宵の夏。鬱蒼と蔓延る草木の眠りを妨げ、地を踏む音が静謐を破る。夏めく夜空は都会から離れたせいか燦然と輝き、風光明媚な地と言えるに相応しい。
私は首都圏にある別の研究所へと足を運んでいた。無地のシャツに黄土色のカーディガン、下には真っ赤なキュロットを履き、足は同じように赤いパンプス。動きやすいランニングシューズがいいと思ったが、特に交戦するわけでもないだろうし、何しろ服装に合わないと考えパンプスに至った。
今朝と同じように髪を結び、歩きながら白衣に袖を通す。
「秘密研究所に侵入なんて柄じゃないけど…郷に入っては郷に従え、だよね」
Pacs。グリゴリ実験体を徹底管理するために用いられたヘッドギアの通称。脱走時に壊れたものの、媒介用のナノマシンチップは脳に埋め込まれたままのため、これを破壊することによって脳に異常を起こし、PSIを無力化できる。チップの融解コードは、研究所内の射場のロッカーにあるノートに書いてあるとのことだ。
昔、この事を射場が話してくれた。彼曰く、出来れば実験体達には穏やかに暮らしてほしいと言っていたが、状況が状況のためそうも言ってられないだろう。
一見、只の軍事研究所だが、地下は人体実験の爪痕が残っている第二次計画の研究所。射場以外の関係者は、天戯弥勒率いるグリゴリ実験体に葬り去れたものの、未練がましく研究所ごと残ったままだ。
「Pacsを埋め込まれたままなのは05号、06号、07号の三人。本来なら06号を潰すだけで事足りるけど、他二人も絡んでたら厄介だし三人共壊したほうがいいよね」
第一次はともかく、第二次の他の実験体にもヘッドギアを付ければいいのに。処理する側の気持ちも汲んでほしい。ついでに言うと、各実験体にGPS機能を取り付けてほしい。勿論私は御免被るけど。
いつものように頭のなかでぼやきながら、辺りを一望出来る丘に立つ。
「ん…?あれって、射場さん?」
私が立っている所とは別の高台に、冴えない眼鏡の奥から覗かせる自信無さげの目をした男。紛れも無く射場公一だった。よく見ると彼の近くに年端も行かない少女がいる。服装からして高校生、若しくは中学生だろうか。なるほど、彼が私に優しくしてくれた理由が今はっきりとわかった。
さすがに止めないわけにもいかず、発射点と着地点のみにライズを使って、彼の下へと足を伸ばした。
「こんばんは、射場さん」
「ッ!き、君が…何で…?」
「あ、あなたは…?」
予想外の出来事に射場と少女は驚く。誰だろうと、空から降ってきた人間に声を掛けられたら驚くのも仕方ないか。
意気地の無い男は放っておいて、私は少女に答える。
「私は御織栞。この人の知り合いです」
「君は…僕を、止めに来たのか?」
「そりゃあ止めますよ。いくらなんでも援助交『違うよ!』…冗談です。ここに来たって事は、Pacsを壊すんですよね?」
「相変わらず冗談がきついな…。不本意だけど、僕は06号を止めなきゃならない…!君は僕をどうするつもりだ?」
やはり彼も止める気だった。昔から正義感は強かったので概ね予想通りだが、06号を、と言ってるあたり他は壊さないつもりだろう。私としては05号と07号のも壊しておきたいので、あまり情報を漏らさないのが得策か。
「私も協力しますよ。取り敢えずは、ですけど」
「そうか、そうだろうな。君はそういう人だった。いや、君がいると助かる」
「あの、射場さん。彼女はどういう…?」
困惑したように少女が口を挟む。着地する直前、彼女がトランスを使っていたように見えた。おそらく彼女もサイキッカーなのだろう。
射場が口ごもっているのを考えると、私の存在は話していないのだろう。協力者といったところか。他の仲間にテレパシーでも送っていたとも考えられる。
「彼女は…」
「私はサイキッカーですよ、あなたと同じね」
「そう…私は雨宮桜子。よろしく」
女の勘はカオス理論すら超えると言うが、強ち間違ってもないようだ。やはり雨宮は私同様サイキッカーらしい。こんな子供のサイキッカーがいるとは、恐ろしい世の中になったものだ。
次は私から質問を投げ掛けてみようか。
「察するに、あなたの仲間は既に潜入済みなの?」
「ええ。さっき二人が研究所に屋上から入っていったわ」
「じゃあ私も屋上から行くよ」
「え…ちょっ―」
雨宮が何かを言おうとしていたが、その前に私は飛んだ。
*
屋上の扉は無理やり壊された痕跡があるわけでもなく、見張りと思われる迷彩柄の服を着た男は、白目で泡を吹いている惨状だった。驚くことに、奥へと進むに連れて、その数は著しく増えていく。僅かの呻き声が聞こえる中、その一方で、下から漏れる銃声は喧しいものだった。
白衣のポケットから持参していた見取り図を取り出す。恐らく破壊コードは雨宮の仲間が先にたどり着いてるだろう。差し詰め、私のすべきことはその輩との接触だろう。
「実験が行われていたのは地下四階。第一隔離セクター…ここから更にサブ通信ルームに行けば―」
「いたぞ!侵入者だ!!」
私が振り向くと、間髪を入れずに男は銃で撃つ。あれは89式だっただろうか、などと現を抜かしていたのも束の間。ライズを全開にして、顔に向かって進む鉄砲玉に手を翳す。血のように腕を流れるまであと数cmというところで拳を握る。
「………馬鹿な」
「いきなり撃ってくるなんて、人間性を疑うよ」
霊びを見る自衛隊員が放った銃弾は、有ろうことか私の手の上で眠った。
本来ならテレキネシスで止めるところだったが、あれの欠点は消耗が極めて早く、その割には挙動が遅いところにあるだろう。もちろん遠隔操作というのが最大の強みであり、私自身も重宝する力なのだが、膨大な力とは得てして穴があるというものだ。サイコキネシスも例外ではなく、あらゆるものに作用するその力の利点でもあり欠点でもある隔たり。焦点にまで意識を伸ばすという所作に時間が掛かり過ぎる。咄嗟の対応、つまり近距離戦では使いづらい。
だが、ライズなら話は別だ。ライズは神経と筋肉を活性化して凄まじい瞬発力を得ることで、近距離戦に於いて比肩するものなしと言える。センスによって反射神経を高めて俊敏性を増し、ストレングスによって身体強化を施す。更に、その上からバーストエネルギーを体全身に上乗せして身を守る。
これらによって、鉄砲玉の数発など恐れるに足らない超人的な能力を持っていると錯覚させる。尤も、只の人間にはサイコキネシスのほうが不可思議なのだろうが。
「まあ、咄嗟の事だから仕方ないとはいえ、銃ごときで使うことでもないけど」
文字通りに手のひらを返し、床に当たる鉛玉はそのまま転がっていく。私が一歩前に進むと、男は戦慄き尻餅をつく。私が殊更に微笑むと、男は壁を背に乱射する。
もちろん結果は虚しく、余すところ無く私の前で動きを止めて、そこから先へは進まない。
「恐怖は煽れたようだね。さっきのが最初で最後のチャンスだよ。あなたに勝ち目は無い」
「ひいいいいいいいいいいい!!!た、助けてくれ!!」
鞠躬如として泣き喚く男は赤子同然。頭を垂らし肩を震わせる彼を見ながら、仄かにだが私は高揚していた。もしかしたら私はサディストなのかもしれない。
待遇は悪くはないとはいえ、実験体と扱われ、遂には兵器として命じられた自分を恐れる同じ人間。私とこいつの違いは何だ。確かに感情が乏しいとは言われるがないわけじゃない。偶にだが、誰かと比べて違和感を感じるとき只の個人差なのか、それとも単純に私が欠陥人間なのかと思う。
社会の歯車を回している人だって、どこかしら他人との隔たりを感じて、それを取り払おうと多数派に倣う事もあるはずだ。ならば私がいくら感情が乏しくても、その多数派のように振る舞えば人間足りうる。生温い温床で育った狂気を演じる餓鬼共よりも、よっぽど私のほうが人間らしいのではないだろうか。
「…あほくさ」
批判のない討論なんて意味がない。私の頭の中はいつでもサイレントマジョリティで埋め尽くされている。さっさと要件を済ませて今日は寝よう。
片足を床に叩きつけると、床は犇めきを上げながら罅割れていく。下に降りるとまた叩きつけ、それを繰り返す。
いつの間にか地下四階に着いていた。それまでとは変わって階全体が薄暗く、仄かに明かりがあるものの一寸先は闇。特に迷いもなく、私は目的地へと急いだ。
*
地下四階、第一隔離セクターはボロボロだった。入り口と思しきものは劈かれ、壁は剥がれ落ち鉄筋コンクリートが見え透く。歩くに連れて、グリゴリが依然として超能力に縋り付いているのが感じ取れ、後処理の杜撰さが見受けられる。
唐突に、曲がり角から煙が溢れ出しているように感じた。それが毒だと気づいたのは、すぐ後だった。
「おやァ…?お嬢さん、こんなところでお散歩かな?」
血塗られたバールのようなものを担ぎ、清潔感の欠片もない血腥い白衣、忽那よりも黒い肌は健康的と言うには余りにも程遠い。研究員らしき男がどういう人物なのかは、火を見るよりも明らかだった。
そして、その男の後ろには飛来する人より大きい蟲。例えるなら巨大化した蝿。腹には髑髏の模様、頭には冠を被っており、名を付けるならベルゼブブが相応しい。煙を撒く姿は悪魔そのものだった。
悪魔を従えている男は、紛れも無くサイキッカーだ。
「お前、ここの研究員じゃないな。あのいかれ小僧の仲間か?あいつは今頃毒ガスから必死に逃げてるだろうよ」
「いかれ小僧…?ああ、射場さんの仲間か」
「何だァそのセリフは。あの小僧の仲間じゃねえくせに、射場の事は知ってんのか。あいつならもう俺の毒で息絶えてるんじゃねえか?」
「そんな…」
「あいつは天戯弥勒を裏切った。だから俺がW.I.S.Eとして処刑してやった。このキャンディ・マンでな」
男がしゃべり終わるよりも先に、スマホを取り出して電話をかける。延々と電子音が耳元で流れるだけで、射場の声は聞こえない。
「だから言ってんだろ。あいつは死んだ。お前もここで仲良く地獄に送ってやるよ」
猟奇的な快楽主義者は狂い笑う。手で蝿の王を嗾けてガスを噴出し、私の全身を煙が包む。
「"死の露"と恐れられたルイサイトだ。サルファ・マスタード同様、皮膚からも効くびらん剤だぜ。マスタードの方は遅効性だが、こっちは即効性で症状も重篤。さて、お前はどう対処するよ」
びらん剤。化学兵器の一種。ルイサイトと言うとマスタードガスに並ぶびらん剤の有名所だが、症状までは詳しく無い。びらん剤なのだから口からだけでなく、触れるだけで影響を及ぼすのだろう。これが只の毒ガスならまだしも、PSIエネルギーなら話は別。私にとって屁も同然だ。
死の瀬戸際だというのに、冷静に頭を働かしながら私は嫣然と微笑んでいた。