Fate/alter Seven Sight ――the Next Sight―― 作:どっこちゃん
今回に限り、人によっては好ましくないと思われる描写が少し出てきますので、あらかじめご了承の上、閲覧していただけますよう、お願いたします。
(水曜日・夕刻)
行き着いた先は郊外にあった封鎖された廃病院だった。
ずいぶんと古いものらしく、荒廃がひどそうなのがよくわかる。しかし、それにもかかわらず、ここには近日人の出入りした跡がある。
雨に濡れながら、ルベルは堂々と正面から、そこに踏み込んだ。
「どうやら当たりのようね」
『しかし、こんな場所にいるなら、どうして見つけられなかったのかわからんな』
「ここは唯の廃屋じゃないわ」
そこは話に聞く「隠し教会」であった。
しばらく使われてはいないようだが、百年の聖杯戦争のあいだに教会が暗躍するために誂えた施設の一つなのだろう。
どうやら己の行動を秘匿したがるのは魔術師に限ったことではないらしい。
どうりで魔術による探索が空振りするわけだ。もとより魔術師の目を欺くための施設なのだから、発見が難しいのは当然のことだ。
しかし、だとしたらなおのこと、ランサーの有する「浄眼」なるスキルは厄介な代物ということになる。あのサーヴァントの前では魔術師であるルベルの幻惑や攪乱が通じない可能性が高い。
魔術師のそれとは一線を画す理によって、魔術師にすら知覚できないものを視覚に捉えるサーヴァント、ということか。
シュタウフェン邸の結界を部分的にくり抜く、などという慮外の荒業もそのスキルあってのことなのだろう。
あのセイバーも厄介なサーヴァントだったが、ランサーもまた容易ならざる相手、ということになる。
まったく、どいつもこいつも……。
ルベルは内心で思考しつつ悪態をつくが、無論無為にそんな詮無い思考に耽溺しているわけではない。
シュタウフェンの魔術師は皆、基本的に何かを「計測」することをその技術体系の根幹においている。内心で悪態を付きながらも、この秘匿結界を計測し、敵に悟られぬよう解体するのはお手の物だ。
無論あのランサーの妙技を見たあとでは、これも所詮は児戯、としか思えないことがルベルには面白くなかったのだが。
『……荒れ放題だな。妙なものは何もないが』
マスターであるルベルをマークしているアーチャーの千里眼が敷地の中をくまなく見通す。雨漏りでもしているのか、建物のなかにも雨が入り込んできている。
「上は飾りよ。おそらく本丸は地下にあるわ。中に入った途端、少しだけど圧力のようなものを感じるようになった。外に向けては秘匿、内へ向けては魔術師の能力だけを制限する仕掛けがあるようね。手の込んだことだわ。よくもこんなものを……」
ルベルは
ルベルの体を、いきなり鉄砲水のような巨大な濁流が襲ったのだ。
『マスターッ!』
流水はスライムのように形状を変容させ、奇怪なまでに重力に逆らいながらルベルの五体を覆ってしまった。
同時に足元の床が崩れ、ルベルの身体は一気にかなりの奥深くまで連れ込まれた。その下には水たまりのような場所があった。
地下のようだが、長い間、少なくとも数十年は人の手が入っていない場所のようだった。近くに古井戸でもあるのか、壁から水が染み出している。
なるほど、
「是――また会ったな、麗しきはシュタウフェンのマスターよ、いきなりで悪いがこれで終わりだ」
「アサシン……」
先刻承知の通り、それはアサシンによって操られた水であった。水が覆っているのは、ルベルの身体の外側だけでなく、既に内側にまで染み込んできている。結界や防護膜も役には立たず、もはや全身の水分を人質にされているようなものだ。
「是――わかるだろう? 俺の体はお前の体内に侵入った。もうどうしようもない。先日のような真似はもうできんぞ。その上、この状態ではアーチャーの矢も役には立つまい。どうする? ひと思いに殺すか? それとももう少しおしゃべりが必要かな?」
「……いいわ」
アサシンがルベルの首元でゴボゴボと笑いを漏らす。
「是―――ククッ、随分殊勝だな。しかし、こちらとしても先頃の例はしておかねばなぁ?」
嗜虐の色を帯びるアサシンの声音に、しかし答えるルベルの声は、冷徹で、むしろ憐れみさえふくんでいる。
「あなたじゃないわよ。私はアーチャーに、「いいわ」といったのよ。手出しは無用ということ。こうなることは、最初から予想済みよ。あなたが出てくることはね」
その言葉に、アサシンが何事かを応えるよりも早く、もはや身動きのできぬはずのルベルの手のひらから、その時一つの物が滑り落ちた。
「――
まとわりついたアサシンごと、ルベルの身体が足元から広がった黄土色の光の中に落とし込まれていく。
そう、彼女の礼装たる十の砂時計のうち一つだ。ルベルはこの建物に入り込んだ時点で既に、対アサシン用の礼装を掌中に収めていたのだ。
「な――なにがッ!」
しかも、これはルベルが最も得手とするタイプの亜空間結界だった。シリーズの中でも傑作と言っていい。そう、その果てがないかのような砂金色の世界は、その全てが金色の「砂」で満たされていたのだ。
「我がシュタウフェンの一族は長い聖杯戦争の必勝法として、敵サーヴァントを一時的にマスターから分離することが最も合理的な方法だと結論づけた。――爾来、そのノウハウは百年にわたって当主に受け継がれ、今に至る。
私もまた、その設計思想に従い聖杯戦争に向けて今までに十の砂時計を造り上げたわ。最初あなたに使った魔血の結界は最初に造ったプロトタイプでね、従来の結界のように通常の世界の上に結界を重ねる方式を取ったけど、やはりそれではサーヴァント相手には不足。
生半可な結界など大方のサーヴァントには通用しない。ゆえに、次の作品からは方式を変えることにしたのよ」
「非――何をベラベラとしゃべっている。どこへ行こうが、この俺の手足は貴様の重要器官に触れているのだぞ!」
アサシンの声に斟酌することなく、ルベルは朗々と声を続ける。
「それがこの結界よ。固有結界と空間遮断魔術の理論をもとに、世界を裏返しそこに隙間を作る。その無限の中に一つの世界を植え付ける。個人の心象ではなく、ある宗教の信仰心を逆に利用してね。だからこそ、この結界はサーヴァントを押さえ込むだけの拘束力を発揮することができる。
神を信じる者たちの、魔を憎む者たちの信仰心が、逆に我ら魔術師に力を与える――皮肉な話よね」
ルベルは滔々と話を続けるが、アサシンがそれを聞き届ける理由はない。本来なら、アサシンがこの状態からルベルを殺せないはずがないのだ。にもかかわらず、未だ彼女は存命している。そして、その語調には怖じる気配すら有りはしない。
「非――、非、非。非!? がぁぁぁ……? あぁぁぁぁあ?!」
アサシンが呻きを上げた。そう、殺せないのだ。この世界において、もはやこのアサシンに自由に出来る領域は、それこそ砂粒の一つほども存在しないのだ。
「非――貴様、ま、た?」
「いいえ。言ったでしょう? 先の結界とは別物だと。ここではもとの世界とはあらゆる意味でルールが異なる。この世界において、わたし以外のすべてのものは――」
無機質な仮面に覆われたアサシンの顔が、今度こそ驚愕と恐怖に染まる。同時に、世界のルールが崩され、砂漠のようだった足場はなくなり、全ては虚空へ巻き上げられていく。
ルベルとアサシンの体も虚空へぴたりと制止した。天地上下の区別もなくなった世界では無数に舞っていただけの塵までもが、自由闊達に風に乗り、風を起こし、虚空に舞っているのだ。
「――この砂に埋め尽くされ、風化して砂の一部となる――」
生きている。この砂は生きているのだ。アサシンは驚愕する。それらはたしかに砂であり、塵であった。しかしそれらの砂は微粒子でありながら、自らの意思を持っているかのごとく這い回り、浮遊し、互いに連結してアサシンの五体から水分という水分を奪い去り、その身体の穴という穴に入り込んでくるのだ。
「
当然のように霊体化することもできない。さしものサーヴァント、アサシンもこれには悶絶するよりほかなかった。そも、周囲の水と同化し、その水分に依存してさまざまの能力を発揮するというこのアサシンの特性が、ここへきて再び己手の首を絞めるのだ。
それらの微細な粒子はどこまでも奥へ奥へと入り込んでくる。悲鳴を上げることもなく、想像したことさえない奇怪な苦痛と苦悶にのたうちまわるアサシンの体は虚空に跳ね上げられ、なんと人の手のひら大にまで縮み、その上で凄まじい勢いで干からび、虚空に渦を巻くようにして踊り狂う風の中で、風化していった。
そして最後には周囲の砂と同化し、共に日陰を目指して踊り続ける。無限に、久遠に、永久に――
「――『
ルベルはそう言い残し、その砂塵の――否、無尽の砂虫が舞い踊る空間から消え失せた。
――それきり、二度とこのアサシンというサーヴァントが、この聖杯戦争に暗躍することはなかった。――
「言ったはずよ」
ルベルは礼装としての役目を終えて沈黙する砂時計を回収し、それに向けて囁く。
「予想済み、だとね」
現実の空間に帰還したルベルは、そのまま湿った地下道を進んで行く。そして行く先にかなりの広さががありそうな空間を見つけた。
あのアサシンは最後まで馬鹿なことをしたものだ。見つけたかった場所へ自分を引き込んでくれたのだから。
「アーチャー、聞こえて?」
返答はあった。地下深くまで落ち込んだが念波の具合はさほど変わらないらしい。とりあえず通信には支障がない。
暗く澱んだ空気を切り裂くように掻いて、ルベルはその中に降り立つ。サッと先行した空気がちりを払い、その足元にノウブルたるにふさわしい道を示す。
空間を跳躍しつつ颯爽と駆け抜けると、そこには思いの外広いドーム所の空間が広がっていた。そこは教会の――礼拝堂であったのだ。
予想はしていたものの、そのあまりの規模にルベルも一時声を無くし立ちすくむ。極東の地方都市にあるとは思えぬ程の立派な拵えであったが、しかし表と同様しばらく人が踏み込んでいなかったようだ。
表ほどではないが、せっかくの豪奢な祭壇や数々の備品が荒れ放題に転がっている。
ルベルはそこで暗視によって幾人かの人影を、その闇の中に見出した。
それらの人影はあるいは祭壇を囲むように、あるいは供物の如く祭壇の上に横たえられ、微動だにすることさえなかった。そこにあったのは、まるで魂を抜かれたかのように意志の光の感じられない女たちだったのだ。
皆かろうじて息はあるものの、まるで生きながら死んでいるかのように憔悴して、更に今も魔力抜かれつづけている。むしろ、魔力を抜くために仮死状態で生かしてある、と見るべきか。だがルベルにしてみれば、やはりお粗末な術式だった。
これではあと数日も持つまい。これもどこかブードゥーの魔術を想わせる。しかし荒い。まるで我流であちこちの魔術をパッチワークしたような印象を受ける。正規の魔術師ではないのかもしれない。――もしくは、あえてそのように装っているのか。
術式をディスペルし、総員に応急処置を施す。しかし、気休めだろう。助かっても命は長らえるだろうが、まともな意識が戻る者が何人いるか。
――そんな乾いた判断を下せたのは、その中に探していたくろむの姿がなかったからかもしれない。いま、ルベルの胸に去来するのは安堵か失望か――。
ルベルはさらに礼拝堂の奥へと足を運ぶ、すると居住区だろうか? いくつかの個室が並んでいる。
『気をつけろマスター。アサシンのマスターは既にこちらのことを知っている』
「でしょうね」
わかりきったことであった。アサシンが消滅した今、そのマスターがそれに気付かないはずがない。しかしマスター単体でサーヴァント以上の脅威と成り得るとは考えがたい。
ざっと見回してみて、ひとつだけ、鍵の掛かった部屋を見つけた。
魔術で封をされた南京錠がかかっている。常人が力ずくで開けることはできないようになっているのだ。しかし、やはり荒い。本来のルベルなら鍵開けも術式もふくめて数秒といったところだろう。
しかし、この時ばかりは妙に手が震えて倍の時間が掛かった。
扉が開くと、予期してしかるべきだった、しかし考えようとも思わなかった、饐えた臭いが漂ってきた。
それがなんなのか、何を意味するのかを察して、ルベルは意外なほど全身の血が凍るような感覚を覚えた。
くろむはベッドの上に横たわっていた。衣服はなく、いつも両サイドでまとめてあった髪は乱れて、この上なく痛々しい。
切断された左腕の断面には乱雑に包帯が巻かれている。残った右手には枷がはめられ、鎖が壁につながっている。
浅くだが呼吸は規則正しい。生きてはいる。拷問や、ひどい苦痛を与えられた訳ではないだろう。死んでいることも十分考えられたのだ。あの娘たちの有様と比べれば僥倖と言っていい。
そうだ、むしろこの程度ですんだと考えるべきであろう。しかし、それでも、……
ルベルは思わず、くろむの小さくか細い体を抱き上げた。寝返りも打てなかったのだろう。ペリペリと尻の辺りに貼り付いていたシーツが音を立てた。全身にある鬱血のあとは打撲痕ではない。
陵辱された――と、見るべきだろう。この数日のあいだ。一体どれほどだろうか? 少なくともかなりの長い時間、複数の男達に嬲られたのでなければ、この状況は説明がつかない。
ルベルは表現のしようのない感情を自分から切り離し、剥き出しのくろむの体を手持ちのストールで包んだ。
それを抱えて部屋の外へ出ようとした矢先、向かおうとしたドアの外、例の礼拝堂から聞こえるはずのない音色が聞こえてきた。
『なんだ、マスター?』
「〈――J・S・バッハ フーガト短調「小フーガ」――〉……礼拝堂のパイプオルガンのようね」
『……、……誰か、いるのか、……そっちの様子が急に捉えにくくなって……きている。まるで深い霧が立ち込めて……きたようだ!』
念話もうまく通じなくなりかけている。
やられた。敵の目的はルベルたちを地下に誘い込むことだったか。アサシンは最初の一手でその目的を果たしていたらしい。しかしそれもむしろ望むところだ。
くろむをベッドに戻し、その四方に魔塵でサークルを描き、三つの要所に懐中時計を配置する。
結界を張ってくろむの身の安全を確保したのだ。これでくろむはルベルの持つ最も強固な守りの中にいることになる。本来は己の周囲に張り巡らせておくはずの礼装だったが、仕方がない。
加えて、少し考えこんだルベルは横たわる彼女の上に、どこから取り出したものか、一匹の小さなカエルを置いた。生きたカエルはブローチか何かのように、おとなしくその場に留まっている。
それを見届け、意を決したルベルは身を翻して廊下に出た。細長い回廊を空間ごとショーカットする。この外套の能力である。
空間転移の真似事だ。ストールや防護結界の砂時計をなくしても、本来はこの外套だけでも護りとしては十分すぎるのだが……さて。
礼拝堂に出ると、響きわたる荘厳にして悲壮な音色は、ますますその激しさを情緒的に増していく。
音響は空間の全てを包み込み、席巻してしまうかのようだが、そこに魔術的な効力は付随していないようだ。
ルベルの立ち位置から左、地下礼拝堂の真奥に位置する巨大なオルガンの前にはひとりの修道衣姿の女が座っていた。
ルベルは一気にその真後ろ、ドーム状の空間の中心へと移動し、その女の背中を見つめる。女はルベルに気づく素振りも見せずにオルガンを弾き続ける。
「何者か――」
声をかけようとした瞬間、凶刃はしかし、そのルベルの背後から襲ってきた。はるか後方から一直線に飛来した剣のようなそれは、しかしルベルに当たりはせずにオルガンを弾いていた女の背中へと突き立った。
オルガンは断末魔のような声をあげ、貫かれた女はたちまちに炎に包まれる。しかし、それでも女は演奏を続けている。
「――人形かッ!」
吐き捨てながら、空間跳躍でそれを危うげなく回避していたルベルは、次いで背後の凶手の姿を探す。
その黒い女は空間をショートカットするルベルと、ほとんと変わらぬ速度で、再び彼女をその刃の圏域に収めていた。ルベルも反応しつつ、取り出した香水入りの小瓶を床に叩きつける。
刺激臭と紙一重のキツイ香水の香りが一気に沸き起こり、艶やかに散華していく。
先に投擲されたのと同じ、剣のような物を突き立てようと迫るのは、忘れもしない。あの時、くろむを攫っていった黒き仮面の女だ。
周囲に散布した芳香の鎖でその凶器を受け止め、絡め取り、ルベルは相手の柄物を確認する。
剣では、ない――? それは長剣でも短槍でもなかった。長い刀身を持ってはいるが、それには刃がない、形状からして斬撃には向かない代物だ。これはいったい――?
「――返してもらおう」
手にする柄物に満身の力を込めたまま、仮面の下で女が言う。
「
簡易礼装とはいえ、ただの体術で迫る相手に、ルベルの魔術が押されている。やはりこの地下礼拝堂には魔術のランクを強制的に低下させる措置が施されているようだ。
ルベルほどの魔術師でなければ、行動不能になることもありえるだろう。
だが、ルベルは焦燥を顔に浮かべることもなく、真っ直ぐにその背丈の高い女を見据える。
「少々、おかしいとは思ってはいたのよ。――今までここに近づこうとさえしなかったアサシンが、なぜか私たちが来るのを知っていたかのように待ち構えていたのだから。そうでしょう? ――」
ルベルの芳香が敵の獲物を手放し、一気に巨大なハリネズミのような形状を作り上げる。
「――フォリア。フォリア・ディ・フィーコ!」
獣のそれにも増して凄まじい体術でそれを回避した女の顔から、漆黒にして無貌の仮面が落ちる。素顔を晒したのは、あのフォリアであった。
「…………ッ」
その黒髪は無数の蛇のようにうねり、鎌首をもたげ、憎悪を露わにしてなおも損なわれぬ白い美貌を絢爛に彩る。
「けれど、おかしいわね。くろむを、犯したのは男の仕業。そしてお粗末なブードゥーもどきの魔術を使用したのもあなたではない。――ということは、別の魔術師が協力しているはず。
――検討はつくけれど、是非とも詳細を聞きたいところね」
しかしフォリアは応えず、タイトなボディスーツに包まれた五体を爆発的に駆動させ、自らの獲物から伸びていた細いチェーンを一気に引き戻す。
その先につながっていた、最初に投擲した方の得物が、演奏を続けていた人形の五体を引き裂いてルベルに迫る。炎と刃によってバラバラに四散した肉人形の破片がルベルに降りかかるが、その時すでに、ルベルはその場にいない。
ルベルは空間を跳躍してそれを躱していた。が、フォリアはそれには構わず、自分で引き戻した柄物の、翠緑色の鉱石が構成する柄頭を、打ち返すかのごとく迎え撃った。
途端、ルベルは自分が今しがた距離を取ったはずのフォリアの目前にいるのだという、奇妙な事態に見舞われた。
咄嗟のことに困惑しながらも、再び跳躍するが、その距離が先ほどよりも短い!
どうやら、先ほどあの人形の五体から吹き出し、地下の空間に満ちた透明度の極めて悪い白煙が原因のようあった。
そして、それに交じる、感覚にチラチラとノイズを入れてくる微細な粒子。毒の類かと捨て置いたが、あれは――、一種の対魔術攪乱兵装(Anti Magic Chaff)か!
それは魔術師にとって、毒や細菌どころではない「外法」であった。アンチ・マジック・チャフ。またはAMC対魔術欺瞞兵装とも呼ばれる。
魔術の作用そのものを撹乱する粒子を「異物」として大気中に散布し、魔術の使用を阻害する装備だ。当然のことではあるが、この中では魔術師は魔術の使用を制限されてしまう。
チャフとは、電波欺瞞紙と呼ばれる電波を妨害するための通常兵器である。
その命名は本来、近代兵器として使用されるこの兵器からきたもので、その効果と特性を適切に表している。――というよりは、魔術による産物ではあっても所詮は外法よ。という侮蔑の意味を込め、下賎な近代科学兵器の名がふさわしい、との理由からこのように呼ばれるようになったと言われる。
厳密には魔術を知る者の手による代物ということになるが、己の魔導に誇りを持つ魔術師同士ならまずは使わない下賎な手口であり、かといって教会が禁じる魔術行使であるため真っ当な信仰心のある者が使用することもありえない。
故に、外法。協会と教会、双方の教義に反する手段であった。故に、使用するのは、いかなる教義よりも魔術師を殲滅することを優先する、――優先することのできる外法の担い手だけということになる。
ルベルはその美麗な鉄面皮を凍らせたまま、しかしキリ、と奥歯を軋らせた。
ただでさえ重苦しい結界の中で、サーヴァントとの通信もままならず、その上この仕打ちは流石に堪える。
ルベルは今にも結合を失ってしまいそうな芳香の鎖から一旦手を放した。とてもではないが使用する魔力に見合う成果を果たせるとは思えない。微粒子魔術の専門家である己がこんな手にかかるなど、屈辱以外のなにものでもなかった。
ルベルは礼装を切り替えつつ、しかし、と思考を別の場所に焦点化する。
先ほどルベルの跳躍した分の距離を引き戻したのは、どんな理屈によるものなのだ?
いや、引き戻したのではない。背後に振り返ってルベルは今の怪異の重大さを知る。今背後に背負っていたオルガンが、あろうことか、まるで凸印のようにその一部だけが盛り上がって変形しているのだ。
通常物理においてはあり得ぬ変容である。まるでこの空間の一部が消失して、それを埋めるために空間ごとオルガンが吸い出されたような形にも見えるではないか。
そしてフォリアが手にする二本の長剣のような装備の全容を知り、ルベルは直感的にその効果、そして哲理の概要を悟った。
あれは剣でも槍でもない、『
なんてものを持ち出してくるのだ。なにが
「――解るわけがない。解る必要もないし、知らせる必要もない。関係ない。教会も、魔術師も。私は、私の意思で私の欲しいものを手に入れる。――それだけの事!」
つぶやくように、そしてうわ言のように言葉を漏らしつつ、二本の巨大な鑿を掲げ、流す黒髪を虚空に舞わせながら、フォリアは馳せる。その面貌は本来の美貌からは想像もできぬほどに剣呑に歪んでいる。
その様は、もはや美しくもおぞましい死出の女神を想わせる。
ルベルも身構えつつ思考を巡らせる。あれが鑿だとするなら、あのフォリアのボディアーマーの各所――拳のナックルガードを始め、肘、膝、脛、つま先、踵等に設えられているのはあの鑿を使用するための専用キー、即ち「槌」に相当する装備なのではないか。
それらは漆黒のボディスーツの端々に煌めき、琥珀色のアクセントを添えている。材質は判別できない。まるで琥珀そのものとも思えるが、その内部には何かが忙しなくうごめいているようにも見える。
しかし今はそれを推察している場合ではなかった。大気中には邪魔な不純物が舞っている。――ルベルは咄嗟に屈み、床に片手を突いた。
足元には先ほど手放していた芳香の粒子が蟠っている。それへ再び直に魔力を流し床一面に引き伸ばす。
精細な術式など望むべくもない。床一面に広がったそれを、力任せに逆しまの針として林立させた。
フォリアは疾走する勢いのまま跳躍した。常人とは思えぬ瞬発力だが、チャフさえなければそのまま宙空で串刺しにできていた。
それが、追えない。
虚空に突き出した針はたかだか数十センチ伸びたところで不純物によって形状を維持できなくなってしまう。
今度こそ臆面もなく歯ぎしりするルベルに、虚空から『鑿』が容赦なく投げ放たれる。ルベルもショートカットして距離を取る。――が、うまくいかない。
AMC魔術欺瞞兵装の欠点は風や雨などの天候に左右されやすいことと、大気中に散逸しやすいことなのだが、こんな地下の一室ではその効果が減退するのを期待できない。
アサシンがルベルをまっ先に地下へと連れ込んだのは、やはりそれ相応の備えあってのことだったのだ。
むしろ粒子を使う己こそ密閉された地下の空間では有利、という見込みの甘さに、この時ばかりはルベルも悔恨の念を持て余す。
連続で投擲された鑿はルベルを捉えることはなかったが、結果的にフォリアに足場を提供することになった。自らが突き立てた鑿の柄頭に揺らぐことすらなくぴたりと立ち、フォリアは地に伏せるような体勢のルベルを悠然と見下ろしてくる。
まるで睥睨されているかのような状況に、ルベルの内心に憤怒の火が灯る。
だがそれを、知ったことではないとでも言うように、フォリアは氷のような無情さで二本の鑿の柄頭を蹴ってルベルの元へと跳躍してくる。
今度足場を崩されるのはルベルの方だった。足先によって連続で起動された二本の『鑿』は互いに共鳴しあい、床一面を舐めるようにして水平に「削り取った」のだ。
間一髪、ショートカットで虚空に逃れながらも、ルベルは推察を進める。
どうやら、あれらの魔導器は二本の効果を、しかもそれぞれの起動から効果を発揮するまでのタイムラグをも計算に入れて併用することで、空間から概念にまでを余すことなく『削ぎ落とし』、『削り取る』という効果の範囲を自在に調整できるらしい。
――それはつまり、およそ常人に扱える代物ではないということだ。効果が効果故に、ひとつ間違えば使用者の方が『削がれる』ことになる。
どうやらこの学徒兵は、この場に限りサーヴァント・アサシン以上の脅威とみなさねばならないらしい。ルベルはサーヴァントを下したからと高をくくっていた己の認識を修正する。
ルベルは真っ直ぐに、今や一面土肌の露出した床へと降り立ち、今まさに跳弾しようとする反動体と化したフォリアを見据える。
フォリアは無手のまま、己の拳を振り上げて迫る。だが、ルベルには武器がない。いまの『掘削』で床に引き伸ばしてあった粒子は根こそぎ
そこでルベルは再び下がるような素振りを見せつつ、今度は逆に前進した。
ルベル自身には体術の心得も用意もない。そもそもクロスレンジの近接戦では勝負にならないことは、この女のやんちゃぶりを見せられては否定しようもない。
初見こそ儚げで大人しげな少女と見たが、その実、その五体には鋼鉄の暴れ馬とでもいうべき暴力が秘められている。
一見か細く、華奢な肢体が、いざとなればまるで鋼で編まれた嵐の如く吹き荒れる。
肉体の頑強さ、筋力、敏捷さもほぼ人間の臨界点にあるが、それ以上にこれほどの気性の激しさ、激情を秘めていたとは、知り合って間もないルベルが、まさかと驚愕するほどの豹変である。
右拳――と見せて左。フォリアは細かなフェイントで幻惑して殴りかかってくる。
魔術によるものならいくらでも看破できるが、これを「計測」し見切ることは今のルベルには不可能だ。よって、苦肉の策として、ルベルは両の腕をただ掲げて敵の牙へと「差し出す」。
しかし、弧を描いた左拳は、掲げた腕をすり抜け、先日罅を入れられたばかりの鎖骨を粉砕してくる。
またか――と内心で履き漏らし憤慨する心を、どこぞへと切り離し、あくまで思考を優先するルベルは身体を破壊されながらその拳の装備の看破にかかる。
琥珀色のナックルガード。それははやり一見
ただ、その武骨にして細微な造形と黒く縁どられた美しい鉱石の中に、美しく幾何学模様を描き、踊る真紅の
――あの『鑿』の柄頭にも同様の鉱石が埋め込まれているようだ。そちらは
美しい――。咄嗟に魔術師としての探究心が頭をもたげるが、今は攻略のための考察を勧めねばならない。おそらく、あの鉱石どうしが打ち付けられ、共鳴し合って初めて効果を発揮するものと見るべきだろう。
『
つまり、あの鑿を起動するにはこの専用の装備でなければならない、ということだ。
一瞬でそこまでの考察を終える。その間にも拳はとどまることを知らない。
ねじり込むような動きでルベルの身体に減り込んでくる。それにしても、鎖骨だけでなくそのまま臓腑を抉りかねないこの威力ときたら――しかも、これは、――――ッ!
インパクトと同時に、大仰にして無骨極まりないナックルガードからはボタン電池ほどの何かが排出された。まるでオートマチック拳銃の空薬莢が飛び出すかのように。
刹那、ルベルの体内、その全ての水分に対して凄まじい波紋が沸き起こる。打突点に限らず、全身をシンバルのような衝撃が伝い、蹂躙していくのだ。目や口等だけでなく、指先や、あらゆる身体の末端からも血が吹き出す。
――水葬式典ッ! いや、合葬式典か?! ゼロ距離限定の疑似魔術効果付与!! こんなものまで! 下手をすれば単騎でサーヴァントを殲滅しかねない装備だ!
ルベルは声もなく絶叫する。せざるを得ない。全身の細胞が分解しそうだった。五体がグズグズに腐食して崩れそうになるのを、必死で再構築しにかかる。魔術刻印の対魔術効果緩衝及び自動修復機能だけでは追いつかないのだ! よもやただの学徒兵にまでこれほど手こずるとは考えてもみなかった。
しかし、――それもここまであった。仕込みは、すでに完了していた。
「――
ルベルは生き残っていたほうの手で新たなる砂時計を展開し、戦場そのものを自らの魔導器の中へと移した。しかし、そこにフォリアの姿はない。
魔導器起動の刹那、フォリアは詰めを打とうとはせず、マイクロセコンドの判断で引いていた。人間の判断速度ではなかった。
否、――というよりも、抜け目なく床面を削いだ二本の「鑿」を回収していたところを見ると、この亜空間へのフェイズシフト戦術は、やはり、あらかじめ警戒されていたということだろう。
邪魔な重圧から解放されて、魔術刻印が従来の機能を取り戻す。傷は瞬く間に修復されていくが、ルベルは未だに趨勢が己に向いていないことを再確認する。
この砂時計だけではあの女を殺し得ないことは明らかだ。例え亜空間に取り込むことができたとしても、あの掘削礼装の前では魔術的に構築された亜空間は簡単に引き裂かれてしまうだろう。
アサシンとの戦闘を、この女があえて「観て」いたのだとしたら、大なり小なりこの礼装の本質も見抜かれていると考えたほうが良い。
ゆえに、相手が引いたのはむしろ僥倖であった。ここは回避に努めるのが最良の手である。
今度は一面が氷雪に埋め尽くされ、僅かの雷音を孕んだ暗い曇天が、天を覆う寒々しい世界が広がる。
本来なら時間制限のあるこの礼装を、こんな逃げの一手に使わされるなど重ねて屈辱ではある。が、ルベルはもはやそれを感じていない。あの敵が何であれ、その練り上げた戦力と総てを計算しつくしてこの状況を作り出した手腕は賞賛に値する。
ルベルも、もはや一人の魔術師として死力を尽くすことに躊躇はない。そう、――ようやく――格下と見降ろしていた相手への侮りが、ようやく消えたのだ。
その証拠に、凍てつく氷結領域へ、空間の壁をこじ開けて入り込んでくる者がいる。
ここは元の空間からは断絶した場所、本来なら逃げるのにはこの上ない安全地帯のはずだが、その理屈もこの敵には当てはまらない。
二本の鑿が、おぞましい空間振動と供に亜空間の壁を抉り取る。
ルベルは、青光りするような黒髪をなびかせ、真っ直ぐに己の領域へ侵入してきたフォリアを見つめる。張り詰めた鉄面皮には、強靭な意志がある。そのまま退却することもできたはずだが、この敵にはそのようなつもりは毛頭ないらしい。
徹頭徹尾、この場でルベルと決着をつけるつもりなのだ。
ルベルには推し量りようのない事情が窺えたが、しかし己も引くわけには行かない。
ルベルは、雪原を蹴り鑿を双剣のように構えて突進してくるフォリアに、極大の魔弾を見舞う。それは「
この空間には攪乱兵装も入りこんではこない。もとより総ての理がルベルの思い通りになる「世界」だ。魔術の使用はまさしく無制限。フォリアは鑿で魔弾を弾くが、すぐさま周囲の超低温によってボディーアーマー越しに全身の皮膚が裂け、文字通り紅蓮に身を染めていく。
しかしフォリアは、この女は、身が砕けるのも構わずに突っ込んでくる。
不利は承知だろう。這入って来たときと同じように脱出することも出来る筈なのに、そうしようとしない。まるで相討ちでも狙うかのように、血を撒いてフォリアは迫る。
このままでも勝てる可能性はある。が、――もはやルベルにはこの相手を侮るつもりなどない。
文字通り、持ち得る総ての策と力を動員して相対するのみ!
それが――
「冷呪をもって命ずる。アーチャー、空間の断絶を越えて我が命に応えよ」
――ルベル・フォン・シュタウフェンの決定であった。
本来、この空間に隔絶されたなら、例えサーヴァントであっても空間干渉能力の例外を除いてあらゆる干渉は無意味になる。そう設定されているのだ。ゆえに、使用者であるルベルであっても、この場所からアーチャーに指示を飛ばすことは出来ない。
それを可能とするのは、いついかなる場所からでもサーヴァントへの命を下すことの出来る「絶対命令権」即ち令呪のみ!
空間を飛び越え亜空間に出現した矢が、背後からフォリアへ迫る。すでに仕込みは終っていた。先ほどの打撃を受けながら、ルベルは間違いなくこの女の身体に
空間を隔てていても問題はない。すでに『的』が存在するのなら、アーチャーには狙う必要さえないのだ。
しかし、フォリアは完全なる死角から音もなく現れた、予期することも出来なかったはずのその宝具を、しかし振り向き様に迎撃する。もはや、野生とでも表現するしかない直感であった。
振り向き様、一方の鑿が縦に裂けるようにして破砕された。
四散する
この鑿は起動してから発動するまで若干のタイムラグが生じる。ゆえにそのまま矢を迎え撃っていたのでは遅い。そして相手は宝具。空間ごと削り取るのでなければ迎撃などままならない。
ゆえにフォリアはまず起動していない一方の鑿を逆手に投擲し、それが破壊されている間に、一本の線の如く重ね合わせた二本目の鑿を起動。一本目の鑿ごと、矢を「削ぎとった」のだ。
刃の先にあった空間が、アーチャーの放った矢ごと削ぎ落とされ、何処かへと消失する。
もはや天賦の才としか言いようのない対応力であった。
が、しかし。
迫る脅威を排除し、再び疾走しようとしたフォリアの口腔から、その時、それまでとは一線を画すほどのどす黒い血が、大量に溢れ出た。
もんどりうって膝を突き、転がるようにして倒れたフォリアは、そのまま動くことも出来なくなり、動きを止めた。
同時に白亜の空間は去り、凍てつく氷雪の名残さえ残さずに、周囲は湿った地下の空間へと帰した。
ルベルは仰臥し、もはや蠕動を繰り返すだけのフォリアに近づいた。
「まだ、喋れるかしら?」
ルベルが語りかけると、微動だにしないフォリアの目だけが、何の感情もなく見上げてくる。その胸には、一本の矢が深々と突き刺さっていた。いつ刺さったのか、フォリア自身にさえまるで分からなかっただろう。飛来した矢が打ち消されたのは確かなのだ。
ルベルは屈み込み、仰臥するフォリアの胸元、心臓の位置に手を置く、フォリアの口からはどろりとした血が溢れ、呼吸が再開される。
「――これで喋れるわね。時間はないから、再度質問はしないわ。私が知りたいと思っている事を、喋ってちょうだい」
フォリアは答えない。ただ目だけでルベルを見上げてくる。
「アーチャーの宝具で射抜かれた以上。助けることはできない。このまま心臓を再生し続けても苦痛が続くだけよ? ――はやく終わらせたいなら、何でも良いから喋りなさい」
「………………」
フォリアは喋らない。喋れないのではなく、喋るつもりがないのだと、その目が語っている。
ルベルの指が皮膚と肉を裂き、肋骨のあいだを縫って肺腑の内に入り込んでくる。治癒を続けながら同時に破壊を行っているのだ。さしものフォリアも全身を蠕動させ動かぬ手足をばたつかせる。
「おとなしく喋って頂戴。出来れば私もこんなことはしたくないわ。だから、お願いよ。でないと、――いま、自分を抑えられるかわからないの」
脳裏をよぎるのは死んだように横たわる弟子の姿だ。ついに手首までが骨を断って、突き入れられ、矢に射抜かれた心臓を握り締める。
「 、 、 。 、 。……」
フォリアの口から何かの言葉が零れる。ルベルは心臓から手を離し、耳を向ける。
「いう、もの、か。ぜった、いに。……」
ルベルはそれ以上苦痛を与えることはしなかった。強情を張っている間に制限時間が来てしまったようだ。これ以上は精神が持たないだろう。情報もなにもない。
「お え 魔、術 せい 、 も 、関 ら な 。ぜ た……い、ぜった…………―――――――――」
最後の力で何かを呻きながらも、目からはすでに生気が失われている。もはやこれまでか。ルベルはそう思い、フォリアの胸の中から己の手を引き抜こうとした、が、
「――ッ!? 抜けな」
完全に死期を逸したはずの女の目が、その時ぎょろりと蠢き、その身体がバネ仕掛けのように跳ね起きてルベルの体にしがみつく。
ルベルはそれを引き離そうとするが、胸部に突き入れた腕が抜けない。残った右腕は完全には再生しきってはおらず、引き剥がすこともできない。
まさか――
同時にその身体の各所に誂えられていた琥珀色の『鎚』が急激に共鳴し始める。内部の紅い
「――絶対に。ぜったい、に――――。…… め ね、く ち ん。ご ね……」
最後の最後で、年相応の少女のように彼女が囁いたその意味を、ルベルは知りえない。
鎚の共鳴と供に、近くに転がっていた『鑿』の柄頭の色合いまでもが、翡翠色のそれから漆黒にまで変化していくのだ。
――相打ちを狙うつもりなのか、この女は!?
だが、それは教会のためではない。論理からではなく、ルベルは直感的にそう感じた。何か、もっと特別な理由のために、この女は自らの命を投げ出そうとしている。これは――殉教などという、己の意志を他者に預けきった人間の行いではない。
空間が崩壊する。あの鎚と鑿の効力を考えるなら、この礼拝堂――いや、それ以上の規模の空間をえぐりとって消失させることだろう。
もはやルベルに取れる対処法は
「――
一つしか残されていなかった。
――風。というのは間違いだろう。次の瞬間には凄まじい閃光と空間振動によって、隠し教会の全てが削り取られ、その断面が元からなかったかのように閉じ合わされた。
突風のごとき時空振と閃光が去った今、そこにルベルの姿はなかった。
いや、ルベルだけではない。あの廃病院そのものが、まるで忽然と、その場から消え失せていたのだ。
統べては決死の空間掘削によって、この世界そのものから削り取られてしまったというのだろうか。
しかしその時、その事象の残滓とでもいうべき、僅かに残った、半畳ほどの瓦礫の端に僅かの動きがあった。
そこから這い出してきたのは、一匹の、小さなカエルであった。否、それは一匹ではなく、瓦礫の下から何匹も這い出してきた。
大きさや種類は様々で、どれもぷっくりと膨らんでいる。やはりルベルの姿はどこにもない。さしもの魔術師も、あの状況では成す術がなかったのだろうか? ――否、そうではない。
そのカエルたちは一時まんじりとも動かずにいたが、少ししてキョロキョロと周囲を見回し、その中の一匹がゲコっとひと鳴きしたかと思うと、次々にゲコゲコと泣き始め、やおらその大口をあんぐりと開いた。
限界まで開かれた口がさらに広がり、さらにさらに、畳大の大きさまで大きく広がり、まるで己自身を裏返すようにぐるりと歪んだ。次の瞬間――そこにはくろむを抱えたルベルの姿があったのだ。
自爆によって空間が掘削されるその瞬間、ルベルが懐に持っていた少々嵩張るサイズの砂時計が粉砕し、そこから微細な無数のカエルがあふれるように出てきたのだ。
それらは地に落ちるよりも早く一斉に膨らみ始め、閃光が空間を飲み込むよりも早くルベルの周囲を取り囲んだのだ。
さしものルベルも安堵の息を漏らさずにはいられない。プロトタイプゆえにどうかと考えたのだが、念の為にもってきておいてよかった。
すでに役目を終え、あとは崩壊するだけの、この簡素なデザインの砂時計『
第一作目の礼装が、あの空間内の水分を全て魔血へと変貌させる結界『
ルベルは当初、先代までのシュタウフェン達が対サーヴァント戦のために蓄えた理論によって検討されていたモノをもとにして、この『Zagam』を作成してみたのだが、その性能は求められるだけの結果を齎さなかった。
汎用性に優れる装備ではあったものの、単純に通常の空間の上に新たなる空間を重ねるだけでは、英霊を完全に拘束するには不十分だと、過去のデータを検証した上でルベルは結論づけた。
アサシンには効いたが、あれはアサシンが周囲の水と同化依存していたためであり、他の、特に対魔力スキルを有する騎士クラスのサーヴァントであったなら、どの道突破されていたであろう。
ただの結界では容易に喰い破られる。ならば破られぬ檻を作り上げるしかない。
ゆえに二作目からは、この世界とは別の、「閉じた世界」を亜空間内に想像し、そこにサーヴァントを隔離する方法を取ることにした。
この聖杯戦争というバトルロイヤルの必勝法。それは代替の利かない絶対戦力であるサーヴァントを、一時的に戦場から「取り除く」というものであった。
過去、聖杯戦争を経験し続けてきたシュタウフェン達は考え、そしてある結論にたどり着いた。サーヴァントを正面から打倒する。サーヴァントを回避してマスターを狙う。という、通常とりえるそれらの戦法で必勝を期するのは不可能なのだ、と。
如何に強力な英霊を召喚してみたところで、サーヴァント同士の戦闘を幾度も続ければ、どうしてもダメージは積み重なっていく。
サーヴァントにサーヴァントをぶつけては駄目なのだ。
何より、強大な力を持った英霊ほどコントロールが利かず、暴走する傾向が強い。過去には、儀式そのものが破綻しかけたこともあるという。
ゆえに、先代のシュタウフェン達はいかにして「魔術師の力で」「敵サーヴァントを戦線から取り除くのか」という難題に苦心し続けてきた。
そしてルベルに託された「理論」と「遺産」と「課題」。それに対する答えがこの礼装なのである。
ある種の「結界」を創造し、そこにサーヴァントを一時的に隔離するという必勝の「理論」。
そしてそれを実現しうる、サーヴァントを抑え込むだけの強大な「力の核」としての「遺産」。
これは先代のシュタウフェンたちが総力をあげて作成した「旧約聖書――『十の災厄』への冒涜の呪物である。
あえて神の奇跡の名を借り、悪魔の名を付け神を嘲弄するような礼装を作ったのはそれなりの故あってのことなのである。
『十の災厄』とは、旧約聖書に語られる『出エジプト記』において、彼の地を襲ったという十種の災厄のことである。
1、河が血に染まり
2、カエルが大量に発生し
3、塵が羽虫(ブヨ)となり
4、虻(アブ)が人を襲う
5、牛馬が疫病にかかり
6、人や家畜に膿み腫れを起こす
7、天から雹が振り、
8、蝗(イナゴ)が耕作物を襲う
9、三日間続く暗闇が訪れ
10、家門の長子だけが皆死んだ。
これらは全て神のもたらしたものであるとされ、聖書の記述によれば、悠久の歴史を誇るはずの偉大なるエジプトの神々はこれらユダヤの神がもたらす「侵攻」とも言うべき暴虐に、抵抗しようともしないのだ。
「我らの神だけが神であり、他者の信仰する神など存在しない。我らの世界観こそが真実であり、それ以外はまやかしなのだ。その証拠に、神は異教を崇拝する愚者を成敗なさった」――この伝承が主張するのは要するにそういうことなのだ。
まるで幼子の癇癪のようではないか。余りにも狭量で、あまりにも傲慢な世界観だとは言えないだろうか?
しかしこれがなかなかに笑えない。今もこれらの「世界観」「宗教観」をめぐって馬鹿げた殺し合いまで来ているのだから。それほどに彼らの「選民思想」は郡を抜いている。いくら痛めつけられてもめげることもない。
シュタウフェンの魔術師たちは、サーヴァントという規格外の敵を想定するうえで、それを逆利用することを思いついた。
もっとも、黒魔術を使うものならば多かれ少なかれ利用している理論だが、この先代たちが残した「呪物の核」はそれらとは比較にならない規模を有する。
神と悪魔との関係は、大河の流れと様々な水車のそれに似ている。そも、一神教における「悪魔」とは「神が創り」たもうた、「神の敵」であり、いわば神の影のような存在なのである。
傲慢なる一神教は神の存在を強めるためにその影をより黒く深い物にしようとする。唯一絶対の神にも敵対者が必要になってくるのだ。
そこで彼らは自らが駆逐した、「由緒ある信仰のもとにあった清らかな神々」を自らの教義に取り込みそれを「悪魔」、即ち『「神の手のひら」にあって「神に抗い」、「神に創られ」ながら、「神の子なる人を誘惑し堕落させる」べき、「神と神の子らにとって忌むべき存在」』へと「貶めた」させたのである。
これを傲慢と言わずしてなんと言おうか? そしてその傲慢さをあざ笑うように、黒魔術師たちはその強大な自己顕示欲とも取れる「神の御力」を逆利用する。
即ち、自らを神の定めた法を外れた存在とし、悪魔を信奉し、自らを魔女、魔術師と称して己の属性を神の「世界観」の中へ組み入れ、それらの神を信奉する者たちの憎悪や嫌悪を一身に受ける立場となる。
すると、神の使徒が神へ向ける信仰は転じてそのまま悪魔や魔女、魔術師への信仰ともなりうるのだ。
一神教においては信徒が神を信じれば信じるほど、それは同時に魔なる者への存在を強固にする行為でもあるということだ。即ち、大河と水車の関係ということである。
この十の礼装は即ち、この強大な信仰を逆利用するための巨大な水車だということになる。
傑作ではないだろうか? 傲慢なる神のそれを魔術師が、魔術師の哲理によって辱しめるという皮肉。
特級とはいえ一介の魔術師でしかないルベルが、一個の世界を創造し、サーヴァントをも拘束しうる神霊レベルの奇跡を再現できるのも、この哲理に従うからである。
無論、一つ使い方を間違えればその力は術者に向くという禁呪であり、これを「実践に耐える形に昇華させる」ことがルベルの代に残されていた「課題」であった。
ルベルはこの課題を自身のもつ魔術特性に合わせて、時間制限を設けることで見事に解決して見せた。
敵サーヴァントを隔離するのも、こちらのサーヴァントが敵マスターを必殺するまでの間でいいのだ。むしろ時間制限はあってしかるべきもの、とルベルは考えた。
そして遺産はここに昇華され、聖杯戦争の必勝を約束する魔導器へと「完成」した。
その二番目に作成された「閥-Bael」は、後のシリーズに共通する亜空間遮断型の雛形として作成されたものである。
ほかの結界のように、作成された亜空間に特殊な効果を入れ込んではいない。唯一の機能は、現実と鏡写しの空間を、そこを埋め尽くすかのように存在しているカエルの数だけ拡張するというものなのだ。
要するにカエルの数だけ無色の亜空間が設定されており、そこから好きなようにカエルをふくらませて無数に世界を「増やす」ことができる。というものである。
後のシリーズはそれぞれの空間内に遺品の「核」が持つ「災厄」それ自体の象徴風景を具現化し、それによって侵入者を害する機能が設けられているのだが、この「Bael」だけはただ現実と同じ空間が広がるだけだ。
カエルがたくさんいるわけだが、錐人に使用した後期型の「第八災厄 Bael‐Abdon」のように魔蝗によって敵を食い尽くすような攻撃性があるわけでもなく、ただ居るだけである。
使用方法も、ただ無限に広がる空間の中に相手を閉じ込める、という程度のことしかできず、様々なテストを重ねたせいで、砂もほとんど残ってなかった。
よって、ろくに使用することなどないと思っていたのだが――ここに来て命を救われた、ということになる。備えあればなんとやらといったところか。
正直に言って危ういところだった。例え亜空間へ逃げても、この空間掘削仕様の「自爆」を回避できる可能性は少ない。むしろ下手に空間干渉する礼装を使用すればどんな影響を与えるかわからなかったのだ。
ゆえにルベルは、咄嗟にこの中にいたカエルたちをありったけ外に出し、自分の周囲であらん限りに拡張させたのだ。あの鑿が無制限に世界を削るというのなら、その分の空間を最大限に「増やして」やればいい。とう考えからだった。
そしてなんとかカエルたちは鑿の世界への暴虐に対しての「緩衝材」としての役割を果たし、その被害を最小限に抑えられたらしい。
それにしても、フォリア自身も自爆の規模を予測できなかったのか、もしもルベルが緩衝材を大量に用意しなかったら、とんでもない規模の「世界」がこの世から削ぎ落とされていたことか見当もつかない。
そんな不始末をしでかしたのでは誰に何を言われてるかわかったものでもない。命は助かっても魔術師生命を断たれていた可能性もあるのだ。
ただ、改めて見てみれば、いくつかの瓦礫に混じり、地上に露出する形でくろむがいた地下の居住区だけは掘削を免れているようであった。
まるでその一角だけを、意図的に残したかのようであった。
偶然であろうか? ルベルは残してきたカエルを使ってくろむを己の懐に転移させていたのだが、そうしなくてもくろむだけは無事だったということになる。
これは偶然なのであろうか? ――それとも…………。
考えても詮無いことである。兎角目的は達成したのだ。それで良しとするしかない。
『――……大丈夫か、マスター』
アーチャーの声が聞こえる。隠し教会そのものが無くなったおかげで念話も容易になったようだ。
「無事よ。でも――流石に疲れたわ。傷を治すだけでもかなり時間がかかりそう……。悪いけれど、夕飯にまでには戻れそうにないと伝えておいて」
アーチャーはしばし考え込んでいたが、自分にできることは何もないと悟ったのだろう。『分かった』と答えが返ってきた。
この状況では迎えに、というわけにもいかないだろう。のぶえが健在ならいくらでも呼びつけてやれるが、他の者をよこさせる訳にもいかない。
代行の部下も、教会の使徒も、すべて、である。この状況では誰も信用はできない。自分で帰るかないのだ。
『アズルはなだめておこう。できるだけ早く戻ったほうがいい』
言われるまでもなかったのだが、結局帰り着いたのは夜が更けてからであった。
空間跳躍用の外套は切り裂かれており、結局は歩くことしかできなかったのだ。
完全に治りきらぬ身体で意識のない弟子を抱え、というか担いで帰るのは、生来から考えても最も過酷な肉体労働であった。