宿屋の一階には共有スペースが設けられている。というか、食事処の二階を俺達黒猫団は間借りしている。木製のテーブルには白いクロスが掛けられていて、日本人には親しみやすいスペースという感じだ。
俺はその空間の窓際二人掛けの席に一人座り、コーヒーを啜っている。もう昼前だが、この店はあまり栄えていないらしく、俺好みの静寂な空間だった。
コーヒーはやはり甘いのがいい。SAOの中なら、いくら砂糖とミルクを入れても健康を害することはない。本物とまではいかないが、かなりMAXコーヒーに近い味わいのコーヒーになる。
カランカランと来客を報せる鐘が鳴る。折角一人でコーヒーを静かに楽しめる空間に、誰か入ってきたようだ。うるさいリア充連中でなければいいのだが。
「あれ、ハチマン?どうしてここにいるの?」
名前を呼ばれ、目だけを動かして見る。首を傾げ、てくてくと俺の方に近付いてくる黒髪の少女は《月夜の黒猫団》の元祖メンバーの紅一点のサチ。
今日は二十八層ボス攻略でメンバーが減るため、レベリングは中止して各自街で息抜きでもという話になったのだが、もう帰ってきたらしい。
自分の泊まってるホテルにいるだけでそんなに不思議そうな顔されると、「お前まだいたの?」と言われてる気がしてちょっと傷付くんだけど……。
「ボス攻略に行ったんじゃなかったの?」
サチは言いながら、俺の正面に座る。あの、あんま顔を近付けないでくれる?好きになっちゃうから。
「それはだな……」
椅子にもたれかかるようにして距離を取りながら、疑問に答えようとした時、また来客を報せる鐘が鳴る。ドアをぶち破る勢いで入ってきた全身黒の少年は、俺を見つけると鬼の形相で叫ぶ。
「ハチマァァン!!お前ボス攻略逃げただろ!?」
「なるほど……」
サチが納得していた。どうやら説明の手間を省けたらしい。前線では《黒の剣士》という二つ名で通っているキリトは、顔を真っ赤にして怒っている。《赤鬼のキリト》とか二つ名が付きそう。
「落ち着け。俺はボス戦に参加するなんて一言も言ってない」
「朝いなかっただろ!だから先に行ってるんだと思って……!」
「鼠に呼び出されてな」
「嘘だろ!アルゴのこと苦手なくせに!」
キリトはうがー!と頭を抱えてもんどり打つ。おいおい、飲食店で暴れるな。というか、お前の早とちりだろ。俺は明け方にこっそり宿を抜け出しただけだ。
「にしても早かったな。まだ出発して一時間くらいしか経ってないだろ」
「ボスを誰かさんだと思ったら早く狩れたよ」
「ちょっとキリトさん、荒みすぎてませんか?相談に乗る……冗談です、やめろ馬鹿、抜刀すんな」
キリトが背中の剣に手をかけたあたりで言葉を止める。これ以上ふざければ斬ると、彼の目は語っていた。圏内なのに安全な気がしない。
「キリト、諦めなよ。ハチマンだし、目が腐ってるし」
「ちょっと?ハチマンを悪口みたいに言うのやめてくれる?あと目は関係ないし」
くすくすと笑うサチを、ジトッと睨む。
「……はあ。次は絶対お前も参加しろよな」
大きくため息をつき、やっと剣の柄から手を離すキリト。えーめんどくさいなーと思っているとキリトが再び剣の柄に触れる。
俺は慌てて両手を挙げ、降伏の意を示す。こいつ、エスパーかよ……。
・ ・ ・
その夜、俺は一人部屋で準備をしていた。これから新しく解放された二十九層に赴き、下見を兼ねてモンスターをいくらか狩るつもりだ。
二十九層のボス攻略に参加することが確定してしまったため、レベル上げをしなければならないからだ。現在レベル四十六だが、このゲームで用心するに越したことはない。
キリトも次の攻略に参加すれば、あとは参加しなくても文句は言えないだろう。働かないためには努力は惜しまない。
だいたい、すでに人間関係ができあがっている場所に俺が馴染めるはずがない。唯一キリトがいるが、キリトが他の人間に誘われてしまえば詰みだ。一手で詰みとか、俺は詰将棋かよ。
引き続きポーションの個数を確認していると、コンコンと部屋の扉がノックされる。キリトかなと思ったが、無視することにした。
これでよし。あとは明日の朝に「いやー、よく寝たー。十二時間くらい寝たわー」とか言えば誰も責めることはできない。ソースは俺。数学の点数を見た母ちゃんが夜部屋に来たのを、これで何度か回避した。
ちなみに、自分からノックの話題に持っていってはいけない。「昨日、誰か部屋に来た?」とか言うとやぶ蛇だ。
「ハチマン、寝ちゃった?」
扉の向こうから聞こえてきた遠慮がちな声で、サチだと判る。こんな時間に何事かと気になりはしたが、一度目を無視した手前反応すれば責められる可能性があるので、再び無視する。
気を取り戻して再びアイテムウィンドウを操作し始めるとガチャ、と音が聞こえた。
「やっぱり起きてた……」
入り口でサチは不機嫌そうに言う。いや、何で鍵開いてるんですか……。オートロックじゃないの?
「……聞こえなかったんだよ」
「嘘だね。面倒だから無視してたんでしょ」
言い当てられぐう、と押し黙っている間にサチはずんずん部屋の中に入ってくる。そのままベッドに座る俺の隣に座る。だから近いってば。
サチはいつものメイル姿ではなく、薄い水色の寝巻きに枕を抱いている。
「何か用か?」
「うん……」
……待てども、サチは口を開かない。ただ枕をギュッと抱きしめている。その枕、部屋から持ち出せるってことはmy枕なの?
こんな時間に小町以外の女子と部屋で(しかもパジャマ)二人きりになったことないから、ハチマンどんな顔すればいいか分からない。笑えばいいのかな?
数分間の沈黙の末、サチはようやく話し始める。その内容は、少なくとも俺には一生考えても予想できないものだった。
「ねぇ、ハチマン。……一緒に寝てもいい?」
「…………あ?」
たっぷり間を置いてから聞き返した。恐らく、もう一度聞いたところで、理解できないだろう。けれど、聞き返した。
レベル修正。
指摘されるまで気付かないとか……