――闇の中に居た。
底深く、暗い闇だ。
静謐さに満ちた孤独な闇では無い。
逢魔ヶ辻。
自分の遥か背後から、或いは光の及ばぬ一寸先に……。
何やら得体の知れぬ魔物が棲みついていて、ずっとこちらを観察している。
そんな、おぞましい闇だ。
「ゼァ……、ゼァッ!」
自分のものとは思えない荒い吐息が漏れる。
それで手が止まっていた事に気付く。
打たなければならない。
「イィアアァァッッ!!」
悲痛な声を上げて右拳を突き出す。
ガツン、と言う鈍い音。
たちまち激痛が、指先から脳天まで稲妻のように駆けあがる。
「……ィギッッ!!」
声が出せない。
ぬるり、と右拳が壁から離れる。
暗闇の中で分からないが、きっと指先はとんでもない事になっている。
それでも止めてはならない。
激痛を振り払うように体を返し左拳を叩き込む。
ガツン、激痛、悶絶。
息が詰まり、脳が揺れ、体が震える。
じんじんと熱を持った両手が限界だと悲鳴を上げている。
それでも止めてはならない。
父がそうしろと言ったのだ。
巻藁、などと言う可愛い代物ではない。
単に藁を巻き付けただけの太い幹だ。
数え八つの子供には手が余る。
それを父は、突け、と言った。
「止め」と声を掛けるまで、止めてはならぬ、と。
言われるがままに百回突いた。
それでも父は「止め」とは言わなかった。
きっとこれは数の問題ではなく、質の問題なのだと思った。
そこから先は数えるのをやめた。
父の言葉を思い出しながら、一本一本、全身全霊を込めて打った。
ついに、日が傾き始めた。
いい加減、拳も限界に近い。
きっとこれは、技や肉体を見ているのではない。
自分がこれから過酷な鍛練について行けるか、その根性を見ているのだと思った。
だとしたら、止めるわけにはいかない。
どんなに不格好であっても、腕が上がる限り突き続けねばならない。
やがて、とっぷりと日が暮れた。
ようやく気付いた。
自分は捨てられたのだ、と。
ガツン。
人の手の届いたキャンプ場ではない。
地理も分からぬ深い山の中だ。
水場も分からない。
寝床もない。
焚き火の準備もしていない。
ガツン。
それでも叩くのを止めない。
止めてしまって何になる。
たかだか八歳の少年が、人跡未踏の山中で生きて行ける筈がない。
手を止めて、その後の現実と向き合うのが怖い。
ガツン。
打ち続ける限り、自分はまだ修行の最中にいる。
次の一突きで、父が「止め」と言ってくれる可能性がある。
それならもうそれでいい。
ガツン。
自分はもう、死ぬまでこれを打ち続けよう。
意識が途切れ、そのまま野垂れ死んでしまうまで。
ガツン。
しかし存外、人体はしぶとい。
もう意識を手放してしまおうと思っても、次の激痛に引き起こされる。
ガツン。
また眼が醒めた。
ガツン。
また、もう一打だ。
ガツン。
まったく、人体はしぶとい……。
ガツン。
まったく……。
ガツン。
ま……。
ガツン。
……。
ガツン。
ガツン。
ガツン。
――ぞわり。
不意にそれは来た。
鼻を突く獣臭。
おぞましいばかりの殺気。
背後、自分のほんの真後ろに、得体の知れない怪物がいる。
(熊……ッ!?)
咄嗟に思った。
本物の熊を知っているワケではない。
ただ背後の異常に巨大な気配に対し、当てられる物差しがそれしか無かっただけだ。
いずれにせよ次の瞬間、奴の牙が襲ってくる。
恐怖、死――
「イェアアアァアァァ―――ッッ!!」
だが肉体は、思いもよらず動き出していた。
素早く踵を返し、どこにそんな力が残っていたのかと言う疾さで。
パァン!
凄い音がなった。
右拳から突き抜けた衝撃で、全身の細胞が目覚めるような音だった。
ゆっくりと雲が去り。
暗闇の世界に少しずつ月光が差し込んでくる。
父だった。
いつだって巌のように立ちはだかる父。
その父が今、自分の拳を真っ直ぐに受け止めている。
差し出された左の掌。
人差し指があらぬ方向に捻じ曲がっている。
「覚えたか」
父が言う。
何の話か分からない。
分からないが、がくがくと体が震える。
歯の根が合わずガチガチと鳴る。
「――神は、精神ではなく、肉体の方に宿る」
捻じ曲がった指先を右手で直し、その大きな手が、震える拳をしっかりと包む。
「頭の方がどれだけ悲鳴を上げていても、肉体の限界はその先にある。
そう言うものを、俺はお前に教えている」
どっ、と軽く、父の拳が胸を叩く。
ぶるん、体が一つ震える。
「この体が、お前の標だ」
そう言って、父が笑う。
――笑う?
あの父が、まさか?
(この体が、俺の標……)
心臓が体の内側から熱を持って高鳴っていた。
体の震えは収まりそうにもなかった。
・
・
・
――ナガラ・リオは、ようやく長い夢から目を醒ました。
「…………」
悠然と辺りを見回す。
月下の海岸。
きらきらと月光に煌く海面と、白く輝く砂。
ここ二日ですっかり馴染みとなった、風光明媚な離島の光景。
ただ一つの問題は、それが現実の根平なのか、それとも仮想の映像世界であるか、と言う事だ。
――と、
見覚えのある豚鼻を視覚に捉え、ふう、と一つ息を吐く。
MSK-008【ディジェ】
アムロが未だあの機体を纏っていると言うのならば、戦いはまだ最中と言う事になるのだろう。
(だがなぜだ、なぜそんな遠くにいる……?)
波間を背負い、珍しく両手を開手に構えたディジェ。
その距離はおよそ5メートル。
なお慎重に、じりじりと円の動きを取る。
先のハイ・キック、必殺の間合いに入っていた。
既に積み筋に迫っていた筈のレンが、なぜ自ら距離をとる必要がある?
ふるり、ディジェが軽く左手首を振るう。
その姿にはっと目を見張る。
ヒビの入った手甲。
間違いない、レンは左手を痛めている。
(いつだ、アムロ、いつ痛めた?)
そこでようやく気付いた。
視界の端に映るリーオーの拳。
正拳の形を取っている。
(やったのか、あれを……?)
あの時のように、ブルリと体が震える。
魂を超えて走る肉体の働き。
あの神の一撃を、人ならざるリーオーの拳で。
(凄ぇ……)
笑みがこぼれる。
ヒライ、このリーオー凄いよ。
親父に刻み込まれた空手の技を、心が思う前に実行している。
そのおかげでまだ、戦場に踏み止まっていられる。
(どうしたよアムロ、この程度でビビっちまうタマか?)
すっ、と構えを解き、自然体で腕を開く。
そうして、深く息を吸い込む。
空手の息吹……、ではない。
正真正銘、単なる深呼吸だ。
かろうじて一命を取り留めたとは言え、肉体の回復にはまだ時間がかかる。
酸素を取り入れる。
細胞の一片にまで染み渡るように。
(来いよ、さもなくば回復しちまうぜ)
戦いの最中に休息を始めた敵を前に、ぎりり、とディジェの中でレンが歯噛みする。
先の交錯の瞬間、とんでもない速さで拳が伸びてきた。
左手が間に合ったのはまさしく奇跡としか言いようがない。
結果、浅いながらもディジェの蹴りは顔面を捉え、一方でリーオーの中段は、ディジェの左手の前に阻まれた。
だが、それでもダメージを負ったのはディジェの方である。
ディジェの細い脚先は、リーオーの意識を断ち切るには至らず、一方リーオーの拳の衝撃は、ディジェの繊細な手の甲を思い切り突き抜けてしまった。
それはまあいい。
過ぎた事を悔いても仕方ないし、逆襲と呼べるほどの怪我を負った訳でもない。
問題は、今の状況だ。
リオの動きは挑発でも罠でもない。
蓄積されたダメージから、本当に休息を挟まなければマトモに動けないのは分かっている。
先の一撃が、そうそうに何度も繰り出せるような拳ではない事も分かっている。
そう分かりながら、わずかに残るカウンター狙いの可能性を前に、迂闊に踏み込めないでいる。
その自分の弱さが憎い。
(たわけが! たかだか玩具遊びに怯えて、何の天才じゃッ!!)
動こうとしない鋼の肉体に対し、レンが必死で鞭を振るう。
死にかけた肉体を蘇すために、リオが悠然と呼吸を整える。
(行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ……)
(殺す殺す殺す殺す殺す……)
(今――!)
ダッ、とバネで弾かれたかのように、二つの機体が大地を蹴る。
両者の間合いが一瞬にして潰れる。
「「~~~~ッッ!?」」
思いもよらぬ急転、二人の表情が固まる。
だが、揺れる心を置き去りにして、リーオーの肉体は動き出していた。
先を取る右の中段突き。
折れた左手では受けきれない。
咄嗟に手首を返していなしながら、ディジェが更に一歩踏み込――
「フン!」
返しの頭突き。
ベキリとディジェの角が折れ、上体を沈めながら、二、三歩よろめく。
(追撃――)
そう思うリオの肉体が、突如、金縛りのように動きを止める。
何故?
間髪入れず理解する。
ディジェの右の爪先が、リーオーの追い足を押さえに来ていたのだ。
目で見て、頭で理解するその前に、リーオーの体は踏み止まっていた。
『――ナガラの右腕、左腕よりも2センチ長い』
唐突にヒライの声が聞こえる。
出会ってから二週間くらいたったある日、リオを前習えさせながら言った台詞だ。
そんな記憶を引っ張り出しながら、ディジェの右足を思い切り払い上げる。
『――半身に構えた時、右脚と左脚の働きは違う。
重心の位置も関節の動きも、本当は、左右対称であってはならない』
よろめく相手を追いながら思い出す。
ヒライの言葉。
普段は無口だが、その説明は分かり易く面白い。
『――あなたがリーオーに合わせる必要は無い。
私のリーオーが、あなたの動きに合わせる。
特別な事は何もしない。
左右均等に作ったリーオーのパーツを、あなたの動きに合わせて、少しずつ歪に修正していく』
ヒライの言葉。
その先が気に入った。
それを続けていくとどうなる?
『――やがてガンプラに、神が宿る。
プラフスキー粒子が、あなたの空手を理解しようとする』
神。
自分よりも年下の少女が、親父と同じ言葉を吐く。
『――思いのままに機体が動く、それでは足りない。
思いもよらず機体が動く。
それが自然、私の理想』
鳴呼。
自分は本当にバカだ。
ヒライの言葉、本当にただの理想と、そう言う心構え、としか考えていなかった。
少しずつ調整を繰り返していたから気付かなかった。
リーオーと一体化する時に、何とは無しに感じていた引っ掛かり。
それが今では、まるで羽毛のように軽い。
思う前に体が動く。
動いてから、その理由を頭が理解する。
本当に何と言うことのない、ほんのちょっぴりの差。
その僅かな働きの中に、確かに神が宿っている。
(その機体、苦しいだろう、アムロ……?)
右の追い突き。
完全に見切られていた筈の一撃が、ディジェの鼻先を浅く捉える。
理由は分かっている。
リーオーの右腕が、左腕より2センチ長いからだ。
厳ついジオン系MSの上半身に、細くしなやかな女性の下半身。
そんなアンバランスな機体を、シュミレーターも無しに苦も無く操って見せる。
紛れも無く彼女は天才だ。
だがその一事が、ほんのちょっぴりの差を更に大きく縮めている。
こちらにはヒライと言う盟友がいる。
事実上の二対一だ。
これなら負ける訳がない。
よもや、卑怯とは言うまいな、アムロ――?
(こんっの……、卑怯者がァ!!)
ディジェの中で、息を切らしながらレンが毒づく。
たちまち飛んでくる、左の追い突き。
(これは捌ける)
そう思いながらも、距離をとって避ける。
真っ直ぐに迫る、右の前蹴り。
(これも取れる)
そう思いながらも、上体を逸らしてかろうじて避ける。
リーオーの動きには迷いが無い。
腕の一本、足の一本を落とされても、返す刃で一発当てさえすれば勝てる。
そう言う思い切りの良い動きだ。
そして、それは事実、当たっている。
『――あれは天才、一種の怪物よ』
そう言って一つ、祖父が溜息を吐く。
『こ、こんの化け物がッ!?』
屈強の大男たちが、捨て台詞を吐いて逃げ去っていく。
『ええい! 沖縄のニュータイプは化物かッ!?』
腕に覚えのあるビルダー達が、大げさに叫び涙を浮かべる。
(たわけ共がッ! どいつもこいつも何も分かっとらん!)
心の中でレンが叫ぶ。
――女に生まれた。
50パーセントの確率で、レンは神から嫌われた。
アツト・レンになれず、だからレンは『アムロ』になった。
どれほどの才能があろうとも、レンにとってはそれが全てだ。
見ろ。
何度踏んでも立ち上がってくる、目の前のリーオーを。
レンよりも背は低い。
要領も悪い。
はっきり言って才能が無い。
だが、ナガラ・リオは50パーセントの確率で天に愛された。
男と言う境遇が、その未熟な五体を凶器となるまで虐め抜く事を許した。
物覚えの悪い頭に代わり、肉体が勝手に判断できるまで鍛え抜く事を許した。
レンが一足飛びで抜き去った壁を、異形と化した指先で必死によじ登ってきた。
それが許せない。
レンの全身が叫ぶ。
持って生まれた才能だけで、この男の十年を否定してやる、と。
「キィヤッ!」
突き出された右拳。
合わせてディジェが跳ぶ。
しなやかな半身の軽さを生かした、一か八かの飛躍。
中空で大きく弧を描き、リーオーの背中に落ちる。
間髪入れず、しなやかな腕がTV顔の頭部に纏わりつく。
「ウヌッ!」
裸締め。
ニュータイプが最後に頼ったのは、小細工抜きの力技。
子泣き爺のように背にしがみ付き、必死に締め落とさんと歯を喰いしばる。
(さすがに……、天才めッ!)
必死に奥歯を噛み締め踏み止まりながら、それでもリオが嗤う。
これが通常の立会いならば、この形になっては反撃の術が無い。
(だがこれはガンプラ・ファイト。
アムロ・レンは二つ、過ちを犯している)
過ち其の一。
ディジェの下半身の軽さ。
魔改造を加えたディジェの軽さゆえに、膝での当身が不十分に終わっている。
ゆえに小柄なリオでも、未だその重量を支えて踏み止れている。
過ち其の二。
リーオーの首周りの構造。
ヒライが良く嘆いていた。
「リーオーは首周りの稼動が狭い」と。
陥没した頭部と襟周りの盛り上がりに阻まれ、稼動域を取るのが一苦労だと。
だがそれがいい。
その狭い間隙と、ディジェの上腕の太さに阻まれ、完全に極まった筈の首締めが極まり切っていない。
(結論、走れる……、十秒ならッ!!)
そう短く覚悟を決め、次の瞬間、リーオーが勢いよく走り出した。
10メートル、5メートル……。
目標目掛けて、大地を踏みしめ、勢いよく跳ぶ。
必死にしがみ付くディジェを背負ったまま。
中空で半回転し、背中から落ちる。
目標は海面。
ザブリと勢い良く水飛沫が跳ね、二つの機影が水底に沈む。
(どこに行った、アムロ……?)
リーオーが体を振るう。
いつの間にか、背中から重さが消えていた。
ディジェの姿を必死で追う。
だが現状では、どちらが上でどちらが下なのかすら分からない。
と、不意にするりと伸びてきた両手が、正面からリーオーの頚部を捉えた。
それでようやく理解できた。
成程、そっちが海面か。
「キイイイィィ」
万力を込め、しなやかな指先がリーオーを落としにかかる。
相手の顔を水に付け、必死で締める。
それはもう武術家の技ではない。
絶体絶命の窮地で、にいっとリオが嗤う。
武術家同士の立会いでは、先に手の内を出し尽くした方の負けだ、と。
(なぜ空手家が打撃しか使わないか、知ってるか、アムロ?)
ぐっ、とディジェの右腕を掴み、その顔を海面に引き寄せる。
合わせて下半身を跳ね上げ、右内腿をディジェの首筋に絡み付ける。
(空手家が打撃しか使わない理由……。
それは、本当にどうしようもない時に、確実に相手を絞め殺すためだ!)
「……ッ!?」
グッと下半身に力を入れる。
たちまちレンの頚動脈が絞まる。
三角締め。
打撃屋、ナガラ・リオが残しておいた、最後の最後の取って置き。
「~~~~~ッッ」
声にならない声を上げ、ディジェが必死で空いた左腕を振るう。
だが、全ては空しい努力だ。
先ほどまでリーオーを追い詰めていた水が、今は打撃を阻む壁となってくれている。
武術家が全ての技を見せた以上、後は決着の時を待――。
「……ギャバ!?」
不意にビンッ、とリオの首が絞まり、貴重な酸素が海上に逃げていく。
この体勢で締め技?
狼狽の色も露わに、リオが必死に視線を泳がせる。
(~~~!? そのための襷ッッ!!)
ようやく気付いた。
ディジェは目ざとく背中の襷を外し、いつの間にか自身の両手に、そしてリーオーの首筋に巻き付けていたのだ。
卑怯、ではない。
ガンプラ・ファイトとは言え野試合、ルールなどある筈が無い。
(むしろ、俺が巻き付けてやるべきだった!)
薄れ行く意識の中で決意する。
今度コイツと闘る時は、ヒライにヘビーアームズを持ってきてもらおう、と。
だがそれもとりあえずは、今日の死合いに勝ってから、だ。
三角締めは捨てる。
そう潔く決意して、自由になった両足で、思い切りディジェを蹴り上げる。
うら若き乙女の顔面を、躊躇いもせずに全力で。
「ギャガッッ!?」
「ウギャバッ!!」
拷問を受けるリトルグレイのような悲鳴を上げ、両者がようやく海上に立つ。
水深はおよそ腰まで。
ディジェの方がダメージが大きい。
リーオーに背を向け大きくむせている。
「アァムロォ~~~」
よろよろと、ゾンビのように水面を掻き分けリーオーが迫る。
とっととこっちを向け。
その瞬間に、渾身の右を叩き込んでやる。
「シャバアァァ!!」
「ンギッ!」
振り向き様に、凄まじいばかりの水圧を顔面に叩きつけられる。
唐突にいつかのヒライの言葉が過ぎる。
「口からビームを吐くザクがいる」と。
(そんな所まで、改造していやがったかッ!?)
すまんヒライ。
ちゃんと聞いときゃ良かった。
目潰し、前が見えない。
構わない、もう敵は正面。
(リーオー、お前に任せる)
全てを相棒に委ねる。
ただ真っ直ぐ、最速最短を駆け抜ける直突き。
残された全身全霊を込める。
(その一発を待っとったんじゃァ!!)
海面スレスレまで腰を落とし、渾身の一撃を避ける。
グラリ、リーオーの体が泳ぐ。
必殺の間合い。
ディジェが大きく両腕を開く。
右手は掌、左手は手刀。
あたかも鍬形の大顎のような渾身の打撃が、リーオーの頭部目掛け放たれる。
右の掌底が的確にこめかみを打ち抜き、刹那、左の手刀が顎先を走り抜ける。
間断入れぬ連携に頭部の衝撃が加速される。
脳震盪。
グラリとリーオーの体が大きく傾いで、ディジェの左脇を抜けていく。
10カウントはいらない。
努力も、根性も、執念すらも断ち切る快刀の一太――
ドン
(……!)
不意にレンの左脇腹に重い衝撃が来た。
みしり、と湿った音が体内に響く。
(不意打ち?)
咄嗟に思う。
そんな訳がない。
ここは仮想空間、第三者の介在する余地など無い。
一つだけ確かな事。
今の重さは致命的な一撃。
この信号が脳にまで到達した時、それは――
「……ンッッ……ギ……ッッッ!!!」
来た。
ついに来た。
才能も、プライドも、怨恨すらも打ち砕く鉄槌の一撃。
どうしようもない。
堪え様も無い。
胃の腑の液体が思い切り逆流し、口から鼻から思い切り吹き出す。
がくりと膝が折れ、上体が海中に没する。
息が出来ない、だがそれどころではない。
(追撃……!)
来る。
分かっている。
このままの体勢では、後頭部を思い切り踵で踏み付けられる。
分かってはいる。
だがどうしようもない。
来る。
来ない。
何故来ない?
(何をやっとる、このノロマ!)
必死に心の中で叫ぶ。
とっとと殺せ!
死にたくない。
ただ、待つ時間が恐ろしい。
その内に、ふっ、と諦めが付く。
どうにでもしろと、仰向けになる。
そうして必死に片腕を伸ばし、浅瀬を求めて海中を這い回る。
「ぶはっ」
ようやく水面に上がった。
震える体に鞭を入れ、何とか上体を起こそうとする。
いい加減、気が付いていた。
リーオーは追撃しないのではない、追撃できないのだ。
最後の一撃は、やはりリオの意識を刈り取っていたに違いない。
そして、それでもなおリーオーの右手は動いたに……。
「……あ」
むりやり引き起こした視界の先に、ようやくリーオーを捉えた。
瞬間、一瞬だが腹の痛みが引いた。
リーオーは、海中に没してはいなかった。
大きく頭部を傾がせ、背中を丸めながら、それでも両足は大地に踏み止まり、掲げた両の拳を見えざる敵に備えている。
知っている。
アレは『残心』だ。
油断なく、次の敵に対し備える。
現代の武道の多くにおいて、その心構えを見せなければ有効な打突とは認められない。
「あ、ああ……」
思い出す。
道場で垣間見た、数々の祖父の技。
型稽古を一つ見るだけで、その理合、理念があっさりと頭の中に入って来た。
時折盗み見た秘伝書もまた、それらの答え合わせに過ぎなかった。
そして実戦、何度も何度も試した。
間違いは何一つ無かった。
ただ一つ。
一つの型を終える度に、祖父が行っていた残心。
何故かそれだけは、すっぽりと頭の中から抜け落ちていた。
何十回何百回と目にしておきながら、これまで一顧だにする事が無かった概念。
(アレをやれば、良かったのか……)
はっきりと、納得してしまった。
アレをちゃんとやっておけば、こうして無様に這い蹲る事は無かった。
リーオーは既に事切れている。
それなのに、なんでアイツは、あんな事が出来るんだろう?
何で自分は、アレをやらなかったんだろう?
『ほれ見た事か!
お前の言う武術とやらは、肝心の鞘拵がなっとらんのよ』
仮想空間の風に混じって、カラカラと好々爺の笑い声が響く。
畜生。
畜生。
畜生。
「……会いたいよ、おばあちゃん」
ポツリと泣き言が漏れる。
レンの悲しみを理解してくれる唯一の人。
その人ももういない。
ただ、架空の月だけが、孤高の少女を優しく照らしていた……。
・おまけ MFガンプラ図鑑③
機体名:ディジェ花鳥(かちょう)
素体 :ディジェ(機動戦士Zガンダムより)
機体色:白・藍
搭乗者:安室恋(アムロ・レン)
必殺技:点穴突き
襷締め
毒霧 他
製作者:安室恋(アムロ・レン)
・元ガンプラビルダーであるアムロが、対ガンプラ・ファイトを想定して制作していたMF。
ガンプラ・トレース・システムにおいて死荷重となる放熱フィンを撤去し、代わりに紅地の襷を回した「和」の意匠を基調としている。
最大の特徴は、脚部ブースターの元デザインを生かした「袴」であり、これにより足取りを読ませない古武術の歩法を再現している。
袴の内側は足袋履きとなっており、足指を生かした点穴突きを隠し技として備える。
指先は細くしなやかに作り上げられており、強度と引き換えに、掴む、投げると言った繊細な動きを得意とする。
扱い易さと頑丈さが求められるガンプラ・ファイトにおいては珍しい、技巧派のガンプラに仕上がっている。