Fate/alter Seven Sight ――the Next Sight――   作:どっこちゃん

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二章ー1

(火曜日・朝)

 

 寝起きの頭で地下深くの工房から這い出てきたルベル・フォン・シュタウフェンは、ふらふらと頼りない足取りで専用の洗面台へと向かう。

 

 既に日も高い。ずいぶんと寝込んでしまったようだ。

 

 こんなことは久しぶりだった。――が、それも仕方がないかもしれない。とルベルは鏡を見ながら思う。

 

 昨夜の戦闘の事もそうだが、むしろ心労のほうが深刻な重荷となってルベルの肩にのしかかってくるのだ。

 

 会社や弟子、そして秘書のことまでが、念頭に渦を巻いている。

 

 デスクトップの電源を入れ、電話を片手に方々からのメールをチェックする傍ら、既に起動し始めていた魔導器が励起をはじめ、ひとりでにこぼれ落ちたエメラルドの粒子が、大理石の石版の上に流麗な文字を描き始める。

 

 昨夜、のぶえを運び込んだ病院。これもシュタウフェン――と言うよりもルベル個人の出資によって成り立っている拠点の一つであり、ある種の不可侵領域とされる場所である。何かあればルベルこそが誰よりも早く対応できる。

 

 そこからの報告により、のぶえの容態が安定している事、以前から入院している長子ナティオにも変化がないこと。さらに別の使い魔に搜索を命じていたくろむの行方については何もつかめていないことが分かった。

 

 一方、膨大な量のメールを逐一読み下しながら電話をしている先は魔術師ではなく彼女が経営する化粧品メーカーの部下達である。

 

 昨夜の本社ビルの大破壊を受けて彼らは奔走しているのだ。本来ならルベルが現場で陣頭指揮を取るべきなのだが、そういうわけにもいかない。

 

 魔術の痕跡を隠蔽すべく立ち回っている教会のエージェントたちとも口裏を合わせなければならないし、破壊の当事者であるルベルがその場にいては余計な祖語が生まれる可能性がある。

 

 仕方なく、己ものぶえと一緒に簡単な負傷をしたということにして自宅で養生することとし、あとのことは部下に任せていたのだが、部下たちも何が何やらといった様子でルベルに指示を仰いでくる。

 

 事故の事については余計なことはせず警察に一任するよう告げ、関係各位にはルベルの方から事情を説明し詫び状を送ることにし、あとは細々とした部分を入念に指示しておいた。

 

 メールや電話での指示が一段落したところで、一度息をつく。メイドがいないのでお茶を淹れるのもままならない。

 

 仕方なく買い置きのミネラルウォーターの瓶を開ける。

 

 方々からの書簡での通達を確認しつつ、さらに新聞を広げてテレビを付ける。魔術師としてはなかなかにありえない光景だが、社会人としてひとつの会社を預かる身である以上、田舎者の魔術師のように情弱なまま引きこもっている訳にもいかない。

 

 魔術師としての情報は無論しかるべき手段で獲得するべきだが、そうでない部分では他の一般人と似通った手段に精通する必要がある。

 

 導入した当初は魔術師特有の嫌悪感もあったが、今となっては慣れたものだ。今の時代、IT技術を無視して社長業などやっていられない。

 

 もっとも、使えるというだけでこれらの電子機器の管理維持は人任せなのであるが。

 

 地元の地方紙の一面に昨夜の事故のことが大きく取り上げらていた。要約すると、

オフィス街を突っ切っている国道で玉突き事故が発生。そのせいで大型のトラックがルベルの会社に突っ込み、可燃性であった積み荷が燃えあがった、とのことだ。

 

 ――余りにも白々しい記事だと思えたが、それがむしろ秘匿性を高めていたのかもしれない。

 

 この街では時折似たような事故が起こるのだ。ゆったりとした山間の渓谷から続く広い国道故に、時折尋常でない速度のまま街中に侵入していくる馬鹿なドライバーというのがある。

 

 それがスピードの感覚を失い、さらに奇妙に角張った道筋に幻惑されて、衝突事故を起こす。と言う具合らしい。

 

 おそらく下手に覆い隠そうとするよりも、それらの事例を挙げつつ、規模はともかくありふれた事故ということにしておいたほうがいいという判断だろう。

 

 たしかに、これなら必要以上に人の目を引くこともないだろう。ただ、これで会社の評判に妙な傷が付かなければいいのだが――。

 

 ルベルは息を吐いて席を立った。

 

 とにかく、くろむのこと以外はなんとかなっているようだ。あとは弟子の行方を突き止められればいいのだが……。

 

 しかし、それ以外にもまだまだ問題が山積みであった。まずはメイドのことである。くろむものぶえもいなくなっては家のことを任せられる人間がいないのだ。

 

 家で養生せねばという身分ではあるが、彼女、ルベル・フォン・シュタウフェンには家事・生活力というものが絶無である。

 

 彼女とその子息たちに限って、この貴族体質は、魔術師の体質にもまして強情なようで、こればかりは何年経とうがまるで改善しないのであった。

 

 早急に委細を任せられるメイドを見繕わなければ生活が成り立たない。

 

 その上、さらに大きな問題が、今現在この屋敷には居座っているのだ。

 

 ガウンを羽織り、最低限の居住まいを正し、居間に出向くと、そこには勝手知ったる様子でくつろぐ老人の姿があった。

 

「やあ、遅かったねぇ、もう昼になろうかという時刻だ。昨夜君を襲った魔術師はそれほど手ごわかったのかね? 確か、名はユルグ・ローハン」

 

 一見して魔術師然とした様子はない。高級そうではあるがどこにでもありそうなスーツを着こなしながら、しかしその顔にはなぜか顔の半分を覆うようなゴーグルが着けられていた。部屋の中でも外すつもりはないらしい。

 

 その点だけが、唯一異様といえば異様な点であった。

 

 この男が、当代の「シュタウフェン当主代行」であった。昨夜未明、叔母の死を理由にこの屋敷まで押しかけてきたのだ。

 

 事態が事態だけに、さすがにルベルも追い返すわけにもいかなかった。どうやら、叔母は文字通り命を賭して己の役目を果たしたようだ。本望かどうかは知らないが。

 

「それは以前聞きました。死んだ相手のことなど結構。時計塔の連中への対処なり牽制なりはお任せしますよ」

 

 その叔母とは違い気負った風もなく声をかけてくる代行に、ルベルは挨拶もせずにそんな口をきく。

 

「だが、これは聞いていないのではないかね? どうやら、あの殺し屋は君を狙うよりも先に監督役を標的としていたらしい」

 

 この日は日曜であった。ルベルはそのまま居間を通り過ぎて、屋敷に残っているはずの息子の姿を探そうとしたのだが、その言葉には流石に足を止めた。

 

「監督役、ですか? あの、ソルヴィエールの布告物(リプレイスメント)。シスター・テレジアを?」

 

 そんな報告は受けていなかった。

 

「ああ。遺体は焼き尽くされていたそうだが、状況から見て間違いないらしい。まだ我らしか知らない情報だよ。

 そこで君がユルグを倒したこともあって、教会の方から直に私へ接触があってね。あの殺し屋を送り込んだ黒幕が誰なのかを調べさせているところさ」

 

 そして、聞いてもいないことをベラベラと説明した代行はさらにこんなことを言い出した。

 

「そのため、その代わりを私が一時的にすることになったのだよ。無論、補佐としてだがね」

 

「なんですって?」

 

「仕方がないのだよ。無論、教会のエージェントたちは優秀だが、監督役となると方々に顔が効いた方がいいからね。何、心配はいらないとも」

 

「……では、部屋の外に控えさせてるのは、あなたの部下ではない、と?」

 

 代行が手を叩くと、扉からぞろぞろと女が部屋に入ってきた。

 

 ルベルとしては呆れて声もない次第だ。よもや己の知らぬうちにこんな連中までもが屋敷に入り込んでいたとは。

 

「……てっきり貴方の護衛かと」

 

「それは別に控えさせているよ」

 

 その数人の僧衣姿の少女たちの中から、一人が歩みだしてきた。その少女はルベルに対して深く礼を取る。

 

 よく見ればルベルでさえ、目を見張るような美しい少女だった。上背もあり、その佇まいには自らの容姿に託けての甘えのようなものがなかった。――つまり初見の印象は悪くないということだ。

 

 ルベルが初対面の人間にこのような評価を下すのは、非常に珍しいことだといえる。

 

「……若いようだけど、ここに来る以上は教会の使徒(エージェント)……つまりは異端討伐を取り行う神威の執行物(パニッシャー)ということよね? いいわ、名乗りなさい。あなただけでいいわ」

 

 ここでいうエージェントとは「聖堂教会」における異端審問員のことである。

 

 本来存在しないはずの第八秘蹟を身につけ、教義に存在しない異端を排除するモノたち。要するに教会が暗に秘める戦闘信徒の最高峰と言えば良いだろうか。

 

 分類は純粋な戦闘員である執行物(インスタント・パニッシャー)と、大なり小なりの指揮を任される幹部布告物(リプレイスメント)。あるいはその補佐となる。

 

 そもそも自らを教徒ではなく「神の道具」と規定する異常者の集団である。教義に縛られることもなく「魔」を狩るためだけに存在するケダモノの群れ。――ルベルの認識ではそのようなものとなっている。

 

フォリア・ディ・フィーコ(無花果の葉)と」

 

「――、過激な洗礼名ね」

 

「フォリアとお呼びください」

 

 冗談かと思ったが、相手は至って真面目のようだ。ルベルは改めてするどい視線を巡らせる。

 

 彼女を含めて並び立つ少女たちは皆凄まじいポテンシャルは感じるものの、それでも一般人の域を逸脱してはいない者がほとんどだ。大方この儀式に研修ついでに駆り出された学徒なのだろうとルベルは判断する。

 

 これについては驚くことではない。この屋敷からもほど近い「聖ソルヴィエール女学院」がその裏で一部の生徒を執行物(パニッシャー)予備軍、すなわち通称「ソルヴィエールの使徒」と呼ばれる学徒兵の養成機関として機能していることを、彼女は知っている。

 

 身寄りのない人間、社会から逸脱した破綻者、奇跡を宿しうる才能――そのような人材を、無法合法を問わずかき集め、裏も表も含めて神威の代理たるにふさわしい教育を施す。 

 

 そういう機関は世界中にあるらしい。このあたりの養成法や理念は「血」を重視する魔術師とは対極である。

 

「……分かったわ。しかし、何故あなたたちがここに?」

 

 答えるのはシュタウフェンの代行だ。

 

「先だってのこともあるのでね。聖杯の器を持つ私の身を案じて教会の使徒(エージェント)達が護衛を勝って出てくれたのだよ。敵がこの儀式そのものを妨害する意図を持っているというのなら、それへの対処はできる限り協力して立ち向かうべきだろう。なにより、彼女らは中立の立場なのだし、問題もないのではないかね?」

 

 それでも、ルベルは呆れたような声を上げる。

 

「それで、まとめてこの屋敷に逗留するつもりなのですか? いささか本末転倒では? ここは戦場になりかねない場所ですよ?」

 

「しかし、ここでなければ中立地帯に居るしかなくなってしまうのでね。さすがの私も、教会の施設の中に匿われるのは居た堪れない」

 

 ルベルは内心で盛大に溜息をついた。

 

 要するに、この学徒たちは護衛というよりも聖杯の器を監視下に置いておきたいという教会の下心から行動しているのだ。

 

 監督役が死んだところで教会の思惑が変動するわけではない。むしろ監督役の死は教会側が監視を強める口実を与えてしまったようだ。

 

 良くない流れだ。あの殺し屋め、なぜ監督役など狙ったのだ?

 

「とにかく、状況は解りました。ですが、もてなしはできませんよ。今は通いのメイドしかおりませんので……」

 

「それについては問題ないよ。彼女が新しい使用人を見繕ってくれた。――私の連れでは君が嫌がるだろうと思ってね」

 

 ルベルは眇めた視線でフォリアを見る。

 

「悪いのだけれど、あなたたちに使用人の代わりをしてもらう必要はないわよ。あまり勝手に屋敷の中を動かれるのも迷惑だわ」

 

「ご安心ください。我々は代行殿の付き添い及び護衛としているだけですので、無用に出歩いたりはいたしません。彼女はあくまでも一般の人間です」

 

 フォリアが目配せすると、使用人姿の女が歩み出てきた。見覚えのあるメイドだった。傍らの使徒フォリアにも劣らぬほどの美人だが、少々趣が異なる。なんともエキゾチックな印象だ。おそらく南米当たりの血との混血なのだろう。この辺では珍しい。

 

「……通いの人かしら? 見覚えがあるわね」

 

「はい、数える程ですが。砂岸辺恋(さしべ れん)と申します」

 

「砂岸辺……聞いた名ね。確かこの土地の家門の中にそんな名前が」

 

 清楚にまとめられた使用人服の女は、丁重に礼をとる。

 

「はい。古くよりこの地で島原様にお使えしている一族であります。私は養子ですが」

 

 そう言われ、ルベルはこの女を深く観察する。しかし確かに驚くようなことではないのだ。

 

 もとよりここ(つごもり)の里は、周囲の集落地から隔絶されている。車があれば笹ヶ谷から通うこともできるが、いくら給金がいいからといってもわざわざこんな山奥まで通ってくるメイドは多くない。

 

 よって、通いのメイドは殆どが地元の人間ということになる。しかしこの晦の里と呼ばれる村落に住む人間は、ほぼすべてが島原という大家の支配下にあると言っていい。つまり今までのルベルは大胆にも島原の息がかかっているであろう使用人たちを承知で使ってきたのだ。

 

「無論、教会の関係者でもありません。以前、ソルヴィエールでの私の級友だったのですが、信徒というわけでもありません。魔術についても基礎的な知識はあり、事情についてもある程度のことは伝えてあります。立地上ここに通ってこれる人間で、私の知る限り最も有能な者ということで選ばせていただきました」

 

 ルベルは視界を切り替えるようにして恋を見つめ、しばし考え込んだ。

 

 この使徒の言うことをすべて鵜呑みにするはずもないし、そんな人間を抱え込むリスクを考えないでもなかったが、――今しがた見たところによれば、たしかに彼女は魔術師と呼べるようなものではない。

 

 魔術回路すらない人間に出来ることなど、高がしれている。

 

 今までのメイドのように魔術師としての部分に触れさせなければ問題はないだろう。

 

 何より、今改めて屋敷の中を見回してみれば、雑然としていたはずの屋敷の中が最後に見た時よりも幾分整頓されているように見える。くろむが出て行って以来、目を背けて見ないようにしていた雑な清掃跡が、今では以前のように塵一つなく磨きあげられているではないか。

 

 まるでくろむが屋敷に帰ってきたようだ。

 

「……もしかして、あなたがやってくれたのかしら?」

 

「はい。できる限りのところは」

 

「たしかに悪くない仕事をするようだけれど、私になんの許可もなく……」

 

 そこに代行が口を挟んでくる。

 

「私が代わりに許可を出したのだよ。なにせ、ひどい状態だったからね」

 

 そう言われては、ルベルも返答のしようがない。

 

「いかがでしょうか?」

 

 黙り込んだルベルに、薄く微笑んだフォリアが問う。

 

「砂岸辺さん」

 

「恋、とお呼びください」

 

「では恋、これからしばらくは屋敷のことを頼みます。あなたが統括してちょうだい」

 

 ルベルもそう言わざるを得なかった。ほかに手もないのだ。

 

 そして新しいメイドに委細を任せ、居間を離れようとしたルベルの背中に、再び代行の声が掛かった。

 

「息子さんなら、中庭にいるはずだ」

 

 ルベルの足が止まる。

 

「話させてもらったよ。いい子じゃないか。――素養の方も思った以上だ。案外、あの姉の方にも見劣りのしない才能なのではないかね?」

 

 微笑を浮かべるしわがれた代行の顔に、煮えたぎるようなルベルの視線が向けられた。

 

「――金輪際、私の許可なく息子に近づかないでいただけますか? お願いしますよ。……次にやったら、私は何をするかわからない」

 

 これは失礼、などという微笑混じりの代行の声を聞くこともなく、ルベルは身をこわばらせたまま中庭に急いだ。

 

 

 

 怒りと苛立ちを持て余したまま中庭に出ると、そこで存外に陽気が良かったのだと、初めて気がついた。燦々と降り注ぐ日差しの柔らかさは久しく忘れていたもののように思える。

 

 ふと、こんなに日の高い内から庭を歩くのは何年ぶりかと、息子の姿を探しながら、ルベルは思う。

 

 咲き乱れる花々は、昨夜の冷たい雨を吸ったのとは思われぬほどに暖かなグラデーションを、緑の絨毯の上に描いている。しばらく手が入っていないとは思えないほどだ。

 

 まるで磨き上げられたような石畳をコツコツと叩きながら、ルベルは溜息をつく。言うまでもなく、くろむの仕業だろう。魔術の才はないくせに、こういうことは何をやらせてもこちらの予想以上のことをやってのけるのだ。

 

 あくまで自己主張もせず、ただ淡々と、生活の端々に思いがけないような温かい思いやりと、淡やかな彩りを添えてくれる。

 

 自分でも驚く程に、吐き漏らした息が軽かった。どんな魔術を使っても消せなかったであろう彼女の憂いを、こんなことをで雪いでしまうのだ。

 

 ――本当に、魔導には向かない。才能のない弟子だ――

 

 苦笑しながら、思う。くろむがこの世からいなくなったりしたら、この奇跡のような庭は二度とこんなにも咲き誇ることはないように思う。

 

 それはきっとアズルも同じだ。家族を失い、枯れ果てた庭園のようにして生きていくことしかできないだろう。疵を抱えたまま、生きていくことになる。

 

 おそらく、――癪ではあるが、自分もそうなのだ。あの弟子の危機を目にして、あれほどまでに動揺してしまったのだから、言い訳のしようもない。

 

 守るしかないのだ。全て、この手で。どんなものからも。二度と、我が子(・・・)に傷などつけさせてなるものか! 例え毛筋ほどの傷であっても、絶対に!

 

 無言のうちに言葉をかみしめる。――が、進めどもどこにも息子の姿がない。まさか代行の虚言だったか!? などと思いを巡らせたところで、物置の影のような場所から、何か威勢のいい掛け声のようなものが聞こえた。

 

 石畳の届かない、ぬかるんだところを怖々と歩いていくと、そこに息子の姿があり、ルベルは仰天して声を失った。

 

 アズルの傍らにはいるはずのない、居てはならない、屈強そうな髭面の男の姿があったのだ。しかし更にルベルの肝を抜いたのは、その愛息子が、怜悧に光る刃物を手にしている光景であった。

 

「な、なにをしているの? 危ないわ、アズル!」

 

 そんな光景を目にして、ルベルは取り乱したように引きつった声を上げた。完成された魔術師としての彼女を知る者が見たなら、誰であろう唖然としかねない光景である。

 

「母さん?」

 

 アズルは泥が跳ねるのも構わず大股で駆け寄ってきた母の姿に一瞬驚き、しかしその可憐な笑顔をパッと咲かせた。

 

「起きたんだね? でもどうしたの? いつもなら日曜でもすぐ会社に行っちゃうのに」

 

 その笑顔に、息巻いていたルベルも何も言えなくなる。

 

「……か、会社のほうで事故があったのよ。知らなかった?」

 

「うん。だからしばらく忙しいんじゃないかって、えっと、――大伯父様? に言われてたんだけど。怪我はなかったんだよね? のぶえさんは大丈夫?」

 

 どうやら代行に良いように吹き込まれていたらしい。無駄に不安にさせるようなことをするとは! 内心で怒りを湛えつつ、ルベルはできる限りの笑顔を見せる。

 

「――少し入院することになったけど、大事はないわ。私もショックがあるだろうからってしばらく自宅で休むことになったのよ」

 

「大丈夫なの?」

 

 アズルはルベルの言葉を真に受けて心配しているようだ。というよりも、彼自身、この母親が容易に仕事から離れるような性分でないことを知っているのだ。

 

「……大丈夫よ。何日かだと思うけど、少し家にいることになりそう」

 

「そうなんだ! じゃ、今日はずっといるの?」

 

「ええ、そうよ」

 

 アズルは満面の笑みを浮かべてルベルに抱きついた。その頭を撫でてやりながら、ルベルは驚き混じりに長らく感じていなかった幸福を感じ、同時に胸の奥に鈍痛のようなものを覚えた。

 

 そう、もうすぐ十四になるのだ。同年代の子供に比べれば、小柄で愛らしい容貌の息子だが、しばらく見ないあいだに随分背も伸びたように思う。

 

 もう抱きかかえてあやすのは難しそうだ。いつまでも赤ん坊のように思っていたのに……。

 

 本当に少し目を話した隙に。そう思うと、余計に胸の奥が苦しくなってきた、幸福と悔恨と――やましさで。

 

 やはりルベルにはできる気がしなかった。この息子を、魔道の闇に引きずり込むことなど、出来るはずがない。

 

「どうしたの、どこか痛いの?」

 

「いえ、少し風が砂っぽいのかしらね。目が痛くなっただけよ」

 

「大丈夫?」

 

 重ねて真摯に心配してくれる心が嬉しかった。そのとき傍らで微笑を湛えつつそれを見守っていた男が声をかけてきた。静かだが、温かみのある雄々しい声色であった。

 

「よかったじゃないかアズル。さあ、せっかくお袋さんが顔を見せてくれたんだ。男なら、そんな顔ばかり見せるものじゃないぞ?」

 

「うん」

 

 アズルは素直に頷いたが、しかしルベルはその髭面の男をじろりと睨みつける。それも当然だ。彼女はこの男に「影から息子と本宅の警護をするように」と厳命していたのだから。

 

「アーチャー、あなたがこんなことをさせていたの? 怪我でもしたらどうするつもりなの!」

 

 ヒステリックに言いながら、ルベルはアズルの手から刃物を取り上げる。彼らがやっていたのは、小さなナイフを使っての的当てであった。いわばダーツゲームのようなものであり、大騒ぎするようなものではないのだが、過保護な母としてはとても正視に堪える光景ではない。

 

「アーチャー?」

 

 アズルが不思議そうに復唱した。ルベルは咄嗟に口を滑らせたことを悟る。他の場所では考えられないことだが、彼を含め、家族の前だと、彼女の完全さは否応なしに崩れてしまう。――もっともそれは本来彼女にとって救いなのだが。

 

「怪我? おいおい、ちょっと指を切るくらい。子供なら普通のことだろう。そんなことを恐がっとったら何も出来んぞ」

 

 そう言って。やれやれというふうに髭面の男は肩を竦める。

 

「――ッ、だ、大体、貴方は――仕事で来ているのでしょう? 何故こんな」

 

「仕事? ヴィルは母さんお客さんなんじゃないの? アーチャーはヴィルの名前なの? あだな?」

 

「ええと、それは……」

 

 息子の率直な質問に、母はしどろもどろに口ごもる。こういう状況は想定していなかったのだ。

 

「ああ、それは名前だ。ワシはヴィル・アーチャーで通っとる。仕事で来とるのは本当だが、お袋さんの仕事とは別件でな、その仕事が終わるまでやさを借りるつもりだったのだが……」

 

 そう言って本人曰くところのヴィル、改めアーチャーのサーヴァントはそれとなしにルベルに視線を向けた。自然と、アズルの大きな瞳も母に向く。その目には人かけらの懐疑もない。

 

「……ええ、そうよ。そのとおりです。確かにオフの間、貴方がどうしていようと構いませんが、以後こんな危ないことを息子にさせないでいただけますか」

 

「やれやれ……まあいいだろう。せっかく眠り姫みたいなお袋さんが起きてきたんだ。そろそろ中に入ろう。そうだ、大分汚れたことだしな、アズル。一緒に風呂にでも入ろうか」

 

「ホント? じゃあ、用意してくるね」

 

 そう言ってパッと微笑んだアズルは走り出した。それにぎこちない笑顔で答えてから、

 

「……やってくれたわね。アーチャー、これは叛意ありということでいいのかしら?」

 

 ルベルは妖魔ですら退散さしめそうかという鬼母の眼光で己のが従僕を睨み付ける。が、当の髭面の男、アーチャーのサーヴァントは悪びれた風もなく、太い笑みを髭面に浮かべる。

 

「何をいっとる。あんたが息子殿をほったらかしにしとるから、見かねて遊び相手になっていただけのことではないか」

 

「む、――無用だわッ!。そんなことは貴方の成すべき事ではないでしょう!!」

 

「そうだな。元来はマスター、あんたの成すべきことだ」

 

「……な! ぐ、――わ、私なりに出来ることは、しているつもりよ。今日だって……」

 

「なればこそ、微力ながらマスター殿の手助けをと思ったまで……」

 

 ルベルは何も言えずに、ぐぅぅッと、のどから声ならぬ呻きを漏らした。

 

「そ、それに……貴方、アズルにまで(シール)をつけたわね?! どういうつもりかしら?」

 

 ルベルは見逃がしていなかった。アズルの背中にあった、令呪に酷似した高密度の魔力の塊、――それは間違いなくこのアーチャーのサーヴァントの持つ、「的を設置する」能力によるものだった。これで、アーチャーはどんな場所、どれほどの距離からでも、あの的を感知し、射抜くことができるのである。

 

「まさか、アズルの命を盾に私を脅すつもりかしら?」

 

「おいおい、本気で訊いているわけじゃないだろうな?」

 

「答えなさい、アーチャー!」

 

 アーチャーは苦笑いをしつつ、嘆息した。

 

「息子殿の身を案じてのことだ。あの「的」が付いている限り、ワシはどこにいても息子殿の居場所が分かる。もしもの時、見失わないための備えではないか」

 

 そんなことはわかっているのだ。しかし、それを自分に相談もなくやったことが許せないだけである。

 

「……いいかしら、アーチャー、一度しか言わないから、よく覚えておきなさい。これから、サーヴァントとして、何よりもアズルのことに関して、少しでも何かをするときは、私に報告・連絡・相談を必ず行いなさい。こんなことは基本中の基本よ! 二度とは言わないわ。いいわね? ――絶対によ? 破ったら令呪による制裁も辞さないものと思いなさいッッ!」

 

 般若の如き鬼面を向けて見上げてくるマスターに対して、アーチャーはあくまでもきょとんとしたまま、

 

「ふむ、分かった分かった。おっと、それはそうと、さっさと行かんと息子殿が風呂場で待ちくたびれることになりそうだな」

 

 何もわかっていなそうな顔でそう言って、この屈強そうな髭面の男は庭に入り込んでくる風を愛でるように仰ぎ、勝手知ったる風で彼女の屋敷に上がりこんでいった。

 

「……ッ」

 

 もはや何も言えずに吶喊するしかなかったルベルは、ふと泥だらけになった足をどうしたものかとそのまま立ち尽くしてしまった。

 

 慣れたメイドなら言わずとも全て察してくれるが、ほぼ初対面のメイド達にこの姿を晒すのははばかられる。

 

 

 

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