Fate/alter Seven Sight ――the Next Sight――   作:どっこちゃん

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一章ー1

(月曜日・夜)

 

「――それで? 代行殿はいまどちらに」

 

 ルベル・フォン・シュタウフェンは、自らが問いかけている相手に眼を向けることもせず、素っ気無く言った。その視線は手元の書類に注がれている。

 

 実年齢は三十台半ばだが、とてもそうは見えない。十七になる娘がいるとは思えないほどに若々しく美しい。しかし少々痩せすぎな身体とあいまってどこか張り詰めて余裕の無い人柄だと思われることが多い。

 

 実際、日々を分刻み、秒刻みで疾走している彼女を大概の人間は人間味の無い人物だと受け止める。

 実際には有り余る才覚と生真面目に過ぎる性格ゆえに何事も適当にこなすというのが苦手なだけで、決して冷血な人間ではないのだ。――が、それを知っているのはやはり一部の人間に限られる。

 

 ――もっとも、それらの諸々はあくまで彼女のかぶっている表層的な人格のことに過ぎない。処世術と共に十数年かけて培われた、いわば殻のようなものである。

 

 実際の彼女は、言うまでもなく完成された魔術の結晶だ。本来人間味がどうこうという生き物ではないのである。

 

 それでも、この一室にいる間は、彼女も魔術師ではなくひとりの経営者である。

 

 今もまた一人、社長室の椅子に浅く腰掛け、オーダーメイドの行動的なスーツを着こなした彼女は、堂に入ったデスクワークに勤しんでいるのだった。

 

 しかしそろそろ夜も更けてくる頃合いである。夕暮れの去って久しい窓の外には、はらはらと冷ややかな雨が降り始めていた。

 

 そのせいか、そんな彼女の肩にも薄手のストールが掛けられている。これも一見さりげない日用品に見えるが、その実は全く見事な代物であった。機能性や造形のすばらしさもさることながら、そのストールから薫る芳醇な香りが、この空間そのものを淡く、しかし鮮烈に席捲しているように感じられるのであった。

 

 その、一吸いでもすればどんな荒々しい精神の刺であっても、根こそぎ引き抜かれてしまうであろう魅惑の芳香は、――しかしこの場に限ってはその効用を発揮できそうになかった。

 

 この社長室、一応は応接間を兼ねた部屋なのだが、よほどのVIPであってもここを使うことはほとんどなかった。この場に招かれるということは、つまりそれだけ特別な相手ということになる。

 

「それが、久しぶりに会った叔母への態度かね? 下界へ降りて少しはその辺りも丸くなったかと思っていたのだけれどねぇ」

 

 憤慨を含んだかのような苦々しい沈黙の後、問いに応えたのは溜息であった。

 

 ルベルは初めて視線を声のほうへ向けた。一面ガラス張りの壁際、一段高い位置にある自らのデスクから、距離をおいて部屋の中央に据え置かれたソファ、そこに(ひず)むように身を沈めている老齢の婦人を見下ろす形になる。

 

「これは失礼。魔術師同士の会合ゆえ、そのような馴れ合いはむしろ避けるべきところかと思いまして」

 

 今度は鼻を鳴らしてから、婦人は語る。

 

「訝しい物言いをするねえ、わざわざ激励のために来たと言うのに。私は悲しいよ。てっきり移築したという新しい屋敷に呼ばれるかと思えば」

 

 実に悲しげに、そして嫌味たらしい物言いで、婦人はめそめそと言葉を溢す。

 

 しかし、ルベルにはそれが悪い冗談としか思えなかった。ソファに坐した婦人の背後には二名の屈強そうな護衛が直立不動で付き従っている。

 

 それは彼女にとっての姪であるはずのルベルに対して、問答無用で突きつけられている銃口のようなものだ。この状態で激励とは笑わせる。

 

「茶番は止めにしていただけますか? 私も暇ではないものでして。――代行はどちらなのです」

 

 斬って捨てるような怜悧な声に、わからない奴だといわんばかりの嗄れ声が重なった。

 

「こんな所に代行殿をお連れできるものかね」 

 

「何故です。ここも立派な私の要害ですよ? もともとこの土地はシュタウフェンの持つ霊地の一つですし、特にこの部屋の備えは私の工房のそれと比べても見劣りはしない」

 

「そうではない。礼儀にかなっていないといっているのだよ」

 

 しかし、無意識にであろうか。婦人はそう言いながらも、横目で社長室の壁一面を埋め尽くしている、古めかしい壁掛け時計に眼を向けた。

 

 並べてすばらしく磨き上げられた代物であった。

 丸型、角型、ヴァイオリン型。卵形、楕円型,頭丸型。ドロップ型、ラウンド型、振り子型。ドイツ製、日本製、アメリカ製。金箔、黒漆、木地調。

 

 それらの逸品が、所狭しと無地の壁面を飾っている。相当のコレクションであり、目を奪われたとしてもおかしくはない。

 

 しかし――その老魔術師の視線には、一種の戦慄が添えられていた。

 

 そこに並ぶ数々の時計は唯のコレクションではなく、刻々と時を刻んでいながら、しかし、一つとして同じ時刻を刻んではいなかったのだ。

 

 それらは総てが狂った時を正確に刻んでいた。刻み続けていた。

 

 ついでに言うのなら、いまルベル自身が両の手にそれぞれつけている高級時計もまた、正確に時を測りながら、実際の時とは狂った時刻を示している。総てはそのように、あえて調整されているのであった。

 

 ルベル・フォン・シュタウフェンには、もとより時計などという道具は必要ないのである。彼女自身が、科学の粋を集めたいかなる時計よりも正確な時計そのものなのだ。

 

 にもかかわらず、彼女の周囲には常に時計が溢れていた。

 この社長室に一時でも足を踏み入れるものには、自前の時計を持ち込む事が義務付けられている。それを怠れば、必ずその人間は時間という概念を喪失してしまうからである。

 

 否応なく視界に入ってくる壁掛け時計。どうしても聞こえてくる秒針の音、さらには、この部屋自体が日時計にと砂時計を意匠に取りいれた形でデザインされているのだ。

 

 時計に囲まれ、時計に呑まれ、最後には時計に狂わされる。

 

 つまり、この社長室自体が、もはや一種の異界として機能しているのであった。

 

 この部屋の中でなら、彼女の願いはきっとどんなものでも当然のように叶ってしまうに違いない。――それゆえに、異界である。もはや魔術師の工房などという生易しい表現では追いつかないほどだ。

 

「……仮にもシュタウフェンの当主が、その留守を預かる代行殿を迎えるにあたっての礼儀にね。いくらこんな辺境に身を置くにしろ、ノウブルとしての貴賎を違えていいことにはならない!」

 

「いやはや……」

 

 ここで初めて、ルベルはその美貌に一抹の笑みのようなものを浮かべた。

 

「これではどちらが当主なのかわかりませんねぇ」

 

 嘲笑するかのようなその言葉に、再び黙した老婦人の矮躯からは押し殺しきれない憤怒が湯気のようにあふれ出してきた。

 背後に立っていた男たちも、微動だにせぬまま最大限の警戒態勢をとっている。

 

 しかし、当のルベルはといえば、婦人の沈黙を居眠りとでも取ったかのように、再び手元の書類に眼を落とし、美麗なクリスタル製の判子を手にとって小気味良く捺印に取り掛かっている。

 

 別に嫌がらせではなく、実際に必要な作業なのだ。彼女はここ数日の間このマホガニー製の机に腰を据えて書類と格闘し続けている。

 

 もっとも、その光景を傍から見る限りは、とても「格闘」などという野暮な形容は浮かばなかったであろうが。

 

 とはいえ、彼女にしてみればそれはとくに変わったことでもない。一代で、それも女手一つで築き上げたこの牙城は、もはや彼女自身の器官の一つのようなもので、彼女がいなくてはこの組織そのものが機能しなくなる。少なくとも彼女自身はそう考えていた。

 

 決して短くない時間を共にすごしてきた部下たちを信用していないわけではないが、それでも、何事につけてもまずは己の手腕にこそ信を託すその性分が、組織の舵取りを他者に任せるという選択を忌避させていたのだった。

 

 いや、――違う。そうではない。ルベルは捺印の手を止めて、その事実に自ら異を唱える。

 

 いま自分が会社仕事に熱を入れているのは、直面している事実から眼を背けるためなのだ。

 

 本来、二十年来の宿願――代々までさかのぼるなら五百年もの歳月を切望して来たはずの儀式を前にして、優先すべきことではないはずだ。

 

 もう闘争は始まっている。すぐにでも使い魔を四方へ走らせ、最も強靭な要害に身を潜めて己がサーヴァントと共に闘技場と化した夜の街へ意識を向けなければならないはずなのだ。

 

 ――それが、どうしたことだというのだろう。

 

 いま彼女は平時と代わらぬ社長業にうつつを抜かしている。まるでやる気にならない。このためだけに、自分はこんな辺境にまで送り込まれてきたというのに……

 

 いくらそう己に問いかけても、意識は敵である所の魔術師たちに向かなかった。

 

 今現在も、己の使い魔たちを走らせてはいるが、それは先日無様に不覚を取った不肖の弟子を探すためだけのものであった。

 

 だから止めておけといったのに。……思い返し、また愚痴がこぼれる。

 

 そしてほかには何もやる気にならないので、いつものとおりに仕事や些事を片付けていたのであった。これでは、どちらが本業なのか分かったものではない。

 

「……お前の胆の太さにはあきれ返るばかりだよ。代行殿をむかえるなら、相応しい場所を用意するべきだと言っているのだよ」

 

 しばしの間、張り詰めたような沈黙が横たわり、根を上げて会話を再会したのは老婦人のほうだった。

 

「『器』を届けるだけなら、席捲は無用では? 激励は伝言でも充分ですので、叔母君からよろしく伝えてくだされば結構です」

 

 ルベルも止まっていた手の動きを再開する。

 

「馬鹿をお言いでないよ。『器』は代行殿の手から直に当主に渡されなければならない。それが慣例だ」

 

「しかし、あまり長く留め置いたのでは、代行殿の危険も増しますが? ここはすでに戦時下なのですよ」

 

 あっけらかんと、他人事のように流麗な言葉を漏らすルベルには、婦人の漏らした歯軋りが聞こえていたのであろうか?

 

「――ならばこそ、すぐにでも屋敷にお招きするべきなのだよ。……調べなければならないこともあるしね」

 

 ここで初めて、――凪いだようだったルベル・フォン・シュタウフェンの眉間に、わずかな動きがあった。まるで、漣のような。

 

「調べる? 何を調べるというのです? 私の屋敷に来て、貴女方が、いったい、何を?」

 

 むしろ朗らかに述べられたその言葉に、その場に居た生物は余すことなく畏怖を抱かされた。先ほどからの婦人の怒気は、むしろこの恐怖心ゆえであったのかもしれない。彼女とてこの姪の力の程を知らないわけではないだろう。

 

「……お前が私達に隠していることさ。その口で言ってくれればいいのだけれどねぇ。そうでないなら、この眼で確認しなければならないだろう。まず召喚したサーヴァントの詳細と、必勝を期したはずの戦略について」

 

 それでも息を吹き返したかのような、含みのある叔母の発言に、ルベルは鼻を鳴らす、怖気と憤慨を冷笑に代えて。

 

「何を言うかと思えば……、言えるはずがないでしょう? それがもしも外部に漏れれば私の勝機をどれほど削ることになると思うのです」

 

「誰かがこの話を盗めるとでもおもうのかい?」

 

「漏洩の危険もありますので」

 

「私達は味方なのだけれどねぇ」

 

「重ねて言いますが、それとは関係なく漏洩の危険はありますので」

 

「――いいだろう。それについては、自信があるのなら何も言わないよ。ただね。私達はもしもに備えなければならないんだ」

 

「もしも?」

 

「もしも、おまえが敗れるような時のためにね」

 

 ルベルの表情が一気に、刃のように(たわ)んだが、しかしそれはすぐに蒼褪めて、その不動のはずの視線が逸らされた。

 

「後継者の事を聞いておかねばならないだろう?」

 

「それは……」

 

 間髪いれずに、叔母は言葉を連ねる。

 

「姉のほうは残念だったね。あれほどの大器だ。私達も残念に思っているのだよ。けれど、いつまでも嘆いてはいられない。幸いというのは心苦しいが、まだ息子がいるのだろう? 

 いままで何の教育していなかったのは仕方がないが、どれほどの素養があるのか知っておかねばならない。これは魔道の血筋を絶やさぬための責務なんだよ」

 

「必要ありません。……どうせなら、次代の当主は分家の血筋から選ばれれば良いでしょうに」

 

「直系の人間がいるのにわざわざかい? それこそ珍妙に過ぎる話じゃないか。ありえないだろう」

 

 ルベルは今度こそ、子供がするように唇を噛み、口ごもって視線を彷徨わせた。

 

 それは彼女自身疑いようもない事実だったからだ。

 

 時期当主として修練を積ませていた彼女の長子である娘は、霊的奇病を発症し一年も前から魔術師としての機能を喪失していたのだ。

 

『どうして――母さんは姉さんを大事にしてあげないの?』

 

 同時に以前、愛息子が自分に言った言葉が浮き上がるようにして脳裏を過ぎる。幾度となく、幾度となく彼女の胸の内を突く針のようなその言葉。あれほど悲しそうな眼差しを、声を、かつてルベルは見た事がなかった。

 

 ――こうなることは予想できたはずであった。ルベルの思考もまた、この叔母と同じ結論を導き出している。濃密過ぎる魔術師としての性が、彼女に魔術師として用済みとなった娘を悼むことを許さなかった。

 

 自分は、まだ一度もあの子の見舞いに行っていない。

 

 そうだ、あの針のような言葉は、それを糾するものであったはずなのに。今の今まで、忘れていた。いや、忘れようとしていた。

 

 息子はただ肉親として分け隔てなく愛してくれる。己も、実の姉も、姉同然に育ってきたルベルの弟子――くろむもそうなのだろう。なのに、自分は、魔術師であるがゆえに、ふたりの子息を区別するよりないのだ。

 

 今彼女を苦しめるのは、境界に踏み込みすぎたための齟齬であろうか? 魔術師と、ただの母親との堺に、曖昧な場所を心地よいと感じてしまったが故の、罰なのであろうか?

 

「思うところもあろうが、これもシュタウフェン当主としての役目だよ。それについては承知しているのだろう?」

 

「…………無論です、しかし……」

 

 そこでやはりルベルは口ごもった。そうするより他になかった。

 

 先ほどまで剃刀の如く鋭利な断頭台を思わせたその雰囲気が、今や叱責に身を縮める幼子のようではないか。

 

 婦人も、それにむしろ奇異なものでも見るような目を向けていた。

 

 ――ルベル・フォン・シュタウフェン。彼女こそ、東欧の魔都に潜む魔道の大家「シュタウフェン」の正当なる当主である。

 

 しかし、現在彼女は本国のシュタウフェンとは疎遠になっている。本家を牛耳っているのは「当主代行」と呼ばれる、元来は分家筋の人間であった。

 

 何故そのような事態になっているのかといえば、それにはこの「聖杯戦争」という儀式の成り立ちが深く関わってくる。

 

 百数十年前、「聖杯」なる神器を欲していたのは他ならぬシュタウフェンが最初であった。

 

 それははるか以前、聞き伝う所によれば五百年ほども前から続いていたといわれている。しかしその願いはついぞ叶うことはなく、功を焦った当時のシュタウフェン当主は去る辺境の二家の魔術師と共同することで聖杯の具現的降臨に踏み切ったのだ。

 

 問題となるのは、その折、当主はそれに反対した子息や傀儡であった分家筋の高弟たち、そして後援者の意見を省みることなく、ほぼ独断という形でこの儀式の断行に踏み切ったという点だ。

 

 当初から、シュタウフェンは魔術師としては異例とも言える程の巨大な派閥を持ち、ヨーロッパ各地の魔術勢力に影響を及ぼす一大集団であった。

 

 だが、それゆえの面子、それゆえの焦燥もあったのだろう。重責を全うしようとした時の当主がそうまでして行った儀式は、――見るも無残な失敗に終わったのだ。

 

 それ以来代々、シュタウフェンの当主はその失態の責を一人で背負い、まっとうするまで本家に帰還することが出来ないという「呪い」を帯びることとなった。

 

 そう――シュタウフェンの本家筋は、その血筋如何に関わらず、当主になったときから、シュタウフェンという家門から弾かれてこの極東の島国へおくりこまれることとなるのである。

 

 ルベルが生まれたのは本国、ドイツのシュタウフェンだった。ローティーンのころにはすでに一人前として恥ずかしくない修練を積み、そしてこの地に単身で送り込まれた。

 

 先代の当主は前回の聖杯戦争で死亡していたため、その人物の孫に当たる彼女が当主に選ばれたのだ。ルベルはその先代にさえ会ったことがない。

 

 故に、これをルベル本人は体のいい厄介払いだと思っている。彼女の才覚と気性が、当時のシュタウフェンたちに疎まれてのことであり、聖杯を手にするまで実質的に当主としては扱わない、ということなのだ。

 

 本来は傀儡に過ぎないはずの分家の魔術師への絶対的支配権も薄れ、今では四つの分家がそれぞれに、我が物顔でシュタウフェンの名を掲げる始末である。

 

 呪われし当主。それがここ百年における、彼の家門の捻れであった。

 

 いま、その捩れの渦中に、彼女はいる。

 

 今更正当な当主の座に返り咲くことなど、ルベルは考えたこともない。彼女自身、人としても魔術師としても、それなりにこの場所に根を張ってしまった。

 

 たとえ勝ち残ったとしても本国に帰るつもりは彼女にはない。それは彼女を動揺さしめる事象とはなりえない。――ならば、何が鋼の如き彼女の心胆を揺るがしうるというのか。

 

 それが後継者問題であった。

 

 時期当主としての修練を科し、そしていつかはシュタウフェンの本国へ、ルベルの代わりに送り込まれるハズだった長女は、先述の如くその機能を喪失した。もはや生ける屍も同然だ。

 

 ――無論魔術の後継者として、という意味ではあるが。

 

 そして、彼女にはもう一人の子息があった。厳選された血筋の種から生まれた姉とはちがい、すでに死別した一般人の夫との間にできた子供だった。

 

 姉がダメなら弟。通常の魔術師の哲理に従うならば、速やかに後継者としての「役」をそちらに移行し、後継者としての修練を課すべきなのだが、――しかしルベルにはそれができなかった。

 

 それだけは出来なかった。しかしその由来を魔術師としての己は口頭で明文化することができない。ゆえに、ルベルは苦々しく唇を噛むことしか出来なかったのである。

 

 しばしの沈痛な沈黙の後、その苦悩の故を想像すら出来ない老婦人は、重苦しい声音に少々の困惑を添えて言う。

 

「――何を悩む必要があるのか知れないが、どんなに適正がなくともそれは関係ない。これは責務の話だからね。教育が間に合わないというなら、こちらでなんとでも便宜をはかろうじゃないか。

 ……もしや、息子の出来が気になっているのかい? 確かにね。あの姉の後釜につけるのでは、唯の下民の種では不足だろうさ。しかしそれも仕方の無いこと。

 誰も叱責はしまいよ。我らにとっても因果を繰るのは容易なことではないのだからね。無能だからといって投げ出したりはしないから、安心おし」

 

 と、魔術師としては妥当な、そして真実には掠りもせぬ見当はずれな見解を、さも理解者然とした調子で述べた婦人は、そこでケンケンと小さく咳き込み、

 

「湿っぽいのに、妙に喉が渇くねぇ、この国は」

 

 と言って冷め始めていた紅茶を飲み干した。

 

 ルベルは依然として応えない。

 

 応えることなど出来なかった。いま叔母がのたまった呪詛は、しかし魔術師としては至極当然の、むしろ温情の類といえる言葉であることは理解できる。しかし、いま彼女の意識、五体、魂までをも縛りつけ、じりじりと焼き焦がしているのは、それとはまったく異なる価値観だったのだから。

 

 そのときであった。

 

 卓上の電話機が静かな電子音を鳴らした。叔母は眉を顰めるが、ルベルは気にせず「失礼」とだけ言って受話器を取った。

 

「何事? 今は来客中よ。……そう。――失礼、重ねて恐縮ですが、どうやら急用のようですので、部下を入れてもよろしいか」

 

「構わないよ。言うべきことは言った、私達はもうお暇するからねぇ。席捲の容易が出来たら使い魔で連絡をよこすんだよ」

 

「入りなさい、伸枝」

 

 失礼します、といって一人の秘書が室内に入ってきた。一度怯えた様子で叔母一行に礼をし、足早にルベルの元まで来る。

 

「しゃ、社長、あの……」

 

「もっと落ち着いて言葉を選びなさい。どうしたというの」

 

 彼女は牧江田伸枝(まきえだのぶえ)といって、会社では秘書として、普段は屋敷でメイドとしてルベルが使役している半使い魔であった。

 

 一応は人間なのだが、ルベルからすれば、やはり使い魔として認識の方がつよい。

 

 肉付きの良い身体をした女で、肩の辺りまで伸びる緩やかな癖毛や、切りそろえられた前髪、何処か間の抜けたような、それでいて挑発的な垂れ目なども相まって、いるだけで男を惑わす気配がこの女にはあった。

 

 つまりは淫魔であった。この女、生まれこそは人間の胎であったが、いずれからの遺伝か、それとも妖魔の悪戯か、常人ならざる淫蕩の素養を持って生まれてきたのである。

 

 それをいいことに放蕩の限りを尽くして生きてきらしいのだが、数年ほど前トラブルに見舞われたところをルベルによって拾われ、今に至るのである。

 

「い、いま、チーフが」

 

(くろむ)が!?」

 

 その言葉に、ルベル自身も眼を剥いてしまった。

 

 そんな伸江も、今ではそれなりに身のほどを弁えて真面目に社会人として生活している。そして今ルベルの弟子である小高森涅をチーフと呼ぶのは、彼女もまたメイドとして涅の部下であるからに他ならない。

 

 つまりはルベルの身内の中では最下層に位置する小間使い。――やはり使い魔というのが妥当な位置づけであった。

 

「はい。こちらにはお客様がいらしてましたので、いまは下のロビーで待ってもらってます」

 

「……具合はどうなの? 怪我は、――――左手は?」

 

 そこで、伸枝は息を呑んだ。

 

「はい。……えっと、その。無かった、です。……でもちゃんと治療はしてあるって、包帯が……」

 

「そう」

 

「社長は知ってらしたんですか!?」

 

「――説明は後でするから、連れてきなさい」

 

「その、いいんですか? チーフも待つからと」

 

「構わないわ。もう話は終わったのだから……」

 

 見れば、老婦人一行はすでに部屋を出て行った後だった。

 

 しかし、そのドアが閉まりきらぬうちに、――その隙間に身を捻じ込んできた何者かの姿があった。

 

 あまりにも忽然と現れたために、ルベルでさえ対応にコンマ数秒の時を要したほどだ。

 扉の裏にでも張り付いていたに違いない。そうとしか思えない出現の仕方だった。

 

 婦人たちも気付かなかったのか、或いは気がついて見送ったのか、それは定かではなかったが。

 

「な、何してるんですか?! チーフ……」

 

 一気に部屋の中ほどまで転がり込んだ細身の矮躯は、そのままの姿勢から伸び上がって咄嗟に問いかけてきた声のほうに残った右手をかざした。

 

 その先には、一つの銃口が鈍い光を放っていた。

 

 

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