当たり前の事が一番正しい事。
妖怪は人を襲い、喰らう。人は妖怪を恐れ、退治する。それが人妖の本来あるべき姿であり、自然の形。
妖怪の本分を取り戻しなさい。八雲の願いを果たしなさい。人間に畏怖されることが妖怪の存在意義なのです。それだけは憶えておきなさい――
ふと、己の名を呼ばれたような気がして、少女は顔を上げた。
猫耳を澄ませて気配をうかがったが、囲炉裏で赤く燃える炭がときおり立てるパチパチという音と、畳の上で丸くなっている猫達が身じろぎする微かな物音が聞こえるばかりである。
少女は2本の尻尾を交互にゆっくりと揺らしながら、怪訝な顔で耳をそばだてる。だがやはり、何の異常も感じられなかった。空耳か、あるいは妖精の仕業だったのだろう、少女はそう結論付けて注意を目の前のお昼ご飯に戻した。
囲炉裏の中では、串打ちされた4匹のニジマスが炭火で炙られて香ばしい匂いをさせている。
胡坐をかいて囲炉裏端に座った少女は、その汁気たっぷりの焼き魚を見て、思わずクゥと可愛らしい腹の虫を鳴らした。
ごちそうを前にした爪の長い女の子は、喉を鳴らして恍惚とした表情を浮かべる。そして、半開きになった小さな口から涎がたらーっと垂れ落ちたのだった。
第130季月と秋と土の年。
山に積もった雪が少しずつ溶け始めて、雪解け水となって川に流れる季節。春告精が現れるにはまだ少し早い頃。
ネコミミ少女は、妖怪の山の麓で、たくさんのにゃんこ達と一緒に、にゃーにゃー鳴きながらいつも通りの平和な日常を過ごしていた。
少女は人ならざる者、妖怪だった。
その特徴的な耳が示すとおり化け猫の妖獣である。橙色を基調としたロングスカートを身に着けており、スカートの尻尾穴からは二又の尾が飛び出している。
猫の少女は、名を
その化け猫、橙の住処はひとことで言えばボロ屋だった。彼女は人間が捨てた廃村に居を構え、村の中でも比較的状態がまともな家屋――それでも倒壊寸前ではあったが――を稚拙な補修で何とかして、我が家としている。
だが、そんなビンボー生活を橙は不満に思うことはない。障子紙の代わりに、たまに人里で拾う事ができる天狗の号外を張っているような現状をまったく気になどしていなかった。
見た目は小さな女の子でも、彼女はやはり妖怪であった。衣食住の内の食さえ確保できれば、後は野となれ山となれで万事OKなのだ。
食は、人間と同様に妖怪にとっても大切な行いである。
橙は串焼きを3つ囲炉裏の隅に刺し直すと、残りのひとつを手に取った。彼女の大好物であるお魚さんが良い色に焼き上がっている。彼女は、今すぐにでも齧り付きたい欲求を抑えながら、フーフーと息を吹きかけて熱々の焼き魚を冷まし始めた。
せっかくの焼きたてなのだから熱い内に食べればよいものを、わざわざ冷たくする橙。実は、彼女は猫舌だった。猫だから。
猫舌妖怪はしばらくの間、おちょぼ口で頑張っていた。そして、努力のかいあってようやく食べ頃となり、満を持して大口を開け獲物に食らいつこうとしたとき――
微かな音が響いた。
橙は胡坐の体勢から跳びはねて立ち上がり、身をかがめて警戒態勢を取る。彼女は猫耳をピクピクさせて感覚を研ぎ澄ました。
おもてから聞こえてくるそれは、砂利を踏みしめる足音だった。今度は気のせいではない。何者かが我が家へ向かって段々と近づいてくる。
迷い込んだ人間だろうか、何度かそのようなことがあったため橙はほんの一瞬そう思ったが、すぐに考えを改めた。迷ったにしては足取りが非常に落ち着いているし、何よりも彼女は、この足運びのリズムをとてもよく知っていた。
そう、この気配だけは絶対に読み違えることはない。
「藍様っ!」
橙は手に持っていた魚を放り投げる。そして、立て付けの悪い木戸を力任せにこじ開けて、裸足のまま勢いよくおもてに飛び出した。
彼女が外に出ると、こちらに向かってゆっくりと歩いてくる少女が見えた。
その姿を確認した橙は、満面の笑みを浮かべながら全力疾走して、その勢いのまま目標へ向かってフライング・ボディアタックをぶちかました。
「おっと、息災だったか橙? ……いや、聞くまでもなく元気そうだな」
「はいっ、私はとっても元気です!」
来訪者は、化け猫の突進に対して絶妙なバランス感覚でもって運動エネルギーを受け流し、体勢を崩すことなくそれを正面から受け止めてみせる。そして、元気が有り余っている猫を胸に抱きながら嬉そうに笑った。
その笑いにつられて、橙も一緒に笑い出すのだった。
猫の里を訪れた客人は、橙よりも拳ひとつ分ほど背の高い金髪の女の子であった。白色を基調とした道士服に身を包み、物腰は静かで穏やかでいながら一切の隙はない。
その少女もまた人外の者。九つの大きな尻尾を持つ妖獣、九尾の狐。名を
予想もしていなかったお客様のお越しに、橙は喜び勇んで口早に話し出す。
「急に来る……じゃなくていらっしゃるなんて、一体どうしたんですか? ……あっ、そうだ! まずは私の家に上がって下さい。ちょうどお昼ごはんができたところなんです。藍様の分もあるから一緒に食べましょう! さあさあ、早く早く!」
藍の手をぐいぐい引いて、家に向かって歩き出す橙。猫ちゃんのテンションはやたらと高まっていた。
「本当に元気過ぎるくらい元気だな……。……あれ? ちょっと待て、橙」
藍は、微笑みながら橙のしたいようにさせていたが、急に何事かに気付いた様子で子猫を引き止める。そして、猫少女の顔をこちらに向かせて、その目を真剣な表情で見つめ始めた。
「あ、あの、藍様?」
藍の目的不明な行動に橙は戸惑いの声を上げる。だが狐の少女はそれには応えず、橙のまぶたを指で上下に押し広げて猫目の奥を覗き込む。
藍は、少しの間そうやって縦長の瞳孔を観察していたが、やがて釈然としない様子で橙から離れた。
「すまない。見間違えだった」
「えっと、意味が分からないんですけど?」
「分からなくてもいい。気にするな」
気にするなと言われても気になるに決まっている。しかし、今はそんな事よりも空腹を満たす方を優先すべきだ、と橙は判断した。猫妖怪の腹の虫は、先程からエンドレス大合唱で不満を訴え続けているのだからして。
「気にしなくてもいい事は気にしない。簡単ですね。じゃあ、早く私のおうちに行きましょう!」
そう言って、橙は綱引きを再開した。
狐が猫に引かれて歩き出す。藍は、もう一度だけ目の前の妖猫を走査した。だがやはり、憑けた式神に異常は見当たらない。先程は何やら、構築した憶えのない命令文の記述が式に憑け足されていたような気がしたが、思い過ごしだったらしい。
藍は苦笑する。よく考えてみれば、そのようなことはまず無理な話なのだ。八雲の式、八雲藍が作った方程式を改変することができる者など存在しない――
――ただひとりを除いては。
ふたりは猫の家に上がり、8畳の茶の間に入った。
真っ昼間なのに室内は薄暗い。やはり新聞紙の障子では採光に問題があった。とはいえ、そんな事を気にする者など誰もいなかったが。
先刻、橙が外に飛び出したときに放り投げた焼き魚は、にゃんこ達の胃袋に収まってしまったようだ。骨まで綺麗さっぱりなくなっていた。ただ、囲炉裏の隅に刺してある残り3匹については、手はつけられていなかった。そこは自重してくれたらしい。
橙はそれを見て安堵する。最近になって、ようやく少しだけ猫達を統率できるようになってきた。ボスネコとしての威厳が身についてきたということに違いない。このまま順当に行けば、自分が式神を使役する日もそう遠くないだろう、などと妄想して彼女はひとりでうんうんと頷くのだった。
おもても猫だらけであったが、家の中も負けず劣らず猫の楽園である。橙に座るようにと促された藍は、足元で寛いでいる先客を踏んでしまわないように気をつけながら足を運び、囲炉裏端に腰を下ろす。
古い畳の表面は、猫達の爪とぎでボロボロ(橙の爪とぎによるダメージが一番デカい)で、おまけに毛だらけ(橙の体毛も当然含まれている)であったが、藍は気にも留めなかった。
橙は、藍のはす向かいに片膝を立てて座り。串焼きを3本抜き取って言う。
「藍様は2匹食べてください」
藍は、我が式はこのような気配りをできるようになったのか、と感心した。
「いや、私は1匹でいい。おなかが空いているんだろう? 私に気を使うことはないさ」
「いえ、私は1匹でいいです!」
「気持ちはありがたいが、私としてはお前がたくさん食べてくれる方が嬉しいんだ」
「いえいえ、本当に1匹でいいですから! 我慢しますからぁ!」
「我慢はするな。いいな?」
「あっはい」
橙は我慢をしないことにした。優秀な式神は主の命令に忠実なのだ。
そういう訳で、猫は2匹、狐は1匹の焼き魚を頭から骨ごとボリボリと齧りながら歓談するのであった。
「昨晩の夢に紫様が出てきたんですよ」と、橙は言った。
「……“夢”に紫様が。何か仰られていたか?」少し考えてから藍が返す。
「えっと……。アレ? なんか急に思い出せなくなっちゃいました……」橙は首を捻った。
橙の言う“紫様”とは彼女の主の主、境界の妖怪、
藍は違和感を覚える。主が夢に出てきた場合、本当に御本人のお出ましであった可能性もある。八雲紫にとっては、他者の夢と自身の現実に境界はない。ただでさえ昨日、主がおかしな事を言い出したのだから、橙の言う“夢”もそれと無関係とは思えなかった。
八雲の式は小さくため息をついた。
主の思考など理解できるわけがないし、考えるだけ時間の無駄だ。それは、長きにわたって八雲紫に仕えてきた藍が、苦労の末に学んだ事のひとつだった。
「そういうこともあるさ、何せ夢だからな」
夢は現実ではない。八雲の式と八雲の式の式はそれを知った。
「橙、本邸に行こう。そこで話がある」
藍は出し抜けに本題を切り出した。式の式を本邸に召喚し、主の命を伝える。それが、八雲紫が式神に命じた事だった。
「八雲のお屋敷に? ここじゃダメなんですか?」
「この辺りは麓とはいえ、まだ山の天狗どもの監視領域にある。八雲がふたり、顔を揃えて話をしていては痛くもない腹を探られるというものだ」
山中で白狼天狗の監視網から逃れることは難しい。そうでなくても、妖怪の山はその名の通り妖怪だらけなので、密談には適さない場所なのだ。内緒のお話は、安全な所でするに限る。
藍は、橙に「ついてこい」とひとこと言って立ち上がり、玄関に向かう。橙は部屋の隅に置かれていた緑色のショルダーポーチを引っつかむと、あわてて主のあとを追った。
「藍様。ちょっといいですか?」
今度はちゃんと靴を履いて屋外に出た橙は、モフモフとした九尾を揺らしながらを先を行く狐の主を呼びとめた。
「龍神様の祠まで競走しましょう!」
何事かと振り返った藍に、橙は元気よく提案した。
郷の最北東端には、八雲紫が作った龍神像が設置されている。人里にある河童製の天気予報機能付き龍神像のように高性能ではないが、繊細な造型が素晴らしい石像だ。
これは龍神様に対して恭順の意を示すために作ったものだ、と藍は主から聞かされていたのだが、彼女はその言葉をあまり信じてはいなかった。八雲紫に信心などありはしないのだから。
その龍神の祠が八雲本邸の入口となっている。つまり、八雲本邸は鬼門にあった。
屋敷自体は外の世界と郷の境目に存在しており、要するにどちら側にも存在していない。自由に出入りできるのは、屋敷の主人である八雲紫とその式神の八雲藍だけであったが、そもそも紫は入口など関係なくどこからでも自由に出入りできるため、その祠は藍専用の入口として存在しているようなものだった。
猫の里から祠までは直線距離にしておよそ5km。その間に道と呼べるほどのものはなく、妖怪の山から連なる標高800m程度の低い尾根が横断して、鬱蒼とした森林地帯となっている。飛べば5分もかからない距離ではあるが――
「空はなしです。で、“位置について、よーい、ドン!”でスタートですよ」
元気な化け猫は地上戦を所望した。
藍は、これも式の成長を確かめる良い機会だと考えて、その挑戦を受けて立つことにする。彼女は、手足をブラブラ振って体をほぐしている猫少女に向かって言った。
「分かっているとは思うが合図の声かけをする方が有利になる。合図を出すのはお前がやるといい」
スタートの合図を出す者の方がより正確なタイミングを計れるし、それに音が空気中を伝播する速度も無限大ではない。かけ声を出す者自身に、かけ声が最も早く伝わるのが道理だ。
「藍様、手加減はいりませんからね」橙はニヤけた笑いを浮かべる。
「あ、ああ。言うようになったな」自信満々の式に、藍は困惑気味に答えた。
藍と橙の身体能力には天と地ほどの開きがある。それは、魔力を式神にじゅうぶん伝えきることができない藍自身の未熟さにも原因はあるのだが。
とにかく、徒競走だろうがSUMOUだろうが、式神が使役者に勝つことなど万にひとつもありえない。そんなことは橙もよく分かっているはずなのに、猫妖怪はなぜか自身ありげにダイナミックな準備運動をしている。猫少女が肩からななめ掛けしているポーチも、その動きに合わせてブンブンと振り回されていた。
単に遊びたいだけなのかもしれない、九尾の狐は二尾の猫を見てそう思った。
橙は、進行方向のコース上に寝そべっている猫ちゃん達をお片づけすると、顔を上げて行く手を見定める。遥か上空左手には、逆さまの城が浮かんでいる。いつも通り、何もおかしな事はない。
「準備はいいですか?」
「いつだって準備はできているさ」
観客の猫達に見守られるなか、妖猫と妖狐は並び立った。
橙が身を低くして臨戦態勢をとったのに対して、藍はごく自然体で、ただ静かに佇んでいる。
「フーッ……、じゃあ、位置について!」
橙が声を張った。
「よーい……!」
のかけ声と同時に、橙は電光石火の早業でポーチから何かを取り出し、それを後方に向かって思いっきりぶん投げた。
何かが飛ぶ。刹那の瞬間。藍は目の端でその飛翔体を捉える。
それは、こんがりキツネ色のおいしそうな油揚げだった。
「ドン!!」
化け猫が地を蹴って跳ね飛んだ。