疲れるはずもないと思っていたのに、今はそれ以上の疲れが押し寄せている。
疲れと言うか脱力感や無力感からくる諦めに近い。
この世界にあんなのがいるとは思わなかった。
「ま、あの人への仕返しには直江君にも手伝ってもらうよ。その内するつもりだから」
「遠慮します。関わりたくありません」
「スカッとするぜ」
「また面倒ごとに巻き込むつもりでしょう」
工藤はうーんと困ったように頬を掻いた。
それから確認のように尋ねる。
「そう言えば、君は義経とは親しい?」
「なんですか急に……。義経ともそこそこ仲良くしてますが、弁慶や与一の方が交遊ありますけど」
「そっか。わかったわかった」
一転機嫌良さそうに頷く工藤。
その様子には嫌な予感を感じざるを得ない。
「じゃ、俺はそろそろ帰る。頑張って」
「は? いや、まだ話したいことが……」
「疲れたでしょ。電話してくれれば出るから」
フリフリ電話を振って工藤は玄関の方へ向かう。
それならまあいいやと大和は疲れからほとんど考えず、工藤を引き留めることはしなかった。
「あ、そうだ。剣華に一つ伝言頼まれてくれるかな?」
「はあ」
扉のところで振り向いた工藤は胡散臭い笑みでそんなことを言っている。
自分で言えやと大和は思ったものの、今やそれを言うのも億劫で渋々と頷いた。
「若獅子戦で決着つけようって伝えておいて」
「……は?」
「若獅子戦で決着つけよう」
二度同じことを言った。
大和は頭の中でそれを何度も反芻する。
ああ、そう言えばそんなのもあったなあ……。
「……本当にあるんですか。と言うか出るんですか」
「うん」
工藤は軽い調子で頷いて、「じゃあよろしくね」と手を振って扉の向こうに消えてしまった。
若獅子戦ってクリスマスにあるんだよなあと閉まった扉を見つめて数瞬。
「いや、やっぱりちょっと待ってください!」
すぐさま扉を開けた大和の目の先に工藤の姿はなく、まるで幻のように忽然と消えていた。
「……クッキー、ドア開いたか?」
「その音はしなかったな」
「全部俺の幻覚だったらむしろ嬉しいんだけど」
「なんなら映像を再生することもできるが?」
「いや、いい」
気遣うクッキーに一人にさせてくれと言って、覚束ない足取りで自分の部屋に向かう。
襖を閉めてバッグを投げ捨て、ペットのヤドカリに布をかけ準備万端。
それから恥も外聞もなく畳の上に身を投げた。
「何なんだよぉ! 本当にぃ、もぉうっ!!」
ゴロゴロと転がり誰に聞かれる心配もせずに一人心赴くまま愚痴を吐き捨てる。
今日一日余りに多くのことがあった。
梁山泊のこと剣華のこと。盧俊義の資格や曹一族。全ての主犯工藤の登場に、まだまだ企む工藤。
「もうダメだぁ……っ。助けてくれえヤドン、カリン……」
布団に顔を埋めて泣き言を漏らす大和の声を、ペットのヤドカリ二匹、それから部屋の前に待機するクッキーと帰ってきたまゆっちが聞いていた。
三か月前は今話はシリアスでいくつもりでしたが、時間が空いたのともう一つの方の影響でギャグに寄りました
それと若獅子戦について、28話と24話を修正しました
たぶん「おや?」と思った方も居たと思いますので、ご報告までに