突然、今まで生きてきた足場が、崩れ落ちてしまったような感覚。
人生の指針が――信じるべき良心に、濁りが生まれてしまったような……。
日本人には、神を信じていない者が多い。
それでも、良識を持って生きられるのは、整合性のある倫理観が教育されているからだろう。
だが、東風谷早苗の良識、倫理観は、少しばかり特殊だ。
神という存在を信じる――どころか、身近にありながら育った彼女の倫理観はわかりやすい。
――神様はいつだって自分を見ている。
信仰する神々に、恥じない生き方をする。
それが、東風谷早苗の倫理観の根底であり、良識だ。
だが――。
今、その部分が崩れ落ちようとしていた。
球磨川禊の行いは、やってはいけないことだ。
そう、彼女の良心は言う。
球磨川禊の行いで、東風谷早苗は救われた。
やってはいけないことで、神々に恥ずべき行為で、彼女は救われた。救われて、しまったのだ。
神様は、東風谷早苗を救ってくれない。
むしろ、いじめの原因は神様だった。
神様は、なんでもかんでも救ってくれる便利な存在ではない。
そんなこと、東風谷早苗も理解している。
しかし、もはや東風谷早苗はそのことを冷静に捉えることができない。
何もしてくれない神々に、
存在する価値は、あるのだろうか。
東風谷早苗は、そう、思ってしまった。
■ ■ ■
また、一週間の時が経った。
いじめの主犯格5人は、既に学校に来ていない。
5人はもはや、東風谷早苗に対する恐怖心から、学校に足を向けることすらできなくなってしまったのだ。
彼らの感覚的には、クラスメートに放し飼いの猛獣がいる、というようなものなのだろうか。
球磨川禊は、もはや名前すらも覚えてない5人の席を順番に眺め、興味を無くしたかのように視線を逸らした。
逸らした先で、東風谷早苗と目が合った。
「どうしました、球磨川くん」
東風谷早苗は、球磨川禊に対して笑みを浮かべる。
それは、一週間前までの笑顔とは、少し違っていた。なんだか、へらっとしている笑みだ。
ゆるい笑顔、というより、ぬるい笑顔、だろうか。
『いやあ、彼ら、来なくなちゃったね』
「彼ら?」
一瞬、真顔になり。
「ああ、彼らですか……そういえば、そうですね」
そう言って、ぬるく笑った。
あれだけ東風谷早苗を苦しめていたいじめの主犯に対して、もはや固執していなかった。
言うならば、彼らを“当然のように受け入れている”。
彼らが、自分をいじめたのも、その結果、ああなってしまったことも。
全てを、当然のように、受け入れていた。
『ふぅん……』
球磨川禊は笑みを深める。
いい兆候だ、と思った。いや、よくない兆候なのだが。
だが――、まだまだだとも思った。
彼女の根底は揺らいで、ぬるま湯が注がれてはいるが、まだ足りない。まだ、堕ち足りない。
東風谷早苗の根底は崩れて、彼女の中の神々は地へと沈んだが、沈んだだけじゃ、浮いてくる。
完全取り除かなければ、東風谷早苗は球磨川禊の居場所まで降りてこれない――。
ならば。
『ねぇ、東風谷さん』
「なんですか?」
『今日、東風谷さんの神社に、行っていい?』
一瞬、東風谷早苗は目を丸くし。
「――いいですよ」
へらりと笑った。
■ ■ ■
八坂神奈子と洩矢諏訪子は、東風谷早苗について話し合っていた。
「このごろ元気になったようじゃないか。よかったよかった」
「神奈子は楽観的過ぎるんだよ……、元気にはなったけど、ちょっと様子がおかしい、と思う」
「様子、ねぇ……」
東風谷早苗は、ここ一週間で元気になった――というより、吹っ切れたように見える。だが、洩矢諏訪子は吹っ切れた、という表現もまた、的を射ていない、と思った。
吹っ切れた、というより、全てを受け入れてしまったような――。
「お、早苗が帰ってきたみたいだよ」
「ああ、そうだね……って、うん?」
信仰を失おうと、神社内であればある程度の融通が効く。神社内に人が立ち入り、それが見知った相手なら、誰なのかということすらわかった。
どうやら、今日は東風谷早苗の隣に、誰かいるようだ。
「友達かな?」
「友達、ね……でもさ、神奈子、なんだか、こいつ……」
「どうした?」
「いや、私の祟り神としての性質ゆえなのかな……なんか雰囲気が気持ち悪いよ」
■ ■ ■
球磨川禊は洩矢諏訪子の姿を瞳に捉えて、内心、驚いていた。
てっきり、自分では、信仰が失われ、力を持たない神々を視認することはできないと思っていたからだ。
見えないなら見えないでやりようはある、という思いで訪ねてきたのだが、見えるのならば僥倖というところか。
霊力などが自分の身体に流れている、とは思えなかったが、球磨川禊の過負荷としての能力は、この世界では幻想の存在だと認識されるのだろうか。
球磨川禊は思考を打ち消し、前にいる洩矢諏訪子へと目を向けた。
『彼女が諏訪子様だね』
「ああ、そういえば球磨川くんも見えるんでしたね」
球磨川禊の言葉に対して、東風谷早苗は思い出したように口を開いた。
一週間前ならば、球磨川禊が――話には聞いていても――神々を見ることができる、という状況を目の前にして、打ち震えるほどの喜びを感じていたはずだ。
けれども、東風谷早苗は既に、全てを受け入れている。
自分しか神様が見えないという孤独も、誰も信じてくれない寂寥感も――全てを受けれてしまったのだから、この状況に何か思うところはなかった。
近づいてきた、洩矢諏訪子に対して、球磨川禊がまず声をかけた。
『やあ、諏訪子ちゃん』
「――ッ! ……君は?」
『僕は、球磨川禊。東風谷さんの友達だよ』
「へぇ……、アンタが、球磨川かぁ……」
名乗った瞬間。
洩矢諏訪子の警戒心が、一気に上がった。
これには、流石の球磨川禊も面を喰らった。
名前だけで敵視されるということは、洩矢諏訪子はどこかで球磨川禊を知り、警戒するべき相手だと判断した、というわけだ。
「早苗、私はちょーっと、こいつとお話するからさー」
「え? ああ、そうですか。球磨川くん、いいですか?」
警戒心丸出しの洩矢諏訪子に、それを気にしないで対応する東風谷早苗。どこか歪に見える二人の距離感を見ながら、球磨川禊は満足気に頷いて、言葉を返した。
『もちろんさ。神様と二者面談なんて、なかなかできない経験だからね』
気負わず答える球磨川禊に対して、胡乱げな視線を洩矢諏訪子が向けるが、球磨川禊はそれを気にせず、へらりとした笑顔で、家へと進む東風谷早苗に手を降っていた。
そして、東風谷早苗が完全見えなくなったあたりで、球磨川禊は洩矢諏訪子に向き直った。
『それで、なにかな。諏訪子ちゃん』
「ちがうね、それは私の台詞だ――、アンタはなんなんだ?」
『おいおい、なんだかんだと言われたら答えてあげるほど、僕は世の中に対して、情け深くないんだぜ?』
「……アンタからは呪い、ではないようだけど、それに近しい“何か”を感じる。私としては、アンタが人間ってのが信じられないね」
『呪い、ね。まあ、僕にとってはそうでもないけど、【彼】にとっては呪いかもしれないね。全てを台無しにするマイナスってのはさ』
「わけがわからないぞ、人間。……そして、アンタを見て、最近、早苗に違和感を覚えた理由がわかったよ」
『違和感?』
「呆けるなよ。その呪いにも似た……気持ち悪いモノが、早苗にも見え隠れするようなったんだ。それは伝染するのか?」
「へぇ……」
「――ッ!」
■ ■ ■
「へぇ……」
「――ッ!」
球磨川禊が、笑った。
いや、洩矢諏訪子はそれを笑顔とは認識できなかった。
笑み――なのだろうが。
笑顔とは、ここまで嫌悪感をもたらすものだっただろうか。
思わず、臨戦態勢に入ってしまう。
鉄輪を握りしめ、球磨川禊と相対した。
『おいおい、諏訪子ちゃん』
それを受けても――神の怒りを受けても、球磨川禊はいつも通り。
へらへらと、嫌悪感しか与えない笑みを、洩矢諏訪子に返す。
『僕は、東風谷さんに連れてきてもらった、ただの友達だぜ? 君の大切な大切な、東風谷さんの友達に……そんなものを、向けるのかい?』
挑発だ。
洩矢諏訪子はそう思った。
内容は、洩矢諏訪子を諌めようとしているものだが、その表情、その仕草――どれを取っても、彼女を挑発していた。
ゆえに――、洩矢諏訪子はあえて、武器を収めた。
『……あれれ?』
「それもそうだね、球磨川禊。いやはや、神の名に免じて、無礼を許してくれるとありがたいよ」
『へぇー……』
球磨川禊は、洩矢諏訪子の言葉を聞いているのかいないのか――関心したように、頷いた後、言葉を返した。
『腐っても神ってことかな? やりにくいね』
「神を目の前にして、その言い草……大物なのか、よっぽどの大馬鹿なのか」
『じゃあ、よっぽどの大馬鹿ってことで――これも大目に見てくれると嬉しいなっ!』
そう言いながら。
球磨川禊は、いつ取り出したのかわからない螺子を――洩矢諏訪子の頭に向かって突き出した。
『あれ?』
「神を舐めるなよ――人間」
突き出した――が、球磨川禊がバランスを崩して、明後日の方向に、螺子は突き刺された。
地を操る、洩矢諏訪子の能力。幻想が失われたこの世界では、十全扱うことなどできないが、神社というならば最低限のことはできる。
球磨川禊の足元を陥没させて、転げさせるくらい、造作もなかった。
「そして、お前は私に――神に楯突くというだね。人の身で」
『おいおい、ちょっとした挨拶だろう?』
「へぇ、そうか。じゃあ、私もちょっとした挨拶をさせてもらおうかな――!」
鉄輪を構えた洩矢諏訪子が、飛びかかろうとしたところで。
「おいおい、諏訪子。なにをしようとしてるんだい」
背中から声がかかった。
目の前の球磨川禊を警戒しながら、後ろの――八坂神奈子に声を返す。
「こいつは、おかしい。普通の人間じゃあない。ここで潰しておくのが得策だ」
『ひどいなー、僕のナイーブな心が傷ついちゃうよ』
球磨川禊の横槍に対して、キッと睨みつける。
それ以上話すことはない、と洩矢諏訪子が球磨川禊に対して、飛びかかろう、としたところで――。
「そうだよ、諏訪子。球磨川くんは、早苗の友達なんだから、そんなこと言ってやるな」
イラっと。
洩矢諏訪子は、球磨川禊に対する憤りともまた違う、軽いムカつきを八坂神奈子に感じる。
八坂神奈子には、球磨川禊の異常性がわからないから、そんな対応なんだろうが――それにしても、楽観的すぎる。
球磨川禊を警戒しつつも、そんな八坂神奈子を諌めようと、振り向いた。
「……え?」
呆然と。
おもわず、思考が停止する。
「どうした、諏訪子」
そこには、八坂神奈子が立っていた。
頭に――球磨川禊が手に持っている、特大の螺子を刺した、八坂神奈子が、だ。
一瞬の、空白。
洩矢諏訪子は、時が止まったような空間を切り裂くように、球磨川禊に向き直った。
「球磨川禊ィ! いつだ! いつそんなことを……!」
『ちょっと止めてよ諏訪子ちゃん、僕はやってないよ』
「お前以外に……!!」
あの螺子に刺されると、どうなるのかはわかない。
しかし、ダメージを食らっている様子がないところと、八坂神奈子が状況に疑問を抱いていないところを見ると、おそらく、精神操作系の能力。
それは、いい。
神秘の失われた現代にて、そんな能力を持つことは驚きだが、能力事態は納得できる。
だが――。
「私はお前を警戒していた! この神社を尋ねたのも初めてのはずだ! 神奈子に仕掛けられるはずが……」
『だからさー』
混乱する、洩矢諏訪子に対して、球磨川禊は呆れたように言葉を返す。
『僕じゃないって……僕は、ただ、“下層人格”を付与した螺子を渡しただけだって』
「渡したって、誰に……!」
『気づいているんだろう?』
言葉に詰まる。
思い当たる人間は一人しかいない。
しかし――。
そんな、洩矢諏訪子の思考を遮るように。
「球磨川くんっ! どうですか、私、神奈子様に螺子を刺せました!」
無情にも、東風谷早苗の言葉が響いた。