Fate/alter Seven Sight ――the Next Sight―― 作:どっこちゃん
「残る? 何を言ってるのよ?」
開け放たれた真新しいエントランスから、水気を含んだ風が白亜のメインホールにまで吹き込んできた。
雨の匂いに眉を顰めたルベルは、涅に向き直る。
「……少々準備に手間取っていまして、手が離せません。……お客様もいらっしゃいますので、」
「らしくないわね」
戦支度かと見まごう程に完璧に身支度を整えたルベル・フォン・シュタウフェンは、威圧的に使用人を見下ろす。並みの人間ならその冷ややかな視線の重圧に耐えかね平伏を余儀なくされるであろう。――が、しかしこの時ばかりは、その有様が、むしろ不安を隠しきれず落ち着きをなくしている子供の様に見えなくもない。
「……器具も何も新品な上に、コレですので」
くろむは細い左腕を掲げて見せる。半月ほど前、確かに両断されてしまったはずの左腕を。
いかなルベルでも、これには二の句を継げずに黙り込んだ。それはルベル自身が作成した義手である。
部品の総数はゆうに一万を超え、骨をアンバー材セラミック、筋肉を微細な真鍮細工のギア群、神経を貴金属のアンクル軸で偽装し、その上の柔らかな脂肪は綿状の紐水晶、皮膚は編み込まれたグラスファイバーとシルクを張り合わせたモノで出来ている。
上腕の筋肉に繋がれたゼンマイを動力として、本来の人体と同等以上の反応・駆動を発揮する代物である。
ルベル自身に言わせれば、その構造は粗雑な人間の体組成とは比べ物ならないほど精巧である。
――が、それでもいきなり失った腕の代わりに不足なく使用できるものではあるまい。ましてや、くろむがそれでこなさなければならない作業は常人の比ではないのだ。
流石のくろむも、これには弱音を漏らさぬわけにはいかないのだろうか。――否、どうにも、ルベルにはまた己が誘導されているように感じられてならない。
「不具合があるわけではないでしょう。らしくないことね。どうにも、無理にでも私を一人で送り出そうとしてるように思えるのだけれど?」
「……いえいえ、そんなことはございません。ささ、マスター。お早く」
ルベルは殊更に不振の眼を向けるが、このメイドはわずかに視線を逸らすばかりである。これもらしくないことだ。やはり何かしらの小細工を感じずにはいられない。
「だからといって、――それで一人で行けと言うの?」
「……のぶえさんもいますよ?」
「そう言うことではなくて……。やっぱり、あなたわざと言ってるわよね?」
「…………迎えに行くだけでしょう。それくらいは一人でお願いします」
「意地が悪いわね。何もかもわかっているくせに。だいたい、」
「……ゴネてもダメです」
有無を言わさぬ弟子の語調に、ルベルは観念したように押し黙った。そしてか細い声を出す。
「――わかったわよ。行けばいいのでしょ? 行けば! 見てなさい。こうなったら完璧にこなして見せるわよ!」
「……退院するティオを迎えに行くだけなのに、何をそんなに息巻いてるんですか」
「だけ、とは言うけれどね、あなた……」
ルベルはまた言葉尻をかすれさせながら、長いエントランス・ルームを押されるようにしてしずしずと進んでいく。
「……アー君の時は出来たじゃないですか」
「あの子とアズルを比べるのがそもそもの間違いよ」
「……まー、確かにそうなんですが。……でもそんなことを言ったらティオはまた天災レベルでひねくれますので、その辺の事は金輪際忘れてください」
「だから気が重いのよ……」
ライダーに破壊されたシュタウフェンの屋敷は、対外的には島原神社と同じく、地滑りによって崩壊したものとされた。
急ピッチでの再建が終わったのは、つい先日のことだ。
よって今宵、落成式もかねてのささやかな祝賀会が、この真新しいシュタウフェン邸で予定されている。
メインホールを飾るのは白と光。白亜の石材とクリスタルとで構成される空間を彩る照明は最低限の物でしかなく、その強すぎない光彩を要所に煌めくブラスカラーが受け止め、細い光の紗をも余すことなく束ね四方へと遍満させている。
磨き上げられた真鍮の輝きが、見る者の目を黄金色に彩るのだ。
そこから地続きのエントランス・ルームは漆黒の洞穴を思わせる一本道で、こちらは逆にシックなウィンドウ・ディスプレイを思わせる空間である。
その両サイドにはルベルのコレクションである工芸品が(無論、ほんの一部でしかないが)飾られている。
人の背丈ほどもあるスケルトン・クロック。十二万三千ものパーツで構成される真鍮細工の精密構造体。未知の石材で造られた神代の日時計。時を刻むごとに伸長し、枝を増やし続ける年針を持つ懐中時計の立木。
それを抜けると、再び光彩が屋敷の主迎える。よじれた天然巨石の石柱が幾何学模様にを想わせる近代建築の中に溶け込み、神の館へ通じる門のごとき威容が稀人の居城と外界とを隔てている。
外は案の定曇天で、灰色の霧雨が空を濡らしていた。くろむが差した真鍮とシルクの傘がルベルのしな垂れるような紅い髪を翳らせる。
本来ならばその門構えにふさわしき優雅さを纏い闊歩するはずのルベル・フォン・シュタウフェンは、しかし通院を嫌がる大型犬よろしくメイドに引き立てられ、まるで罪人のように庭園の先を目指す。
「だいたい、――それにしたって、なぜシマバラの娘まで呼ぶ必要があったのよ」
まだ愚図るか、というようにメイドは形の良い眉をハの字に下げる。
「……仕方ないですよ。こっちが何か言う前にアーくんが誘ったんですから。……だめとも言えません」
「くっ……抜け目のない娘だわ、本当に」
「……というよりも、本当にショックだったんだと思います。……恋さんのこと」
恋の名を聞いてルベルも足を止め、くろむを見る。くろむは俯き、ルベルも視線を逸らせた。どちらともなく、再び歩を進める。
「アズルには、……恋のことはなんと?」
「……ほかの通いの方々と同じように瓦礫で、とだけ。……夕子嬢との関係についても、古い知り合いくらいにしか思ってないはずです」
「そう……」
中庭はまるでセピアの出来損ないみたいな、鈍色ばかりが滲んでいる。出来得る限り元の石材を使用した石畳は、しかしこの曇り空の下で寒々しく沈黙するばかりだ。
簡素ではあるが瀟洒極まりなかった邸内とは違い、この中には彩に欠けているというほかない。
これも新しく誂えられた、庭園を彩るはずの土色の花壇は、冷えた雨を吸って伽藍のように口を開けている。
ルベルの紫青の瞳が、仰ぐ様にそれを移ろう。
「あなたも、残念だったわね」
「……はい?」
「花壇よ。ずいぶん手入れをしてたようだから」
「…………」
「くろむ?」
ルベルは傘と共に後ろからついて来るくろむが、足を止めたのを見咎める。すると、この無表情なメイドが唖然と眦を開いている。――要するに、驚いている。
「そこまで愕然とすることかしら?」
「……し、……失礼いたしました。まさかマスターの口からそんなお話を聞くとは思わず」
「気が抜けているのではなくて? くろむ。以前ならこの程度のことで狼狽えたりはしなかったでしょうに」
ルベルは再び鼻を鳴らし、憮然としてコツコツと歩を進める。音もなく付いてくるメイドの失態をなじるが、しかしその声色は以前ほどとげとげしくはない。
「……そうでしょうか。……先生こそ、以前は花鳥のことなど気にも留められませんでしたのに。……こんな時期に雪が降ると困りますよ」
「人を何だと思ってるのよッ。――ただ、随分手が行き届いていたようだから」
切に惜しむようなその言葉尻に、くろむは微笑を滲ませて言葉を返す。
「……構いません。すぐに元通りになります。……花は、季節が廻ればまた咲くものですから」
「そう……」
「……先生こそ、以前とはお代わりに」
「そうかしらね……」
聖杯の完成を持って、この地の聖杯戦争という儀式は終結を迎えた。
すべてが終わったあと、ルベルは自壊するアーチャーに別れを告げ、アズルやくろむの安全を確認したその足でもって、単身シュタウフェンの本国へ渡り、完成した聖杯を分家筋の連中に叩き付けていた。
そして、それを交換条件に当主の座を放棄したのだ。
本来当主としては許されることではないが、それを呑まねばこの場で聖杯の中身をぶちまけてやると言って脅したところ、連中も渋々その条件を呑んだ。というか呑むしかなかったことだろう。
何せ実際に杯の中身を、ほんの少しではあるが解放して見せてやったのだから、それも当然だろう。宮殿のごときシュタウフェン本家の邸宅が、見るも無残に崩壊・消失したのだ。連中の慌てようと言ったらなかった。
そうして各種利権の譲渡やこの先の不可侵を盟約する誓約書の作成、魔術刻印の摘出等の些事を迅速に終わらせ、ルベルはすぐさま日本へと取って返したのだ。
向こうからすれば、まさしく一陣の嵐がなだれ込んできたようなものであったことだろう。
ともかく、以上の経緯によって現在のルベル・フォン・シュタウフェンはもはや一介の野良魔術師となった。しかし喪失感はまるでなかった。むしろ、奇妙に身が軽かったほどである。
そして帰国し、はや一月と少し。その間にどうしていたのかといえば、――結局、ルベルは以前のモノと大差のない生活に戻っているのだった。
何しろこちらはこちらで問題が山積みだった。儀式が終結しても、しち面倒な事後処理はいくらでも残っていたし、よからぬことを考える人間が居ないとも限らなかった。
それに、一連の件で会社のほうも大混乱に陥っていたのだ。やはりルベル自身が居なくてはこの組織は立ち行かないのだと再確認させられた。まずはこちらを何とかしなくてはならなかった。
おかげでせっかく見繕ったホテルのスイートにもろくに寄り付かずに、ルベルは以前と同じように忙しない日々を送っていたのだった。
しかし――それでも、以前とは違っているところもある。
何日も余所に泊まり込むことはなくなった。一日に一度は、必ず家族に顔を見せるようにした。会社のことも、少しは部下を信じて任せることにした。
おかげで、以前ほど張りつめたまま過ごすことは無くなったように、ルベル自身も感じている。
「まぁ、肩の荷が下りたのは確かよ。あとは……好きにやるわ」
「……さようで」
アズルとも、話すことが多くなった。話を聞くことが多くなった。――あのあと、病院で眼を覚ましたアズルは、アーチャーが既に去っていたことを悔やんでいたが、ルベルがたどたどしくも言い含めると、静かにうなずいてくれた。
一連の記憶はないはずだが、自分を何かから――土砂崩れだということになっているが――助け出してくれたのはルベルとヴィル……アーチャーなのだと知っているようだった。
だが、救われたのは、救われているのはルベルのほうだ。
切に、そう思う。どれほど助けられたことだろう。退院した後も、アズルはルベルを支えてくれた。
いや、そのしなやかな優しさに支えられているのは、きっと自分だけではないのだろう。
「あの子は、……」
もはやそれが解らぬルベルではない。意図もせぬまま虚空に囁くようなそぶりで、口を開く。
「……はい?」
「島原夕子は、今どうしてるんだったかしら? シマバラの所は、ウチほど簡単じゃないでしょうし」
何せ土台となっていた山頂そのものが抉られているのである。破壊されただけのシュタウフェン邸とは再建に要する日数に差が出るのは仕方のないことだろう。
さて、その間、あの傷心の娘がどのような場所に押し込められていることか。この一月のことを思い返すに、そのあたりはどうも他人事とはおもえなかった。
「……お姉さんのところにいるそうです。……私の学校で担任の教師をしている」
「そうだったわね……」
「……いい人ですよ。……本人も結構はしゃいでいるそうです」
「そう」
なら、良かったわ。という言葉は声にはならなかった。しかし憚られはしたものの、少なからずの安堵があるのも事実だ。
「……でも、やっぱりどこか空元気というか、恋さんのことが後を引いているようで……」
「そう……」
夕子の、事の真相を、――そして恋の死を知ってからの憔悴の程は聞き知っていたのだから。
「……かくいう私も、今日のことを頼まれてしまいまして。……できれば、励ましてほしいと」
静かに募るようなその声に、ルベルは観念したように溜息を吐いた。そうまで言われてはさすがにこれ以上何も言えない。
「わかったわよ。良いようにやりなさい。せいぜいもてなしてあげるがいいわ。ただ、目を離すのはダメよ。よく見張ってはおきなさい。良いわね?」
「……そこまで警戒されなくても」
くろむの呆れたような声に、しかしルベルは取り合わない。
「舐めてかかるべき相手ではなくてよ。自分の境遇を利用することぐらいはやってのける娘だわ。抜け目なく、狡猾にッ」
「……先生にそこまで言わせるんだから相当な子なんでしょうけど。もうちょっと手心があってもいいのではないかと……」
「憐れみが常に功を奏するわけではないわ。――あの娘は、そう言うタイプよ。だから、私は手加減をする気はないわ」
つまりは同類ということか、とメイドは密かにため息を返す。
「……というか
「アーチャーと同じことばかり言うんじゃないわよ。まったく。――というか、あなたは反対しないのね。あの子がアズルに懸想していることに」
「……そこまでの仲ではないようですが。……ええ、アー君自信が嫌がってないんですから、問題はないと私は思います」
そこで、ルベルは何とも言えないような表情で、沈鬱に目を閉じる。
「……マスター?」
「アズルが、不憫だわ」
可愛そうな子。あんなに一途に
「……わかりますが、家同士のことをアー君にまで押し付けるのは」
「そうではなくて、……あなたの物言いがよ」
「……はぁ…………私ですか?」
当のくろむは細い顎先を傾げるばかり。嗚呼、――かわいそうなアズル。一人の母として無力をかみしめながら、ルベルは疲労のこもる熱い息を漏らす。すると、湿り気の有る空気がわずかに白くしぶいた。
それを視止め、二つの視線が虚空に惑う。山間の空気は冬の訪れを人里よりもはっきりと伝えてくる。
また、雪に覆い尽くされるような白の季節がやってくる。
「……冷えますね」
「今夜は特にでしょうね。暖炉の用意をしておきなさい」
「……かしこまりました」
そして二人はしばし言葉を切ったあと、再び石造りの道を歩いた。その先では暖気の澄んだ高級外車がルベルを待っている。その車体は冷えた空気に晒され、磨き上げた石のように濡れ光っている。
「社長ぉ~、支度に何時までかかってるんですかぁ。寒いですぅ。もぉ~、私も病み上がりなんですからぁ」
そうは言いながらも、律儀に暖気した車の外でルベルを待っていた伸枝は不満を漏らすが、
「いろいろとあるのよ。良いからさっさと行くわよ」
「……というか、その割に顔色は良い様ですけど」
「あ、いえ、それは……。えへへ」
涅に言われ、伸枝は視線を逸らしながら紅い頬を緩ませる。
指摘の通り、今の伸枝は血色よく白い肌は艶めいて、むしろ入院前よりもよほど健康的に見える。多少の雨風でどうこうなる様には見受けられないほどだ。
ルベルも何とも言えない顔でこの使い魔のにやけ顔を見下ろす。さてこの淫魔めが、これから向かう入院先で何をやっていたやら。
「まったく……。いいから急ぎなさい」
「か、かしこまりました」
きまり悪そうにルベルを後部座席へエスコートし、伸枝はそそくさと運転席に逃げ込んだ。
「……では、マスター。ごゆるりと。……急いだり焦ったりしなくて大丈夫ですから」
いよいよ主人を送り出そうと、涅は窓越しに念を押す。幼子を送り出すような口調で。
「そこまで心配されると逆に馬鹿にされてる気になって来るわね……。まぁ、そのことはもういいわ。それよりも、くろむ」
「……はい」
「一応気は抜かないようにしておきなさい。まだ解っていないこともあるのだから」
「……それは、」
「例の黒幕のことよ」
ルベルは最後に
しかし、当初こそ警戒していたルベルではあるが、この件に関しては既に興味を失いつつあった。敵の正体がなんにしろ、その目的は聖杯であった可能性が高い。その聖杯降臨の儀式自体が終結・解体された今、その黒幕が再び事を起こすとは考えにくかったからだ。
無論、警戒を怠ってはいなかったし、くろむにもあらゆる可能性について考慮するように言ってある。事のカラクリを見抜いたくろむなら、それを察することもできるだろうと。
「…………先生、そのことなんですが、」
「なにか解ったのかしら? 恋の起源を呼び起こし、聖杯戦争を裏から操ろうとした何者か――」
「…………いいえ。今のところは何も。……行ってらっしゃいませ」
何かを言おうとして言葉を切ったくろむの顔を、ルベルはもう一度覗き込もうとしたが、すでに車は動き出していた。
行き先は伸枝やアズルが入院していた、シュタウフェン所縁の総合病院であった。
聖杯戦争の終結と時を同じくして、治療の目途さえ立っていなかったナティオの奇病が回復し始めたのだ。
最後に一連の検査とリハビリを終え、晴れて退院を許されたのである。そして今日は、これを機にルベル自身がそれを出迎えようというのである。
これを言い出したのはルベル自身だ。アズルはもちろん涅も喜んで賛成してくれた。……もっとも、まさか一人で行くつもりではなかったのだが……。
そもそもこの一月あまり、ルベルはナティオの見舞いに行っていなかった。いまさらどんな顔で言っていいものかと考え悩むうちに、機を逃してしまっていたのだ。
これでは依然と変わらない。だから、今こそナティオとも、逃げずに向かう合う必要がある。それは前々から決意していたことである。
何を話すべきなのかもわからない。詫びたところで意味があるとは思えない。言葉で何かを伝えられるとも思えない。だが、それでも、――
漣のようにざわめく鼓動を押し込め、ルベルは白い塔のようなそれを、窓越しに見据えた。
ここに、実際に足を運ぶのは何時依頼になるだろうか。
「しゃ、社長。大丈夫ですか?」
「――ダメみたいだわ」
「ぅええ?」
車を降り、無人の入り口で一度足を止めたルベルに伸枝が頓狂な声を上げる。素っ気も何もない病棟の入口が、この時のルベルには地獄の門にも見えてくる始末であった。
「社長、お気を確かにッ! い、一回車に戻りますか?」
「いいえ、大丈夫よ。大したことは――――そう。大したことではないのだから。問題はないわ。行けるわッ」
ルベルは己を振るい立たせる。そうだ。アズルも言ってくれたではないか。きっと大丈夫だと。そう考えると、そう思い返すと、冷えた胸に暖かさが満ちるような気がした。
自分はアズルを信じて、その言葉に従おう。その想いに殉じよう。ルベルは決意を新たに、歩き出す。
「社長。では、私は一度車を駐車場まで」
「――不要よ。すぐに済むのだから、そこで待ってなさい」
一人にされることに――少々、ほんの少々の動揺を見せたルベルだったが、再び大理石のように身をただし、硬い声でのぶえに告げる。
そうだ、考えてもみれば、別に一人で娘の病室に踏み込むのに勇気がいるわけでもない。当たり前のことだ。出来て当然なのだ。
「いえ、ですが……」
ところが、のぶえの視線が示す先を見とめて、ルベルは唖然と眦を開いた。
「――なッ!?」
見ると、ロビーには何やら白衣の集団が群れを成しているではないか。――まるで誰か、なにがしかの要人を出迎えるかのように。
声もないするルベルを、壮年・初老の男たちが瞬く間に取り囲んでしまった。
「社長……、その、……ご、ごゆるりと」
「ちょッ、伸枝!」
伸枝はそそくさとその場を後にした。ルベルはその後を追うこともできなかった。
まったく誤算であった。……出迎えは不要と先に伝えておくべきだったのだ。病院側からすれば、最大の出資者であるルベルが数年ぶりに来訪するとなれば、確かに対応しない訳にはいかないのだろう。
娘の、ナティオのことが念頭を占めていなければ、有りえるはずのないミスだった。
ルベルとしても、さすがにこれを無碍にするわけにはいかなかった。何せ子女たちのことで、ここのスタッフには連日世話になりっぱなしなのだ。
解放されたのは、来院より三十分も過ぎた頃だった。爾来有りえないことだが、これが精密極まりないはずのルベルの体内時計では、実に十倍以上にも感じられていた。
まったく、なぜこうも思惑が裏目に出るのだろうか?
――しかし、と。ここでルベルは気を取り直して息を整えた。過ぎた時間は取り戻せない。拘泥は意味のないことだ。ようやく面倒な挨拶を聞き終えたのだ。もはや関門はない。
いざ、上階にあるはずの病室を目指そうとしたところで、
「あら、クーは? 来てないの?」
素気ない声は同じロビーの端、――随分と近いところから聞こえてきた。
「あ、いえ、チーフは忙しくてですね」
「お迎えがのぶえさんだけって……。ひどい冗談だわ。まるで罰ゲームのよう」
「お、お嬢様、いきなりそこまで私をディスらなくても」
「もちろん冗談よ♡」
そこに居たのは間違いなくナティオだった。伸枝に手を引かれてはいるが、自分で立って歩けるまでに回復している。しかし、視力は回復しきっていないようで、その紫青の瞳は閉ざされたままだ。
「というか、本当に来てないの? ドッキリじゃなくて? おかしいわ。それって絶対おかしいわ。忙しくても私の為に必ず時間を作ってくれるはずなのに。……お見舞いにもだんだん来なくなってたし。私、クーに嫌われたのかしら? 絶交されてしまうの? 帰ったら戦争なのかしら?」
「お、お嬢様、ナイーブな発言がいきなり物騒に」
「バカなことを言ってないで、早くなさい、ナティオ」
機を逃してどうしたものかと所在なく身構えていたルベルだが、もはや策も何もない。あれやこれやと思案していた言葉はどれもこの場にそぐう気がしない。仕方なく叱責のような言葉を、意を決して、掛ける。
すると、病床に居た頃よりは随分と血色のよくなった――それでもまだやつれたような影の残る――頬が心底不思議そうに揺れる。
「あらん? のぶえさん、だからってこんなことしなくてもいいのよ? お母様に似せたエキストラまで用意して……」
「お、お嬢様、なんてことを……」
さらりと紡がれた問題発言に、伸枝が悲鳴じみた声を上げる。ルベルも絶句しつつ、思い出していた。そうである。こういう娘なのだ。いつもならこの後嫌味の応酬の末会話が途切れてそれっきりというのが、この母娘の定番だったのだ。――が、今日ばかりはそんなことも言っていられない。
「わ・る・い・のだけど――本人よッ」
「あらぁん? まさか本当にお母様? なんとやらの攪乱なのかしら? というか何をしにいらしたの?」
わざとらしく小首を傾げてみせる様は人形のように愛らしく、そして小憎らしい。まさしく昔のままだ。ルベルは沸き起こる癇癪をそうするかのように眉間を強く抑え込む。
「……ッ」
「しゃ、社長。ダメですよ? 戦争ダメですよ!?」
「人を何だと思ってるのよ! ノブエ、あなたもさっさと用意をなさい。いつまでここに突っ立っているつもりなの?」
「はぁいぃ、只今ぁ!」
理不尽な威嚇に晒され、ノブエはヒール履きのまま一路、外にある車の所へダッシュするが、
「ちょっと、のぶえさん。手を引いてくれないと歩けないわ。先にドアのところまで連れていってくれないと。もう、気が利かないんだもの。お仕置きされたいのかしらぁ? ――バラされたいの? バラバラにぃ?」
朗らかな鈴なりから一転、怜悧に裏返ったナティオの艶声に射すくめられる。
「ひぃ、すみません! というか問いかけられましてもぉ!」
ただの傀儡に過ぎない伸枝は双方から威嚇され、今にも転覆しそうな小舟のように慌てふためくことしかできない。――が、
「いいから。あなたはさっさと車を出しなさい。ナティオは私が連れて行くわ」
そう言って、ルベルが無造作にナティオの手を取った。ナティオはその小さな身体を途端に石のように硬直させた。それはすぐに周囲の空気までをも凝固させていく。
「しょ、しょしょ少々お待ちをッ」
そんな光景を目にしてしまったノブエは、嵐を前にした小動物の様な有様で、クラシックカーの運転席へと滑り込む。
「――離して」
固い声でナティオは言う。それを言うのが精いっぱいであるかのように。
「ダメよ」
「……ッ」
「危ないからよ。手を引かれないと歩けないと言ったのは、貴女」
ナティオはしばし言葉を無くしたように口を噤んだが、その後はおとなしく手を引かれ、ルベルがドアを開けると後部座席に乗り込んだ。
車中には気まずい沈黙が満ちていた。広い後部座席には距離を開けて母と娘が座り、ハンドルを握る伸枝は顔面を蒼白にして石のようにギクシャクと運転に専念している。
「ナティオ」
そうして、視線を窓の向こうへ向けたまま、巨石を押し出すように沈黙を退けて、話し始めたのはルベルのほうだった。
「これまでの事は無かったことにはならないけれど、もうシュタウフェンは聖杯も魔術とも切れたわ。私は最後まで一魔術師でいるつもりだけど、もう貴女たちに何かを言うつもりはない。――貴女も、好きなようにやりさない」
応答も待たず、ルベルはただ一方的に告げて言葉を切った。そしてそれきり口を閉ざした。まるで業務連絡のような具合になってしまったが、これ以上上手くやれる自信はルベルにはなかった。
縋るような沈黙が、また車中に陰を落とす。ルベルはそれ以上の言葉を紡ごうとしない。もはや言葉を持たぬかのように、言葉を待って祈る様に時を計る。
邸までの道中、どれほど会話の猶予があるであろうか。あの広い屋敷に帰ってから、これほど近く距離を詰める機会が、果たしてこの母子の間に有るだろうか。
「それはそうと、のぶえさん。なんだか変なのよね」
しかし、ナティオは母のそれを黙殺して、あろうことか値千金の第一声を運転席の伸枝に向けた。
「ひぃぃ、お、お嬢様、それはあんまりかとぉ。というか、せめて戦争は私のいないところでぇッ。私を巻き込まないでくださいぃ」
すでに半泣きだった伸枝はいよいよガチ泣きしそうな風情でハンドルを切る。このままストレスを与え続けたなら、きっとそれだけで命を落とすであろう。
ルベルは何の反応も見せない。ただ、寒色に染まったような窓の外を見つめているばかりだ。
そんな各々の様子を知ってか知らずか、金糸の
「私ね、この一月ぐらい、ずっと夢を見ているのかと思っていたの。さっきからのことも、そう」
「――はい?」
「きっとまた新しい夢を見ているのだと。そう思っていたのだけれど、――どうもこれって、夢じゃないみたいね」
流暢な声は奇妙に平坦で、しかしそれは無理に均されているかのように人工的で、何かを押し込めているかのように、張りつめていて、
「いつも、何度も、夢ばかり見ていたものだから。とても、私の都合のいい夢ばかり……」
「……」
「けど、いくら夢を重ねても、こんなことはなかったの。私がいくら思い描いてみても、こんなのは想像もできなかった。私に――想像もできないことが起こっているなら、これは、私の夢ではないのよね」
「…………はい。夢じゃないですよ。……お帰りなさいませ、お嬢様」
伸枝もその独白のようなそれに、万感を込めて言葉を返す。
「ありがとう」
「……」
その人ごとのような会話に、ルベルはどんな言葉も差し挟むことが出来なかった。ただ、寒色に覆われたような窓の外の景色だけを見つめている。その紅い唇をわずかに震わせて。
静寂を詰め込んだような車は、傾斜のキツイ山道へと入っていく。舗装はされていても揺れがきつくなるのは避けられない。何よりも、先のライダーの大破壊の余波はとどまることを知らず、山道には所々に亀裂のような傷跡が残されているのだ。
いくら速度を落としていても、車体を揺らさずに走るのはかなり難しい。
「伸枝、急がなくていいわ」
ルベルとて、来るときはさほど気にしなかったのだが、今となってみれば隣のナティオのことが気がかりで仕方がない。か細い身体が揺れる度にルベルは気が気でなかった。いくら回復に向かっていても、未だ魔術の行使は無理があるはずだ。
「も、もちろんそのつもりなんですが、――っとッ!」
言う傍から、車が大きめな石にでも乗り上げたかのように、バウンドした。
「も、申し訳ありません。社長、そしてお嬢様、――殺さないでください!」
「バカなこと言ってないで気を付けなさい。良いから前を見るのよ、前を」
咄嗟に後部座席に向き直ろうとする伸枝を一喝し、ルベルは息を漏らす。――その腕の中で、しっかと抱き留められていたナティオは、唖然と声を漏らした。
「お母様……」
己もまた咄嗟にナティオを抱き止めていたのだということを、後から知ったルベルは一時声を失くし、
「あ、危ないからよ。いまさら病院へ取って返したくないでしょう」
言い訳のような言葉を残しながらナティオを手放した。それでも、最初よりは、二人の距離はほど近い。
「社長……。なんでそんなツンデレな台詞を……」
「――伸枝、いいから、前を向いて、そして、口を閉じなさい」
「はいぃッ!」
ドスの利いたルベルの言葉に伸枝は再び押し黙りハンドルに齧りつく。そして、バツの悪そうなルベルの脇で、ナティオはクスクスと、心底おかしそうに笑い始めた。
「何を笑ってるのよ……」
「――だってッ、なんだかお母様じゃないみたいだわ。本当にそっくりサンじゃないのかしら?」
「いつまで言ってるのよ」
「だって信じられないんですもの。フフ、本当に信じられないことばかり。……たとえば、聖杯と引き換えにとはいえ、本当に当主をお辞めになるなんて」
「別に何も――。ええ、何も問題なんてなかったわよ。あの聖杯も、そもそも使えるかどうかも怪しい粗悪品だったし、シュタウフェンのやり方で魔導を極めるのは難しい。――そう判断したまでよ、私がね」
唐突に始まった会話に、ルベルは自分でもどうかと思うような、しどろもどろのの言い訳みたいな声を出していた。
「本当にそうかしら? お母様がどう思っていたとしても、分家筋の者が納得するとは思ないわ。――そもそも、肝心の聖杯の中身が、目減り(・・・)していたというに?」
「ええ?!」
確信を込めた静かなそれに、しかし応えたのは伸枝であった。頓狂な声があがり、車体がやにわに蛇行する。
「伸枝ッ、前を見ろと言ったでしょう!」
「はひぃ!」
「……か、簡単な事よ。連中の見ている前で中身を溢して見せたのよ。見ものだったわ」
三度伸枝を黙らせた後で、ルベルはそのときのことを子細に諳んじて見せる。しかし、ナティオはすべてを察しているかのように、落ち着き払った声で瑠璃色の息を吐き洩らして見せた。
「そんな方便とお母様の演技で、よく騙せましたわね」
「――――そうね。自分でもそう思うわ」
「あ、あのぉ、なんというか私、話が見えないと申しますか」
「伸枝、いいから、」
「私の身体が自然と治癒するなんてありえないのよ。それこそ、奇跡でもない限り」
ルベルの言葉を切り、ナティオが言った。
「え!? じゃあ、お嬢様の身体は、社長が」
「――そろそろ黙ってなさい伸枝。次に車を揺らしたら」
「はひぃ! 申し訳ございません」
「お母様」
よびかけられても、ルベルは返答しない。ただ、窓の外を見つめる。小意地にでもなったように。
「わたくしを騙せるなんて、お思いにならない方がよろしくてよ。……最初からわかっていますの、お母様の事なんて」
独り言のように言って、ナティオは思い出したように、またクスクスと笑った。
もはやクレバスのような傷の残る坂道を登りきると、真新しい屋敷が、おぼろげに見えてきた。
「……それはそうと、お母様。クーを随分ひどい目に合わせたとか」
ひとしきり小鳥のように笑った後、ナティオは途端に意地の悪そうな声を出す。バツが悪そうに押し黙っていたルベルは、また顔を顰めた。この娘がこの顔をするときはこうやって人を嬲る合図なのだ。その上相手がだれでも関係が無いときている。まったく誰に似たのか……
「あの子が、人のいうことを一つも聞かずに、勝手をやったせいよ。ヘマをしたあの子を助けるに私がどれだけ骨を折ったか」
「そうなる前に、何とかするべきだったと思うわ。私がまともだったらそんな事にはならなかったのに」
「だったら、なんて物言いはみっともないからやめなさい。……というか、帰ったら戦争なんじゃないのかしら?」
「ひぃ、戦争嫌。もう戦争はいやぁ」
「伸枝、良いからしっかり前を見てなさい。それ以上は何も言わないから」
既に恐慌をきたしはじめているのぶえを余所に、ナティオはまたクスクスと笑う。
「まさか。私がクーに勝てるはずがないもの。せいぜい困らせるのが関の山よ。お母様だって、そうでしょうに」
「――まったくだわ。思い知ったわよ」
意地が悪そうに、それでも、心底おかしそうに、ナティオは笑っている。
しかし、辟易しつつもルベルは思う。この子が笑っているのを見るのは、本当に何時以来だろうか。相変わらず腹ただしいことしか言わない、生意気な娘なのに――妙に、その様が愛おしかった。まるでアズルを見ている時のように、胸が暖かった。
「恋の――恋のおかげでね」
そして、告げるべきかどうか迷っていた言葉を、ルベルは向ける。
「恋さん」
「彼女のことは、聞いてるのかしら」
「ええ。――可愛そうな人。とうとう最後まで、愛してほしい人に愛されなかった」
「貴女、どこまで知っていたの?」
ナティオは目を閉じたまま、その雪細工のような指を顎先に添える。
「出生の秘密までです。それと、それを知っているのは一般人のお姉さんだけだということ。もちろん魔術云々ではなく腹違いの姉妹だということだけだそうですけど」
「……そう」
「魔術を知らないあの人だけが、自分を人間として見てくれると言ってました。確か、クーの学校の先生をされているとか」
「聞いたわ。全部が終わった後にだったけれど」
「聖杯戦争には意味の無い情報ですものね」
「お、おおおお嬢様、なぜ一々つっかかるのですかァ」
「伸枝、いいから」
「黙って運転なさってくださいな。何かあって、二回殺されたくないでしょう?」
「はひぃッ!」
母娘の、以外にも息の合った叱責に、伸枝はそれきり機械のように運転に専念する機械となった。
「相変わらず、物言いが物騒ね。ナティオ」
「お母様こそ、ずいぶん丸くなられましたのね。ついこの間まで殺し合いをしていたはずなのに。ほかの魔術師や、恋さんとも」
口調は揶揄するようなままだが、ナティオはどこか自ら針を含むように切実な言葉をルベルに向ける。
「――あの子とは、親しかったのね」
ルベルは、そこに己を糾する恋の姿を想い重ね、重苦しい瞼を伏せる。
「それほどでも。ただ、お互い隠し事はしなくていいので楽というのは有りましたけど」
「……そう」
悔恨はいくらでも湧き上がってくる。己さえ、こうも愚鈍でなかったのなら、どれほど子供たちを傷つけずに済んだのか――
「それでよく口車に乗せて遊んだり、面倒をかたづけてもらったり、というぐらいです。……ええ、ホントに役に立つ人でしたわ」
そんな切実な母の想いを一蹴微塵の如く蹴散らし、ナティオは無垢な黒蓮のように微笑む。
「……酷い子だわ、あなた」
そうだ。こういう娘なのだ。ルベルは再び頭を抱える。素直すぎるアズルとは真逆の、なんとも一筋縄ではいかない娘なのである。
「失礼。荒んでいたもので」
そしてケラケラと、冗談とも言えなさそうなことを言うナティオにルベルも伸枝同様に言葉を失うしかない。
「では、お母様から見てはそうでしたの、恋さんは」
沈鬱に押し黙るルベルのことなど、まるで見えていないかのように、ナティオは言葉を続ける。ルベルも諦めて背を正す。お互い様ではあるが、この性格ばかりはいまさら何を言っても仕方がないのは確かだ。
「……よくやってくれたし、よくできた子だったわ。くろむがいなくなって四苦八苦してたのよ。本当に助かった……。それに、あの子のおかげで私は、私は、……」
「お母様がお変わりになったのはそのせい、ですの?」
滲むように途切れようとした言葉尻を、そっと掬うように、ナティオが言う。不意のことに、ルベルは一時言葉を失い。そしてナティオに真っ直ぐ顔を向ける。
閉じたままの瞳と視線がかみ合う。
「――どうかしらね。よくわからないわ。ただ、アーチャーや、恋、アズルのおかげで、……私は、」
変われたのかも、しれない。
「つ、着きました」
そう続けようとした言葉を押しのけるようにして、車が止まった。ルベルは我に返ったように呆けた後、
「――伸枝、車椅子を」
平時の己の如くキビキビと腰を上げた。最後の最後で、時間切れだったのか。惜しむ間もなく、もはや機会は失われたのだろうか。――いや、そうではない。
「はい、ただいまッ」
運転席からまろび落ちた伸枝は、急ぎトランクに手を掛ける。
「あら、歩けるわ」
ナティオもまた先頃と変わらぬ声を出す。
「何度も言わせないで。帰ってきて、いきなり転びたくないでしょう」
先に車から降りたルベルが、ナティオの側のドアに回る。すると、苛ただしげに金色の髪がうねるのが見えた。
「……前言撤回だわ。全然変わってないみたい。人の話を聞かないお母様」
不満そうに呟くナティオに、ルベルも肩を落として眉根を顰める。確かにこれでは以前にいがみ合っていた頃と変わりない。ただ、今は少しだけ、
「わかったわ。好きになさい。ただ、少しくらいは、――母さんにも心配させてくれない?」
少しだけ正直に、相手を信じ、甘えることを覚えたぐらいか。
「――フン。なによもう。ホントに聞き分けが良すぎてお母様じゃない。――車椅子でいいわよ」
ふてくされるように、それでも軽い声で言って俯いたナティオに、ルベルは自分でも驚くほど自然に微笑んでいた。
「そう」
「あーあ、これも恋さんのおかげだとしたら、いくらお礼を言っても足りないわね。まったく――――――ほんとうに」
「くろむ、急がなくていいわ」
玄関先で待っていたのだろう、小走りで駆けて来るくろむにルベルは声を掛ける。手には傘を持っているが、雨は止んでいたようだ。
冷えた空気は湿っているが、澄んで清涼な風のようにルベルを包んだ。
不意に、気付く。ようやく終焉を迎えたのだと。まるで掛け違ったかのように、解きようのなかった何か。それが、己の抱えていた、淀みが、傷が、悔恨が、風に攫われるように、霧散していくのを感じる。
厚い雲間から覗いた淡い陽光を浴びて、ルベルは微笑んだまま、幸福感を持て余し、目を細める。まるで無垢な幼子のように。
「――――――ほんとうに、御苦労さまだったわ、恋さん。――可愛そうな人。まさか、貴女が、」
車中、俯いたナティオは闇に沈むようにして、小さく呟いた。
そして誰にも聞こえることのない声で、一人。
「随分良くしてくれたのね。母にも、そして――私のためにも。
少女は嗤う。ケタケタと、白雉のようにケタケタと。
「大した期待もしてなかったのに。……本当に、お礼を言ってあげたいくらいよ。貴女のおかげで、何もかも上手くいった《・・・・・・》のだから」
うす暗い車中で、光明に背を向けるようにして、少女は一人、まるで魔性のように、ケタケタと。
了