何が起こっている。
洩矢諏訪子は、混乱する頭を抑えつけて、球磨川禊を睨みつける。本来の力関係を考えれば、ヘビに睨まれたカエルのごとく、球磨川禊は身を震わせるべきだが、その当人は飄々と、風に吹かれるように、洩矢諏訪子と対峙した。
そして、その隣には――。
「早苗……、今のは……」
へらりと、褒めてと言わんばかりに、球磨川禊に擦り寄る東風谷早苗。
球磨川禊が何かをしていた様子はなかった。あれだけ警戒していたのだ。気づかないはずがない。ならば……。
『そう深く考え込まなくたっていいよ、諏訪子ちゃん。教えてあげるさ』
「……なにをさ」
『おいおい、呆けないでくれよ。今の現象であり、東風谷さんの現状を、だよ』
球磨川禊が、思わせぶりに手を広げる。なにかを乞うように、なにかを与えるように、ゆっくりと手を広げた球磨川禊は、洩矢諏訪子に、自慢するような声を投げる。
『――ねぇ、諏訪子ちゃん。例えばね、現状を不当に思ったことはないかな?』
「……なに?」
『世界は間違っていて、自分にばかり不都合で、他人だけが得をしている。そう思ったことはないかな?』
話がズレている、と口にしようとした洩矢諏訪子の言葉を遮るように、さながら、今は自分の手番だと主張するように、球磨川禊は言葉を続ける。
『――少なくとも、東風谷さんは、常々そう、思ってたみたいだけどね』
まるで、差し込まれたようなその言葉は、洩矢諏訪子の頭を打ち据えた。
洩矢諏訪子にとっての、我が子のような存在である、東風谷早苗。その彼女の悩みを、屈託を、突然、パッと出の少年に告げられたのだ。目を見開き、思わず、東風谷早苗へと目を向ける。
目が合った。
「さな、え……」
「諏訪子様、安心してください」
縋るような視線の先にいた東風谷早苗は、笑顔だった。
球磨川禊の言葉が虚言だと主張するような、花開く笑み。
世界の美しいものだけしか、視界に入らないような、そんな、純粋無垢な表情。
敵と相対している現在にして、場違いながら、しかし、洩矢諏訪子はホッと息をついて、安心してしまった。
「――ええ、大丈夫です。世界が間違っていることも、自分に振りかかる不利益も、他人だけの幸せも、全部が全部、私は受け入れてしまいましたから」
洩矢諏訪子の表情が凍るには、次に続いた言葉一つで、十分だった。
「…………え?」
「でも、受け入れたつもりでも、愛してるつもりでも、私、心の何処かで、認めることができなかったみたいです。球磨川くん曰く、不正を正そうとする心が、不当に歪んだ結果、これが生まれた、だそうです」
「なにを……早苗、アンタは何を言って……」
「だから、さっきの現象の解説で、私の能力の説明ですよね?」
言葉に詰まる洩矢諏訪子に対して、またしても自慢するように、さながら、同胞が増えたことを喜ぶように、球磨川禊が声を上げた。
『等価交換のスキル“
■ ■ ■
等価交換のスキル“
それこそが、東風谷早苗に目覚めた、否、根付いた能力であり、過負荷である。
このスキルは、等価交換をうたっているが、当然、過負荷であるため、それは不当な交換だ。
自らに降り掛かってくる、害意や悪意や被害――それらのダメージを無効にする。さながらそれは、蝶ヶ崎蛾々丸の持つ『不慮の事故(エンカウンター)』のようでありながら、しかし、ここから先は、志布志飛沫の『致死武器(スカーデッド)』のような、理不尽で、問題無用さを兼ね備えていた。
なんてことはない、等価交換なのだから。
東風谷早苗が無効にした害悪は、決して、消えたわけではない。
当然、誰かに振りかかる。
見知らぬ誰か、十年来の友人に、昨日の友に、今日の敵に、遠くの人間に、辺りの人間に、さながら、くじ引きが当たった、と言わんばかりの押し付けがましさを持って、降りそそぐ。
――自分が不幸でも、世界は回る。
だったら、誰かが不幸になっても、同じですよね。
奇跡を振りまく少女は、こうして、害悪を振りまく過負荷へと、堕ちることができた。
■ ■ ■
『――というわけで、さっき、僕が喰らうはずのダメージは、ぜーんぶ、どこかの誰かが請け負ってくれましたー』
球磨川禊が、そう、洩矢諏訪子に告げる。
言外で、洩矢諏訪子を断罪するように、自らを棚に上げて、罪をなすりつけるように、球磨川禊は、洩矢諏訪子にそう、告げた。
それは、いい。
もはや、この少年が普通だとは思っていない。
普通の価値観で、常識的な物言いで、この少年と相対しても、待っているのは虚しさだけだと理解した。
しかし、この現象を起こしたのは、球磨川禊ではないのだ。
「早苗、お前は、今、自分でやったことを理解しているのか……?」
東風谷早苗は善良な娘だった。善性で、清く、正しく、危なげないほど不正を嫌う……青臭いと言えるほどの、正義の心を持っていた少女だった。
持っていた、はずだった――。
「え、理解って言われましても……えっと?」
――ああ、そうか、理解できてないだけか。そうだ。当然だろう。東風谷早苗が、理解しながら、そんな凶行に及ぶはずがない。幼いだけだ。正しく導いてやらねば……。
「球磨川くんの代わりに、誰かが、えっと、もしかしたら死んじゃったのかもしれないんですよね……あ!」
言い訳がましい、洩矢諏訪子の思考を止めるように、喜色に染まった、その声が響く。
「もしかして、私が罪に問われるかもしれないと、心配してくださってるのですか!? もー! 大丈夫ですよ、証拠もないし、そもそも、私自身が、誰と交換したのかわからないんですから……そう、――私は悪く、ないですよ!」
世界が、動きが鈍くなっていく。
理解が追いつかず、認識が滞り、世界がどんどん、色褪せていく。
もはや、東風谷早苗の声も届かない……否、東風谷早苗の言葉を聞くのを、頭が拒否していた。
そこに、スッと、恰好つけた声が差し込まれる。
『というわけで、諏訪子ちゃん』
――ああ。
『こういうことなんだよ』
――わからない。
『大丈夫、安心してよ』
――理解、できない。
『理解せずとも、わからなくとも――次に目を覚ましたときには、全てを受け入れているだろうから』
その言葉を認識すると共に、洩矢諏訪子の意識は、ぶっつりと途切れる。
最後に見たのは、顔面に迫り来る、手のひらサイズの螺子だった。