四角い穴の入口から中に入ると、天井に付いている小さな球体から白い光が灯り、闇の中だった内部が照らし出される。そこは、奥側に向かって伸びる通路だった。
壁や天井は、全体的に焦茶の木目調で統一されていた。入ってすぐは玄関になっており、床面は一段高い位置にある。そこからそれほど長くない通路が続き、突き当りにひとつ、左右の壁面にふたつずつ、薄茶の扉が設置されている。
妖怪少女達は履物を脱いで部屋にあがる。脱いだ履物は、つま先を入口に向け、かかとをきちんと揃えて2足並べておいた。
ようやく紫様の家に到着だ。そうだ、奥の間には紫様が居るかもしれない。そう考えた橙は、早く主の主に挨拶せねばなるまいと駆け出した――
「待て。お前はまず、その泥だらけの格好を何とかしなさい」
――が、主に腕を掴まれて式礼を阻止される。
「えーっ! お風呂ですか!? いや、えっと……。式神も剥がれちゃうし、別にいいじゃないですか」と、いくつかの理由で水が苦手な化け猫が許しを請う。
藍は、式の訴えに「駄目だ」と言いながらも苦い表情だった。式神が水如きで剥がれてしまうのは、あくまでも藍自身の力量によるもので橙に落ち度はないのだ。
「……水を使わずに汚れを落とす機能もあっただろう?」
「そうなんですか? ここのお風呂は使い方が全然分からない……っていうか、風呂どころか何もかもすべてが全然分からないです」
橙は、とても正直に自身の無知を表明した。だが、それは恥ずべきことではない。誰だって、知っていることよりも知らないことの方が多いに決まっているのだから。
「その内分かるようになる。分からないことをひとつひとつ理解していけば、いずれ全てを知ることになるんだ」藍はここで言葉切り、思案する。そして「嫌でもな」と続けた。
橙は、別に全てを知りたくはなかったが、それついては言わずにおいた。
「私も森の中を走って少々汚れてしまった。風呂には一緒に入ろう」
藍はそう言うと、廊下を進み、左手前にある扉を開ける。あまり気は進まなかったが、橙は藍の後に付いてお風呂に入ることにした。
風呂に入る。
といっても服を脱ぐ必要はない。八雲の風呂には、荷電粒子によるドライ洗浄機能が搭載されており、衣服及び体に付着している汚れを分解して昇華させることが可能なのだ。
「なんだか、ピリピリしますね」
橙は体中にむず痒さを感じながら言う。
妖狐と妖猫はお風呂に浸かっていた。ただし、水を張らずに服を着たままで。
浴槽は直径3mの円形で白色。その大きな浴槽内では、水の代わりに暖かな気流が渦巻いている。橙は胡坐をかいて座り、こそばゆいのを我慢していた。
彼女の全身に付着していた泥汚れが、徐々に剥がれ落ちて、気流によって排水口に運ばれていく。
「そう感じるのは、妖怪だからだそうだ。妖怪はプラズマに対して非常に敏感なのだと紫様が以前仰っていた」
藍がぼんやりと外を眺めながら言う。
広い風呂場の壁面には、1.5m角程度の透明な材質が窓のようにはめ込まれていて、そこから外の光が差し込んでいる。
窓の外は、どこまでも青い空が続き、鳥も天狗も飛んでいないし太陽もない。
「ふうん……。全然分からないです」
「私もだ」
藍は密やかに思う。紫様にはどうも、曖昧を良しとするきらいがある。他者にものを教えるときには、きちんと順序立てて説明して欲しいものだと。
八雲紫の上司としての資質は、いまひとつなのだった。
「そろそろあがろう。あまり長湯してのぼせてもマズいからな」
「あ、はい。……あの、今のは冗談か何かですか?」
化け猫は聞かなくてもいい事をわざわざ確認した。
「それは、お前が知る必要のないことだ」
世の中には知るべきことと知らずにおくべきことがある。橙はまたひとつ、新しいことを知った。こうして“いずれ全てを知ることになる”のだ。
「紫様! ……アレ? 紫様はいないんですか。藍様?」
勢いよく通路奥の扉を開け放った橙が、元気いっぱいに主の主に呼びかける。だが、広大な室内には誰も居らず、困惑した猫少女は周囲の気配を探りながら主に尋ねた。
「ああ」と、藍は短く返した。「今はな」
お風呂で汚れを完全分解して綺麗さっぱりとした狐と猫は、奥の間に入った。
しかし、八雲の主人はあいにくの留守。
広々とした部屋の中央には、格調高いガラステーブルが置かれていて、その上に暗緑色の酒瓶とロックグラス、そしてアイスペールが出しっ放しで放置されている。それは、主がつい最近までこの部屋に存在していたことを示す確かな証拠なのだった。
藍は、小さなため息をひとつついてから、主の不始末を始末し始める。彼女は瓶とグラス、氷が解けて水しか入っていないアイスペールを持ってキッチンに向かった。
「藍様!」
そんな藍に橙が呼びかける。
「私、あの白くて甘いお水がまた飲みたいです!」
お手伝いさせてください、という言葉を少し期待した藍は、式に裏切られることになる。
藍は、再び小さなため息をひとつついた。
「これは本来原液のまま飲むものではないのだが……」
「水で薄めるなんてもったいないです」
橙はそう言って、コップ一杯に注がれた白くて粘性の高い乳酸菌飲料を口にする。
「あまーい! アハハ……!」
化け猫は、とっても嬉しそうに笑った。
藍は、その幸せそうな様子の式見て、まあいいかと思うのだった。
藍と橙は、体に合わせて絶妙に変形する椅子に腰掛け、ガラステーブルを挟んで向かい合っていた。
室内はとても広く、天井や壁は白で統一されている。外向きの壁は透明だった。外から見たときは黒っぽい外観だったが、中からは外の景色を一望できるようだった。
「それにしても、やっぱり八雲のお屋敷は変わっていますね。誰が作ったんですか? もしかして藍様ですか?」
口元を白くした猫ちゃんが尋ねた。
「いや、紫様が自らの手で作ったものだ」
「はぁ。紫様が自分でですか」橙は、ちょっと感心したように言った。
橙は、
「ここは、紫様が夢の中で暮らしている住居を再現したものらしい」藍が、水で5倍に希釈した白い液体を一口飲んでから答える。
「……え? よく分からないです。紫様の、“夢”?」まったく想定外の答えに、橙は戸惑った。
「そうだな……。紫様が一日の半分、12時間眠っておられるのは知っているだろう?」
「はい」橙は知っていた。主の主がお寝坊さんであることは。
「紫様は一日の半分を現実で過ごし、もう半分を夢の世界で過ごしている。その夢の世界で、紫様が住んでおられる住居を再現した建物がここだということだ」
「夢の世界に住む……? 紫様は同じ夢をずっと見ているのですか?」
「おそらく紫様にとっては、こちら側もあちら側も同じ夢であり同じ現実だということなんだろう。以前、紫様は“自由意志のないキャンパスライフを満喫している”と仰っていた。例によってまったく意味は分からないが」
主の主は夢と現実の二重生活をしている。橙は急に不安になった。八雲紫が、いつか夢の世界から帰ってこなくなるのではないかと。
「……“夢”。さっき外でもそんな話をしてましたけど、今の話と何か関係あるんですか?」
「ある。と、私は思っている。紫様に直接聞いたわけではないが」
狐の主は何らかの結論に達しているようだ。その言葉には確信が感じられた。
対する猫の式は、疑念しか感じられなかった。
「そうですか」橙は、微かな引っ掛かりを感じる。「ところで、私は“話がある”ということでここまで来たわけですけど。それも紫様と関係のある話なんですか?」
殆ど忘れかけていたが、橙が今ここにいる理由は、藍から“話があるから八雲本邸に行こう”と言われて付いて来たという事だったはずだ。
だが、藍はその本題をすぐには持ち出さなかった。それどころか、橙が持ち掛けた雑談に応じて時間を浪費することさえした。効率主義者で、秒単位で段取りを組む主にしては、わりと悠長な態度だと橙は感じていた。
雑談の内容は殆ど八雲紫に関する話であり、橙が何となしに思ったことは、本題の方も主の主、八雲紫に関係する何かではないかということだった。
「ある」
藍は、その問いを待っていた、と言わんばかりの表情だった。
「そもそも私は、お前をここに連れてくるようにとの命を紫様から受けていたんだ」
「でも、肝心の紫様はいないみたいですけど。いつ頃お戻りになるんですか?」
八雲家の主人は何時何分何秒に帰宅するのか。時計がないので分からない。
「さて。紫様の気分次第だと言っておこうか」
苦笑いを交えて言う藍の口調は、若干投げやり気味だった。
「橙。これより紫様の命を伝える。心して聞け」
藍の口調が改まったものとなる。
「はい!」
八雲の主命。その言葉に、橙が血気盛んに応じる。
「“八雲紫を見つけなさい”」
瞬間。橙は自己が書き換えられるのを認識する。
「今、新たな式を打った。使命を全うしなさい」
「は、はい!」
八雲の使命をその身に受け、八雲の式の式はボルテージが急上昇していく。
「私がお前に式を打つところまでが紫様の命だ。あとはもう好きにしていい」
「はい!」と、三度威勢よく返事をしたところで橙は急に冷静になった。
“八雲紫を見つけなさい”とは、一体どういう意味なのか。というか全体的な話の流れがよく分からない。紫様は何を考えてこのような命を発したのか。色々とおかしな事が多すぎる。
とりあえず橙は、“好きにしていい”と言う主の言葉に従うことにした。
「いくつか質問させてください」
分からないことは、大抵の事を知っている主に聞くに限る。
「紫様は他に何か言っていましたか?」
「ああ、“そろそろ橙も最終試験の時期ね”と、仰っていた。その言葉の後に件の命を下されたわけだ」
「つまり、紫様を探すことが最終試験の内容ということですね?」
「紫様の発言の前後関係からすると、そうとも読み取れるな」
「えぇ……」では、そうでないとも読み取れるのか。コレは手強そうだ、と橙は感じ始めていた。それに――「そもそも、最終試験とは何の試験ですか? 何が最終なんですか? 制限時間はあるのですか? ……もしかして、この試験に合格したら八雲の名をもらえたりとかは……?」
「正直に言おう。まったく分からん」藍は少しばかり疲れた表情をしていた。「昨日、郷で境界基準点測量をしていたら急に紫様が現れて、急に命じられたことだ」
そんなことはこちらが知りたいくらいだ。と、藍はぼやいた。
「ちなみに、藍様はその“最終試験”を受けたことがあるんですか?」
「ない」
なるほど。橙は段々と事態を飲み込めてきた。
つまり、この“最終試験”とやらは八雲紫の単なる思い付きであり、試験という言葉自体に大した意味はないのかもしれない。猫少女はそんな印象を受けた。
「そうですか、うぅん……。紫様とのかくれんぼかぁ。……。んー……。ん?」
橙は気付いた。よくよく考えてみれば、いや、考えるまでもなく神出鬼没のスキマ妖怪、八雲紫を見つける事など不可能だということに。
しかし、だからこそこうも考えられる。見つけるための手段があらかじめ用意されていると。探すべきはその手段ではないか。
そして、ここまで考えたところで化け猫の直感が働いた。急にピンと来た。
「藍様、もうひとつ聞いていいですか?」と言いながら橙は立ち上がり、緩やかな足取りで藍のそばへ近づいていく。
「何だ?」藍は訝しげに橙に顔を向ける。どうしてわざわざ立ち上がったりしたのか、疑問を感じているようだ。
「あのですね……。実は……」
橙はガラステーブルを迂回し、テクテクと藍へ近づいて――
「シャッ!!」
――鋭い声を発して飛び掛った。
橙は、脱力した静止状態から一瞬で最高速となり襲撃する。
完全に不意を突かれた形となった藍は、とっさに手に持っていたコップをテーブルに置き、身をかわそうとするも、椅子に腰掛けた状態からでは間に合わず、化け猫の抱きつきアタックを真正面からまともに受けた。
藍はバランスを崩して倒れそうになるも、化け猫に抱きつかれたまま地を蹴って後方へ跳び、たたらを踏んで着地する。
「やったあ!」
橙は嬉しそうな声を上げた。
「と、突然どうした。橙?」
猫ちゃんに突然だいしゅきホールドされて、藍は珍しくうろたえた声を上げる。
「つかまえましたよ。らん……じゃなくて紫様! さあ、正体を現してください!」