何度も言うようだが、紫様は最強。
そして、それを証明しなければならない。だがしかし、一体どのようにして。
橙の指先に付いていた血は綺麗に舐め取られている。主の物とはいえ妖怪の体液は不味く、猫少女は吐き気を催す。そして、人間の味を思い出して喉の渇きを覚えた。
蓮柄の絨毯には藍の血痕が残った。八雲紫の私物を下賎な血で穢してしまったことについて主は特に何も言わず、責任の所在を明らかにしなかった。
藍は、血は穢れではない、とだけ言った。
今、絨毯の上には、4本の脚に支えられた四角の木製盤が置かれ、猫と狐は、それを挟んで向かい合っている。
藍は藍色の座布団の上で正座しており、対する橙は橙色の座布団の上で両膝を抱え、お尻を浮かせた状態でしゃがんでいる。
両者は、盤上を睨み付けていた。
強さの証明は簡単だ。紫様がその圧倒的パワーをもって、全員ボコってぶちのめせばいいだけだ。橙は、7三角成としながら藍に言う。
藍は間髪いれずに同金と取り、“全員”とは何者だ。確かに証明する方法は分かりやすいが、証明自体は難しいのではないか、と返す。
主のノータイム指しに、もしかして詰めろがかかっているのではと、橙は盤面を凝視する。だが判らない。んー、とか、あー、とか言いながら、持ち駒の歩兵を、駒台代わりの駒箱へコツコツ打ち付けていると、うるさい、と藍が半ギレで凄んできた。
橙は口をつぐんだ。劣勢ではあるが、今は攻めるしかない。8五桂と突き、“全員”は“全員”だ。幻想郷に住む奴らをひとり残らずコテンパンにするのだ。とても簡単なことではないか、そのようなことは紫様なら一日もあればじゅうぶんに可能だ。いや、紫様は一日の半分は寝てるから二日かかるかもしれないけど。と、猫は、“難しい”などと口にした不忠の狐を咎める。
藍は、流れるような動作で8六桂と指す。
なるほど、“全員”とは幻想郷の全住人のことか、我らの住む処はとても広い世界だ。それは疑いようのないことではあるが、正確な広さを知らずにいることもあるまい。測量作業が終わったら一度、外の世界に連れて行ってやろう。狐妖怪はそう言って、81マスの広大な世界を隅々まで見渡した。
様々な能力を持った者達が、定められたルールの中で争う世界。さしずめ八雲紫は玉といったところか。あるいは、彼の者は単なる駒などではないのかもしれない。境界の妖怪は、自ら創り上げた世界を俯瞰する対局者、プレイヤーと言ってもよい。手駒を操る、より上位の存在こそ八雲紫という妖怪なのだ。
桂馬が背中合わせとなった。
橙は次なる一手を思考するなかで、ポツリと呟く。さはさりながら主の主が居らぬ今、先に述べた直接的バトル的証明法を実行に移すことは困難である。如何にせばよいのか。猫の目が答えを求めて盤上を彷徨っていた。
藍にしても、式の疑問に全て答えるつもりなど毛頭ないし、全てを答えることなどできない。彼女が知っていることは、明白な心理のみ。だからこう言った。
「気づいているか? 必至だ」
橙の進むべき道は閉ざされ、どうあがいても死に至る運命となる。こうして、狐と猫のゲームは終局を迎えたのだった。
その日の夕餉は、みりん醤油がたっぷり染み込んだいなり寿司、油揚げの炭火焼(そのままでもいけるが、ねぎ味噌や醤油をつけても良い)だった。キツネ色の顔ぶれを見て分かる通り、それらを作ったのは藍ではあるが、橙も、手伝えと言われたので仕方なくおゆはんの準備を手伝った。
部屋の中央にあるガラステーブルを隅に退け、代わりに置かれたのは、藍が、キッチンの床下収納から取り出した黒く煤けた円筒形の小さな炉、七輪だった。無骨な土塊が、夢幻世界の体現であり非日常的空間の趣といった様相を呈する八雲紫の部屋のど真ん中に置かれ、焼き網の上で炭火で焼かれたお揚げがチリチリと音を立てている。
もうもうたる煙が立ち込める部屋の中で、換気をする気がまったくない獣達が、熱燗を片手に語り合う。気持ちよく酔いが回り始めた狐と猫は、目尻をとろん、とさせて、頬を朱に染め、この上なく上機嫌に談笑する。
橙は味噌をひと舐めして少し焦げ目の付いた揚げを齧り、本醸造酒を口に含む。それから、酒気混じりの熱い息をフーっと吐き出した。
「なんだかなあ、おあげさんばかりじゃあなぁ。ねぇねぇ藍様ぁ? お魚はないの?」
甘ったるい猫なで声で話し掛けてきたバケネコに、藍は据わった目で「は?」と威圧的に返す。油揚げを粗末にしたバカネコに大豆の素晴らしさを叩き込んでやっているというのに、“飽きた”とは何事か。彼女は腐りお揚げの件をけっして忘れてはいなかったのだ。しかし藍は、ふいにケラケラと笑い出して「魚は昼に食ったろう?」と続けた。狐の少女は、いつだったかの、主、八雲紫の言葉を思い出していた。
“あなたに料理を任せたら油揚げしか出てこない、かといって橙の処では魚しか出てこないわ――”
我々にも紫様を困らせることくらいはできるのか、では、困らされてばかりではなかったのだなあ、藍はそう思うと、可笑しくて仕方がなくなってしまったのだった。
主の無防備な大笑いに、橙もつられてゲタゲタと下品に爆笑する。酔っ払いは特に大した理由もなく笑い出すものなのだ。
化け猫はとてもよく喋った。家の猫達のこと、山の妖怪達のこと、人里の人間達のこと、自分のこと、藍のこと、そして、八雲紫のこと。頭に思い浮かぶことを、そのまま口にしてひたすらに喋り続ける。
「さっき妖怪の存在証明とか在り方とか、何か言ってたじゃないですか。よく分かんないんですけど……気になるんで、あれ、もう一度聞きたいです」そう言って橙は、酒を徳利から直飲みした。
「“鶏が先か、卵が先か”という問題がある。鶏が居なければ卵は生まれず、卵がなければ鶏は生まれない、この世に先に生まれたのはどちらなのか。つまり、どちらが原因でどちらが結果なのか、という問いだ」藍は、網の上の揚げをひっくり返す。「では、ここでひとつ質問をしよう。橙、“人間が先か妖怪が先か”」と言って彼女は、焼き上がったお揚げをでわさび醤油につけて食べ始める。
「え? そんなのどっちが先とかそういう話じゃないですよ。だって、妖怪と人間は、鶏と卵と違って親子じゃないし全然別の生き物なのに」初っ端から破綻する話に橙は反論したが、酔っ払いの話に論理性を求めるのもおかしな話かもしれないとも思っていた。
「お前は、化けているわけでもないのに見た目は人間そのものだ。それはなぜだ?」
「さあ……。そんなの考えたこともないなあ。たまたまの偶然で似ているだけとか?」
「そんな偶然があってたまるか。もっとよく考えろ」
「や、分かんないで。教えて藍様っ」
橙は考える前に降参した。酔いの回った頭ではまともな思考もできないし、まして、こんな捉えどころのないことを考えるのは面倒だった。
「それはお前が“化け猫”だからだ」藍は、怠惰な式を気にした風もなく話を続けた。
「え、と。答えになってないような……」藍の答えに、橙は疑問を抱く。「それだったら今度は、なぜ化け猫は人間のような姿をしているのか、という話になりますよ」
「ならないさ。“化け猫は人の姿をした猫の妖怪”と決まっているからな」
「へぇ……でもそんなこと、いったい誰が決めた――って、ああなるほど、それが人間なんですか?」
要するに“人間が先”だと主は言いたいのだろう。
「そうだ。我ら妖怪は、人間の恐怖心そのもの。人は、理解できないもの、分からないものを恐れる。暗闇の中に、恐怖の対象を見出す。原因不明の出来事や正体不明の存在を恐れる人間は、それらに名前を付けた。妖怪、幽霊あるいは神と。名付けは創造に他ならない。物が固有の名を持つと境界が生まれる。自身とそれ以外の境目だ。全ての存在は――いや、人間を除く全ての物は、名前が付くところから始まる。人間は、自ら生み出した幻想に名前を付けた。それが、我ら妖怪なんだ」藍は人肌まで冷めた燗をすすり、フッと息を吐いた。「まあ、幻想郷の場合は少し事情が違うか。幻想郷の人外どもの殆ど全ては実体化しているからな。人間の恐怖そのものという本来の妖怪とはまた違う存在になってしまった。だが多くの妖怪にとっては、それで良かったはずだ。そのおかげで、人の恐怖を頻繁に喰わずとも辛うじて生きていけるようにはなったのだから」
藍の話は、一応ここで一区切りとなったようだ。彼女は大皿から新しいお揚げを取り、網に乗せて焼き始める。
橙はいなり寿司をひとつ摘んで口に放り込み、モグモグしながら網の上で焼かれている揚げをボーっと眺めて、酔っ払い狐の戯言について考えていたが、出し抜けにこう尋ねた。
「んー……。じゃあ幻想郷の人外達の殆ど全てが、女の子の姿をしているのにも何か理由があるんですか?」
それは、素朴な疑問だった。
「……。それは……」藍はなぜか言い淀む。
「それは?」橙が真実を求める。
「“たまたまの偶然”だ」
そんな偶然があってたまるか、などと考えてはいけない。偶然ならば仕方がない。化け猫は納得した。
それはさておき、猫が言うには。
「なーんか、気に入らないなぁ」
ということで、彼女はちっちゃな口を尖らせている。
「私達は、人間が居なければ生まれてこなかったんですか?」
「ああ、……何が気に入らないんだ?」式のぼやきを聞いて、藍は忍び笑いをする。
「私達は人間なんかよりもずっと強いです。でも、弱っちい人間どもが居なければ色々と不味い事になっちゃうんですよ。……そんなの全然面白くないですね」
橙は不満げな様子だったが、藍は満足げに頷いて言った。
「そうか、そう思えるのなら、お前も立派な妖怪になったということだ」
いつしか夜も更け、飲んで喋って歌って踊って疲れ切った猫は、床にひっくり返って大の字になって眠りこけていた。藍も絨毯の上で無造作に手足を投げ出して、静かな寝息を立てている。七輪は出しっ放しで、中ではまだ炭の残り火が燃えていた。赤く鈍い光が、暗い室内をぼんやりと照らしている。
皆、夢の中に居る。現には誰も居ない。だからこれも夢の中の出来事か。散乱する淡い光の中に、暗い“影”が形作られる。“影”は佇んでいる。何も知らず眠っている妖狐と妖猫を見守るように。
そして、“影”が移ろう――
橙は目覚めた。
途端に軽い眩暈を覚える。頭が重くてあまり気分がよろしくない。昨晩は飲みすぎたのだろう。猫少女はゆっくりと半身を起こし、主の姿を求めて周囲を見回した。
藍は、透明な外壁の傍にある椅子に腰掛けて本を読んでいた。朝の日差しの中で、妖狐の九尾が金色に輝いている。橙は眩しげに目を細めた。狐の少女は、自分を見つめている猫の目に気付き、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「おはよう」
その日の朝餉は豆腐と油揚げの味噌汁、それだけ。
質素な献立にがっかりした橙が、米の飯がないではないか、と味噌汁を美味しそうにすすっている主に不服を申し立てたところ、藍は澄まし顔で「我が式よ。味噌、豆腐、油揚げには共通点がある。それが何か分かるか?」などと言い出した。
橙は、その問いの答えを分かり過ぎるほど分かってはいたが、主のもったいぶった言い方がなんかムカついたので、無視して豆腐を口に入れ――た瞬間「あぢゃっ!」と叫んで白い塊を吐き出した。勢いよく飛び出したオトーフは、向かいに座っている主の顔面めがけて一直線に飛び、あわや激突、というところで藍が恐るべき速さと精密をもって、飛翔する豆腐を箸でつまんで受け止める。彼女はいつの間にやら返し箸にしており、つまんだお豆腐をそのまま橙に突き出してきた。
目の前に差し出されたそれをどうするべきか、橙は一瞬迷ったが、ままよとばかりに主の箸に齧り付く。口の中いっぱいに大豆の豊かな風味が広がり、彼女は柔らかな味をよく噛み締めて、ごくりと飲み込んだ。
その様子を最後まで監視していた藍が「美味いだろう?」と、無感情に言う。橙は主の言葉に、底の知れない凄みを感じた。
その後、ふたりは黙々と御味噌汁を食べた。
しばらくして、朝ご飯を飲み干した藍は、空になったお椀をテーブルに置き、背もたれに身を預けてリラックスした様子で瞑目していたが、何の前触れもなく「ところで」と声を発した。
橙が、味噌汁を啜りながらチラリと主の方へ目を向けると、主は瞼を薄く開けて彼女の方を見つめていた。
「昨夜、七輪を片付けてくれたのはお前か?」
朝食を食べ終わった後、橙と藍は別れることになった。
藍は、昨日に引き続いて測量作業を行うため、今日は無名の丘から賽の河原方面へ向かうという。
建物の外へ向かう際、橙は主の後ろにぴったりとくっついていた。彼女は未だ、複雑怪奇な八雲本邸内部をひとりで移動することが怖くてできないのだった。
猫と狐は、来たときと同様に動く〈円筒〉に乗って最下層まで降りる。高さ250mの巨大な吹き抜けになっている玄関ホールから、自動開閉する円形の開口部を通って外へ出ると、冷たく澄んだ風が草原を波立たせながら吹き付けてきた。無限遠の彼方に空と大地の境界が見える。
猫少女は大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出した後、背後を振り返る。巨大な構造物が陽光を反射して黒い輝きを放っている。今度ここへ来るのはいつになるのだろう、次は紫様も一緒だったらいいのになあ、と橙は思った。
そうこうしている内に、別れのときがやって来た。
「では、今からお前を龍神像の入口へ伝送する」
「あ、その前にお小遣い下さい」
猫が狐の精神集中を妨げる。
橙は、紫様探索に必要な経費を請求するだけだ、などと言って八雲の使命という大義名分を振りかざし、主の懐から50銭という大金を手に入れることに成功した。
目下やるべきことを全てやった化け猫は、改めて藍と向かい合う。狐妖怪は思わぬ出費に若干苦い顔をしながら、乱された意識を再構築する。
藍の右手人差し指の先が宙空をなぞる。その指は何らかの文字を書いているように見えて、橙は今日こそ、それを見極めてやろうと指先を目で追いかける。しかし、指が左に滑ったと認識したときには既に右に動いた後、かと思えば円を描いている、といった具合で、ひとつひとつの動作が前後の動きと複雑に絡み合っており、それらを個別に知覚することは困難であった。
それでも必死に主の指先を追い続けていると、橙は意識が段々と遠ざかっていくような不安定を感じ始める。
藍の指がもう、動いているのか止まっているのかすら分からなくなり、自分が立っているのか座っているのか、そもそも“自分”とは何かも分からなくなり――
――八雲紫を見つけなさい――
――意識の深淵へと自由落下しながら、懐かしい誰かの声を聞いた。
瞬きを一回。
橙は己を取り戻す。
方向感覚を見失っている、上下左右が分からない。強い風を全身に受けて――
――足が地面に着いていない!
体が宙に投げ出され、水平方向に凄まじい速度で飛んでいる。状況を辛うじて把握した橙は、同時に自身へ迫る危険を本能で嗅ぎ付ける。吹き飛ばされた先に巨木がそびえ立っていた。
激突の間際、化け猫は鋭く息を吐いて空中で身を捻り、木の幹へ真横から着地する。両手足の爪を幹の横腹に食い込ませて体を安定させたのち、渾身の力で幹を蹴って隣の木の枝へと飛び跳ねる。迅速の跳躍のなか、橙は素早く背後を振り返り、祠に引っ込んでいく龍神像を目の端に捉えた。この突然の空中射出は、どうやら龍神様の口から吐き出されたことによるものらしい。
理解し納得すると彼女はまた前を向く、狙い定めた太めの枝を両手で掴み、跳躍の勢いをそのままに、振り子の要領でまた次の枝へと飛び移る。そしてまた次の枝へ――
化け猫が向かうは猫の里。妖怪の少女は脇目も振らず、一直線に我が家を目指して樹上を駆けた。
幕間。
薄暗い森の中を行く橙の視界が開けて、木々の隙間から朽ちて傾いた掘っ立て小屋が見えた。
妖怪少女は一日ぶりのマイホームを確認すると、一際力強く木の幹を蹴って大きく跳躍する。風を切り裂き宙を駆けたのち、砂埃を巻き上げながら着地した先は、ジャスト玄関前。地面には長々と靴跡のブレーキ痕が刻まれた。
橙は着地体勢からピョンッと身を起こすと、ガタついた玄関の木戸を力一杯に開け放ち、元気な声を上げる。
「ただいま!」
中でお昼寝していた猫達が、のそりと顔を上げる。
ニャー
猫達は、おかえりなさい、と言った。
橙は、お気に入りのショルダーポーチの口を開けて中身を確認する。主から貰った50銭銀貨が底に転がっている。他には和綴じされた本が一冊。本の表表紙の中心には満月が描かれていて周りを円形の虹が七色に囲っており、右側に筆文字で『本当は近い月の裏側』と記されている。著者名は、“八雲紫”とあった。
準備は万端。妖猫はボタンを留めてポーチの口を閉じる。
さあ、紫様探索の旅に出発だ。
化け猫は、玄関へ向かって勇ましく行進する。昼寝の邪魔をされた猫たちが、気だるげに道を開ける。
橙は勢いよく玄関の戸を開けて――勢いよく閉めた。
雨だ。
まだ降ってきてはいないが、空気が重く湿り気を帯びている。
猫妖怪の橙は生来の水嫌いであったが、藍の式となりその身に〈鬼神〉を憑けてからは、式神が剥がれるのを避けるため、ますます水を毛嫌いするようになった。彼女は、普段の生活において一日の殆どを外で遊び回っている。降水を遮る物がない場所で、にわか雨にあうようなことになれば一大事だ。だから、雨の匂いには非常に敏感になっていたのだった。
出鼻をくじかれた橙は、8畳の茶の間に引き返す。そして、丸くなっている猫達をぐるりと眺め回し、一番図体がデカくてふっくらしている猫の元へ歩み寄って腰を下ろすと、そいつを枕にして仰向けに寝転がる。枕代わりにされたデブネコは、鬱陶しいとばかりに、にゃあとひとつ鳴き、身を起こしてその場を離れた。
猫枕を失った橙は、床に後頭部を打ち付けた。猫どもの不服従は今に始まったことではないので、彼女は特に動じることもなく頭の後ろで手を組むと、天井を見上げた。煙で真っ黒に煤けた梁が縦横に走っている。
これからナニをドーするべきか。
猫の少女は思い巡らせる。というかさっき意気揚々と出発しようとしていたわけだが、冷静に考えたら自分はどこへ行くつもりだったのだろう、と橙は思った。これはいけない、いつも通りの行き当たりばったりでは多分駄目っぽい。まずは作戦を練るのだ。
彼女は昨日“最強の紫様を見つける”と高らかに宣言した。だが、そう言った当の本人が具体的に何をするのか全然まったく分かっていなかった。あのときあの異様な場で、熱に浮かされて激しい興奮状態のなか、彼女自身の意思とは無関係に口が勝手に開いてあの言葉を発したかのようだった。
そんな暗中模索の猫が、唯一手掛かりになりそうだと感じていることが、主から聞いた妖怪と人間の関係性についての話である。“妖怪は人間の畏怖から生まれた存在”しかし、自分がその話のどこに引っかかりを覚えているのかまでは分からず、ただなんとなく気になることとして記憶していた。
兎に角、整理整頓しよう。物事を単純に捉えよう。
八雲紫の最強証明を優先するべきか、八雲紫の発見を優先するべきか、あるいは――
「あ、ふたつ同時にすればいいのかな」
最強証明法を模索しながら境界の妖怪を探す。これぞ一石二鳥の奇策妙計。ならば、難しいことは考えずにとりあえず適当な場所を探してみるのもひとつの手か。適当。もちろん“適切”という意味の“適当”であって、でたらめに探すわけではない。そもそも、かくれんぼ最強の八雲紫を物理的に発見することは不可能なのだから、無意味な探索は慎むべきだ。では結局、八雲の紫殿は今何処にいらっしゃるのか。
八雲紫が出没しそうなところと言えば、彼女の自宅を除けば紅白巫女のいる神社か、亡霊姫のいる冥界のお屋敷あたりだろうか。
だが、神社に行ったら巫女と一緒に茶飲み話をしているスキマ妖怪が普通にいて、あら、もう見つかってしまいましたわ。さすがは藍の式、私の式の式ね。ではあなたには褒美として八雲の名を与えることにしましょう。これからは八雲橙と名乗ることを許します。めでたしめでたし。と、なるわけがない。が、八雲紫という謎めいた妖怪に限ってはその可能性も否定できないところがツライ。
いつの間にか、外は本降りになっていた。
大粒の雨がトタン屋根を激しく打つ音が響いている。先日、河童から二束三文で買ったt=0.35mmの薄鋼板で屋根は補修済みなので雨漏りの心配はない。
室内が暗くなっていく、猫達の目の光だけがいやに目立ち始める。平時でさえ薄暗い橙の家の中は、雨雲で太陽が隠れた今、光源が新聞紙製障子から入る僅かな光だけとなり、朝だというのに夕暮れのようだった。
雨足は強くなる一方で、一向に降り止む気配がない。
橙は、天井から響いてくる単調な雨音を聞きながら、先の見えない思考を頭の中で延々と巡らせているうちに、意識が次第に遠のいて――
――また、紫様の夢を見た、ような、気が、した――
天井から一滴の雫が落ちる。
水滴はぴちゃりと橙の頬を打ち、化け猫は「ンギャ!?」と、驚きの声を上げながら跳び上がる。混乱して辺りを見回すと、猫達がウザそうに少女を睨み付けていた。橙は脱力感たっぷりに息を吐く。知らず知らずのうちに眠ってしまったようだ。
障子戸を開けて外の様子を見ると、雨は止んでいた。
何気なく空を見渡して、彼女はハッと息を呑む。大きな虹が青い空に浮かび上がっていた。
橙は歓声を上げて外に飛び出すと、トタン屋根の上に垂直5mジャンプして飛び乗り、西の空を見通した。
色鮮やかな円弧を眺めて、猫少女は気付いた。よく見ると、くっきり見える虹から少し離れた外側にもうひとつのぼやけた虹があり、二重半円となっている。地面に近い方の虹の七色は、下から紫、青、水、緑、黄、橙、赤の順で、外側の虹は下から赤、橙、黄、緑、水、青、紫の順に光の帯が並んでいた。
外側が紫色だ。空と虹の境界は、紫だ。
高い屋根の上で、朝日を背にして仁王立ちした化け猫は、虹の彼方に八雲立つ様を見る。そして、大きく息を吸い込み口の周りに手を添えて、大声で叫んだ。
「ゆかりさまーっ!!」
大気鳴動の大絶叫が、山間に反響して山彦となる。
ゆかりさまー……ゆかりさまー……
……ゆかりさまー……って、あの八雲の!? そんな奴の名をデカい声で叫ぶな! 出て来たらどうしてくれるのよ!? 恐いでしょ馬鹿!!
山彦さんに怒られてしまった。
橙は屋根から飛び降りた。家の中へ戻り、ショルダーポーチを拾い上げて斜め掛けにすると、猫達に留守番をしておけと命令する。彼女の声が聞こえたのか聞こえてないのか、畳の上で寝そべる猫どもはピクリとも動かない。少し待ったが何の応答もないので、今度は、どうかお留守番をしてくれませんか、と恭しく頼んでみると、ミャと短くぞんざいな返事で承諾してくれた。
橙は外へ出た。虹はもう消えている。
彼女は歩きかけてふと止まり、我が家を一度振り返ると、またすぐに前を向く。そして、今度はもう振り返ることなく歩き出す。
母を訪ねて三千世界
八雲の式の式が、主の主を見つけるため、旅立つ。