降り注ぐ雨は消えるも、浮かぶ分厚い灰色の雲は消えない。僅かに湿った石畳の上に息を荒げて座り込む者が三名。
「や、やっぱり階段ダッシュはきつい……」
「全然慣れないよぉ……」
「はぁっ、はぁっ……」
その三名の中でもまだ話す余裕のある穂乃果とことり。まだ入ってから左程時間の経っていない花陽に至っては来ているジャージの胸の部分の生地を握りしめて苦し気に呼吸している。
「花陽、大丈夫? 深く呼吸することを意識して。すぐに楽にはならないだろうけど……」
僕の言葉にうなずきながら深く息を吸い始める。これ以上は楽になるまで時の経過を待つだけしか方法が無い。本当は座り込むのも駄目なんだけど立たせるのは酷だろう。
「真姫も大丈夫? 結構辛そうだけど……」
「これくらいっ……なんともないわよ」
とはいうものの顔の血色が芳しくない。明らかに強がっている。根性で乗り切ろうとしてるなあ……
「そう? じゃあせめて飲み物でも飲みなよ。はい、スポーツドリンク」
「いただくわ……」
真姫にスポーツドリンクのペットボトルを渡す。受け取った真姫はすぐさま蓋を開けて飲む。
しばらく飲んだところで余裕が生まれたのか、少し戸惑った顔でこちらを見てくる。
「きょ、恭介? ひょっとしてあなたが先に飲んだのを私にくれたわけ?」
何やら勘違いをしているらしい。そんなこと普段なら開けるときの蓋の硬さで分かりそうなものだけど。疲れてたから気付かなかったのかな。
「それは---」
ここまで口に出したところで悪戯心が生まれる。たまにはからかうのも悪くない。
「---気づいてなかったの?」
「な、なぁっ……! あなたねえ! そういうのはせめて先に一言言ってから……!」
一気に顔を羞恥に染めて僕に詰め寄る。先ほどまでの顔色の悪さが嘘の様。いや、嘘をついてるのは僕の方なんだけれども。
「あ……ごめんね。嫌、だったよね」
下を向き、真姫と目を合わせずに言う。無意味な本気の演技だ。
「そ、そこまでは言ってないわよ! でもやっぱりそういうのは気になるっていうか……もう! 気になるって何よ!」
「……嘘だよ。そんなに慌てなくても」
「~~っ! からかったのね!」
僕の両肩を掴んでガクガクと僕の体を揺さぶる。疲れから僕を揺らす手にあまり力はこもっていない。
「二人ともいつの間にそんなに仲良くなったの?」
僕達が一悶着やってる間に回復したことりが僕を見上げて小首を傾げる。それと同時にチャームポイントである髪のとさかがぴょこんと揺れる。正式名称はとさかじゃないと思うけど。
「仲良くなってなんかないわよ! 私が恥ずかしい思いをさせられてるだけ!」
「本当かなあ? きょーくん女の子と仲良くなるの早いから……」
ことりがそう言いつつ僕にちらっと流し目。それに気づいた真姫は呆れ顔を浮かべる。
「本当あなたって……たちが悪いのね」
「え? どういうこと?」
「教えてあげると思ったの? せいぜいもやもやしなさい」
あっさりやり返されてしまった。慣れないことはするものじゃないのかなあ……
「私もたちが悪いという表現には同感です。別に狙っている訳では無いのが癪ですね」
「う、海未? なんか刺々しいね?」
なぜか海未の追い打ちが始まる。これは説教に突入していく流れだ。普段説教されている分助けてくれそうな穂乃果に視線を送る。
「まあ、私達こんな感じでやってるよ。花陽ちゃん、凛ちゃん」
「恭介さん、誰にでも柔らかい態度で接しますよね……そのせいなんじゃ……」
「なんかそういう次元の問題でも無い気が……一歩間違ったら修羅場になっちゃうにゃ」
「でもその柔らかい態度で許してもらえちゃうんだよねえ」
『あぁ……』
何やら三人で頷きあっていた。もはや三人ともこっちを見ていないので助けてもらえる見込みは無い。
「そ、そろそろ学校に行かない? 遅刻しちゃうよ」
「……それもそうですね。これ以上追及するのも不毛です。これくらいにしておきましょうか」
「むー、海未ちゃんそんなに簡単に許しちゃっていいの?」
「許すも何も本人が全く分かってないですし……」
全然許されている感じはしない。延命治療を施したに過ぎない気がする。
「延命治療に成功したってところかしらね」
「気が合うね。僕も同じこと考えてたよ」
「気が合うは余計よっ」
毛先を指で弄りながらそっぽを向いて歩いて行ってしまう真姫。怒らせちゃったかな?
「……真姫ちゃん、凄く楽しそうですね」
「え? 花陽にはそういう風に見えるの? 僕はちょっとやりすぎちゃったかなと思ってるんだけど」
「そんなことないです。μ'sに入る前の真姫ちゃんはあんな表情絶対に見せなかったと思いますから……」
「そっか……それは良かった」
「ふふっ、本当に良かったですっ」
目を細めて嬉しそうににっこりと笑う花陽。こちらまでつられて口角が上がってしまう。
「じゃあ、僕達も行こうか。本当に遅刻したら笑えないからね」
「はいっ。行きましょう!」
分厚い雲の間から漏れてくる光が皆をきらきらと照らすのを眺めながら、僕と花陽の二人でゆっくりと階段を降り始めた。
空に浮かぶ雲の量が減り、チラチラと青空も垣間見える昼休み。本来ならのんびりと昼食を食べ始めるところなのだが……
「きょーくん海未ちゃんがいない今のうちに、宿題教えて!」
「朝とか、休み時間にやればよかったのに……」
「海未ちゃんがいるところで宿題始めたら怒られちゃうんだもん! だから今がチャンスなの!」
「海未は今頃μ'sのためを思って副会長の所に伺っているっていうのに……まあ、昨日言ったとおり教えるけどさ」
「ほんと!? じゃあ早速ここ教えて!」
問題用紙を素早く取り出し、僕の机の上に置いて分からない問題をペン先で軽く叩く。
いきなり答えを教えても意味が無いので回答の手順とヒントだけ教える。
「この問題は……こう考えて解いていけば答えが出ると思うよ」
「ふーん……ちょっとやってみるね」
真剣な表情になり無言でペンを走らせ始める。すぐに手順の半分ほどを終えるが、そこで完全に詰まったのかペンのノックカバーを頬に押し付けて考え込んでしまう。
「ここから先がわかんない……どうすれば良いの?」
「大体考え方はあってるよ。ここにはこの公式じゃなくて別の公式をはめ込んでみて」
「……あぁ! なるほど!」
何やら穂乃果の中ではまるものがあったのか一気に解き進めてあっという間に終わらせてしまった。手順を教えたとはいえ、僕より解くの早いんじゃないかなあ。ちょっと複雑。
「……穂乃果? 昨日言いましたよね? 宿題は『やっておくように』と」
「……待って海未ちゃん。ちゃんと答えを見せてもらわずにやったよ? だから怒るのは……」
「恭介君に迷惑をかけている時点で駄目です! 全て自分の力で頑張ってください!」
「ご、ごめんなさい……」
穂乃果の真後ろに立つ海未に対し、穂乃果は海未の方を振り向かずに謝る。会話だけ聞くとちょっと姉妹っぽい。
「まあまあ。僕はちょっとヒントをあげただけだよ。ほとんど穂乃果一人でやったんだからそんなに怒らないであげて」
「怒っている訳ではないのですが……少し言い過ぎたかもしれないですね。すみません」
「でも海未ちゃんには感謝してるよっ」
「も、もう! そんな言葉でほだされませんからね!」
とかなんとか言いつつやっぱり嬉しそうな海未。
「じゃあきょーくん次は英語の宿題教えて!」
「え? 英語の宿題なんてありましたか?」
「うん。昨日出されたはずだけど……」
緩んだ頬が一気に引き締まり、若干顔色が悪くなる海未。
「……もしかして、忘れてた?」
「は、はい……今からやります……」
「……僕で良ければ、穂乃果と一緒に教えようか?」
「……お願いします……」
消え入りそうな……というか消えたも同然の声で頭を下げてくる海未。やっぱりちょっと抜けてるところがあるよなあ。
結局僕一人ではとてもではないが手が回らず、ことりの助けを借りてどうにか午後の授業が始まる直前に二人とも宿題を終わらせることができたのだった。
全員少し緊張した面持ちでパイプ椅子に腰を掛ける。電気を付けると外から丸わかりなので薄暗い室内で部長を待つ。
授業が終わってからかなり急いで来たから部長が来るまでには少し時間がありそうだが……
「あの、先ほどはすみませんでした……とても分かりやすくご教授いただいて……それが無かったら全て終わらせられたかどうか分かりませんでした」
「気にしなくていいよ。むしろあの状況で誰かのを写させてもらおうとしない分むしろ偉いと思うけどね」
僕の右隣に座っていた海未と声量を抑えて話す。僕自身は大したことをしていないと思うのでここまで感謝されると逆に申し訳ない気分になる。
「お礼と言っては何ですが……今度何か助けが必要な時はぜひ私に言ってください。微力ながらお助けします」
「本当? じゃあその時はよろしくね」
「はいっ」
海未が笑顔で頷いた瞬間、扉に鍵を差し込む音が聞こえ、場の空気が一瞬張りつめる。
扉が開き、部長が表情を驚きに満ちたものに変えたのが先か、穂乃果が電灯のスイッチを押し部屋を明るくしたのが先か。
「お茶です、部長!」
「部長!?」
「今年の予算表になります、部長!」
「部長、ここにあったグッズ邪魔だったので棚に移動しておきましたー!」
「こ、こら! 勝手に……!」
「さ、参考にちょっと貸して。部長のおすすめの曲」
「なら迷わずでんでんでんを……!」
「あぁーっ! だからそれは……!」
「ところで次の曲の相談をしたいのですが部長!」
『部長!』
部長が何か言う暇すら与えず畳みかけていく。
「……こんなことで押し切れると思ってるの?」
部長は僕達が無理やりにでも部を乗っ取ろうとしているのかと勘ぐったらしい。
「押し切る? 私達はただ相談しているだけです。にこ先輩も含めたμ's全員で踊る次の曲について!」
「……私も?」
「はい!」
「……厳しいわよ」
「分かってます。アイドルへの道が厳しいことくらい!」
「分かってない! 全員甘々よ! アイドルっていうのは笑顔を見せる仕事じゃない、笑顔にさせる仕事なの! それを私が直々に教えてあげるわ! ……入部届、皆で出しに行くわよ!」
『はいっ!』
「入部届出したら早速屋上で練習よ!」
『はい!』
どうやら上手くいったようだ。正直上手くいくのかと不安で仕方が無かった。失敗したらアイドル活動を部活として承認してもらうのはかなり厳しくなっていただろうから……思わずほっと一息。
「そこのあんた!」
急に呼び止められて心臓が跳ね上がる。
「はいっ!?」
「何ほっとしてるのよ! ここからが本番よ! マネージャーなのか何なのか知らないけどしっかりしなさい!」
「は、はい!」
はやる気持ちを抑えきれないのか、穂乃果から受け取った入部届を握りしめて部室を飛び出していく部長。
僕達も慌ててそれに付いていく。駆け出した皆の顔に浮かぶのは緊張から解き放たれた笑顔。先頭を駆ける部長の顔は窺い知れないけれど、揺れるツインテールがどことなく嬉しそうだった。