この世界には『神さま』と呼ばれる存在がいる。
ーーいる、とは言っても、それ自体に明確な形や姿が在る訳ではない。結論から言ってしまえば、『神さま』という存在がわたしたち人間に視認されたことは一度もなく、恐らく未来永劫それは変わることはないだろう。
神のお告げ、なんて言葉もあるが、そもそも喋るのか、鳴くのも。単体なのか、はまたま複数体なのかも不明。
もしかしたらそれは、雲の上に鎮座するような立派な髭を蓄えた老人の姿をしているかもしれないし、泉から現れる勇ましい龍だったり、或いは青々とした草むらで跳ねるムシの姿をしているかもしれない。
勝手な想像だけが膨らみ、肥えていく。
誰もその姿を目にしたことがないのだから、その姿も個人の数と同じだけ存在する。
存在が不確かな存在。
というのも随分とおかしな話だが、きっとそれでいいのだろう。
想像の自由。
信仰の自由。
表現の自由。
わたし達、人間には自由があるのだから。
人間に自由が許される限り、『神さま』はこの世界に在り続けるのだ。
多くの人間が、『神さま』はいつも自分たちを見守ってくれている、と幼い頃から知っている。もっと正確な表現を使うならば、幼い頃から周囲の親や大人を始めとする環境からの影響を受けて、『神さま』を感じ取る。もしくは、言葉は悪いが『刷り込まれる』と言った方がニュアンス的にはしっくりくるかもしれない。
『神さま』がいる生活が自然で、日常。
それがこの世界の摂理である。
『神さま』に毎日感謝し、時に奉られた場所へ足を運び、参拝する。
一説では、この世界そのものや人類、その他のありとあらゆる万物を造り出したのも『神さま』だとされている。それを考えると人々が『神さま』を奉り、参拝するのも頷ける話だろう。
なにせ、万物の母であり、父であるのだから。
もしかすると、そんな人智を越える『神さま』だからこそ、その姿が明確ではなく、実体も存在しないのかもしれない。
わたしは、たまにそんな風に思うことがある。
仮に『神さま』に明確な姿があったとしたら、この世界はまた違った在り方をしていたのではないか? と。
万物創造。
そんな力を持つ現人神や、神獣に向けられるのは恐らく恐怖心でしかない。
過ぎた憧れは嫉妬に代わり、やがて憎悪を呼ぶ。
自分と違うモノを恐れ、妬み、羨むのが人間なのだから、その醜い感情も当然という言葉であっさり片付けられてしまうのだろう。
本当に酷い言い方ではあるが、それが『神さま』が創造した人間という存在なのだ。
なぜ、『神さま』が人間を造ったのかはわからない。
その真意も、意図も、解らない。
それでもーー。
今日も神さまに感謝。
多くの人間が『神さま』という存在を信仰し、毎日感謝する。
この世界には、『神さま』が根付いている。
それは年齢や性別、国籍を問わず、たとえ多感で思春期真っ只中の女子高生であっても例外ではない。
裏を返せば、『神さま』を信仰しない人間は周りから奇異な目で見られてしまう。『神さま』の有無に関わらず、集団から、社会から弾き出されてしまうことは言うまでもない。
そう
人間は自分と違う者をまず信用しない。
怪しみ、気持ち悪がり、忌み嫌う。
拒絶し、疎み、仲間は外れにする。子供でも大人でも、『神さま』を信仰しない者は、『異端』のレッテルを貼られ、集団社会から差別されてしまうのだ。
ーーだから。
「あ、あの、私も手伝うよ」
その言葉がわたしの口から吐き出されるまでに、一体どれだけの時間が掛かっただろうか。
わたしーー四川彩夏は、絞った雑巾を握りしめたまま、放課後の教室でそう顧みる。
場所は、私立明聖学園。
ここらの地域ではそこそこ名の知れた共学の進学校であり、医者という夢を抱くわたしにとってはそれなりに相応しいレベルの高校である。
事の起こりは、わたしがこの教室、3年A組の教室に在籍して一ヶ月が過ぎた頃。
いよいよ大学受験が迫る高校三年生へと進級し、生徒も教師も胃がきりきり痛むような高校最期の学生生活に慣れ始めてきたーーちょうど五月晴れという言葉がお似合いだった五月の某日。
四限目の授業が終わり、昼休みに入った矢先のことだった。
一時とはいえ、勉強から解放されるランチタイム。教室ではクラスメイトが仲良しのグループや、カップルで弁当や購買で購入したパンを食べる日常的風景が広がり、わたしも同様に自分の席で友人とランチを楽しんでいた。
受験の存在を忘れ、僅かな憩いの時間を楽しみ、共有するクラスメイトたち。
好きなことを話し、笑い合い、驚いてまた笑う。
まさに青春の模範ともいえる光景が、確かにそこにはあった。
きっと、その場の全員が楽しい束の間の時間が流れていることを、『神さま』に感謝していたことだろう。
わたしをはじめ、3年A組のクラスメイト全員がそう思っていた。
それが当たり前だと思い込んでいた。
ただ、ひとり。
水甲真愛という生徒を除いては。
ーー『神さま』が居なければ、きっと辛い受験なんてものも無くなって、皆幸せになれるのにね。
その、水甲さんの言葉が始まりだった。
昼休みの和やかに流れていた空気が、一瞬で凍りついたのを一ヶ月が過ぎた今でも、わたしは鮮明に覚えている。
わたしにとって長らく感じていなかった恐怖という感情、忘れていたそれを思い出した瞬間だった。全身に鳥肌が立った気持ち悪さ、背筋が凍るような重たい空気、好物だった筈のコロッケの味が消え失せてしまうほどの沈黙。
全て昨日のことのように思い出せる。
水甲さんがその言葉を一体どのような意図をもって口にしたのかは誰にも解らない。
それはきっと、発言者である水甲さん自信でなければ知り得ない。
水甲真愛。
主席番号13番。
彼女はクラスでは特に悪目立ちような生徒ではなかった。無論、それは例の発言を口にする前までの話だが……。
成績や素行になんら問題はない。
初めて同じクラスになったわたしとは主席番号が前後ということもあって、何度か会話もしたことがある。その際も口下手や寡黙という印象とは遠く、むしろ弁の立つ少女という印象を受けた。
ただ、自分から話し掛けてくることはまずない。常に受け身。
間違っても、『神さま』の信仰を重んじるこの社会で、異端と疑われるような台詞を自ら進んで吐くような人間ではない。
それが、わたしの知るクラスメイト、水甲真愛の姿である。
良識があり、常識在る級友。
だから。
だからこそ、わたしには理解できない。
理解することができなかった。
理解しようとすればするほど、水甲真愛という人間が見えなくなってしまう。
ーー『神さま』が居なければ、きっと辛い受験なんてものも無くなって、皆幸せになれるのにね。
そんな言葉を口すれば、水甲さんは間違いなくクラスから孤立する。いや、恐らくそれだけでは済まされない。
事実、この出来事を境に水甲さんは教師を含む校内全体から奇異な目で見られ、無視され、影で罵倒され、虐めともとれる嫌がらせを受けることになったのだ。
現在に至るまでの約1ヶ月も。
わたしはそれを、この目で見ていたのだ。見ていることしか、出来なかった。
水甲さんの孤独な背中を、ただ見ていることしか出来なかった。
だからこそ、理解できない。
孤立することを承知で、なぜ水甲さんはあんなことを言ったのか。
一体、何が水甲さんをそうさせたのか。
理解したい。
それが、水甲真愛という人間を理解したい、というその感情が、わたしをこの放課後の教室に導いたのだ。
「ひとりじゃ大変でしょ? だから私も手伝うよ、水甲さん」
意を決してもう一度。
今度は誰に話し掛けているのかを明確にするために相手の名前もしっかり呼ぶ。
そうは言っても、放課後の教室にはもう水甲さんとわたしの二人しかいないのだが……,
他のクラスメイトたちは引退間近の部活動や塾などで青春を謳歌している頃合いだ。無論、普段ならわたしも図書室で居残って、学校が閉まるまで勉学に励む時間帯なのだが、本日は特別である。
例の事件から、クラスメイトたちは水甲さんを良いように、まるでメイドか何かのように扱うようになった。
ゴミ捨て、黒板掃除、教室の掃除。
それらを水甲さんひとりに任せ、押し付けるようになったのだ。それがわたしの在籍する3年A組の悲しき現状。
たったの一ヶ月で、クラスメイト達はひとりの敵を見つけ出すことで団結し、結束を強めた。ひとりを仲間外れにして、絆を得たのだ。なんとも皮肉な話である。
どんな言い方をしても、どう言葉を繕っても、わたしは素直にその結束を受け入れることが出来なかった。
そう、これは虐めだ。
ひとりを集団で囲う、異端という理由で。嫌な仕事を全て水甲さんに押し付けて、自分たちは楽をする。まるでそれが当たり前であるかのように。
習慣となり、当然になり、日常になっていく。
そんなことをわたしは望まない。
四川彩夏という人間は馬鹿ではない。
少し自慢になるが夢は医者というだけあって成績も常に上位だ。
勿論、水甲さんを庇えば、自分も水甲さんと同じように扱われることになる。
そんなことが解らない馬鹿ではない。
「私に手を貸すと、恐らく貴女も異端認定されるわよ? 四川彩夏さん」
しばらくの沈黙の後、水甲さんは教卓を雑巾で吹きながら言葉を返した。
決してわたしの方は振り向かず、ひとり黙々と教卓を吹き上げるその手際の良さに圧倒されそうになるのを堪え、わたしはひとつ深呼吸。酸素をたくさん頭に取り入れて、再び思考をフル回転させる。
異端認定。
それはつまり、クラスでの孤独を指す。
きっとそれは辛いことだ。悲しいことだ。
だが、今さら異端認定をされたところで後悔するつもりなど、わたしにはこれっぽっちも無かった。
後悔はしない。
そう言い切れた。
なにせ、やりたいことをやるのだから、後悔する筈がないのだ。
わたしの決意は揺るがない。
あとは、決意を表明するだけ。
その言葉を選ぶため、四川は思考を巡らせたのだ。
決意を声音に乗せて、これから異端仲間となるであろう友人に、思い付く限りの最高の言葉を送る。
「その時はきっと、異端同士で親友になれるね。わたしたち」
なにも失うだけが人生ではない。
失って、その代わりに手に入れたものだって、それなりの価値があるのだから。
自分で言うのも恥ずかしい話だが、幼い頃から四川彩夏は人一倍正義感の強い子供だったと思う。
異常とまでは言わないにしても、それはわたしの価値観やアイデンティティーにまで関わる程、重要なファクターであると言ってもまず間違いないだろう。
純粋に、ただ誰かの為に。
ただ人を助けることが出来るという理由だけで医師を目指すような馬鹿。それがわたしという人間、四川彩夏である。
決して『神さま』を信仰していないわけではない。
『異端』の肩を持つ訳でもない。
ただ、純粋に。
純粋に、わたしは自分のクラスを否定していた。
その在り方を、現状を受け入れることはどうしても出来なかったのだ。それはわたしのプライドが許さない。
どうやっても正当化できないもの。
それはつまり悪事と同じだ。
やってはいけないことであり、認めるべきものではない。いわば、『神さま』の信仰以前の問題。
こんな胸を内を暴露してしまえば、わたし自身も確実に異端認定を受けるだろう。
だが、それでも信念を曲げるつもりはなかった。
悪事に屈することもまた、わたしのプライドが許さない。
だから。
だからこうして、四川彩夏は放課後の教室でひとり、机を拭いている水甲に声を掛けたのだ。
本来ならば美化委員と日直がやるべき仕事を、ひとりでこなす水甲真愛に。
なぜ、異端と疑われる発言をしたのか。
なにが彼女をそうさせてしまったのか。
本当は、そんなことはどうでも良かったのかもしれない。
「わたしは、水甲さんの味方って訳じゃないんだけどさ。今のこのクラスはなんか違うかなって、間違ってるって思うから」
自分の気持ちを。
思っていることを偽らず、わたしは水甲さんの背中にぶつけると、相手の返事も待たずに近くに設置されている机から拭いていく。
3年A組、生徒は全部で38名。
それだけの人間の机を拭く。正直、思春期真っ只中の女子高生である身として言わせてもらえば、手が汚れる雑巾掛けは気持ちのいいものではない。
加えて言えば、水甲にとっては仕事を押し付け、自分を差別する人間たちの机だ。
勿論、水甲に押し付けられたのは机の拭き掃除だけではない。
考えるだけで雑巾を握る手に力が入る。
机の汚れと同じように、この心のイライラも綺麗にできたならどれだけ楽なことだろうか。
そんなことを思った瞬間、わたしはふとあることに気が付く。
「四川さん、そこはもう終わったわ」
それは不覚にも、机の綺麗さに気が付いたのとほぼ同時のことだった。
顔を上げ、水甲さんがこちらを見つめていることに気がつくと、わたしの心が弾むように高鳴る。その言葉は拒絶でもなく、拒否でもなく、アドバイス。
「ついでに言うと、この教卓で拭き掃除は終わり。出来れば、もう少し早く手伝いに来てほしいところだったけれど、それはあまりにも酷というものよね」
前言撤回。
まるで姑の小言だった。
苦笑いを浮かべながらわたしは急いで水甲さんのいる教卓へと移動すると、教卓を挟んで対峙するように教卓を吹き上げる。
互いに相手の顔を見ることはなく、懸命に、決して広くもない教卓の机上をゆっくりと拭ていく。
またも沈黙。
気持ちを伝えたはいいものの、その後何を話したらいいのか。
散らばったチョークの粉を無言で拭くというなんとも言い難い気まずい空気の中、沈黙に耐えかねたのか、それともわたしを気遣ってか、先に沈黙を破ったのは意外にも、普段は受け身のはずの水甲さんの方だった。
「遅かれ早かれ、四川さんは私に接触してくると思っていたわ」
クラスでは自ら口を開くことのない水甲真愛。
彼女が自ら進んで話を振ってくれたことに喜びを覚えつつも、それを変に表情に出さないように、ポーカーフェイスをキメるわたし。
「理由を聞いてもいい?」
「大したことじゃないわ。そうね、言うなれば色の問題よ」
と、水甲は続ける。
「学年首席の天才にこんな質問をするのもどうかと思うのだけれど、世の中には2つの色があるのはご存じ?」
「なんか、その言い方嫌味っぽい」
「私は学年二位だもの」
完全な嫌味だった。
しかし、水甲さんの楽しげな表情を目にすると、自然とわたしの口角も上がってしまう。不思議なものだ。
勿論、嫌味を言われて興奮する性癖が有るわけではない。念のため。
あの一ヶ月前に止まってしまった和やかな時間が、今ようやく動き出したような気がして、わたしのポーカーフェイスは即刻で意味をなさなくなっていた。
「白と黒…じゃないよね?」
首を傾げるわたしに、「その心は?」と水甲さんが続きを促す。
「白と黒の間には様々な明度のグレーが存在するもの。他の色でも同じ。境界線には必ず混色ができてしまう。でも、原色と混色っていう答を水甲さんが用意してるとはどうしても思えないんだよね」
水甲さん、意地悪な問題出しそうだし。
と、つい本音を漏れる。
対する水甲さんはどうやら図星だったようで、「貴女、エスパーなの?」とやや頬を膨らませた。
互いに気兼ねなく冗談を言い合う。まるで以前から仲良しだったかのように。
「まぁいいわ。答を教えて上げる。答は『染まってしまう色』と『染まらない色』よ」
世の中には、2つの色がある。
染まってしまう色。
そして、染まらない色。
勿体ぶることもなくあっさりと答を口にする水甲さんに、「それとわたしが話し掛けてくることにどういう接点があるの?」と、わたしも間髪入れず問う。
「このクラスの人間たち、担任の倉山先生を加えて39名。その内の37名が既に『神さま』という色に染まっているでしょう? そして、あとの2名。つまりは四川さん、貴女と私だけが、『神さま』に染まらない色なのよ」
それはつまり異端であるということ。
自分自身が異端であるかは置いておいたとしても、水甲さんの言葉には納得するばかりだった。強い説得力を感じる。
クラスの中で感じていた違和感。
それを水甲さんも感じていたのだ。
「目を見ればすぐに解ったわ。四川さんは、他のクズ共とは明らかに違うもの」
「く、クズ共って……。でも、つまりそれって、わたしたちは似た者同士ってことだよね?」
異端同士。
染まらない色同士。
似た者同士。
言い方はどうでも良い。
新しい仲間との出会いはいつだって喜ばしいことなのだから。
仲間外れもふたり集まれば、孤独ではなくなる。
「ええ。でも、貴女が何者にも染まらない純白ならば、私は何者にも染まらない漆黒。同じ染まらない色でも、真逆の色かもしれないわね」
「?」
「安心して。下着の話ではないから」
そんな心配はしていない!
そう返答をしようと、わたしが勢いよく教卓を叩いた瞬間。
下校時刻を知らせるチャイムが教室に鳴り響く。まさにグッドタイミング。わたしの言葉が遮られたと ころで水甲さんは教卓をさっさと拭き終える。
結局、ほとんど手伝いらしいことは何もできなかったが、それでも水甲さんの表情はどこか満足そうに見えた。それは放課後の美しい夕陽が見せた幻だったのかもしれない。
なにせ、水甲さんの笑った姿はあまりに新鮮だったのだから。
ずっと、彼女は無表情でクラスの重苦しい空気を吸い続けていたのだ。それが少しでも楽になったのなら、わたしにとっても喜ばしい話である。
二人並んで汚れた雑巾を水道で洗い、水気を絞りながら。
「水甲さん、良かったら一緒に帰らない?」
と、勢いに任せて提案するわたしに、間髪入れることなく水甲さんは首を横に振った。
躊躇いのない拒否。
それはそれで水甲さんらしい。
なるほど、染まらない色。その意味が少し理解できた気がした。それならば、深く追求しないのが正解だろう。
それが四川彩夏の結論だった。
水甲真愛の親友として、仲間としての結論だ。
すると。
「誤解しないで頂戴」と、まるでわたしを気遣うように水甲さんが言葉を紡ぐ。
「今日は貴女に帰れない理由があるのよ」
「わたしに?」
「ええ。だから、脱靴場までは一緒に帰りましょう」
水甲さんの言葉。
それが一体どういう意味なのか、わたしにはわかるはずも無かった。
これから待ち受ける出来事を予測できるわけもなく、暢気に雑巾を片付け、教室に置いてある鞄を取って、そして脱靴場へと向かうのだった。
出来たばかりの親友と共に。
他愛のない話をしながら。