次の日の早朝。蝉時雨が鳴る前の朝が静寂を覚える。未だに閉じようとする目を擦ると、果たして陽の光は頬を灼いていた。梅雨寒を持ち帰った雨雲が戻ることもなく、憎らしい太陽が見下ろしている。晴天と言うべきなのだろうが、文月の空は深淵のように底知れぬ恐怖を植え付けさせる。
特にすべきこともないので、その恐ろしい空を覗いていたら漸く蝉が鳴き始めた。クマゼミだった。日本では蝉と言えば真っ先にアブラゼミが思い浮かぶが、蝉の種類を答えろと言われたら間違いなく三番目くらいに数えられる程そこら中にいる。クマと呼ばれる昆虫で思いつくのはこれとクマバチくらいだろうか。クマバチもたまに見かけはするが、あの羽音が怖くて近づけない。ああ見えて温厚らしいが聊か信じ難い事実だ。クマバチだろうがスズメバチだろうが、PSIを嗜む私にとってはどちらも大差無いのだが、こればっかりは理性でどうにかなるものじゃないと思う。縄張り意識が強い割に、人間への警戒心は薄いらしいがそれはそれで恐ろしいものだ。
朝風呂に浸かってから家を出る。健康のためにランニング、とかおっさん臭いことはしないが、如何せん夏休みは体が鈍るので週二くらいで、PSIを使った運動を始めようと思う。
PSIは大きく分けて三つの力で構成されている。裂波のバースト、心波のトランス、強化のライズの三つがそれだ。まず裂波のバースト。これは念動力や発火能力などが該当され、内の世界から外の世界へと干渉する想像力。稀に自分でも扱いきれないバーストを持つ人もいるらしく、その場合には幾つか制御方法もある。
次に心波のトランス。精神感応またはテレパシーと世間で知られているのがこれに当たり、透視や予知もトランスに分類される。アンチ・サイキックと呼ばれる、名の通り他のPSI能力に対して負の作用を与える力もトランスである。バーストを仮にアウトプットと称するならば、こちらはインプットと名付けるのが適切だろうか。
最後に強化のライズ。ライズは2つに区分けされており一方をセンス、もう一方をストレングスと言う。センスは反射神経などの五感を高め、ストレングスは筋力や身体能力を高める力だ。
裏通りから表通りへ。障害物と言うべきものがないのを確かめてから体中の筋を伸ばす。一呼吸終えてから、息を吸い―――
「ライズ…!」
私の呟きに応えるように体中を熱が走る。腓腹筋を収縮して爆発的な加速を得る。最高速に達したと共に高跳び。一軒、二軒とそのまま飛越して、三階建の少し高い屋根に足を擦り合わせながらも難なく着地。
「…そういや、髪結ぶの忘れてたっけ」
ポケットの中に手を突っ込み弄り、見つけたゴムで髪を綰ねてポニーテールを作る。髪型に特に拘ったことはないが、恐らくツインテールは私には似合わないだろうな。わざわざ二つに分けるのも面倒だし、何より高身長な女がツインテールだと何というか、威圧感がある。その点ポニーテールは、私でも似合うし活発そうに見えて好印象だろう。もしかしてその活発さがギャルっぽさを醸し出してるのかな。
今更ながらどこに向かうか迷っていたが、取り敢えず気の向くままに走ることにした。
*
どうやら気がつかないうちに琵琶湖まで来ていたらしい。久しぶりに使ったライズは、思いの外まだまだ余裕があるようで、このままUターンして帰るのも問題無い。どうせ滋賀まで来たのだから何か買って帰りたいが、荷物が増え過ぎると水の上を走るのは疲れる。かと言って、サイコキネシスで空を飛ぶのも脳細胞の無駄使いだろう。さて、どうしたものか。
「あれ?あなたもブラックバスを釣りに来たの?」
物柔らかな声に振り返ると、薄い褐色肌をした背の低い少女が仰向くように見ていた。漆黒に染められた髪は、肩に届くか否かというショート。茶色い瞳の奥は、その見て呉れに反して大人びていた。
狼狽えながらも私は言葉を返すことにした。
「え~と…私は違うんだけど、お嬢ちゃんは親御さんと一緒に来たの?」
「親はいないわ。それと私はこう見えて二十五よ」
「え…。年上なんだ…」
「あなたはいくつなの?」
「私は十八で、今年で十九になります」
「ふーん………」
値踏みするように目を細める彼女は、私の体を隅から隅まで見張る。どうにも人に見られるのは気分が良くない。
「うん。なかなかのスタイルね」
「はあ、どうも」
「あなたもどう?」
彼女は肩に担いでいた釣り竿を、上下して目を向けさせるように促す。
ブラックバスか。魚は調理の仕方によって好き嫌いが分かれるんだよね。焼魚は好きだけど煮魚は嫌いだし、刺身は大好物だけどね。ブラックバスに興味が無いわけじゃないけど、運動の一環に釣りってどうなの。
「いえ、そろそろ家に戻らないと行けないので…」
「えー!いいじゃん一緒にやろうよー」
駄々を捏ねる彼女は歳相応の子供に見え、とても二十五には見えない。
まあ急用があるわけでもないし別に構わないのだが、やはり釣れるのを待つのは億劫だ。
「すいません。また次の機会があったらお願いします」
「仕方ないなあ。私は朝方なら雨でも降らない限りここにいるから、竿はこっちで準備するしまた来てよ。あっ!そうそう。私は
「御織栞です。よろしくお願いします」
私がお辞儀をすると忽那さんはよいよい、と私の肩を軽く叩き豪快に笑った。私も口を綻ばせたが、正直な話、余程行く気でも起きない限りここに来ることもなくなるだろう、と内心考えていた。これは単に人と接するのが面倒なだけで、断じて私が社会不適合者というわけではない。
*
忽那と別れた後、再びライズで家に帰り、前日同様に駅から駅へと向かって研究所まで辿り着いた。変わらずに敷かれている厳重警戒に気分を害しながらも、エレベーターへと向かった。
重い扉が開かれて所狭い空間が露わになる。開、閉、と横に並ぶボタンの右を押して、下から順に並ぶ自然数に目もくれずB1と表記されたそれを押す。ガコン、と音を立てて下へ向かうエレベーター。これまた余談だが、狭い空間とは実に心が落ち着く。もちろん一概に狭い空間とは言えず、心を障るものが何もない状況に限るし、出来れば無機質な箱の中がいい。今となっては黒歴史だが、ある小説を読んでダンボールを身に纏い一日中家でごろごろしていた頃は、中々悪い気分じゃなかった。一人暮らしだとどうも変な行動を起こしてしまう癖があるが、これは私に限ったことではなくどんな人間だろうと経験あるに違いない。いや無いのだろうか。
ガコン、ともう一度揺れたかと思うと扉が開いた。予想通り真っ暗だったが、夜目が利く私には然程妨げにはならなかった。陳ねた壁が剥がれ落ちながらも、床一面に敷かれる陶磁器製のタイルは端麗に広がっていた。
地下一階、特殊能力研究室。いわゆる人体実験の凡そはここで行われている。脳に携わる各部門のエリートを集めて、私の脳を弄くる実験だった。昔は学校が終わったらすぐに向かわされたため、私の別荘と言っても過言ではない。そんじょそこらの駄菓子屋より駄菓子が揃ってたので居心地も悪くなかった。だが日に日に実験は過激になって痛みを伴うようにもなったが、もうその痛みにも慣れた。住めば都と言うがあれは間違いないだろう。
埃を被った机を指でなぞりながら、奥へ奥へと進んで行く。ある扉の前で立ち止まり、指紋認証システムを抜けて部屋にはいると、閑静な図書室を思わせる空間が広がる。旧私の部屋だ。さらに歩みを進めると、立ち並ぶ本棚の林の向こうに人影が目に入る。またお前か。
「おはよう、10号」
「おはようございます、乾さん。出て行ってください」
「辛辣だねぇ」
「私の部屋ですから」
指紋認証で私以外は来られないようになってるはずなんだが、所長特権か何かだろうか。どちらにせよ2日連続で朝っぱらからこの顔を見たくない。
思っていたとおり何らかの用があるようで、彼は顔を引き締めてこちらを見据えてきた。
「単刀直入に言わせてもらうよ。グリゴリ06号、01号の居場所が判明した。上からの命令で、君を正式に軍事利用することになり、早速だが彼らを殺してほしいとのことだ」
「…ッ!」
「肩書きは陸上自衛隊特殊戦闘員ってとこかな?君の場合、海上だろうと航空だろうと関係無いか」
「………そう…ですか。断ることは?」
「国家反逆罪だろうね。06号や01号のように扱われるはずだ」
クソ国家め、と内心舌打ちする。もういっそ他の実験体と仲良く滅ぼしたほうがいいんじゃないか。しかし、それだと本当に社会不適合者になってしまう。いや、社会そのものを壊すから寧ろ逆になるのかな。何れにせよ承るしかないか。
「わかりました。それで場所は?」
「北の大地北海道、函館湾を湾沿いに超人的な速度で走っているとのことだ。そしてこれは私の予想だが、彼は仲間を探しているんじゃないかな」
確かに、テレビではそんなことを言っていた。サイキッカーでありながら普通の人間を装っていた私だからわかるが、他人との違和感を拭えずに生き続けるというのはなかなか耐え難い頃もあった。そんな輩が国に叛いても何らおかしくはない。潜在するサイキッカーの数は未知数だからこの件でどう傾くかは見ものだし、自分がどういう存在で、どういう目的で動いてるかを知らしめるにあたっては効果的だろう。あの全国中継は敵ながら天晴だ。片割れは全裸だったけど。
「ちなみに、彼らを止めさえすればいいとのことだ」
「…なるほど。じゃあ今夜にでも行かせてもらいます」
乾の言葉に含む意味を察して、私は新幹線に乗るために踵を返した。