――六月。
燦々と太陽が照り付けていた。
霧雨に煙る本州の梅雨空など嘘のように、乾いた南風が潮の匂いを運んでくる。
根平島(ねだいらじま)
沖縄本土より東に120kmほどにある、猫額のような小さな離島。
島民およそ400人あまり。
年間を通して穏やかな気候で風光明美な地として知られるが、交通の便が悪く、また近辺の島々に比べ観光資源にも乏しい。
行楽シーズンを外れたこの時期に島を訪れるのは、よっぽどの物好きと言えるであろう。
「……暑い」
そして今、そんな物好きの一人が、手製の地図を片手に慣れぬ道をとぼとぼと歩いていた。
洗い晒しのTシャツにジーンズと言う、旅行者とも思えぬラフな出で立ち。
背は低く、決して肉厚ではないが、しかしよく見れば相応に引き締まった体駆。
ジャリジャリと海砂を噛む愛用の下駄。
ナガラ・リオである。
全身がこれ、そのまま空手と言った少年である。
彼が異郷を歩くならば、観光と言うより回国修行と言った方がしっくりくるだろう。
だが今日、彼がこんな場違いな通りを彷徨っているのは、観光のためでも修行のためでもない。
「……多分、この辺りなんだろうけどな」
ボリボリと頭を掻いて、困ったように周囲を見回す。
と、その碧い瞳が一軒の旧家を捉える。
ややくたびれた感のある、気持ち広い敷地を持った平屋。
伸びるに任せた生垣に阻まれ仔細は分からないが、何とは無しに実家と似た雰囲気が漂ってくる。
おそらくは道場があるのだ。
ひょこりと玄関を覗いてみると、朽ちかけた看板には【ほね つぎ 篤人】の文字がかすれて見えた。
「――ごめん下さい」
意を決し、開けっ放しの玄関に挨拶をする。
やや間を空けて、もう一度。
反応は無い。
(留守……、なのか)
はて、と一つ首を捻る。
何せ世俗とかけ離れた離島の家である。
防犯対策、などと言う習慣もないのかもしれない。
一度出直すか、さりとて時間を潰せるような場所も分らない。
と、不意にみしり、と床板の軋む音を耳にして、返しかけた踵が止まる。
家人がいるのか?
しばしの逡巡の後、リオは音の正体を確かめるべく中庭へと回った。
・
・
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炎が舞っていた。
炎のような、鮮やかな紅の髪の毛だった。
少女である。
年の方はリオよりも一つ二つ上か?
身長は170前後と、女性としては長身の部類に入る。
白の胴衣に藍の袴、更に足袋履きと言う清楚な出立ち。
そんな中で、ポニーテールに結い上げられた真紅の髪の毛だけが、まるで彼女の生来の気質を曝け出すかのように、道場の中心でひらり、ひらりと舞っていた。
(……舞踊?)
中庭から呆然とリオが視線を送る。
ここがもし踊りの道場であるならば、まったく見当違いの家に不法侵入してしまった事になる。
しかし少女の装束は、踊りと言うよりも、やはり古い武術家のそれに近いように思える。
だとしたらあの動きもまた、噂に聞く篤人流古武術の型の一つなのであろうか?
「出歯亀、いつまでタダで覗いとるつもりじゃ?」
一切の動きを止めず、振り向きもせずに少女が言う。
問われ、リオが軽く会釈をする。
「こちらの道場に、アツト・フスノリ(篤人伏朔)先生はおられますか……?」
「なんじゃ、じいちゃんの客かえ?
カカ、今どき酔狂な小僧もおったもんじゃ」
童女のように透き通る声で、老婆のように少女が口を利く。
「じいちゃんは外回りじゃ。
この時間帯は、島の足腰立たぬ老人どものお守りをしとるのよ。
そのうち戻るじゃろうから、勝手に上がって待っとれ」
茶は出ないがな、と少女がカラカラと笑う。
下駄を脱いで道場に一礼し、板の間へと腰を下ろす。
その間も少女はマイペースで、ゆるゆると舞を止めようとはしなかった。
(……やっぱり、ただの踊り、か?)
道場の隅で、少女の真贋を見定めようとリオが見つめる。
少女の優雅な動きに、攻撃的な疾さは皆無である。
しかしどこかに違和感がある。
例えば、このままおもむろに立ち上がって、小細工抜きの前蹴り。
あるいは、全力疾走からの体当たり。
あるいは意表を突いて、一足飛びに胴廻し回転蹴り。
考えうる幾つもの攻撃パターンを、心の中で幾つも試してみる。
しかし、イメージが追い付かない。
リオの攻撃は当たるようでもあり、また、当たらないようでもある。
ゆらりと揺らめく少女の動きが、次の反応を掴み所のないものへと変えているのだ。
(あの、袴、だ)
リオの瞳が、少女の下半身へと移る。
明治以降の近代武術においては廃れる傾向にある袴姿。
機能性を欠き、時代の主流から外れながらも一部の流派でしぶとく残り続けた理由の一つが、足捌きの隠蔽、迷彩にあると言う。
先の読めない少女の足取りは、まさしくその理念と合致する。
少女の舞の中には、隙を見せた次の瞬間には、ゆるりと一足一刀の間合いを越えかねないような怪しさが感じられた。
ゆらり、と振り向いた少女の燃えるような紅い瞳が、ちろちろと燃える少年の青白い瞳と交錯する。
(……わざと、か)
嗤っている、彼女の方から誘っているのだ。
どうした、打って来い、さもなくばこちらから仕掛けるぞ、と。
くっ、と、膝の上で握り締めた少年の拳が、気持ち固くなる。
少女の間合いが読めない以上、少なくとも正座はまずい。
腰を浮かし膝立ちをとり、次の動きに即座に対応しなければならない。
だが、少しでもリオが動けば、それが開始の合図になりかねない。
道場の空気は、いつしか一抹の怪しさを孕んでいた。
「おう、レンよ、お客さんかい?」
絶妙なタイミングでかけられた一言で、道場の空気がふっと緩む。
ほどなく、白髪頭の小柄な老人がひょっこりと顔を見せた。
「ただの出歯亀じゃ」
興が削がれたと言った風に、少女がぱたぱたと胴衣を煽る。
はだけた胸元からちらりとサラシが覗く。
「……東京から、リー・ユンファの使いで来ました」
少女を無視してリオが老人に一礼する。
あれも罠だ。
鼻の下を伸ばした瞬間、人中を穿つ腹積もりに違いあるまい。
「ああ、それじゃ君がナガラ君かい?
話の方はリー氏から聞いていますよ。
ま、こんな所で話もなんだ、居間の方にお上がんなさい」
老人、アツト・フスノリはそう言って皺だらけの顔に笑みを浮かべた。
リオは一瞬、少女の背中を視線で追うと、すぐに振り向き老人の後に倣った。
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篤人流は、その起源を戦国期の組み打ちにまで遡る事が出来ると言う古流武術の大家である。
本家は江戸中期から後期にかけて衰退したが、寛永期に琉球に移り住んだ庶流はなお現在まで存続している。
今、リオの眼前にいる矍鑠とした老人こそが、現代の宗家、アツト・フスノリであり、古流など理屈倒れの舞踊、と嘲笑う武術家達であっても、彼の技だけは別、と噂するほどの名人であったと言う。
「さて、リー氏からの依頼と言う事は、やっぱり例のガンダム……とか言う奴の話かな?」
「はい」
年季の入ったちゃぶ台を挟み向かい合って、やや困ったように二人が苦笑する。
「すでにリーから連絡はあったと思いますが、今年の八月に彼が企画している【ガンプラ・ファイト最大トーナメント】
その出場依頼について、アツト先生の意向を確認してくるように、と言われています」
「うん……」
曖昧な口取りで、アツトが咥えた煙草に無造作に火を点ける。
先ほどの少女と同じ、意図的に隙を見せている動作であるが、その意図する所は少女とは真逆である。
「まあ、やはり色良い返事はだせないな。
見ての通り、儂はもう楽隠居の身分でね、今更、武術の世界に舞い戻ろうなどとは思えないよ」
「そうですか」
「ナガラ君には、わざわざ遠方よりご足労願っておいて申し訳ないんだが」
「構いませんよ。
とりあえず答えを聞いてくれば良い、と言うのが俺の仕事ですから」
そう言って、清々したようにリオが笑う。
元より、日銭に困ってさえいなければ受けるほどもない小間使いである。
広いガンプラバトルの世界には、トッププロと渡り合うほどの業前を持った老人もいる、と言う事はヒライ・ユイの受け売りで知っていたリオであったが、この老人の住居を見るに、そう言ったハイカラな趣味があるようでもない。
おそらく、初めからダメで元々の依頼だったのであろう。
ただ一つ、ここまで来ておきながら、名に聞く篤人流の技を目にせずに帰る事だけは残念であったが、それを強いて目の前の老人に求める事も出来ない。
「これまでも騙し騙しやって来たもんだが、流石に時勢と言う奴だろうね。
道場の方も、儂の代で終いにするつもりだよ」
「……さっきの娘は、門下生ではないんですか?」
「ああ、ありゃあ孫娘のレン(恋)でね。
やってるのは武術じゃない、安室流の舞踊さ」
「安室流?」
リオの問いかけに対し、アツトがふぅ、と煙を吐き出す。
「この島の土着の舞踊でね。
ウチの先祖が根平島に流れ着いた際に、当地の舞踊を保護したのが看板の始まりってワケだ。
以来、ウチの道場では、男は武術、女は舞踊を代々教えて来たんだよ」
「そう、だったんですか」
「息子夫婦が死んじまって、そっちの方も店じまいにするつもりだったんだが、誰に似たのか頑固な娘でねぇ」
「はあ……」
半信半疑と言った風に、リオが首を傾げる。
宗家の言葉に間違いがあるとは思えないが、さりとて先刻の剣呑な空気が、ただの演者の技とはどうしても思えなかった。
「まっ、しち面倒臭い話はこれくらいにして」
ぽん、と一つ柏手を打ち、アツトが砕けた好々爺の笑顔を見せる。
「せっかく遠い所から来てくれた事だ。
ナガラ君、今日はゆっくりして行きなさい。
何にもない島だが、魚の方は絶品でね」
「あ、いえ、折角ですが……。
できれば今日の内に本土に戻ろうと思っています」
「今日?」
アツトは一瞬、訝しげな視線を向けたが、その内にカラカラと笑い声を上げた。
「ハハハ、どうやらリー氏に誑かされたな、ナガラ君」
「……はい?」
「本土からの船は二日に一本、明後日の昼までは帰れやせんよ」
・
・
・
「……と、まあそんな訳で、俺はあと二日は沖縄だ。
悪いがしばらく、ガンプラ作りは手伝えねえ」
「…………」
黒電話越しに溢れる沈黙に、リオが一つ溜息を吐く。
通話先の少女、ヒライ・ユイの感情の色を、最近ではおぼろげながらに理解できるようになってきたリオであったが、さすがに顔が見えない状況ではそれも叶わない。
「……安室流、恋……」
「うん?」
数秒後、受話器から聞こえたのは予想外の言葉であった。
「昨年のガンプラバトル選手権オープントーナメント。
九州予選のファイナリストの名前が、アムロ・レン」
「――! そうなのか、ヒライ?」
「うん。
常連で固まる九州地区に現れた超新星。
圧倒的な実力で決勝まで勝ち進んで『リアルニュータイプ』とか呼ばれてた」
「ニュータイプ……? ああ、そう言う……」
「でも、なぜか決勝戦に現れなかった、謎の多いガンプラビルダー」
「…………」
「……多分、私の考えすぎ。
その娘の本名がアツト・レンなら、きっと別人、ただの偶然」
「どうだかな」
ちらりとリオの脳裏に、ドヤ顔でほくそ笑むリーの顔が思い浮かんだ。
篤人流古武術とガンプラ・ファイトを繋いだ細い糸。
リオにはどうしても、それが単なる偶然とは思えなかった。
ため息を吐いて受話器を置くと、リオはアツトに断りを入れて外に出る事にした。
月光に照された寒村の砂浜を、一人歩く。
観光シーズンを外れているとは言え、交通の便が悪いとは言え、流石に風光明媚の地である。
波の音と潮の香り、きらめく波濤。
少年の中をゆったりと流れていく時間。
それがもどかしい。
八月、本格的に動き出す事になる、ガンプラ・ファイト地下トーナメント。
二か月前の敗北よりようやく回ってきた、自分を取り戻すための戦いの時。
何もしていない時間が耐え難い。
どんなガンプラを作れば良いのか。
自分は本当に強くなっているのか。
不安の埋め方を、亡父は己の体を虐める方法でしか教えてくれなかった。
もっと体を鍛え、技を磨き、ヒライとリーオーの話をしたい。
(……本音を言えば、見たかったな、篤人流)
とりとめの無い事を考えながら、黙々と砂浜を歩く。
行き場の無い野良犬が、胸の中で空きっ腹を抱えている。
――と、
(……なんだ?)
砂浜の先、桟橋に小型の漁船が停まっている。
暗くて判別はつかないが、幾人かの人間がいるようである。
近づくほどに喧騒が大きくなり、剣呑な空気を孕んでいく。
嘲弄するような女の声、何やら捲し立てる男の声。
「おい、アンタら、何やってんだ?」
「ウルセえッ!! お前もこの女の仲間か!?」
言うが早いか、目前にいたパンチパーマが拳を振りかざす。
余程頭に来ているのか、弁解の暇もない。
「おいおいおいおい」
言いながら右手の甲で拳をはたき落とし、下駄の刃で向う脛を蹴り上げる。
「うげえ!」と一つ声を上げてパーマが転がる。
「テ、テメェ……」
「おーい、そっちは大丈夫か?」
片足を抱えてうずくまったパーマを無視して、奥の三人に声をかける。
殺気だった瞳でこちらを振り返る二人の男。
そして、その後ろでうずくまっているワンピースの女。
「ぐッ……! うゲアァァァ――――ッ!?」
と、次の瞬間、異変が起こった。
女の傍らに居た男が、突如として悲痛な叫び声を上げたのだ。
すっく、と女が立ち上がる。
後ろに取られた男の左腕が、あらぬ方向にねじ曲がっていく。
「……カカ! カァ――ッカッカッカッ!!」
童女のように澄み切った声で、悪魔のように女が嗤う。
パシィッと、勢い良く男の脚が払われて、捻じられたベクトルのままに宙に舞い、桟橋から海へと落ちる。
「お、おま……」
「ケキャァ――ッ」
純白のワンピースを惜しげもなく翻し、少女が残った一人の股間を思い切り蹴り上げる。
声もなく崩れ落ちる男の背を踏み、月下に紅蓮の髪が躍る。
「~~~~ッッ!?」
「シャアアァ―――ッ!!」
風を巻いて飛来した横薙ぎの爪を、首を捻じってかろうじてリオが避ける。
一拍遅れ、頬に赤い筋が走る。
驚く間もなく空いた少女の右手がVの字を作り、リオの両眼めがけて思い切り突き出される。
咄嗟に右腕で払い、左の掌て――
(……ッ!)
返す間もなく、リオの世界が反回転する。
掴まれている、右手。
いつの間に崩された?
(受け身!)
すぐさま我に返り、体を丸めて砂の上に落ちる。
刹那、思い切り顔面を蹴られる。
サンダル。
鼻血が吹き出し、両眼が砂で塞がれる。
「カハッ」
迷わず跳ね起き、大きく飛び退く。
ボヤける視界の中で、少年は焔の瞳が爛々と煌めくを見た。
飛んでくる。
殺気。
(――眉間!?)
リオの眼前で、ガギン、と鈍い音が爆ぜる。
月明かりを浴びて光る、銀色の簪。
それが今、咄嗟に左手で差し出した下駄の上に突き立って、ビイイィィン、と震えていた。
「カーッカッカッカッ、惜しかったのう空手小僧!
どうやら
燃え盛るロングヘアーをたなびかせ、少女のように野獣が嗤う。
アツト・レン。
いや、きっと彼女の基準では、アムロ・レンと呼ぶべきなのだろう。
くつくつと、少女につられてリオも嗤う。
安心していた。
この分ならあと二日、少なくとも退屈に殺される事は無さそうだ、と。