山中を一匹の猫が駆け走る。
密生する木々を機敏に避け、振り返ることなくただ前だけをしっかと見据え、風の如く駆ける。
獣の血を呼び覚まし、手を捨て去り四本足で地面を抉り、走る。
獣が、怒号を放った。
疾走する橙の前方に巨大な岩が現れ、化け猫は躊躇わず跳躍して岩を飛び越える。勢いよく着地した先は泥状の腐植土だった。
橙は、柔らかい地面に足を取られて体勢を崩し、顔面から地面に突っ込んだ。だが、間髪いれずに跳び起きて、泥だらけのまま再び走り出す。
雑念はない。獣は無心で駆けた。
猫の里周辺の山は橙の遊び場であり、言うなれば縄張りだった。化け猫の少女は、ほぼ毎日をそこで過ごしており、野山の地形や植生をそれなりに把握している。だから、迷うことなく最短ルートで目標を目指すことができた。
道のりの半分ほどを過ぎた。橙は、標高差の激しい2.5kmを所要時間3分弱で踏破する。
中間地点を過ぎてもまだ、追っ手の気配はない。大きく先行することができたのか、あるいは彼女とは別の道筋を辿った主に、とうの昔に抜かされているのかは分からない。
もし、前者であれば橙の作戦が成功したことになる。
作戦と言うほど大仰なものではないが、橙は、己の囮作戦が上手くいくことを半ば確信していた。彼女の主ならば、化け猫の投げた物の正体を瞬時に見抜くに違いない。そして、思うだろう“なんとお粗末なやり方なのだ。このような稚拙かつ狸が好みそうな姑息な罠に私が引っ掛かるとでも?”と、そして、こうも思うだろう“いやはやまったく、考えの甘い式だ。だがここは、あえてお前の浅はかな計略に掛かってやろう。そしてその上で私が勝って見せよう。未熟者の猫妖怪を再教育してやらなければならないからな”と。「そして、私はこうも思っている。我が式は一体いつからおあげを用意していたのかと」
何者かの声が耳元で聞こえて、橙は文字通り飛び跳ねた。
混乱する思考の中で、橙は声のした方を振り向いた。主、八雲藍が彼女のすぐ隣で、音も無く並走していた。
「樋口豆腐店の薄揚げだな、私の行きつけの店だ。だが不味かったぞ。腐ってたからな」
藍はそう言いながら、橙の頭を帽子の上からポンポンと撫でる。狐の少女はなぜか微笑んでいた。
ややあって藍の姿が奇妙に揺らめく。その直後、轟音とともに衝撃波が発生して、橙は激しく吹き飛ばされた。大気が振るえ、森の木々が激しく揺れる。化け猫は空中で身を捻って3回転半したのち着地して、四つん這いのまま慌てて辺りの様子を探る。
主の姿は消えていた。
鳴動が収まり、森は静けさを取り戻している。木の葉がひとひら頭上に舞い落ちる。
橙はポカンと口を開けて、森の奥を見つめることしかできなかった。
「思ったよりも早かったな」
息を切らしながら龍神の祠に到着した橙に、彼女の主が声を掛ける。
狐の主は、ゆったりとした袖口に腕を差込み、微かな笑みを浮かべて猫の式を待っていた。
涼しげな顔で汗ひとつかいていない藍に対して、橙は疲労困憊でヘトヘトになっていた。彼女は藍のそばまで来ると力尽きて崩れ落ち、ペタンと尻餅をつく。
泥だらけ汗まみれの橙は、喘ぎながら言う。
「ら、藍様ぁ、ハァハァ……、早すぎです……。それに、あの爆発は、ハァ……、何の妖術だったんですか?」
「ああ、あれは私の移動に伴って進行方向の空気が急激に圧縮され、その圧力波が周囲に伝播して衝撃が発生しただけだ。妖術じゃないさ、音よりも速く走れば誰にでもできることだ」
何でもない事のように言う藍。誰にでもできることの訳がない、それだけは確かだ。橙は脱力感たっぷりに「えぇ……」と言うほかなかった。
藍は、へたり込んでいる式をさて置いて、祠の結界を走査し始める。
祠は、樹齢数百年はあろうかという大樹の幹に空いた空洞内に設置されていた。八雲藍の主、八雲紫が作った龍神像はその祠に収められているが、今は扉が閉じられており中の様子は分からない。
祠をのみ込む大木には注連縄が巻かれ、祠そのものにも注連縄が張られている。藍は、その二重結界を念入りに照査する。妖狐は瞼を閉じて指先で空をなぞり、意識を集中していた。
その様子を、付近の倒木に座り直した橙がじっと見守っていた。
橙が主と共に八雲本邸を訪れたことは過去に何度もあった。その度に藍は、今の様に結界をいじくっているのだが、橙は自分の主が何をしているのかさっぱり分かっていなかった。そもそも、祠に結界が張ってあること自体も認識できないのだから、理解できなくて当然である。
橙は大きく息を吸って体を伸ばし、そしてフーッと吐き出した。
「藍様、龍神様は今どこにいるんですか?」妖猫が尋ねる。
「紫様の言葉をお借りすると、“真に幻想郷の在る処”だそうだ」妖狐が答える。
それは、八雲紫だけが知り得る事。つまり、真実が明らかにされることはないということだ。
外の世界、北東から冷涼な風が吹き抜ける。木漏れ日が落ちる森の奥深く、狐と猫は、静かなときを過ごすのだった。
「行くぞ」
藍の言葉は簡潔だったが、有無を言わさぬ響きがあった。
木の枝で地面にお絵描きをしていた猫ちゃんは、その呼び掛けに反応してピョンッと立ち上がり、駆け足でもって主の下へ馳せ参じる。
藍は傍らの橙を確かめた後、視線を祠に向ける。そして、両の手を宙に漂わせ、何かを掬い取るような仕草をした。
そこからはあっという間の出来事だった。
大木に巻かれていた注連縄と祠の注連縄が断裂音と共に外れ、宙で静止する。同時に祠の扉が開き、台座の上に鎮座している龍神像が姿を現した。直後、龍神像の頭部が巨大化して祠から飛び出し、大きな口で狐と猫を丸呑みにすると祠の中へ引っ込んだ。そして再び祠が閉ざされ、注連縄が張られ、すべてが元通りとなる。
森は静かな時を刻みだす。先程までは確かに居たはずの、2匹の獣が姿を消していることなど、何者も知ることはない。
倒木の近くの地面には、狐と猫と傘をさした少女の絵が描かれている。描かれている者達は皆、満面の笑みを浮かべていた。
橙は過ぎ去って行く景色を眺めている。
だが、余りにも移り変りが早くて、すべてを知ることはできない。赤い世界、青い世界、白い世界、黒い世界。色とりどりの世界が現れては消えていく。
赤は熱く、青は寒く、白は輝き、黒には何も無い。
無限の世界を、零時間の中で垣間見た。
気が付くと草原に立っていた。
鮮やかな緑に覆われた起伏のない地面が、どこまでも、遥か彼方まで続いている。空は青く澄み渡り、薄い雲がまばらに浮かんでいた。
橙は四方を見渡した。ちょうど彼女の視線の高さに、地面と空の境界線が見える。地平線は一直線となって連なり、360度をぐるりと取り囲んでいる。
少し強い風が吹いた。草原がさざめき、緑の海に波が立つ。
橙はブルッと身を震わせ、地平から目をそらした。
彼女はここに来るたび、いつも思っていた。あの不可思議な空と大地の境界を見ると頭がどうかなってしまいそうになる。まるで、存在しないものを見ているかのような、気持ちの悪い感覚に捉われてしまう。
この空間は、自然ではない。異常だった。
「話は中でしよう」
橙が声のした方に振り向くと、藍が構造物の前に立っていた。
その構造物は、簡単に言えばデカかった。
全体的な形状は、1辺約50m、高さ250m程度の四角柱。建物の外面には一切の隙間なく暗い青のパネルが貼られている。パネルは手のひらサイズで光沢のある材質でできており、表面は非常に平滑だった。
この黒曜石の輝きを放つ建物こそが、八雲本邸。
やっぱり変な家だなあ、と化け猫は思うのだった。
橙は藍のそばに駆け寄り、そして尋ねる。
「藍様、いつも思ってたんですけど、お屋敷に来るときに変な景色が見えますよね。アレは何なんですか? あと私達、龍神様の像に食べられてますよね? 一瞬でよく分からないんですけど」
物事には何かしらの意味があるはずだ。橙はそれを確かめたかった。
「そうだな……。紫様の迂遠な言い回しを私なりに解釈してみたんだが、龍神様に喰われるのは、喰われることで“喰らう”ということを常に思い出すため、だそうだ」
八雲紫はそのような志をあの像に込めたらしい。彼女自身はスキマで出入りできるから、あの龍神像の入口を利用する必要がないにもかかわらず。
「あとは、“アレ”だな。……アレは簡単に言えば侵入者用の罠だ。お前が見た世界は、本当にお前自身がそこへ移動して実際に見た景色なわけだが、僅かに位相がズレているからその世界の環境に曝されることはない。だが、適切な手順を踏まずに入口を通過した者は、位相のズレがない状態で異世界に放り出されることになる。その者が熱に弱いか寒さに弱いかは分からないが、無数の世界の内にひとつやふたつ弱点となる環境があるだろう、ということだ」
「うわぁ、なんか凄いですね」
と、馬鹿丸出しの感想を述べる橙。彼女は続けて質問した。
「これまでにあの罠に引っかかったお馬鹿な奴はいるんですか?」
もしそんな奴がいたとしたら、そいつは確実にお亡くなりになっているだろう。橙は馬鹿者の哀れな死に様に興味を持った。
「愚か者は幸いにしていないそうだ……あ、いや、罠に掛からずに通過した者はいたらしい」
「えっ!? 八雲のお屋敷に侵入した奴がいるんですか?」橙は驚きの声を上げる。
「違う」藍は少考の後、言葉を継いだ。「その“何者か”は、“ここ”から幻想郷へ侵入したらしい」
「はぁ? “ここ”ってこの八雲のお屋敷があるここですか?」橙はキョロキョロと辺りを見回した。「ここって紫様と藍様しか住んでいないと思っていたんですけど、他にも誰かいるんですか?」
「誰もいないさ。だからおかしな話なんだ」もっとも、紫様の話は大概おかしいがな、と小さな声で続ける藍。「その者は、郷からまたここへ帰ってきて、紫様のお部屋で眠りについた。……と、ここで、紫様は目を覚ましたそうだ」
「……うぅ、ん?」化け猫の頭の中がこんがらがってくる。「“紫様が目を覚ました”って、紫様は侵入者が郷で暴れている間、寝ていたんですか?」
「暴れていたかどうかは分からないが、そういうことになるな」藍が困りきった表情を浮かべる。「だが、紫様はいつも寝ているんだ。そういうことがあってもおかしくはないだろう?」
それは、どういう意味なのだろう。言葉通り、八雲紫は寝てばかりだから侵入者に気が付かなかったという意味なのか。あるいは、今の一連の話が全て、八雲紫が寝ぼけ頭で話した夢物語だったという意味なのか。
猫の少女は、どうしてもそれが分からなかった。
「橙。今はとりあえず紫様のお部屋に行こう」
「そうですね」
これについては、いくら考えても埒が明かない。橙は主の言葉に従うことにした。
ふたりは、巨大な建造物に向かって歩き出す。
建物には扉がなく、入口らしきものは見当たらない。藍が一歩前に進み出ると、建物から赤い光が一瞬照射され、ほどなくシュッという排気音と共に直径3mの半円の穴が外面に出現する。
扉が開かれた。
狐と猫は躊躇うことなく、てくてく歩いて中に入る。両者が建物内に進入すると、半円の扉は閉ざされた。
進入者を感知して、オレンジ色の照明がつき、八雲本邸内部が照らし出される。
橙は辺りを見回した。
建物内は、250m先の最上階層まで続く巨大な吹き抜けとなっている。中央から直径10m程度の透明な材質でできている円柱が一本立ち上がり、最上部まで続いている。その円柱の横腹からは、またさらに何本もの円柱が一定間隔で枝分かれしており、それらは横方向に伸びて壁に取り付いていた。
橙は、主に付いて中央の透明な〈柱〉に向かう。固い床を歩くとき、ふたりの足音が響いて混ざり合い、大空洞にこだました。
中央の大きな〈柱〉の内部には、直径3m高さ4m程の〈円筒〉がいくつも〈柱〉の円周に沿うように設置されている。
藍がその内のひとつに近づくと、どこからともなく〈声〉が響き渡った。
『ご利用の階数、または部屋番号をお申し付け下さい』
抑揚のない声色だった。橙は、意思ある者の声ではないと思った。
「808号室」
正体不明の何者かの問い掛けに藍が答えると、『ドアが開きます』の声と共に〈柱〉と〈円筒〉の壁面が両引き戸のように割れる。ドアが開いたのなら、“中に入る”以外の選択肢はない。妖怪少女達は、素直に〈円筒〉の中に入った。しばらくして、今度は『ドアが閉まります』の声が響く。
この〈声〉はどうしてわざわざ当たり前のことを言うのだろうか。橙は疑問に思った。まあでも、意識のない者なら、こんなモノなのかもしれない。
〈円筒〉が『上へ参ります』と言って上昇を開始する。移動速度は、亀よりもやや速い程度だった。橙が透明な床を通してエントランスホールをボンヤリ見下ろしていると、乗り物が静かに停止して『横に参ります』と告げる。動く〈円筒〉は、真横に伸びているたくさんの枝の内の一本に進入して、移動を再開する。
建物の壁が段々と迫ってきた。このまま行くと壁に激突して面倒なことになりそうだ。だが、当然、乗り物は事故ることなく無事にその動きを止める。
『808号室です』
どうやら目的地に着いたらしい。〈声〉が嘘をついていないのであればだが。橙は、実際のところ、この無機質な〈声〉をそれほど信用していなかった。彼女は、意思のない者に対して漠然とした恐怖を感じているのだった。
藍が壁に向かって進み出る。突き当たりの黒い壁には、手のひらを白く縁取りしたような模様が描かれていた。狐の少女がその表示に自身の手を当てると、縁取りが薄緑に発光する。そして、妖怪少女の目に向かって壁面から細い光が照射された。
『認証中です。しばらくそのままでお待ち下さい……。……。……エラー961:虹彩パターンが読み取り出来ません。もう一度――』
「――っと、拙い。808はこっちの模様だったな」
藍は、少し慌てた風に目を閉じる。わずかの間をおいて、再度目を開いた。
『――そのままでお待ち下さい……。扉を開きます』
〈声〉がそう言うと、突然壁に高さ2m程の亀裂が走り、両引き戸のように壁が左右に分かれて、およそ2m角の四角形の穴が開く。
正体不明の〈声〉が“扉を開きます”と言っていたから、今開いた穴が入口なのだろう。橙は穴の奥を覗いてみた。だが、中は真っ暗で何も見えなかった
「良し。入るぞ」
藍が小さく息を吐いて、そう言った。
何がマズくて、何がヨシになったのか、橙には何ひとつ分からなかったが、主が良しと言うのだから良いのだろう。納得することにした。
ぶっちゃけた話、猫の少女は、先程から身の回りで起きている現象の殆どすべてを理解できていなかった。しかし、とてつもなく面倒くさい家だと言うことだけは、とてもよく分かった。
家の中でも隙間風が吹き付けて、中と外の区別がつかない彼女のボロ屋とは、根本的な構造が異なっている。ただ、どちらの家が好きかと問われれば、迷いなく我が自慢の猫屋敷と答えるだろう。
穴の奥に向かう主の後姿を目で追いながら、橙は声をひそめてこう言った。
「この家はちょっと大き過ぎるなぁ。しかも猫が一匹もいないし、イマイチって感じだね」