Fate/alter Seven Sight ――the Next Sight―― 作:どっこちゃん
比較的なだらかな森の際を通って、隣県へ向けて列を連ねている送電用の鉄塔の一つ。
地上数十メートルのその頂で、ルベルは日が落ちきるまでずっとアーチャーの言葉を噛み締めるようにして佇んでいた。
すべてのカラクリは、夕子から話を聞いたくろむがいとも簡単に推察して見せてくれた。
まるで安物のパズルでも組み立てるような手際であった。探偵でもやっていけそうなぐらいの鮮やかさだった。改めて、魔術師には向いていない弟子である。
その事実――いや、推察には夕子自身も驚いていた。ルベルもまた然りだ。予想さえしていなかった。――が、明かされてみれば確かにそれ以外のことは考えられない。
兎角、それ全ての用意は整った。ようやく知れた敵の名も、必要な戦略も、すべてそろっている。
アーチャーは既に先行している。あとはルベルが出向き、アズルを取り戻すだけ――
「……せんせい」
ひとり暗い空を見つめていたルベルの背に、くろむが言葉をかけてきた。
「首尾はどうかしら」
「……夕子嬢のことは、迎えが来てたのでとりあえず問題ないと思います。本家が消失しても島原の家門自体は健在みたいですね。……本人はさすがにショックを受けてたみたいですけど」
「そう。それで、貴女はどうするの?」
独り言のような声に、弟子は独特のリズムで即答する。
「……残ります」
「一人で行け。――ということね。心細いわ」
「……先生」
「冗談よ。養生しなさい、くろむ。何があってもいいように、身を隠しておきなさい。そうね、のぶえと――ナティオのところに行ってあげるのがいいわ。その腕のこともあるのだし」
「……いいえ。私は一度お屋敷に戻ります」
「どういうこと?」
くろむの言葉に、背を向けていたはずのルベルは思わず振り向いた。
「……大したことではないんですが、今のうちに掃除を、と。怪我は大したことありませんし、あのままじゃ、先生たちが帰ってきてから大変でしょう」
「あなたねぇ、こんなときに。……まったく、この弟子は……」
頭を抱える師を他所に、何時ものようにマイペースでくろむは続ける。
「……病院へは、今度みんなで行きましょう。ティオのこともありますし」
ルベルは再び澄んだ夜空を仰ぎ、溜息をつく。こんな時に限って、雲一つない空は零れ落ちそうな星の光を含み、矮小な魔術師を見下ろしてくる。
身を削がれるようなか細さに少しだけ躰を震わせ、ルベルは小さな声で応える。
「結局そうなるのね。……でもナティオは、あの子は……」
不安は本物だ。これほどに己を頼りなく思ったことなどない。魔術師として、彼女らの主人として。人として、母として。あらゆる意味で、もはや彼女には自負が残っていない。
これほど、心もとない出陣など、想像したことさえなかった。どれほど追い詰められようとも、己に課しただけの修練と誇りは己を助け、克己するはずと――魔術師としての矜持がそれを疑うことはなかった。
だが、もはや彼女にはそれがない。縋るべき全てを、手ばしてしまった。もはや無手も同然だ。
「……ええ。喜ばないでしょうね」
そして残ったのは、不確定な行く先と、まっさらな、そして思いもよらぬほどに、頼りない、一人の女。
「……でも。――嬉しくないわけじゃないんですよ」
弟子は静かな声で、しかし確かに告げてくる。
ルベルにはその真偽は測りようもない。ただ星を見つめて呟くことしかできない。
「困った子よね……」
それでも、一つ、想う。これは、きっと責務ではない、と。責務なら、放り出してもおかしくはなかった。それでもルベルがそうしないのは、きっと。
「……先生もです。本当に、……よく似てます」
ため息交じりのくろむのことばに、ルベルは横顔で苦笑して見せた。そして何も言わずに、しばし佇んだ。
「……せんせい……?」
「ねぇ、くろむ――」
ルベルは最後にそう声をかけた。くろむは背を向けたままの師を見つめる。ルベルが発したその問いに、くろむはやはりマイペースな調子で、率直に答えた。
「――ありがとう。気休めでも嬉しいものね。――行ってくるわ」
「……はい、行ってらっしゃいませ」
恭しく見送られ、ルベルは夜の闇の中へと身を投じた。その先は――死地である。
闇に翼を広げるようにして、ルベルは手にしたガラス容器の中身を空に撒いた。
散布された粒子は風に吹かれて空に舞い上がっていく。煌めく星の光を弾いて揺らめくそれに足を掛け、ガラスの階段でも上る様に中空へ身を躍らせた。
粒子は気流操作の魔術によって涼風と共に、彼女の身体をはるか上空まで運んでいく。
光を呑んでしまうほどの森のしじまによって、煌めくような星の輝きは地表にまで届くことがない。目下に広がるのは、漆黒の海を思わせる闇色の樹海である。
笹ヶ谷市の東方を囲い込むような形で広がる大森。その北東に位置する一帯だ。
かつて避暑地として活用された南東部の森とは違い、切り立つような斜頚の厳しい地形が広がっており、最も人の手が入っていない、原生林と呼べる場所でもある。
島原の人間も、このひずむような闇に踏み入ることは多くないはずだ。
そして、人の感覚を丸ごと弄してしまうようなこの場所でなら、アーチャーはあのライダーとも相対できるはず。
知覚能力の広さと鋭さ、それだけがアーチャーがライダーに勝る要素だ。戦闘の舞台が期せずして好条件を備えていることをは僥倖だった。
ルベルは虚空に佇みながら、あの夜と同じように地を馳せるアーチャーに感覚を重ねていた。その視界は、聴覚は、アーチャーがすでに森の中に身を隠しつつ、敵サーヴァントを補足していることを伝えてきた。
しかし、戦闘が始まれば共有のレベルは落とさなければならない。
アーチャーの目的は、ライダーをおびき出してアズルの元から引き離すことであった。そのまま戦闘を継続しつつ、ルベルがアズルを救出するまでの時間を稼ぐ。それがアーチャーの役目である。
その間、アーチャーがどれほどの窮地に陥ろうとも、ルベルは手を出さないことを言い含められている。アーチャーに役目があるように、ルベルにもまた託された役目がある。
一方でまさかライダーがアズルを連れたまま――という懸念もあったが、すべてを仕組んだ人物がライダーのマスターとなっているのなら、分断できる可能性は高かった。
くろむの話でも、あのライダーは戦闘時に作戦や戦略といった、余計な荷物となるようなものを好まない可能性が高い。
ルベルは当初は己がライダーと相対し、足止めしているうちに、アーチャーがアズルを、とも考えたがアーチャー自身の言葉によってルベルがアズルの元へ赴くこととなった。
曰く――「息子を迎えに行くのは母親の役目だ」と。
そう言われては、ルベルには反目のしようがなかった。
しかし、すべての有利と幸運とを含めたとしても、戦闘力の不利は覆らないだろう。
果たして、アーチャーはあの怪物的なライダーを相手にどこまで凌ぎ続けられるだろうか……。
その時、闇色に蟠る森の中の木々が、まるで芝生のように刈り取られ、虚空に撒きあげられて散華していくのが見えた。案の定、森の中を馳せるアーチャーの視界が、迫り来る超暴力の化身の姿を捉えていた。
ライダーである。まるで象のような巨大な騎馬に跨るその威容。以前、くろむが浚われた夜に見たときとはまるで別物であった。
『ハッハア! どこに行った、弓兵! 望み通り遊んでやるぞ! 矢でもなぁんでも射って来いッ。フフンッ、――このままではッ、詰まらんぞ!』
振るわれる画戟はその数十メートル先まで、樹木と言わず大地と言わず岩石と言わず、ありとあらゆるものを問答無用で切り裂き、粉砕した。
あれがライダーの主要な攻撃スキル『覇刃』か。
ルベルは改めてその驚異的は威力と攻撃範囲を認識する。元のマスターであるくろむから聞き及んでいはいたが、――いまアーチャーの眼を通してみるそれは、あまりにも致命的な破壊力を有しているように見えた。
そうだ。――あの時の島原の本拠地を山ごと削り取った威力は、もはや「対軍」宝具という規格すら凌駕しつつあるほどだった。
くろむの記憶にあったライダーの能力はそこまで強力ではなかったのだ。
つまり、いまあのライダーのマスターとなっているのは、くろむよりも遥かに格上の魔術師――ということになるが、夕子の情報からくろむが推察した黒幕の名が正しいなら、「あの女」がライダーのマスターになっているのなら、これはおかしい事態なのだ。
いったい、どういうことなのか……
虚空を駆けていたルベル自身の視界の端に、まるで瀑布のごとき絶壁の岩肌のような景観が見えてきた。
灰色の滑らかなコンクリートの巨壁。そしてそれを超えて広がる、まるで巨大な湖のごとく、満点の星光を映す水面。――広大な「貯水池」だ。
笹ヶ谷市街地には流れ込まない、森を隔てた先にある大河。その水量を利用するために設置された巨大ダムであった。
アーチャーの報告によれば、アズルはあそこに居るはずである。
すぐにでもアズルを探したかったが、アーチャーがやられてしまっては元も子もない。
ルベルは目的地から距離を置いた場所に着地し、それまで散逸しながら認識阻害を行っていた魔塵を全身に張り付け、その存在を外界から強力に「遮蔽」した。
身を顰め、アーチャーの視界から改めてライダーのパラメーターを確認する。
これは聖杯戦争の関係者の間で公になっているわけではない、いわゆる裏ルールとでもいうべきものなのだが、パラメーターによる宝具のランクは、そのサーヴァントが使用することのできる宝具の最大ランクを示しているもの、と推測される。
ゆえにいくら強力な宝具を所有していても、知名度やマスターの力不足で『宝具のパラメーターランク』が、『所有する宝具そのもののランク』よりも低下していると、その宝具を使用するのに、通常以上の魔力を必要としてしまう場合があるのだ。
くろむからの情報だと、今アーチャーと対峙しているライダーのパラメーターそのものがくろむ自身が契約していた時のそれよりもはるかに強力になっているらしい。
現時点で確認できるライダー・呂布の「宝具」パラメータは『A++』。所有する宝具のランクも、本来はこれに準ずるものであろう。
唯でさえ規格外の対軍宝具である。さらに推察するなら、あの襲撃、夜のライダーはこれをさらに『激昂』とやらのスキルで倍加し、理性と引き換えに『A+++』のランクまで引き上げたのではないか、と言うのが破壊の痕跡から推し量ったくろむの推察である。
くろむと契約していた時点では、さすがに山脈を抉り、地形を変えるほどの威力は望めなかったらしい。
無論、威力は極まったものになったが、しかしこの考え無しの一撃でライダーは己の溜め込んでいた魔力をほぼ使い切ってしまったに違いない、とも結論付けた。
あの直後にシュタウフェンの屋敷に乗り込んできたライダーにアーチャーが善戦できたのは、おそらくそれが原因なのだろう。
あの時、ライダーは消耗故にろくに宝具を展開できない状態だったのだ。
それが――いまやアーチャーと対するライダーは十分に魔力を補充し、存分に能力を解放できるだけの状態にある。
つまり状況は両者の初戦に比べてはるかに悪くなっていると言えるのだ。
今も、アーチャーは森の中に隠れ潜みながら気配を断って、アーチャーを翻弄している。
しかし、木々を粉砕しながらアーチャーを追うライダーの顔には焦りも、しかし油断も隙もない。
一度仕留めきれなかったアーチャーを、十二分に警戒しているのだろう。じっくりと時間をかけて追い詰めて仕留めるつもりなのだ。
もとより、射出兵器を用い、アウトレンジからの間合いの利を盾に戦うアーチャーのクラスと、サーヴァント随一の機動力を持って敵との間合いを潰せるライダーのクラスとは相性が良くない。
いくら深い森の中、木々の陰影にその身を隠したとしても、森そのものをなぎ払いながら迫る「怪物」相手では分が悪いと言わざるええない。
しかしルベルにはアーチャーにすべてを託すしか手がなかった。
手助けもままならぬというのなら、己は己のなすべきこと成すしかない。
ルベルは地上からダムに近づいていく。周囲に敵の姿はなかった。
遮蔽を解き、魔塵を四方に散らす。まずは生態感知と魔力感知によってアズルの生存を確信しなくては――
しかしそこで、ルベルは思わず足を止め、凝然とまなじりを開いた。
「――ナティオ?!」
感知魔術よりも先に、彼女は見つけていたのだ。薄闇のヴェールをまとっただけで隠されてさえいなかったそれを。
それは広大な水面から突き出した十字架にくくりつけられた人影であった。
コンマ数秒遅れでトラップがないことは確定した。凝結した魔塵が荒ぶる水面の上に芳香の橋を渡し、ルベルは瞬きも忘れて一足飛びに虚空を蹴った。
まろぶようにそれに近く。
何よりも先に立つのは疑問だ。なぜ?
豊かに波打つ長いブロンドの髪。細い手足。白のドレス。長い睫毛に閉じられた双眸――そこに居たのは、アズルではなく、いまも入院しているはずの彼女の長子、ナティオ・フォン・シュタウフェンであった。
「どうしてッ――――いえ、これは」
しかし、すぐに気づいた。それはナティオではなく、そのように着飾られたアズルであったのだ。
確かに血のつながった姉弟ではあるが、まさかここまでよく似るとは思わなかった。――しかし、だれが、なぜこんな真似を?
アズルは意識がないようでうなだれている。ルベルはそれを見あげながら固まってしまった。その姿に動揺していたのだ。入院以来、彼女は長女と顔を合わせていない。
兎角、こんなところから降ろさねば、と手を伸ばそうとしたが、途端に波打つ水面がうねり、まるで生きているかのように、ルベルに牙を剥いたのだ。
粒子が装甲となってそれを受け止めたが、あまりの勢いにルベルは水際まで押し返されてしまった。
「――これは……」
「あまり不用意に近づかれない方がよろしいかと」
恭しい声は背後から、振り返るまでもない。感知魔力で存在は知れていたし、その正体も、すでにくろむから聞き及んでいる。ルベルは言葉だけでその相手を威嚇する。
「――砂岸部・恋」
「驚かれないようですね、マスター・ルベル」
改めて振り返ると、そこには以前と変わらぬ使用人姿の少女がいた。
「推察してくれたのは弟子よ。私には最後までわからなかったわ。まさかあなただとは、思わなかったわよ……」
事実、ルベルには思いもよらなかった。くろむが夕子の話しを訊いてそれを割り出したとき、恋はライダーの襲撃に際して死亡したと、当のくろむから聞かされていたからであった。
しかし、くろむは己が論理的に割り出した回答に揺るがぬものを感じていたのだろう。屋敷に保管されていたメイドたちの遺体を調べると、案の定恋の死体は偽装されたものだったのだ。
もはや疑いようもなかった。
「それはすごいですねぇ。なら、どこまで知ってるんです?」
「ほぼ全て、と考えてもらっていいわ。すべては推察だけど、筋が通っている。外面上はね。――あなたが、分家の養子ではなく、本当は島原の直系の血筋――あの島原夕子の姉だということも」
妖艶に笑んだまま、恋は一転気安げな声を上げた。
「なぁんだ。ここにきて面白くありませんねぇ。フォリアがどうしてもと言うから生かしておきましたけど、やっぱり殺しておけば良かったですねぇ、あの女」
もはやルベルに残るのは、疑念ばかりだ。
「あなたは、――何がしたいの?」
そのルベルの言葉に、恋は心底おかしそうに顔を歪めて笑う。
「別に――、
言葉の真意を測りかね、ルベルはただ使用人服姿の女を見る。
「それにしても、島原の生き残りでもいたんですかね? せっかく念入りに吹き飛ばしてやったのに」
「――」
ルベルは、夕子の存命については、口を噤んだ。
「ええ、そうですよ。私はシマバラの前当主があちこちに残した種の一つです。もっとも、私は素養がなかったためにその時点で欠陥品とされたのだそうですよ。一度は母が母国へ私を連れ帰ってくれましたが、その母が死んだあとは悲惨なものでした。向こうでも素養のない子供など無用だと言われて、結局二束三文で島原に送りつけられた。
そこでもまた門前払い……三日三晩門の前で土下座させられた。飼ってくださいと哀願させられた……。用無しの欠陥品。無価値な石塊と変わらない。そう言われながら生きてきた。あんたにはわからないだろうがね!」
恋は一息に語る、語り尽くすといわんばかりに。朗らかな笑みから、一変獣のごとく牙を剥いた。
その形相はとてもまともな人間のものとは思えない。――薬物か? いや、そんなレベルのものであるはずがない。何より、その身体から漂ってくる濃密な魔の気配。一体何をしたというのだ?
「――まぁ、いいでしょういいでしょうどうでもいいんですよ。もう、ね。シマバラさえ、あの家さえめちゃくちゃにしてやれれば、それでそれでそれでよかった」
そのまま、虚空を見つめうつろに揺れる恋に、ルベルは問う。
「それでも解らないことはあるわ。あなたは確かに魔術師ではない。なのに、なぜここまでのことができたのか……」
「――『隷属』」
あらぬ方を見上げたまま、恋の声が響いた。
「それが、私の起源だそうです」
「起源? ――まさか、属性起源を表層化させたというの? 馬鹿なことをッ。そんなことをすればどのみち破綻することになるわ。死ぬか、それとも人とは別ものに変貌するか……」
「死にますよ」
唖然とするルベルに、恋は平然と、当然だとでもいうように応える。
「言ったでしょう? 私の起源は『隷属』。私は、何かにぶらさがっていないと己の存在そのものを保つことができないのだそうです。――ふふ、滑稽ですよね?
自由になりたかったはずなのに。そのために力を求めたのに、結局は、そういうことでしかない。今の私は、私は貴方を含めた主人がひとりもいなくなれば、あとは死ぬしかないんですよ。今の私はそういう存在なんです」
起源――とは、そのモノの原初の方向性。そのモノがそのモノである事をたらしめるもの。魔術においては根源の渦から生じた混沌衝動、とされる。
いわば極限の本能、魂そのものの表題とでもいうべきもの。
この世の全ての存在は起源によってその方向性を縛られており、覚醒しなくとも個性や特徴として表面化していく。それは魔術師や異能者でも変わることはなく、彼らの属性や異能はこの起源によって大きく左右される。
ルベルならば時計。すなわち『時を測るもの』。ゆえに、ルベルは時計の造形、機能、所有、収集。そして時間という概念そのものに、生まれついての執着を持っている。
これと同様に、シュタウフェンの魔術師は何かしらの事象を『計測』することがその素養にあらかじめ組み込まれている場合がほとんどである。
代行ならばこれが風車。すなわち『風勢を測るもの』となり、長子ナティオならば慾。すなわち『魂を測るもの』となる。
そして、起源に覚醒した者は起源覚醒者と呼ばれるようになり、人格に歪みが生じるようになる。
今の恋が、まさにその状態なのだ。起源により本来持つはずだった魔術的な素養と力を発現させ、それまでの生において培ってきた人格など塗りつぶしてしまうほどの、根源的な衝動、本能、欲求に突き動かされている。
『隷属』とは強者に傅くことで安穏を得、同時にそれを忌み、甘美な反逆の夢に微睡むものを指す「起源」。
それが、この娘を、こんな狂気へと駆り立てている。
「ご存じのとおり、一度裏返ってしまった「起源」を元に戻すことなんてできません。そして」
恋はおもむろに自らの衣服を引き裂き、その裸体をさらけ出す。憐みさえ滲ませてそれを見ていたルベルは、さらに息を呑んだ。さしもの彼女も言葉を失わざるを得ない。
「心配することはなにもありません。我が「起源」は『隷属』。あなたは私の「主人」の一人ですから、私はあなたの言うことに従います。――この聖杯とともに」
その身体には、代行が所有していたはずの「聖杯の器」がまるで溶け入る様にして融合していた。
「器ごと、聖杯を取り込んだ? ――いいえ、聖杯にあなたが取り込まれかけているじゃない――なんて、ことを」
さしものルベルも喉を震わさずにはいられない。
「そう悪いことでもないでしょう? 聖杯の「器」は器物でなければいけないなんてことはない」
「そうではないわ。五体ものサーヴァントを取り込んだ聖杯にそんなことをすれば、あなたは」
だ、か、ら! と、恋が声を張り上げ、次いでケタケタと笑い始める。
「死ぬんですってば、私。ほうっておいてもすぐにね。だから、何をしても同じなんですよ。だからせめて最後まで面白い余興をたのしみたいとおもった。それだけのことです」
「余興、ですって?」
上ずるような声でつぶやくルベルに、恋は再び姿勢をただして恭しい声を出す。
「はい、余興でございます。
ではここで少し状況を整理してみましょうか? あなた様の目的は聖杯を取ることと、かわいい坊やを取り戻すことですね? 聖杯は目の前です。しかも、ラッキーなことにあなたの指示、命令にはなんでも従うんですよ? こんなに出来上がった状態はそうありません。――ただ、障害となるはライダーですよね」
「どういうこと? ライダーはあなたの、」
言いかけて、ルベルは、ようやく、この「余興」のカラクリに思い至り、――絶句した。
「違いますよぉ? 私に令呪なんて最初からついてません。知っているでしょう? 流石に『隷属』の力があってもそこまでは主人を欺けません。令呪は――あそこですよ」
ゆらゆらと揺れる夢遊病間者のように、まるで呪いのようなやりかたで、指さす先には――
「どういう、こと?」
声は上ずり、今にも擦り切れそうだった。
水面上に拘束されたアズルの姿があった。いや、指さされる前から予測はできた。それ以外に、令呪を保管しておける場所など、この場にありはしないのだから。
すぐさまルベルは感知術でその所在を探る。そして、アズルの背中に、かなりの密度で編まれた魔力の塊を見つけた。――いや、しかし、これは……
「隠すにはもってこいでしたね。そうですよ。アーチャーの張り付けた何らかのエンチャント――
ルベルは眩暈さえ覚えてたたらを踏みそうになった。では、自分はずっとそんなことに気づかずに? ――いや、そうではない。
今、ルベルが目を向けねばならない問題とは――
「――そんな、そんなッ!」
狼狽するルベルを見つめ、恋はたまらない、とでもいうように嗤う。
「そうなんです。いま、ライダーは完全に私のコントロールから離れてるんです。もともと、主従関係じゃなく協力関係でしたからねぇ。彼があの「裏切りの姦雄」で本当によかった。そうでなければこうまでうまくことは転がらなかったかもしれない。予想上の成果でしたよ」
ルベルはそんな言葉を聞いていない。そうなのだ。あのライダーの強大さはつまりアズルがマスターになっていたが故のことなのだ。
いくら起源を掘り起こしたところで、恋ではあのライダーのステータスは説明がつかなかった。
これが答えなのだ。アズルは間違いなくシュタウフェンの十代目たり得る才能を秘めている。それがはからずも証明されてしまったようなものだ。
その適正はルベル自身にも劣らないのだろう。もはやライダーにはマスターの規格においてもアーチャーに譲る部分がなくなっていたのだ。
考え得る限りの最悪の事態と言える。いや、しかし、とルベルはそこで思い返す。
たしかに、アズルに貼り付けられた「印章」は令呪に酷似している。
サーヴァントとして現界したからなのか、大元の宝具からしてそうなのか、確かにそんなことをすればカムフラージュにはなるかもしれない。
だが、それでもアズルがマスターになっていたのなら、己が気づかないはずがない。
ルベルの視線からその懐疑を読み取ったのか、恋はさらにいびつな笑みで美貌を歪める。
「もちろん、――パスをつないだのはあなたが囮の代行を追って外に出た後のことですよ。さすがのアーチャーも警戒が薄れていましたからね」
馬鹿な、ありえない。――アーチャーがそこまでアズルから気をそらすはずが……。しかしルベルはその所以に行き当たる。
「……あなたの、せいね?」
恋は妖艶に微笑んだ。
「そうです。アーチャーも私の「主人」と認識されていました。アズルくんと私に疑いを向けいないように「誘導」する位はお手の物でしたね。――パスをつなぐ儀式も簡単でした。『元気の出るブラジルのおまじないです』――なんて言ったら、快く応じてくれましたよ。
心細かったんでしょうね。お母様になじられて意気消沈して。その上アーチャーもそれを疑おうともしない。――本当に、簡単すぎておかしくなりそうでしたよ」
何も言えず、ルベルはただ震える唇を噛み止めた。
「貴女は貴女で、私が使い魔にした餌によく食いついてくれましたねぇ? 名門シュタウフェンの当主代行殿でしたっけ? なぁにが名うての魔術師なんでしょうか? 簡単でしたよ。殺すの。
私の隷属の『力』のおかげで、こちらのことを使用人としか見ていない。あるいは家具か、その辺の石ころか何かとか、ね。
一度信用したら、あとは悪意にも殺意にも反応しない。――貴賤や立場で物事を推し量っている貴族様、魔術師様っていうのは愚かなものですよねぇぇぇ?」
「――その気なら、私も殺せた、ということかしら?」
「ええ、もちろん。だって、貴女は私を疑ってなかったでしょう? そんな相手を殺すのは楽なものですよ。油断しきった相手なら魔術師も何も関係ない。人を殺すのに、魔術なんていらないですよね」
「やはり代行は、あの時すでに死んでいたのね……」
「私の力は死んでからも有効なようでして。使い魔として動けるようにしてあげたら、俄然言うことを聞くようになりましたよ」
全ては――この女の手のひらの上か――。ルベルはもはやなにも噛み締めることさえできない。血のにじむ唇は力なく萎れ散りゆく深紅の薔薇を想わせる。
複数の魔術師や教会の代行者が、ただひとりの異能持ちの女に、こうも誘導されて死に果てるとは――。
魔導とは、己が奉じてきた魔術の道とは、一体なんだったのだ? ルベルは思わずにはいられなかった
しかし、とルベルはアズルを見つめ、その異常をも看破する。
アズルにライダーの令呪が貼り付けられているのはわかった。だがあんな粗雑なやり方ではパスがうまくつながらないではないか――ッ!?
ルベルはそこでさらに恋を睨みつけた。まるで幽鬼のような瞳で。
「そうですよ? さすがに話が速くて助かりますねー。あの不完全なつなぎ方のせいで、彼はライダーへの魔力供給をコントロールできません。ま、もともと一般人ですから、そんなことは当然なんですがね。
結果としてライダーの方から無理やり魔力をむしり取られている状態です。パスを無理やりつないでからずっと昏倒したままですよ」
ルベルはとうとう恋を無視して水の上に歩みだそうとしたが、その先で水面が音を立ててうねった。
「――――ッ!」
水面はまるで鋼の鞭のごとく、アズルに近づこうとしたルベルを打ち据えたのだ。まるでその歩みを阻もうとするかのように。
しかし、これは恋がやっていることではない。ルベルに隷属する恋にはこんな真似が二重の意味でできるはずもない。
「もうお分かりでしょう。彼の魔力は今このダムの水とつながっています。これはご存知とは思いますが、彼の『属性起源』は「流水」。大地を流れる河川です。それがこの場につながれ、せき止められている。――このままではどうなるか、わかりますよね?」
「あなた、まさか、アズルの起源まで――――ッ!」
牙を剥くようなルベルに、恋はクスクスと笑う。
「まさか。――私にそんなことができるはずがないじゃないですか」
「なら――、あなたの起源を掘り起こしたのは――」
「さぁ、誰なんでしょうねェ?」
隷属の起源をもつはずの島原恋はマスターであるはずのルベルの問いをごまかした。それは、つまり別の主人から言いつけられているということか? 彼女の起源を呼び起こした何者かに。――さらに、別の黒幕がいるというのか?
「さあ、そんなことは置いておいて。状況は理解できましたか? 彼を止めるには彼を殺さなければなりません!」
再び問おうとしたルベルの言葉を遮り、恋はこれからが本題だとでもいうように声を荒げた。
「――なに、を?」
簡単なことですよ、と、恋は両手を合わせて満面の笑みを見せる。
「聖杯を取るためにはライダーを止めるしかないですよね? でもいまライダーを止めるには魔力の供給を断つしかないですよ? そうすればアーチャーにも勝ち目があるかもしれないし、最悪でもライダーは長くは持たない。魔力の供給さえ断てば、あとはどうにでもなるでしょう?
聖杯によって根源とやらに至るには全てのサーヴァントを殺す必要がある……そのためには、そのマスターを殺すことが必須の条件ですよね? 基本です」
ルベルにはしかし、この期に及んでも恋が何を言おうとしているのかわからなかった。
「ああ、それとも、彼を助けますか? それはそれで簡単ですよ? 私に死ねと命じればいいんです。私が死ねば聖杯の器も破損して完成する前に崩壊します。サーヴァントたちも消えますから、彼は無事です」
いや、わからないのではない。彼女の理性が理解することを拒んでいるのだ。
「でも、できますか? 魔術師であるあなたに?」
つまりは、二択。
「知っているとは思いますが、ライダーはもう出撃しました。すぐにでもアーチャーを殺すでしょう。ライダーを止めるにはアズル君を殺すしかありません。
あの子を殺せばライダーは消滅するでしょう。あとは生き残ったアーチャーとともに聖杯と成就させてください。七つの英霊を生贄に、外の世界とやらに到達すればいい。それとも、この子を殺したくないですか? それなら、この聖杯の器を破壊してください。そうすれば、すぐにでもご子息を助けられますね」
なんということを、なんという選択を迫るのだろうか。ルベルは己の足が役に立たなくなるほどに揺れているのを知った。
もはや、立ってもいられないほどに。
ルベルは夢遊病間者のような足取りで再び度水面のアズルに近づこうとしたが、先ほどと同じように流水の鞭によって排除される。
嘘だ嘘だと繰り返しながら、しかし確信せざるを得ない。
これをやっているのはアズルなのだ。アズルには意識がなく、外敵を無意識に拒絶しているのだろうが、粗雑な術式のせいで外に漏れた彼の魔力が、周囲の水を伝ってルベルを打ち据えているのだ。
「アズルッ」
ルベルは呼びかけるしかない。しかし、アズルからの反応はない。
「無理ですよぉ。声なんて届きませんし。届いても、ねぇ? あなたはなんと言って彼を説得するんですか?」
「……アズルに、何かしたわね?」
「私は魔術なんて使えませんよ? ――まぁ、ただ彼を「誘導」はしましたがね? 案じているような素振りで、彼の不安を少しだけ大きくしたんです。不安だったんでしょうねぇ? 思わずお姉さんのところへ足を運んでしまうくらい」
「――それも、あなたが」
「なのに、帰ってきたら、心無い母親に折檻されて。――かわいそうでしたね? 私も心が痛みましたよ? だって予想以上の効果があっんですもの。
わかって欲しかっただけなのに。どれだけ不安なのか、言外に主張していたのに。――なんでわかんないんですか?
貴女、あの子を可愛がってるようで、実は何も分かんないんですよね? どういうつもりなのかぁ? なんで
張り上げられる声が、狂気の色を帯びて裏返る。
「……ょうだい」
「ほんと、あなたは。というか、魔術師というのはわかりやすい連中ですよねぇ?」
「やめて! ……ちょうだい、お願いよ」
否定などできるはずがなかった、何よりも、全て見ていた、見透かしていた人間の言葉だ。ルベルには否定しようがない。
恋はそこで更に爆笑した。
「だぁから、命令してくださいよ。お願いじゃ聞けませんて」
「――――」
「しないんですか? じゃあ、続けましょうか。っていうか、私は別にいいですけど、急がないと先にアーチャーがライダーに殺されちゃいますよ? 逃げ回ってるようですけど、このままじゃ勝ち目無いんじゃないですか?」
その時、遠方からここまで伝わってくる炸裂音が響いた。パスをつないだままだった共有魔術が、アーチャーの危機を知らせてくる。
「急いだ方がいいんじゃないですかぁ? ライダーの真名は三国芯の猛勇「呂布」。互いにマスターの格差が無くなった今、アーチャーには勝機などありません。アーチャーの真名はわかっていますよ」
言われるまでもないことだった。
ルベルは感覚の共有と、アーチャーの戦いを遠方から監視する別の使い魔の視点を統合して明確な状況の趨勢を伝えてくる。
アーチャーの劣勢は火を見るより明らかだった。
気配遮断と間合いの利を最大限に生かして、アーチャーは何とかライダーの攻撃を凌ぎ続けていた。
周囲の環境に身を隠そうにも、ライダーの放つ虚実を問わぬ破壊の刃は、あらゆる障害物を軒並み破壊して隠れ潜むアーチャーを燻りだそうとして来る。
いまも、アーチャーの放った矢を弾き返し、周囲の山肌を更地に代えながら迫ってくる。もはやアーチャーにできるのは致命傷を回避することだけであった。
「その顔からすると、まぁずいことになっているようですねぇ」
耳障りな恋の声ばかりが、ルベルに届く。
「アーチャーの能力は知っていますよ。的に向けて放った矢は必ず的に当たるという言うものですよね? 一度設置した印章を、どれほどの遠方からでも射抜く。それがアーチャーの能力です。正直言って、サーヴァントの宝具としては三流ですよねぇ?」
嘲るような声に、ルベルは応えない。
応えることはできなかった。
今も、アーチャーは追い詰められながら、それでもライダーの身体に「的」を設置しようと遮二無二前に出て、そして吹き飛ばされるという愚行を繰り返している。
ナイフの投擲のように、
すべては知られているのだ。
「そうそう、それがアーチャーの弱点、というか限界ですよね。あの的さえ設置できないのなら、彼の矢は意味をなさない。雑魚ならやり合えるのかもしれませんが、あのライダーが相手ではノー・チャンスです」
返す言葉もなかった。そもそも「的」の設置さえさせなければいいのだ。サーヴァント、ヴィルヘルム・テルの宝具はそれを知られてしまった時点でもはや攻略されてしまったようなものなのだ。
序盤から、これを幾度も使わされたのが今になって悔やまれる。
進退極まったルベルは、それでもアズルへ向けて無謀に進もうとする。
鋼の鞭のような水弾がルベルを打ち据える。かなり強力だ。火事場の馬鹿力のようなものなのだろう。
ライダーへの供給が膨大すぎて、体の負担に関係なく魔力を吐き出している。酷使された筋肉に過度の負担がかかってしまうのと同じように、このままでは可術回路の過負荷によってアズルの命までもが危ない!
「さすがはシュタウフェンの血筋ですよねぇ? 防衛本能なのかなんなのか、ろくに修練もしてないはずなのに、リミッターが外れただけで、コレです。ほんと、嫌になりますよ……」
煩わしい声がルベルの心をえぐるが、黙れと命じる訳にもいかない。そうすれば、ルベルはアズルと向き合わなければならなくなる。
今受けている攻撃がアズルの息子の心の叫びのように、ルベルには聞こえていたのだ。愛すべき息子に拒絶される痛みは、五体に感じる痛みとさえ比較にならない。
「さあー、どうするんですか?」
「もう、いい。――終わるまで黙っていなさい!」
とうとう叫んだルベルに、恋は慇懃に礼を取る。
「仰せのままに、マスター」
しかしアズルはルベルを近づけようとしない。
「どうして、こんなことを――、意味のないことだわ。島原を憎んでいるのだとして、どうしてアズルにまで……」
「――あら? 発言してもよろしいのでしょうか?」
嘲るように笑い。アズルの攻撃にさらされるままのルベルに、恋は呪詛のような言葉を吐きかける。
「まぁ――どうでもいいといえば、どうでもいいんですがね。強いて言うなら――貴女に腹が立っているから、でしょうかね?
だぁって、可笑しいんですもの。可笑しくて可笑しくて、仕方がないんですよ。何かを掻き毟りたくなるくらい、オカシイことじゃないですか? 文句なしの
ナティオがダメになたったらすぐに放り出したくせに、本来ストックでしかない彼には、それでもまだ欺瞞を続けようとする。なんででしょうねぇ。なんでなんでしょうねぇ?」
ルベルの耳はその呪詛の中からナティオ、という親しげな響きを、彼女の娘の名を聞き取る。
「知っているの――、ナティオのことを――、あなたが?」
恋は大仰なそぶりで噴き出した。
「なぜって、同級生ですよ?
私は教会へのスパイのようなものでしたが、ナティオも全部知ってましたよ? アズルには学校のことを根掘り葉掘り訪ねていたのに、ナティオには聞いてあげなかったんですか? 話をしなかったんですか?」
「――――……ナティオは、そういうことを話さない子だった。私には。――私は、ひとりの魔術師としてあの子のパーソナリティを尊重しただけよ」
そうか。アズルにあんな恰好をさせているのも、すべてを知った上でルベルを苦しめるためなのだ。いったい、どこまで悪辣なのだ。震える喉をならしながら、ルベルはそう、思わずにはいられない。
「じゃあ、
「アズルは、まだ、子供で――ナティオは、早熟な子供だったわ。干渉されるのを嫌っていたし、なんでもうまくやってみせた。――私が話しかけることは、もとから多くなかったのよ。――拒絶したのは、あの子の方で」
「――――だれに、言い訳してんですか?」
嘲るような声は一転、怜悧なものへと裏返る。
あらゆる意味で、自分よりも格下のその生き物に、今にも死にそうなその脆弱で卑猥な、隷属するだけの凡庸なソレの言葉によって、ルベルは五体を制されてしまった。
言外に向けられるのは理屈抜きの凄まじい憎悪。だが、普段のルベルならそよ風程にも感じない程度のものだ。ただ、今回ばかりは彼女自身に
それは子が親へ向ける底なしの憎悪だった。それが、我が子達の意思を代弁しているかのようにさえ、聞こえて、ルベルはもはや息を止めることしかできなかった。
母として相対しては動けなくなるだけだ。ならば魔術師としてならば? ――ならば、造作もない。なんの問題もない。障害を速やかに排除して、聖杯を取る。それだけだ。
だがそれだけのことが、――否それだけは、できないのだ。
いや、出来ない、のではなく、したくない、のだ。
ルベルは必死に身を縮めて己を保とうとする。言葉に相対するには、言葉を返すか否定するしかない。だがいまのルベルにできるのは耐えることとのみであった。
「あれ? 今度は黙れとも仰らないんですね。ご自分で黙るんですか? では、わたくし、死ぬまでまだ時間がありますので、少々お話をさせてもらいましょうか。
それにしてもよくもまぁ気がつなかったなんて言えますよね? 息子のことはそこまで気にかけるのに、ナティオのこととなると、本当に「機能」しか見ていない。――だぁから、おかしくって、ちょっと、最後に試してみようと思ったんですよ。最後の最後で、あなたのバケの皮を剥いでやりたくなった。あなたが聖杯と息子のどちらを選ぶのか」
声を無視し、ルベルは無策のままアズルへ近づこうとするが、再び弾かれ、押し戻される。魔術刻印がオートで機能しそれを弾くが、構わず近づこうとするため徐々に傷が増え始めている。
ルベルは再び川岸まで吹き飛ばされる。水弾の威力が上がっている。というよりももはやそれは小さな川そのものをぶつけられるに近しい。ダムの中で無数に渦を巻き始めている水流はもはや幾百もの砲撃となってルベルに狙いを付けている。
ルベルはたまらずに恋に向き直った。しかし、喘ぐようなその喉からは、何の声も出てこない。
「あれ~? ご命令しないんですかぁ? 助けるなら早くしましょうよ? 助けないんですか? ――なんて、出来るはずないですよねぇ? だって
子供ならまた作ればいい話ですもんねぇ? 当主とやらに返り咲いたあと好きなだけ世継ぎを作って繁栄したらいいんじゃないですか?
それとも根源とかいうものに到達するんでしたっけ? すごいでちゅね~。魔道? 聖杯? 根源? ――――――――くだらなくて涙が出てくる! 何が面白いのか、私にはさっぱりですけどねェェェェェ?!」
その時、再び地鳴りのような炸裂音が響いてきた。
ライダーとアーチャーだ。戦闘の余波がここまで届いている。――というよりも、ライダーの破壊の余波が、というべきか。
それは魔力を奪われているアズルにも言えることであった。ライダーからの魔力の供給要請が増大しているのか、漏れ出す魔力の量も増えているのだ。
アズルの体からは、魔力だけでなく紅い血までもが滲み始めている。白亜のドレスも、金のウィッグも、細い肢体が端々から朱色に、淡く染まっていく。
もはや猶予はない――。ルベルは再び恋へ向き直り、何かを言おうとしたが――しかし、どうしても、声は出なかった。
血に濡れ、ぐったりとうなだれたままのアズルと、酷薄な笑みを浮かべたままの恋を交互に見やるが、どうしても、声は出てこない。
それほどに、ルベル・フォン・シュタウフェンにとって、魔術、魔導とは切り離し難いものなのだ。
生まれながらに定められた機能、そのための命。その意思も動機も全ては役割のためのもの。ならば――もはや抗うだけ無駄なことなのではないだろうか。
弛緩。それは躰から心にまで伝播する。無色の波紋が精神を打つように侵していく。あわや沸き起こってくる諦観の念が、ルベルの心胆から何かを奪っていくようだ。
彼女の存在そものが砕ける――否、そうではない。それは彼女自身の完成を意味するのだ。
そうだ。むしろ不順なものをそぎ落とすための、これは定められたセレモニーだったのではないか?
不意にある『答え』が齎された気がした。息子に愛を注ぐという行為と、避けられぬ聖杯戦争という結果。――全ては初めから決まっていたのではないか。
そしてそれを定め、悪辣な絵を描いていたのは、ルベル自身だったのではないか?
当主に返り咲くため、そのために、今までこの国でまとわりついてきた余分な
ルベル自らが、己さえ知らぬうちに仕組んでいた、己へ対しての姦計。
世界がノイズ交じりに歪むような感覚に襲われ、ルベルは大きくよろめいた。
では、――ではアズルの存在も、この時の、不要な一切を切り捨て、突き放して行くために用意されていたものだったというのか?
そのために、己はアズルを愛して――いや、愛した
不意に、その口腔から笑いが溢れた。――なんだ、自分は、迷っていたのではない。葛藤していたのでもない。すべて予定調和のことだったのだ。
アズルはこの時のための「スイッチ」だったのだ。
いざ当主へ返り咲くそのとき、アズルを殺すことで、自分はこの国に残すすべてのものと隔絶された存在に戻ることができる。
彫像のように姿勢を正したルベルは、いつの間にか恋に向き直るのをやめて、アズルの元へと歩み寄っていた。
この荒れ狂う流水の鞭など、魔術師ルベル・フォン・シュタウフェンがその気になれば児戯に等しいのだ。
結局――自分にとってナティオもアズルも同じものだったのだ。ただ、機能が違うだけ。
自分にとって、結局は、全ては定められた役を演じる器物でしかないのだ。
その表情を欠いた頬を、涙が伝う。しかしそれも折込済みだ。それも必要なのだ。其の涙が、苦痛が、己を「正す」のだ。ならば、もはややることは決まっている。
生涯で流す最後の涙とともに、息子と、この居心地のいい居場所と、決別するのだ。また、余分な機能のない。――本物の魔術師となるために。
とうとう、ルベルはアズルの眼前にまで歩を進め、その首に両の手を掛ける。
背後から、恋の憐れむような怨嗟の声が届く。
「そうですよねぇ。――結局、魔術こそが全てに優先する。それがお前たちのすべてが」
そうだ。
「そうやって、ナティオを見捨てた。私を見捨てた。そして全部、――見捨てるんだ!」
そうだとも!
「お前らは結局自分で何も選んでいないんだ! 勝手にするがいい。ただ、自分以外の何かに流されるまま、生きていけばいい。ご大層なことを言って、何も信じず、何も得ず、独りよがりな結果だけを追い求めて、そして自己満足だけを目指して生きていけばいいんだ!」
そうだ――なにも、得ず、信じず。ただ、魔道の闇だけを――
――――――信じず?
ルベルは、首に手をかけたまま、呟くようにその言葉を反芻した。それはあまりにも唐突な、自分でも思いがけない言葉だった。
信じ――る? 信じるって、それは、なんだったっけ。
その泡沫のような呟きに、ほんの少しだけ意識が反応する。
あの時、戯れに問うた言葉を、ルベルは思い出す。
「――ねぇ、聞いていいかしら、くろむ」
「……はい」
「――私を、信じられる?」
出かけに、最後に、くろむにそう聞いてみたのだ。そう言うと、くろむはかしこまって、
「……魔術師として、ほかでもない弟子として確信しております、マスター。あなたの魔導に、間違いなどございません」
かしこまって慇懃なその言葉に、ルベルは苦笑する。
「意地が悪いわね。では人の親として、――人としてはどうかしら?」
「……正直、微妙ですね。不器用で、ズボラで、片付けひとつ出来ないし、優柔不断で、この上なく、危なっかしいです」
歯に衣着せぬとは、このことか。さらにここぞとばかりにグチグチとこぼすくろむだが、ルベルはむしろそれを肯定した。
「困った弟子ね。――でも、その通りかもね。結局、私は――」
「ですが」
くろむは、いつになく強い言葉で師の言葉を遮り、そして優しい口調でこう付け加えた。
「……それでも、疑ったことなんて一度もないですよ。私も。アー君も。きっとティオだって」
「くろむ……」
「……だってティオは、そもそも信じてもいない相手に、何かを求めたりしないんですよ。ご存知でしょう? 先生と同じです」
その言葉を背中で受け止め、ルベルは天を仰ぎ、しばし押し黙る。
「――――ありがとう、くろむ。気休めでも、嬉しいものね」
「……嘘だと思うなら、早く行ってアー君をよく見てあげてください」
「アズルを?」
するとくろむは珍しく――本当に珍しく、困ったように、微笑んだ。
「……人を信じる。信頼するということにかけては、アー君は天才ですから」
呆気にとられるルベルに、くろむは再び笑いかける。
「それも、そうね。――行ってくるわ」
「……はい、いってらっしゃいませ、マスター」
笑い返したルベルに、くろむは恭しく一礼した。
それを思い出し、ルベルはそこで改めて、息子を見つめた。
「アズル……」
ルベルはアズルの首を絞めていた手を緩める。アズルは未だ意識のないままもがいているように見える。しかし、よく考えてみれば、これはおかしいのではないか。
一気に視野が開けたような気がした。そうだ、先ほどから自らを打つ水流の鞭にばかり気が向いていたが、よく見てみればアズルはルベルを狙ってなどいないのだ。
牙のように研ぎ澄まされた水の鋼はしてアズルを中心に縦横無人に展開されてはいるが、その動きには何かを狙うような指向性はない。
アズルはルベルを拒絶していたのではなく、本能的に暴れだそうとする己の魔力を
そうでなければ、ただ野放図に解き放ってしまったほうがいいに決まっている。あんなに血だらけになってまで、どうして――?
そして気づく。わかってみれば当たり前のことに。
そうか。ダムだ。野放図に魔力を暴走させては、この水流がダムに罅を入れて決壊させてしまうことを、アズルは本能的に悟ったのだ。
そう思い至れば――すべてのカラクリが見えてくる。恋がこの場所を選んだのは、漏れ出したアズルの魔力を吸収させる緩衝材として多量の水が必要だったからなのだ。
そしてアズルの全身の魔術回路を暴走状態にしてあるのは、ライダーのマスターとなっているアズルに自由意志があってはまずいから。
恋はすべてを承知の上で、ルベルを誘導していたのだ。
嗚呼、己はなんと思慮を欠いた愚考を重ねていたのだろうか。アズルが自分を拒絶しているのだと思い込み、そこで考えをやめていたのだ。
ルベルはアズルの首から手を離す。アズルの属性――それは清らかな流水。そしてその特性は統率。即ち「治水」こそがアズルの持つ魔術――否、魂の素養なのだ。
河川――時として荒ぶるその龍の如き神を鎮めるその力。アズルは、こんな状態でもダムの決壊から人々を守ろうとしていたのだろう。
――優しい子。ルベルはアズルを強く抱きしめた。
アズルは戦っていたのだ。ルベルが安易な諦観へと踏み込もうとしていた時、彼は自らを治めるために戦っていたのだ。
なんということだろう。アズルは、いつまでも子供だと思っていた息子は、とっく己などよりも強く、優しい人間へと成長していたのだ。
――それが信じるということ。信じあうということだ。ワシが矢を射ることができた理由だよ。これで、応えになっただろうか。マスターよ? ――
「ありがとう、アーチャー」
ルベルは初めて、言葉に出して、アーチャーへ礼を言う。信じるとは、その相手を認め、対等の人間として扱うということなのだ。一方的に庇護し、また保護するだけでは信じているとは言えない。
ルベルはようやく己がサーヴァントの言ったことの意味を、その伝説が伝えようとする意味を理解できた。言葉ではなく、アズルの行いによって、それが分かったのだ。
アズルは抱きしめられても、まだ苦悶したように暴れる。しかし、ルベルはむずがる子供を抱くように、血だらけの息子の体をしっかりと抱きとめる。
――アズルが幼い頃、毎日のように苦戦しながら、こうやってあやしたものだ。我ながら下手くそ以外のなにものでもなかったが、それでもアズルはちゃんと泣き止んでくれた。
ナティオのときだって、そうしたではないか。ちゃんと自分の手で、あの子をあやして、泣き止むまで――。
涙が溢れる。何に対しての涙なのだろう?
どうしてそうしなかった? いつから、やめてしまったのだ? 子供がむずがり、泣き喚き、暴れるのは――それが信じられる相手だからではないか。
自分を支えてくれる、守ってくれる。その全幅の信頼を向けてくれるから、ルベルもそれに答えようと思ったのではないか。
泣き止むまで、気が済むまで、聞いてあげればよかった。相手をしてやればよかったではないか。それを――逃げたのは自分だ。息子からも、娘からも逃げたのは、自分ではないか。
足元の水流はふたたび荒れ狂い、再び千の刃となって、ルベルの背を狙う。
「――大丈夫よ、アズル」
だが、ルベルはなんの防備もしなかった。ただ、アズルを抱きしめ、言葉をかける。
「母さんが来たわ。もう大丈夫よ。安心して、ね? アズル。くろむもナティオも、のぶえも、みんないるわ。誰も欠けていない。だから、帰りましょう。怖いことなんて、なにもないの――」
とうとうルベルの背に迫っていた刃は、その無防備な背に突き立った――が、刃は僅かに皮を裂いた程度でやにわに形を失う。
そして曇天が張れるように一変して、大渦を描いていた水面に、没した。
「―――――――――馬鹿な! 嘘だ馬鹿な嘘だ嘘だ馬鹿な嘘だ嘘だ嘘だ嘘だァァァァァァァァ、ここここんなもの、こんなことこんなモノが――ッッ!」
己が喉を咲くようにして叫んだのは、唖然としてその光景を見ていた恋だった。
あれほどに荒れ狂っていた水は、今や嘘のように静まり、波一つなく鎮静してしまったのだ。
「――静かになさい。そうよ、私がやったの。別に奇跡とかじゃないから、安心なさい」
ルベルはアズルを抱いたまま、激昂したふうの恋にそっけなく語りかけた。その腕の中で、アズルは安堵しきった赤子のようにおとなしく寝息を立てている。
ルベルはアズルを抱きしめながら、その魔術回路と背中の令呪に封を施し、過剰に暴走していたライダーへの魔力供給を断ったのだ。
「――――ウ・ソ・だァァァァ!」
しかし恋は慟哭するようにそうつぶやいた。
魔力が漏れるのを封じたところで、既に漏れた魔力までもがそれで鎮静したはずはない。今ルベルが生きているのは、――アズルが刃を止めたからなのだ。
それは恐怖心と本能のままに荒れ狂っていた防衛反応が一気に収まっったとしか説明できない。この、波どころがゆらぎ一つない鏡のような水面がその証拠だ。
放出された魔力は消えたのではない。穏やかに統制され、均平に慣らされ、そして無理なく大自然のマナへと散逸していったのだ。
それは即ち――ルベルが、意識のない獣同然だったアズルを安心させたということの証拠なのだ。
魔術師としてではなく、一人の人間として、一人の母親として。
「―――――――――――ッッッッッッッ!」
恋は下唇を噛みちぎりながら声もなく悶絶する。しかし、そんなことをわざわざ指摘することなど、出来るはずがない。
そして今度は低い、嘲るような声を吐き出し始めた。
「――――――だぁから、だからだからだからなんだって言うんですか? 無駄ですよ。そんなことをしても。魔力の供給を断てても、寄り代としての機能は失われない。その子がライダーとこの時代との接点であることには変わらないんですよ! それを、そんな風に封をしてしまったら、剥ぎ取ることもできないじゃないですか。本末転倒ですよ。
このままじゃライダーにみんな殺されて終わりだ。――ああ、それとも今から私を殺しますか? そうですよね? その子を助けたいんなら、聖杯は諦めるということ――」
「しないわね。そんなことは。私は聖杯を諦めるつもりはないわ」
凛と響いたルベルの言葉に、恋は身体を蠕動させながら問いを繰り返す。
「……何言ってるんですか? なにいってるんですかまるで、わ、わけが、わからない。ライダーをどうするんです? わ、
まるで千鳥足でも踏むかのようによろよろと手足をばたつかせながら、恋はひきつるような笑いを漏らす。
しかしルベルは落ち着いた声で、ただ静かに、己の意思を告げる。
「――そうはならない選択肢が、ひとつあるでしょう。私のアーチャーがライダーを倒したなら、アズルも助かって、聖杯も破壊されることはないわ。あなたも助けられる。そうすれば、二度とこの地で聖杯戦争は起きない」
「なにを――――何を馬鹿なことを言ってるんです? どこまで都合がいいことを考えてるですか? アーチャーの真名はスイス民話の英雄『ヴィルヘルム・テル』! それがあのライダーに勝てると、本当に思ってるんですか? 一騎打ちではまず勝てません!」
「サーヴァント戦に、絶対はないのよ」
「そんな――――――?」
「――ッ?」
まさに、その瞬間であった。両者がそれに気づき空を見上げる、よりも速く、
「フンッ! 果たして、どうだかなぁ?」
揶揄するような声が大気を打った。そして真紅の流星が夜を裂き、地を穿って、炸裂した。
凪いだはずの水面が再びパニックを起こしたように荒れ狂い、周囲の木々が、その衝撃だけでまとめて剥ぎ払われそうに撓んだ。
現れたのはアーチャーと戦闘を続けていたはずのライダーであった。
猛将はそびえるような巨馬の騎上から、水面で息子を抱きすくめているルベルを悠然と見下ろし、抱えていた何かを水際へ投げ放った。
ルベルは瞠目してそれを見つめる。ライダーが姿を現した時点で予期してはいたが、それでもその光景には言葉がなかった。
「絶対が無いだと? フフン。これを見てもまぁだそんな口が利けるのか?」
「アーチャー……」
巨馬の足元にうずくまるのは、文字通り満身創痍のアーチャーであった。
逃げ切ることが出来なかったのだ。いや、むしろ両者の戦闘力を加味するのならば、よくぞここまで耐えきったと賞賛を送るべきところであろう。
「フフン。――さて、オレ様への魔力の経路を断ったのは貴様の仕業だな、女」
蹄でアーチャーを足蹴にし、満足そうに睥睨した後でライダーはルベルに目を向けた。先ほどとは一変、まさしく今にも牙を剥いて泡でも吹きそうなほどの怒気を孕んだ兇状を見せている。まさしく獣そのものであった。
「二度と……息子には触らせないわ」
ルベルの言葉を聞くと、今度は噴き出すように笑い出した。
「これはこれは、なんとも美しい母の愛ではないか。――だがな、オレ様に指図しようなどとは片腹痛い。オレ様はな、女のお願いを聞いてやるのは嫌いではないが、女に指図されるのだけは我慢がならんのだ。フフン。特に身の程を弁えん生意気な女は、とことん躾けてやりたくなるッ」
下卑た言葉を吐きながらも、その双眸が宿す狂気ともいうべき炎は、魔術師、ルベル・フォン・シュタウフェンを持ってすら、総身を粟立たせるに十分なものであった。
あの不肖の弟子が、このバーサーカー紛いのサーヴァントを、一時とはいえは制御できたことが驚きだった。
「ラ、ライダー! そんなことよりもアーチャーを先に! アーチャーが生きているうちは油断しては――――」
再び騎乗して水面のルベルのところに向かおうとしたライダーに、恋が声を掛ける。しかし、
「黙っていろ、下女めが。貴様は死なぬようにだけ注意しておれ。すぐに用立ててやる。オレ様のためにな」
すげない言葉に、恋は口を噤んだ。彼女の「隷属」の能力によって、彼女は主であるライダーの命に従わざるを得ないのだ。
「フン。オレ様は誰の指図も受けん!」
巨馬は足元の水分を気化させながら悠然と水面を踏みしめ、趨勢は決したと言わんばかりのライダーの威容を見せつけるかのようにルベルの元へと近づいてくる。
「待て、――ライダー」
そこでライダーの背後、先ほどまで足蹴にされいたアーチャーが立ち上がり、水面の淵からボウガンに番えた矢を向けていた。
「ああん? 何のつもりだ、貴様?」
ライダーはそれを振り返り、半ば苛ただしげに、半ば呆れたように声を漏らした。
「そんな丸見えのところから矢を放って、どうなるというのだ? しかも声まで掛けよって。黙って狙えばよいものを」
「勘違いをするな」
真っ先にルベルは気づいた。低い声でそう言ったアーチャーの視線がライダーではなく、己に向けられているのだということに。
「? ――おいおい、どこを狙っとるんだ」
それに気づいたライダーも頓狂な声を上げる。
「ここからどう狙ったところで、貴様には当たらん」
「フン。だろうな」
「ゆえに、――ワシにできるのは、もはやこれだけだ」
アーチャーの眼はルベルを見据えて動かない。いやそうではない。その矢が狙うのは、ルベルではなくその腕の中に眠るアズルの背中。その背に張り付けられている赤い林檎を模したアイコンであった。
アーチャーは、アズルを狙ってるのだ。
「アーチャー、何を――」
――何をする気なの? アーチャー! ――
ルベル自身も息を呑み困惑するより他ない事態だ。いつものように念話で問いかけるが、しかし応答はない。
「フン? 意味が解らんぞ。なぜオレ様ではなく己のマスターを狙う?」
「正確にはワシのではない。貴様のマスターだ」
「同じことだろうが!」
ライダーは少々苛立ちながら吠えた。
理解できない状況を持て余しているだけにも見えるが、ルベルにもアーチャーの真意は理解できなかった。
いまあの矢に込められている魔力は尋常ではない。アーチャーの矢は、アズルの背中にあるような「リンゴの的」を狙って初めて宝具として成立する代物だ。
今アーチャーの放とうとしている矢は、さすがのライダーと言えども正面から迎え撃つには危険な代物となっている。おそらくアーチャーの残っている魔力を総動員した代物なのだろう。
無論、アズルを狙ったとは言っても、もしも命中してしまったならルベルも即死であろう。
「もはや貴様に一矢報いるにはこれしかないのでな」
「フン。やぶれかぶれということか? しかし、――それならあの聖杯を狙えばよいではないのか?」
ライダーの指摘に、今度はアーチャーが失笑を漏らす。
「残念だが、ここから聖杯を狙っても、貴様がいてはどうしようもない。ワシの矢は的があるからこそ必中を期せる代物だ」
確かに――そうであった。アーチャーの必中の矢は的があればこそ何度でもそれを狙い続ける代物である。今、あのアーチャーの位置から聖杯である恋を狙っても身をひるがえしたライダーに弾かれてそれっきりだろう。
あの砲弾のごとき英馬の俊足は、サーヴァントの持つ遠距離投射宝具と比しても決して劣るものではない。「矢」に追いつくぐらいはお手の物だろう。
「――それで、あの小僧には的があるが故、外さんというのか?」
ライダーは今度こそ心底呆れたような声を漏らす。
そう、この場でアーチャーの狙うべき「的」はアズルの背に張り付けられたもの、一つしかないのだ。
しかし、その的は、その印章は、あくまでアズルに身を案じて張り付けられたもののはず、どうしてアーチャーは今になってそれを矢で射ぬこうなどと言い始めたのか。
ライダーも、ルベルも、困惑するしかない。いや、ルベルには一筋の理が見えている。しかしそれは容認できない方法だ。そんな危険な賭けに、どうして我が子の命を掛けられるというのだろうか?
「それでオレ様のマスターを狙う? 底抜けのバカか? 貴様は? 目の前に聖杯があるのだぞ? 奴らを殺しても、俺に痛くも痒くもない。貴様を殺し、聖杯を仰いで受肉する。そうしてしまえば、とりあえず現界のための魔力など必要なくなる。
オレ様にとってはどうでもいいことだ。フフン。この時代、女も魔力も変わりはいくらでもいるではないか」
「だからこそ、だ。このまま生かしておいても、あの母子は貴様の喰い物にされるだけよ。ならばいっそ、この場で介錯してやるのが、ワシの精一杯の責任の取り方だ」
「フンフン? ……なるほど。いや、しかしな……?」
などと言いながら、ライダーは首を異様なほどにねじ曲げ、騎乗で胡坐を組み、考え込む風であった。
ルベルは己の身体でアズルを覆い隠すようにして、真っ直ぐに己へ矢を向けるアーチャーに背を向ける。
――邪魔をしてはいかんぞ、マスターッ! ――
――ダメよ、アーチャー、
念話で届くアーチャーの言葉に、ルベルは子供のように首を振って拒絶する。
そんなことはできなかった。そんな賭けに、己の命ならばまだしも、アズルの命を差し出さねばんらないなんて!
「おおい。――なぁにか、企んどるな、お前ら」
念派のやり取りでせめぎ合う両者に向けて、ライダーは不意に口角を捻じ曲げてそんな言葉をつぶやいた。
「フン。おぉい弓兵。貴様、ハッタリがへたくそだなぁ」
「――なんだと?」
その指摘にルベルは息を呑み、アーチャーはわずかに視線を揺らしてライダを―見る。
「フフン。そこまでやぶれかぶれになっているにしては、貴様眼に陰が無い。そう言う人間はもっとドス黒い、饐えたような目をするものだ」
「ハッ、詳しそうだな、ライダー。……だが、本当にハッタリだと思うのか」
「思うな」
悠然と構えるライダーの言葉に、ルベルはアーチャーがとうとう覚悟を決めたことを悟り、絶望するような声を漏らした。
「ああ、待ってアーチャー……」
「許せ、マスターッ――――――いや、」
――信じてくれ――
念派が届き、矢が放たれる。
「必中せよ――
「おお?!」
余裕の表情で胡坐をかいていたライダーは胡乱な声を上げるが、魔力の塊と化した「矢」は過たず、マスターであるルベルへ向けて、その腕の中のアズルに向けて奔る。
魔弾が馳せる。虚空を、大気を裂いて、致命の概念を隠し持ちながら。
ルベルは身を強張らせ、とっさに魔術を発動しそうになる。あの矢を相殺することは出来ないが、それでもアズルを守ることはできる。しかし、
信じてくれ。
その言葉が、行動を思いとどまらせた。
待つこと。座すこと。あえてすべてを任せること。信頼するということ。
それをルベルは知ったのではないか。
ならば、今は。ならば、己は。
アーチャーの言葉を信じなければならない。
信じるのなら、今、ルベルは何もしてはならないのだ。
そう、決して、――
何もせず、アズルの命を白刃の元へ晒さねばならない。
できるのか、それが? そんなことが?
しかしそれが、信じるというのことだというのなら。
そう。アズルなら、信じるだろう。ルベルをそして、アーチャーを。
ルベルはアズルの身体を強く抱きしめ、迫り来る閃光の矢に、決然と眦を開く。
――信じるわ、アーチャーっ! ――
信じる。すべてを受け入れる。
その決意で、運命に身をゆだねた。――そのルベルの目の眼前に、真紅の旋風が割り込んだ。
「フフン。さて、――なぁにを企んどるのかは知らんが――」
ライダーであった。目見も止まらぬほどの速度でルベル達の前にまで移動したライダーは正面から迎えた矢を、迎え撃つのではなく、下から弾くことではるか上空まで跳ね上げたのだ。
しかし、「必中」の理を持つ「矢」は、虚空で軌道をねじ曲げ再び的を狙って降下する。
「こうしてしまえば――」
そうして再度飛来した矢は、今度こそルベルの眼前に立ちふさがったライダーに直撃し、大炸裂した。
「ッッ!?」
あまりの衝撃に、ルベルは声も上げられずアズルを抱えたまま、水面の上を数メートルも吹き飛ばされた。
「――いい話ではないかぁ!」
そして顔を上げるが、視界に飛び込んできたのは変わらずに笑みを浮かべるライダーの姿であった。
何ということか、矢の直撃を受けにもかかわらず、ライダーは無傷であったのだ。
「アーチャー!」
ルベルの悲痛な声が響いた。そう、一度矢を跳ね上げたライダーは、矢が旋回して戻ってくるまでのわずかの間に、余力を失っていたアーチャーを捕まえて取って返し、それを盾として矢を迎え撃ったのだ。まさしく眼にもとまらぬ早業であった。
ルベルは声を上げざるをえなかった。
己が放った渾身の矢を自ら受けることになったアーチャーは着弾した右の肩口を中心に抉られ粉砕されてしまっていた。右腕は完全に引き千切れ、吹き出し散華する血潮はまるで虚空に赤い花を咲かすかのようだ。
「グハハハハハッ! どうだどうだ! フン、これでまだ小細工ができるモノなら」
勝ち誇るライダーは片手でぼろ雑巾のように掴み上げたアーチャーに、更なる責め句を見舞おうとした――が、しかしそこで不意に、奇怪なものを見たかのように、目を丸くした。
「必中の理を歪めし、――愚者」
正確には、血煙に染まったアーチャーの髭面が、勝利を確信したかのように笑みを浮かべたのを目撃したがために、瞠目したのだ。
「ああ? おい、キサマ」
明らかな致命傷を負いながらも、そこでアーチャーは、言葉を。そう、己が「宝具の真名」を初めて紡ぐ。
「見事よアーチャー……よくやったわ。あなたの勝ちよ。この賭けも、――ライダーとの勝負も!」
ルベルは声を上げざるをえなかった。犠牲を払いつつも、勝利をつかみ取った己のサーヴァントに向けて。快哉の言葉を。
「必殺せよ――
「なぁにを言っとるんだお前ら――――――あ?」
そこで言葉を切ったライダーは驚愕を露わにしながら、掴み上げていたアーチャーを水面に取り落した。
「バ――ぐ、な、なんだこれはぁぁぁぁッ!」
騎乗で血を吐き吠えたライダーは、そこでようやく、己の左胸に、まるで最初から突き立っていたかのように、そこに在るのが当然であるかのように、過程を経ずして一本の矢が突き立っていることを知ったのだ。
それはただ心臓を貫いているだけではなく、霊格と呼ばれるサーヴァント最大の急所を完全に破壊していたのだ。
「――ッ! ……ッ、……――フンッ」
ルベルに向けて振り返り、そこで何事かの悪態を突こうと唇を歪めて、しかし何を言うこともできず、ライダーは愛馬と共に灰となって霧散していった。
「そんな、どうし、て」
代わりに問うのは、一部始終を無言のうちに傍観していた恋であった。ライダーの消滅によってその命の為に封じられていた口は自由になっている。
幽鬼のように血の気を失いながら、水べりへと近づき、そして膝を追った。うずくまるようにして「どうして、」と繰り返す。
「……アーチャー、ヴィルヘルム・テルの放つ矢は必中する。それは彼の存在が持つ大前提のロジック。条理に強制することのできるルールよ」
その問いに、ルベルが応える。
ルベルは水面から岸にたどり着き、気を失ったままのアズルを横たえた。
「しかし、ルールはより強力なルールによって覆される。ライダーの暴力は、そんなアーチャーの精緻なロジックを破壊するには充分すぎる。アーチャーの宝具の持つルールではあのライダーを倒しきれない」
「だったら……」
そして水面を赤く染めていたアーチャーを引き寄せ、血だらけのそれを抱きとめた。
「それはライダーに限らないのよ。一度
恋は押し黙り、ただ空ろな眼でルベルを見る。
「ヴィルヘルム・テルの伝説はよく知られているわね。息子の頭の上に乗せられた林檎を打ち抜くことを強要され、それでも怖じけることなくそれを成功させた、勇気ある、けれどただの狩人の話――。
でも、その話には続きがあるのよ。彼はそこでもう一本の
「――――ッ」
恋はすべてを悟ったように、うつむいた。
「我がサーヴァント。アーチャー、ヴィルヘルム・テルの放つ矢は必中――それはね、決して覆してはならないルールなのよ。故に、それを覆すものには、伝説上では放たれることのなかった二射目の矢が見舞われる。今度は心臓そのものを的として、ね」
「サーヴァント戦に、絶対はない。確かに……。ですが、一歩間違えば、ライダーが傍観していたなら、どうしたんですか? あの矢は本物だった。本物の必中の宝具だった。アズルは、貴方たちは、二人とも死んでいたのに」
「信じたのよ」
ルベルは己の心のままに応える。
「私はすべてのことをアーチャーに託した。信じて、すべてを委ねたのよ」
「……」
恋はさらに何事かを言おうとして、しかしそこで大量の――などと言う表現では追いつかないほどの血をは吐き出した。
「――恋」
崩れ落ちるその身体を、隻腕となったアーチャーが支え、ルベルのもとへと運んでくる。
「嗚呼、アーチャー。あなたも」
その身体にはもはや流れ出る血さえ残っていないようで、今にも雲散霧消してしまいそうなほどに存在感が希薄だった。
「ワシのことは気にするな。どのみち、お役御免だろう」
「……アーチャー、でも、アズルは」
ルベルは思う。せめて息子に分かれの言葉くらいは掛けさせたかった、と。
「そんな顔をするもんじゃないな。アズルには、良く言っておいてくれればいい」
声に詰まるルベルにすべてを察したかのように笑って、アーチャーはそう告げた。
アーチャーに支えられた恋の身体は、人体とは思えぬほどに蠕動し、異常な熱を持って今にも燃え上がりそうであった。今のライダーで六体目。もはや生身の人間が耐えられる容量ではないのだ。
「じっとしていなさい。――器だけでも摘出できれば。――」
心霊医術に訴えようとするルベルの手を、しかし、そんな恋本人が遮った。もういい、と、力なく揺れるその眼が語っている。
「――――――なぁ、んで……?」
そして、再び繰り返す。同じ問いを。
「恋、貴女……」
「そんな、こと、できるなら……なんで? なんでなんでなんで」
「恋」
「なん、で、私、だけ? なんで? なんでなんでなんでなんでなんでなんでなん―――――――」
壊れたテープレコーダーのように言葉をこぼし続けた恋は、本当に電池が切れるようにして動かなくなった。
もはやルベルの言葉は届かなかった。絶命した恋の身体は萎びるように燃え上がり、最後に残ったのは手のひらに収まる程の、小さな金の杯であった。
それはこの儀式、否、百年来の聖杯戦争という儀式の集大成が、それだった。
ルベルはそれを手に取った。
別の手には、意識を失ったまま寝息を立てている息子がいる。
ルベルの手には、望んだものが両方とも、あった。にもかかわらず、彼女の心に去来するのは、言いようのない虚しさだけであった。
「アーチャー。私は、――どうするべきなのかしらね」
「あんた次第だとも、マスター、もうワシに言うべきことはない。そうだろう?」
アーチャーに言われ、ルベルは静かに頷いた。