西方十勇士+α   作:紺南

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幕間

『あなたへのお仕置きが決まったわ』

 

始まりはその言葉だった。

 

その日は知らない番号から繰り返し電話がかかってきた。朝の早い時間から始まり、直近一時間で三件。全て同じ番号からだ。急ぎの用件と察するには十分な頻度だった。

見覚えのない番号など無視に限る。電話というものが出来てからこっち世間の常識だが、立場上無視すればあとでどうなるか分からないと言うジレンマがあった。

 

出ても出なくても大抵の場合は嫌なことが起こる。

最近の例を出すと「深海まで共をせい」とか言われる。じゃあ出なかったらどうなるかと言うと、高笑いと共にヘリコプターがやって来る。どっちが嫌かと言うと、ヘリコプターが来る方が嫌だったから電話に出た。その結果、お仕置きが決まっていた。

 

電話をかけてきたのは最上旭。最上幽斎の娘。養女。木曾の女。

川神学園に剣華を放り込んだ時に挨拶こそしたが、連絡先の交換まではしなかった。どうしてこの番号を知っているのかと問い詰める。

 

『お父様に教えてもらったわ』

 

「えー」

 

知らないところで俺の番号が拡散されていることに慄いた。対する最上は当たり前と言わんばかりの反応。電話越しに、微かにしてやったりという雰囲気を感じ取る。

 

どうしてか、最上は俺の鼻を明かすことに快感を覚えているらしい。多分幽斎さんを貶したことへの意趣返しだろう。

言霊遣いとしては、会話の主導権が向こうにあると言う状況は歯がゆくて仕方がない。どうにか取り返せないかと逡巡する間に、最上の猛攻が始まった。

 

『ところで話は変わるけど、お仕置きと聞くと少しエッチな想像をしちゃうのは私だけかしら』

 

「うわあ……」

 

そのたった一文で敗北を察する。

これはもうダメな気がした。何がダメって頭がダメだ。最上の頭がまじでおかしい。

まあしかし俺も男なので、会話の行く末に興味があったから乗ってみる。怖いもの見たさと言うやつだ。

 

「性癖マゾなら垂涎ものじゃねえの」

 

『あなたもそうなの?』

 

「悪いけど、俺はまだ反抗期を脱してない純粋無垢なお年頃でね」

 

そんな風に、だらだらと無駄話に興じた。

会話の内容は主に男の性欲について。互いに高校三年生のお年頃。そりゃあ性欲なんて腐るほどあるだろうが、一度しか会ったことのない、大して知りもしない異性を相手にエッチな話題に興じるのは意味不明すぎる。

なぜこんな会話をしているのかと電話の最中何度も思った。

 

「天神館の特待生は寮住まいだよ。みんな同じ部屋で寝泊まりしてる」

 

『みんな同じ部屋? 淫らなのね』

 

「言葉が足りなかった。男女は別」

 

『がっかりだわ』

 

十分ぐらいそんな話をしていた。

我慢強い方を自負しているが、そろそろ止め時だ。これ以上は耐えられない。俺の中の常識が悲鳴を上げている。

 

「で、いい加減話を戻すけどなんの用?」

 

『あなたにお仕置きがしたいの』

 

先ほどとずいぶん言い方が違った。たぶん性欲が言葉を捻じ曲げたのだろう。頭がおかしい。

 

「どっちかと言うとお仕置きはされるよりもやりたい派でね」

 

『素敵だわ』

 

墓穴を掘ったかもしれない。

 

「冗談はさておき、あれだろ。剣華の一件の罰とかだろ?」

 

『隠さなくてもいいのよ。人は皆度し難い欲望を持っているものだから。かくいう私もその一人』

 

「お前と一緒にするなマゾ」

 

『あんっ』

 

一緒くたにされた拒絶反応が強めに出て、ついつい語気が荒くなった。そして電話越しに聞こえてきた艶めかしい吐息。

テレフォンセックスなるものの存在を思い出す。今までそれの何が面白いのかと歯牙にもかけなかったが、場合によってはそれなりに面白いのかもしれないと考えなおした。

でもやっぱり直接触れ合う方が楽しいと思う。

 

「で、どんな罰だって?」

 

『川神山のごみ掃除と学園長は仰ってたわ。次の休日にこちらに来てくれる?』

 

「わかった」

 

用件はそれだけだった。

その気になれば一分とかからず終わるのに、すでに十分以上を費やしている。

何のために費やしたかと言うとエロ話のためだった。時間の無駄でしかなかった。

 

「満足したか? 切るぞ」

 

一体何に満足したのか。あえてそこに言及しなかったのは腰が引けたからだ。これ以上こいつと話したくない。

俺が女性に抱いてる理想像と言うか、一般的な女はこんな開けっ広げにエロトークはしないと言う認識からかけ離れすぎていて、そのくせ本人は非常に魅力的な女性であると言うのがなんかもう無理だった。

 

『もう切るの?』

 

「他に話すことないだろ」

 

『そう……。分かったわ。私もそろそろお風呂から出るから』

 

絶句する。

ざばりと電話の向こうで湯から出る音がした。

 

『思わぬ長湯だったけど、とても気持ちのいいひと時だったわ』

 

吐息混じりの声を聞く。全身全霊を振り絞って平静を取り繕った。

 

「いい湯だったか?」

 

『とっても』

 

そりゃよかった。

 

『次はもっと過激な話をしましょう』

 

「次なんかねえよ」

 

『残念』

 

もう二度とかけてこないでくれと電話を切る。

携帯を投げ捨て、畳の上で伸びをする。電話をしただけなのにひどく疲れた。変態を相手にするのは体力を使う。

 

「これで影が薄いって何の冗談だよ……」

 

最上旭の川神学園での評価は影の薄い美人と言うものだった。

それは全て存在感を抑えつける技のせいなのは知っていたが、たった一度の電話ですらこの存在感だ。まったくいい性格してる。

あの親にしてこの娘あり。血は繋がっていないらしいが、そんなの大した問題ではないのだろう。

 

「次の休みに川神学園かぁ……」

 

頭のメモに予定を組んで寝っ転がる。

面倒だなあと言う気持ちが強かったが、鉄心さんが呼んでいるなら行かないわけにはいかない。

これが最上が呼んでいるだけだったなら高確率でパックレた。それぐらい嫌な相手だった。

 

 

 

 

 

多馬川のせせらぎを眺め、多馬大橋で変態を探し、川神特有の植物を摘んで歩いた。

商店街で甘味を食し、義経フェア開催中の本屋を物色し、たまにいる九鬼従者部隊に手を振った。

そんなこんなで約束の時間に川神学園についた。私服姿で正面から校門をくぐったところで警備員に呼び止められもせず、手回しの良さに感心する。

そして玄関口の前に最上旭の姿を見つけ一気に嫌な気分になった。

 

「うーす」

 

「こんにちは。時間ぴったりね」

 

最上が手首の腕時計を見ながら言った。意外だわと感心している最上に、そりゃそうだと肩をすくめる。

 

「鉄心さんが呼んでるなら遅れらんないし」

 

「真面目なのね」

 

「そうでもない」

 

ただ恩があるだけだ。恩があるから言うことを聞く。それがないなら聞く保証はない。九鬼が絡んでくるなら多分聞かないだろう。その時の気分にもよるが、そんな気がする。

 

「で、肝心の鉄心さんどこ?」

 

「もうすぐいらっしゃるわ。学園長はここで待てと仰っていたから」

 

「待てか。まあ犬扱いされるのは慣れてるよ」

 

言った後に後悔した。それはちょっとした軽口と言うか誓って他意はなかったのだが、最上は瞳を輝かせて俺を見た。

 

「奇遇ね。私も犬のように扱われるのに憧れてるのよ」

 

「お前の犬と俺の犬は全然意味が違うから、一緒にしないでくれる?」

 

「照れなくてもいいのに」

 

「お前の目は節穴か?」

 

やはりこの女はどうしようもなく手遅れらしい。

ここまで性欲を開けっ広げにしている女は中々いない。どう扱えばいいか悩む。俺の男心は下心を叫んでいるが、それ以上に理性が拒んでいた。

すでに主導権はあちらにあって、取り返す気力は湧いてこない。現在進行形で手玉に取られている。いやだなーと思う大半の理由はそれだった。

 

「休みの日にわざわざ出迎えご苦労さん」

 

「評議会の仕事があるから、そのついでよ。大したことではないわ」

 

「三年生なのに、まだ評議会なんてやってんの? 大変だな」

 

「もう少し。生徒会が交代するまではね」

 

どうでもいい会話で暇を潰す。

鉄心さんが遅い。早く来てくれと内心叫びつつ、おくびにも出さないよう注意する。出したらその瞬間突っつかれそう。怖い。

 

「そう言えば、今晩一緒に夕飯でもどうかしら。お父様が話したいことがあるらしいのよ」

 

「……あー」

 

多分例のお願いの話だろう。梁山泊を川神学園に編入させる件。

最上がそれを知っているかはともかくとして、誘われたことに対しては嫌ですとは言えない。いうなれば仕事の話だ。仕事に感情は関係ない。例え変態が相手であってもだ。

 

「じゃあどっかレストランでも予約するか……」

 

気が進まないながらも一応前向きに考える。

川神の地理には明るくない。どこが美味くて不味いかなんて全く知らない。だからネットで検索してよさそうなところを探して……いや、面倒くさいから幽斎さんに丸投げしようかな。

そんなことを考えていた俺にとって、続く最上の言葉は非常に都合が良かった。

 

「場所はこちらでセッティングするわ」

 

「じゃあ頼む」

 

それで終わり。

 

丁度その時に鉄心さんの気配を見つけたので、早く来てーと気を送る。

答えるように鉄心さんの気が揺れ、一瞬で近くまで移動した。

 

「待たせたのう」

 

突然現れた鉄心さんに最上が驚いていた。

 

「時間過ぎてますよ」

 

「ほっほっほ。すまんのう」

 

朗らかに笑う鉄心さんに反省の色はない。直前まで鉄心さんの気配は川神山にあった。

一体何をしていたのやら。ひょっとしてごみでもばら撒いていたのかもしれない。いくら俺への罰とはいえ、そんな性格の悪いことしてほしくないが。

 

「旭ちゃんもわざわざ手を煩わせてすまんかった。色々と忙しいじゃろうに」

 

「いいえ学園長。私も彼に用がありましたから」

 

それじゃあまた後でと最上は去っていく。てっきり最上も一緒に来ると思っていたが違ったらしい。電話で済むことを伝えるために俺を出迎えたのか。実はあいつ暇なんじゃないのか。

 

そんな思いで最上の背中を見つめていた俺に、鉄心さんが茶々を入れる。

 

「良い子じゃのう。特にあの艶のある黒髪がちゃーみんぐじゃ」

 

「見た目あれでも中身は変態ですよあいつ」

 

「ますます気に入ったわい」

 

ぽっと頬を赤らめている鉄心さんから少し距離を取る。

どうやら鉄心さんは黒髪が好きらしい。思い出せば、この学園の体操服がブルマーなのも趣味の一つだったはず。楽に100歳越えてるくせにまだまだお盛んなようだ。長生きの秘訣だろうかと逆に感心してしまう。

 

「さて、祐一郎や。今日のことは旭ちゃんから聞いておるかのう」

 

「川神山のごみ拾いだって聞いてます」

 

それで、と非常に気乗りしなかったが、気になっていた点を問い質す。

 

「本当にごみなんてあるんですか? あの山に」

 

鉄心さんは出来のいい生徒を見るような目で微笑んだ。

 

「行けば分かるが、ほとんどないと言って良いじゃろう」

 

「でしょうね」

 

川神山は日本有数の霊山だ。

山そのものが立ち入り禁止になっており、鉄心さんの許可がなければ立ち入ることは出来ない。

日常的に川神院の修行僧たちがランニングしているらしいが、それ以外には数えるほどしか許可は下りないと言う。

そんな山に、鉄心さんの目を盗んでごみなんて捨てようものならどうなるか。考えるだに恐ろしい。

 

「夏休みの間に肝試しを行った。川神学園の生徒が十人ばかし山に入ったからのう。少しはあるやもしれん」

 

「それを探すんですか?」

 

「いや」

 

鉄心さんは首を振る。

 

「そんなことでお主の時間を割かせるのはいささか心苦しい。ここに呼んだ本当の理由は、見てほしいものがあるからじゃ」

 

「なんです?」

 

「幽霊じゃよ」

 

俺の顔を窺う鉄心さんはどことなく楽し気だった。嘘だろとかそういう反応を期待しているのかもしれない。

まあしかし幽霊に怖がる年頃でもないし、俺の反応は至って冷めていた。

 

「いいですよ。行きましょうか」

 

鉄心さんはがっかりした様子で「こっちじゃ」と先導した。その後に続いて川神山に向かう。

 

 

 

 

 

山を登る。

俺や鉄心さんなら頂上まで一秒かからずに行けるが、今は一歩一歩ゆっくり歩いている。

周囲に人の気配はない。代わりに獣や虫の気配があちらこちらにある。鉄心さんの言う幽霊らしきものはどこにも見えない。

 

山に登り始めてからと言う物、鉄心さんは途端に無口になった。

老体とは思えない軽やかな動きで急斜面を登っていく鉄心さんについて、俺もぴょんぴょんと登っていく。

獣道ですらない場所を行く鉄心さんは、まるで遭難者を探すようにあっちこっちを蛇行しながら進んでいた。

 

「いないですねえ、幽霊」

 

「もうそろそろじゃて」

 

さいですかと返事をする。

そうは言ってもまだまだ日は高く昇っている。幽霊と言えば丑三つ時と相場が決まっている。夜に出直すべきじゃないかなあとぼんやり思った時、意識の片隅に人の気配を感じた。

 

「鉄心さん」

 

一瞬、ちらっとだが服の切れ端のような物が見えた。

しかし視線を向けるとそんなものはどこにもない。捉えたはずの気配も忽然と消えていた。

 

「あっちに今誰か――――」

 

いましたよ、と視線を前に戻せば、鉄心さんの姿が消えていた。

気を抜いたつもりはない。いつ何が起こってもいいように警戒はしていた。だと言うのに鉄心さんはどこにもいない。

 

してやられたなと言う気持ちで気配を探る。しかし鉄心さんの気配はどこにもなかった。それどころか、どれだけ長距離を探しても人ひとり見つからない。

 

「うーん……?」

 

これはどうやら鉄心さんが消えたと言うより、俺が移動したと言う方が正しいようだ。つまるところは神隠し。

そのことを察して、キョロキョロと周りを見て、久しぶりに、少しだけ、ワクワクした。

 

ワクワクしないわけがない。高校生になってからというもの、向かうところ敵なしだった。大体のことは掌の上で、予想外のことが起きても力づくで何とか出来た。

しかし今は俺の手に余ることが起きている。何が起こっているのかまるで分からない。だからワクワクしている。これから何が起きるか分からない状況が楽しく思えた。

 

「どうしようかな」

 

ちょっと考えて、とりあえず歩き回ることにした。歩けば何かしら変化があるだろうと安易な考えで。

 

予想に反して、期待した変化はすぐに訪れた。

あちらこちらで人の気配が現れてはすぐに消える。一瞬人影を見たかと思うと、瞬きの間に掻き消える。

ひょっとして幻覚でも見せられているのかと、気を放出してみたがそれらしき手ごたえは何もない。だから多分幽霊だろう。そう思っておく。

 

どうしたものかと頭を捻る。そもそもここはどこなのか。

山にはいるのは分かる。しかし周囲の状況から川神山ではないのが分かった。川神特有の植物が一つも見当たらない。

 

神隠しにあったと言うなら、人っ子一人いないのも納得ではあるが、場所の見当が付かないのは少しまずい。

帰れるどうかと言う現実的な問題がある。

 

とりあえず、何もしないわけにもいかないので歩き回る。

それで事態が好転する保証はないけれど、遭難したわけでもないので歩き回らない理由もない。

助けを待つつもりはさらさらなく、自分の力で助かるつもりでいた。その気になれば周囲を焦土にすることだって出来る。する意味がないからしないだろうけど。

 

点滅する電灯のように、人の気配が在っては消え、在っては消えを繰り返す。それが酷く鬱陶しい。

目と鼻の先で懐中電灯のスイッチを連打されている気分。いやーうざったい。

 

いよいよ我慢も限界に達し、真面目に考えることにした。

その場しのぎの状況判断ではなく、根本的な解決を目指して考える。

 

鉄心さんが言っていた。幽霊を見せたいと。

幽霊らしき者はいる。周りにたっくさんいる。ただし姿を見ることが出来ない。いると思った次の瞬間には消えている。

 

もしあれが本当に幽霊なら、幽霊じゃなくても、存在しているのなら消えるのはあり得ないのではないか。

見えなくなっているだけだ。存在を認識できなくなっている。

一瞬だけアンテナが合って、次の瞬間にはアンテナが外れている。そう考えた。

 

一瞬だけアンテナが合うのなら、ずっと合わせることも出来るはずだ。

ちょっと集中してみる。そこにあるものを見えるようにするだけだ。何も難しくない。簡単なことだ。

 

自分自身に言い聞かせ、自分の中の何かを変えようとする。

何がアンテナなのか分からない。どうすればいいかなんて見当もつかない。けれど出来る。その自信がある。

 

一つずつ試していく。自分の中にあるはずのアンテナを探し、目に付いたものから調整していく。

カメラのピントを合わせるように、焦点の合う位置を探していく。

 

集中力には自信がある。精神鍛錬なんて呆れるほどやった。だから、どれだけの時間そうしていたかなんて覚えてもいない。

 

ようやく見つけたアンテナは、自分でも驚くほど身近にあった。アンテナを操作すれば、今まで存在すら知らなかった扉が開き、新しい世界が顔を覗かせる。

 

気付けば、すぐ近くに人がいた。

古い胴着に身を包んだ年配の男性が、同じような年齢の老人と向かい合っている。

俺の手がその人の体に触れることなく空を掴んだ。二人は俺のことなど気にも留めず、拳を交えた。

 

その他にも周囲には大勢の人間がいる。俺の存在に気づくことなく、触ることも出来ず、意思疎通は図れない。そしてその人たちは総じて戦っていた。目の前の敵とがむしゃらに戦っている。

 

達成感が身を包む。

同じだけの疲労感を覚えて手ごろな木の根に腰を下ろした。いつの間にか川神山に戻っていたらしく、近くに鉄心さんの気配を感じ、山のふもとにはたくさんの人の気配がある。

 

これだけ近いなら直に鉄心さんの方から来るだろうと思い、相変わらず戦ってばかりいる幽霊たちを眺めて待つことにした。

 

 

 

 

 

日が傾いて西日が差す。

いつの間にか空は茜色に染まり、少しずつ藍色に変わっていた。

背後で人の気配がして、振り向くと鉄心さんが立っていた。

 

「探したぞい」

 

「どうも」

 

鉄心さんは腹あたりまで伸びた長い髭を撫でながら、困り顔で俺を見ていた。

視界の隅で見たことのない技を繰り出す幽霊に気を取られ、注意が逸れる。俺の様子に気づいた鉄心さんは視線を辿って目を眇めた。

 

「何が見える?」

 

「幽霊」

 

「そうか」

 

鉄心さんには見えないらしい。俺には見えている。なぜだろう。京都の生まれだからだろうか。そう言えば、親戚で幽霊が見えると言う子供がいた。誰も本気にしなかったが、もしかしたら本当に見えていたのかもしれない。

 

「あれはなんでしょう」

 

説明を求めて鉄心さんに聞く。

 

「修羅道を知っておるか」

 

「阿修羅なら知ってますよ」

 

「阿修羅道とも言うのう」

 

鉄心さんの口から出てきたのは、ゲームなどでよく聞く単語だった。

 

「修羅道とは、争いの絶えることのない死後の世界の一つじゃ。一般に言う地獄ではないが、同じとする者もいる」

 

どっこいせと俺の横に腰を下ろした鉄心さんは、俺の見ているものを見ようと目を凝らした。しかしその視線は惑いっぱなしで、一か所に定まることがない。

 

「死してなお、力を求める者の行きつく先がそこじゃ。生涯を武に捧げ、魂すらも捧げた者たちの末路じゃ」

 

鉄心さんの言葉には同情や哀れみが多分に含まれていた。思わず訊ねる。

 

「それは悪いことですか」

 

「それは人によるじゃろうて。お主はどう思う。良いことじゃと思うか」

 

「どうでしょうね」

 

明言は避けた。鉄心さんはついに見ることを諦めたらしい。

眉を八の字に寄せ、困ったような口調で言う。

 

「何事も過ぎたるは猶及ばざるが如しと言う。儂は好ましくないと思う。あくまでも儂は、じゃが」

 

「そう思うんだったら、孫に教えてやったらどうです。少しは戦闘衝動消えるんじゃないですか」

 

「百代には見えんじゃろう。儂にも見えん。あの子は幽霊が大の苦手じゃ。信じもしないと思う」

 

鉄心さんは溜息を吐いた。

何に対する溜息か。孫の情けない姿でも思い出したのだろうか。

 

「お主なら見えると思うた。川神学園にも言霊を扱う者はおるが、お主のそれは少し異なっているように思うた。ただの勘じゃったが、やはり見えたのう……」

 

よっこいせと鉄心さんが立ち上がる。

帰ろうと踵を返したその背中に、まだ話は終わってないと問いかける。

 

「これを俺に見せた理由は何です?」

 

「……」

 

「わざわざこんなものを見せて、俺にどうしてほしいんですか?」

 

「理由はない。ただ見せようと思うた。それだけじゃよ」

 

その言葉は、自分で考えろと突き放しているような気がした。

鉄心さんには何度もお世話になったからわかる。何事においても、鉄心さんには鉄心さんなりの理想があった。曲がりなりにも教育者なのだから、子供に望むところは特に多いはずだ。

それが今回に限っては言葉少なく、何も言わないと言うことは、つまりそう言うことなのだと自分なりに解釈する。

 

「鉄心さん」

 

「ん?」

 

「ありがとうございます」

 

「礼には及ばん。お主に教えることも少なくなった。これで最後じゃ」

 

いささか寂しそうな口調が胸を衝く。

再び歩き出すその背中に向け、「ありがとうございます」ともう一度礼を言った。

 

鉄心さんはこれで最後だと言った。もう教えることは何もないと。

つまり、鉄心さんにとって俺は一人前なのだ。今日のこれはその儀式なのだろう。俺が川神院に弟子入りしていれば免許皆伝なり何なり出来たのだろうが、そういう訳ではないからこういうことになった。

 

幽霊の存在は今日まで信じて来なかったが、死後の世界があることを知り、幽霊もいるところにはいるのだと知った。

だからどうしたと言う話ではある。知ったところで何が変わるのかと。

それを考えろと言うのが鉄心さんの最後の課題だった。同時に、これからは俺を子供ではなく一人前の大人として扱うと言う宣言だった。

 

修羅の道を行く先人たちを知り、この期に及んで自分の力の一端を垣間見た。正直武道家として天辺は見えたと思っていた俺だが、まだまだ強くなれると確信する。

 

どうしようかと束の間考え、今はどうでもいいと思い直して鉄心さんを追いかける。

考えるのは背負っているものを下ろした後でいいだろう。人生は長い。考える時間はたくさんある。そう思った。




38話の後に書こうと思って挫折した幕間です
特に本編には関わらない内容ですがようやく書けました

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