八雲パープル   作:生パスタ

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06_東の神社で最強の紫様

 東南東に進路を取れ。

 

 猫の里から南へ下ると霧に覆われた湖に出る。畔に建つ悪趣味な紅い館を右手に望み、そのまま湖岸に沿って進み続けると、湖から分かれる支流にぶつかり、その大きな川に沿ってさらに南へ進むと、人間の里に行き着く。人里の東側には森が広がっていて、一箇所だけある森の入口からは雑草だらけで未整備の小路がひと筋延びており、その道をずっと歩いていくと小高い丘の上に建てられた神社がある。

 郷の最東端に建っているその神社は、郷に住まう者達から博麗神社(はくれいじんじゃ)と呼ばれていた。

 

 今、橙はその神社へ向かうため、視界不良の湖沿いを歩いているところなのだった。

 

 

 湖の周辺は吸血鬼どもがお引っ越してきてから、なぜか年中雨が降らなくなったので、橙にとっては格好の遊び場であった。遊び相手にも困ることはない。霧の湖を根城としているあのクソ生意気な氷精とは、たまに弾幕ごっこをする仲だ。寒いのを我慢する必要があるにしても。

 妖精のほかには、前述の紅い館に住む吸血鬼達も居るには居るが、残念ながら一緒に遊んだことはない。ヴァンパイアはインドア派のようで、夜の宴会以外でその姿を見かける事はめったになかった。

 

 橙はのんびりお散歩気分で、鳥と山彦のふたり組の新曲を口ずさみながら歩く。道草は食わない、今日は湖に用があるわけではないのだ。

 気掛かりはあの御馬鹿妖精だ。奴と出会ったら絡まれて面倒なことになってしまう。だが幸いにして湖の南端まで来てもその姿を見かける事はなかった。橙は、ラッキーラッキーもうけもうけ~、とリズミカルに言いながらホップステップしていたが、ふと、妙な気を感じて、素早く振り向いた。

 

 水面から顔を覗かせている誰かと目が合った。

 

 知らない誰かは橙に気付かれたと知るや、慌てふためき、大きなしぶきを上げて水の中へ姿を消してしまう。そいつが湖に潜る直前、橙は、巨大な魚の尾ひれを確かに見た。

 誰かさんはお魚さんだったらしい。おおかた、猫に食われるとでも思って逃げ出したのだろう。猫妖怪の少女はそう納得すると、霧の湖をあとにした。

 

 化け猫は行く。

 地道に歩いて行く。

 実を言うと、橙は空を飛べる。でもあえて地を歩いていた。というのも八雲紫探しのことがあったからである。主の主がそこらの茶屋で団子でも食べて一服している可能性がゼロではない以上、移動手段に己の脚を用いるのが正解と思えたからだ。

 

 湖から南に流れる川に沿って先へ進む。

 川沿いは広大な田園地帯となっていて、川から分水させた農業用水路がいくつも走っている。用水路は幅50cm程度の石積み水路で、橙は、何か(美味しそうなのは)いないかなー、という感じで水路を覗き込みながら歩いていたが、ようやく冬が終わろうかというこの時期、特にめぼしい水生生物(おやつ)の姿は見当たらなかった。

 

 農作業をしている人間がちらほらといる。畑道に置かれた収穫籠の中には鮮やかな緑色の野菜、キャベツが見える。猫少女は野菜なんぞにはこれっぱかしも興味はない。冷めた目つきで視線を前に戻すと、水路をぴょんぴょん跳び越えて、先へ先へと進むのだった。

 しばらく行くと、水路の材質が20mほど別のものに変わっている箇所に出くわした。石積みの用水路とはまったく違うその材料は、白色で表面は割と滑らかで、側壁には等間隔に小さな穴が並んでいる。興味をそそられた橙が辺りを見回すと、その水路の近くに立札が設置されていた。

 

業務名:霧湖疎水幹線用水路改良検討業務委託

工 種:水路改修比較検討第2案運用試験

    KPフリューム(プレキャスト三面水路 鉄筋コンクリート製 B500×H500)

発注者:霧湖疎水土地改良区

請負者:河城工機

 

 何のことかよく分からないので、橙は先に進むことにした。

 

 

 農作地を抜けると、民家が疎らに建ち始める。ここから先は人間の里、人間の領域だ。

 だがそれがどうした。たかが人間。臆することなどありはしない。

 人通り多い道のど真ん中、小さな猫が胸を張って堂々と行進する。

 

 人間どもよ道を開けろ、八雲様(の式の式)のお通りだ。

 

 猫少女が得意顔で歩を進める。道行く人々は皆、その様子を見て、怪訝な顔をしていた。

 

 人里を東西に貫く大通りは賑わっていた。すれ違う者達の殆どは人間だったが、人外の姿も少し混ざっている。人外と言っても見掛けはほぼ人間だ。橙は魔力の多寡で人妖の区別をおおよそつけていたが、見た目だけでもだいたいの判断ができる。まず第一に、人外どもは例外なくイカれた格好をしている。それだけで9割方判別可能だ。そしてさらに、四六時中自身ありげにニヤつく笑みを浮かべているか、あるいはその逆でこの世の終わりのような顔をしているかのどちらかだ。

 それらの特徴に当てはまらない人外がいたとしても、大抵そいつは取るに足らない矮小な存在であるので、そんなのは放っておけばよい。

 

 人里を東に向かって歩く。

 橙が人里へおりるのは10日ぶり、のはずで、彼女自身あまりよく覚えていないが、前回訪れた際は、豆腐屋で油揚げを買うついでに魚屋からヤマメ(蜘蛛ではない)を一匹ちょろまかしたような記憶がおぼろげにある。

 まことに遺憾だが、今回は魚屋に近づかないようにしよう、と猫は思った――

 

――そう思いながらも、魚は駄目でも他の物なら問題ないはずだ、とも思った。

 狐の主からお小遣いをたっぷり頂いている成金の妖猫は、今ならなんでも買えるし、お買い物でもしていこうかと思い立つ。ちょうど油揚げも切れたことだし、また樋口豆腐店でトラップ用おあげの補充をしておくか、今度は2枚買おう、よーいドンで別々の方向に投げれば前のときよりも時間稼ぎができるはずだ、とかなんとかつらつら考えているうちに、いつの間にか人里を通り過ぎていた。

 油揚げは買えなかった。だがそれでよい、このお金は八雲紫探索資金なのだから。建前は。

 

 人里を出て東に進む橙の前に、分かれ道が現れる。

 分岐の中央には立札が立ち、札の上側に『幻想郷東参道』、少し離して下側には『博麗神社↑ 命蓮寺(みょうれんじ)→ 夢殿大祀廟(ゆめどのだいしびょう)→』と書かれている。

 そして、その立札の傍にはもうひとつ小さな立札が立っており、それにはこう書かれていた。

 『神霊廟(しんれいびょう)に用向きの者は夢殿大祀廟を訪ねよ』

 この命令口調から察するに、仙人とかいう奴らは驕りたかぶった連中に違いない。橙は、できればそういう勘違い野郎どもとは会いたくなかった。

 

 差し当たって、橙の目標は神道であり、仏教と道教に用はない。彼女は案内にしたがって直進することにした。

 橙は参道を進む。

 “参道”といっても、この道が参道だということになったのはごく最近の話で、なんか色々と宗教っぽいのが増えてきたなあ、と考えた人里の者が、とりあえずここいらの道を“参道”にしておくか、みたいな感じでそうなったので歴史も何もない。

 ちなみに、幻想郷東参道開通の際、山の神社の連中も便乗して登山道を参道にしようと画策したのだが、天狗どもから勝手なことをするな、とクレームが来たため、架空策道の件も含めて現在両者間で調整中との事だ。

 

 博麗神社へ向かう一本道は、森の中へ続いている。足元は悪く、辛うじて道と判別できる程度の砂利が敷設してある程度だ。

 橙が砂利を踏む足音だけが森の中に響く。人っ子一人いない寂しい道のりだった。

 

 木漏れ日を浴び、終始無言で歩みを進める橙。やがて、丘の上に建つ神社が見えてくる。境界に建つ神社、博麗神社だった。

 そのまま真っ直ぐ行けば到着、であればよいのだが、神社の入口は丘を反対の東側まで回りこんだ先にあり、そしてさらに、境内に入った途端お目見えするのは長い長い石段で、それを上り切ってようやく本殿へ到着という次第だ。飛べる者にとっては関係ないが、徒歩の場合はかなりダルい。

 橙は当然“飛べる者”にカテゴライズされる。空飛ぶ猫だ。にもかかわらず、歩くことにした。せっかくここまで徒歩で来たのに、最後の最後で飛ぶのはもったいないような気がしたからだ。

 

 参拝客に対して“帰れ”と言わんばかりの長ったらしい石段を上ると、橙の前に真っ赤な鳥居が現れる。

 橙は、鳥居の前で立ち止まり、緑の帽子を取ると一礼する。そして、神様なんかとは絶対にぶつかりたくないので、なるべく参道の端を歩いた。

 朝の境内は静謐で空気は恐ろしいほど澄み切っており、化け猫は妙に喉の渇きを覚えたので、拝殿手前の手水舎に寄ることにする。青銅の龍神像の口からチョロチョロと水が流れており、像の下に設置されている水受けに流水が溜まっていた。

 橙はサッと視線を巡らせる。柄杓がない。それくらい用意しておけ、と猫は肩を落とす。

 止むを得ず橙は、水面に顔を近づけ舌を伸ばし、ピチャピチャと音を立てて直接水受けから飲み始める。神社の水はこの上なく清涼で、妖怪にとっては毒にも薬にも感じられた。

 

 喉も潤い、人心地がついた妖猫は、次に拝殿に向かう。

 橙はふと思う。今更だが、博麗神社は何の神を祀っているのだろう。もしかしたら、ここの巫女も知らないのではないか。そもそも、この神社で神の気配を感じたことなどない。ここに、神はいるのだろうか。

 

 猫妖怪は神前に立ち、帽子を脱ぎつつ軽く頭を下げ、ショルダーポーチに手を突っ込んで50銭銀貨を取り出すと、賽銭箱に向かってそれを放り投げる――ような仕草をしてポーチへ戻した。こんなご利益のなさそうな神社にお賽銭を収める必要はない。それから鈴緒を力一杯振って鈴を鳴らす。カランと一回、明瞭な音が境内に響き渡る。

 ゆっくり深々と二度お辞儀をして、二度拍手を打つ。最後にもう一度お辞儀をしてから、橙は願をかけた。

 

「私は猫の里に住む化け猫の妖獣、八雲の式の式、橙と申します。本日、参拝させて頂いたことに心から感謝いたします。神様、どうか私の願いを聞いて下さい」

 

 それは、とても落ち着いていて、とても静かな口調だった。

 神の存在を疑っている上、賽銭すら納めていないくせに、やたら真剣な表情だった。

 

「どうか、紫様が――」最強でありますように、なんて願いはおかしい、それじゃあまるで今は最強ではないかのようじゃないか。見つかりますように、というのも駄目だ。そもそも妖怪が神頼みをしていることがおかしいのに、自力で見つけろよ、という話だ。

 と、なれば――

 

「紫様が、健康で長生きできますように」

 

 ――これだ。

 紫様も、もうお年だからなあ、足腰にガタがきていてもおかしくはないでしょ。ウンウンと橙は頷いた。

 妖怪の賢者八雲紫の忠実なる式の式は、ご高齢の方に対する敬いの心をけっして忘れてはいなかった。偉い。

 

 こうして、橙は神社を訪れた目的の半分を達成したのだった。

 

 にしても、ここの管理者殿はどちらにいらっしゃるのか。あの人間は割と目立つ色をしているので見逃すなんてことはないはずなのに。おおかた昼寝でもしているのだろう。いや、お天道様がまだ頂点まで昇りつめていないので、朝寝というべきかもしれない。

 橙は、神社の住人を探すため、拝殿裏の居住スペースに回り込むことにした。

 まったく手入れのされていない小さな畑の脇を通り、神社の西側に赴く。

 

 誰も居ない。

 濁水の溜まっている池の水面が微かに揺れている。

 化け猫は裏庭の中央まで歩みを進め、立ち止まる。そして、これからどうしよう、と腕組みをして考え始めたそのとき――

 

「紫のトコの猫じゃない。なに? アンタも退治されたいの?」

 

 茂みをガサガサ掻き分けながら、林の中からひとりの少女が現れる。

 おめでたい紅白の巫女装束に大きな赤いリボン。幻想郷の巫女、博麗霊夢(はくれいれいむ)がそこに居た。

 

「……おはよう。巫女さん」

 

 橙は、慎重にご挨拶する。

 紅白の巫女はなぜか不機嫌そうで、化け猫は僅かな緊張を感じていた。まさか本当に退治する気じゃあるまいな、この鬼巫女、猫の額を一筋の汗が流れ落ちた。

 巫女は、「アー、オハヨ」と機械的に挨拶を返しながらズンズン歩き、橙の傍を通り過ぎて縁側まで行くと、履物を脱いで上がり、そのまま家の奥へ消えてしまった。

 

 あとに残された橙は、呆けたように立ち尽くす。果たして自分は歓迎されているのか、疎まれているのか、このまま待っていればいいのだろうか。それを教えて欲しい。

 猫少女は小さく息を吐き、それにしても、と思い返す。あの巫女が自分のことを憶えているなんて驚きだ。これは本当に意外なことで、てっきり巫女の第一声は「アンタ誰?」かあるいは、声すら発することなくしばきにかかってくるものとばかり思っていたのだが。鬼の空念仏というやつだろうか。

 

 そんな益体もないことを小さな唸り声を上げながら考えていると、巫女がお盆を持って戻ってきた。紅白の少女は、化け猫に対して縁側に座るよう身振りで示すと、自分だけさっさと腰掛けてお盆を傍らに置く。

 橙が霊夢の隣にちょこんと座ると、巫女は銀色の光沢を放つ容器からお茶を湯飲みに注いで、妖怪猫に渡してきた。

「“魔法瓶”っていうんだって。霖之助さんから“貰った”の。半日は熱いままだから便利なのよ」

 巫女少女は、どうよコレすごくない? という感じのドヤ顔で妖怪少女に話し掛けてきた。

 

 橙は、“りんのすけさん”とは誰だろう、紫様にはさん付けしないくせにそいつにはするのかよ、と思いながら問う。

「ところでさ、なんで湯飲みが3つもあるの?」

 化け猫が指差すお盆の上には、木製容器に入れられた海苔せんべい十数枚と、湯飲みがひとつ乗っている。湯飲みはすでに橙と霊夢がひとつずつ手に持っているので、ひとつ余っていた。

 

「まあ、なんとなく」

 

 と、博麗の巫女は言った。

 猫の妖怪は、“なんとなく”と言われても、何と返答すればよいのかまったく分からなかったので、別の話題を振ることにした。

 

「さっき、何で森の中から出てきたの?」

「三馬鹿妖精がちょっとね……。ったくあいつらときたら……」

 

 馬鹿妖精は一匹だけではなかったらしい、と言っても妖精は総じて馬鹿なのだが。

 

「で」と霊夢。

 橙は巫女へ顔を向ける。

「あんたは何しに来たの?」

 

 巫女の問いに、橙は、ん~、としかめ面をして考え込むような仕草を取り――

 

 次の瞬間跳ね飛びながら振り返り、背後の障子戸を神速で開け放ち、素早く視線を巡らせて中の様子を確認する。

 座敷の中はひっそりとしていて、何者の気配もない。

 こたつ布団が掛けられたままの円形ちゃぶ台の上には、作りかけの紙垂(しで)と奇妙な虫篭のような物があった。その虫篭には小さな表札が取り付けられており、それには『輝針城離宮』と達筆な筆文字で書かれている。

 それだけだった。特に妖しいモノは見当たらない。ましてや八雲紫が居るはずもない。橙は静かに障子を閉めて、また縁側に座り直した。

 

「何よ、いきなり」巫女は眉をひそめる。

 

「や、別に」

「あ、そ」

 

 霊夢はそれだけ言って、茶をすする。

 橙も茶を飲み、せんべいをボリボリ食った。

 場が静まり返る。青空高く、トンビがピーヒョロロと鳴いていた。

 

 噛み砕いたせんべいを飲み込み、少し考えた後、橙は尋ねる。

「あのさ、あなたは紫様のことをどう思ってるの?」

「変な奴」

 

 即答だった。

 橙は、お前もじゅうぶん過ぎるほど変な奴だよ、と思った。

 化け猫は、気を取り直して再度質問する。

 

「じゃあ、私の事はどう思ってる?」

「どうとも思ってない」

 

 またしても即答だった。

 橙は、駄目だこの巫女、頭が空中散歩している、と思った。

 化け猫は、気を取り直して再々度質問する。

 

「じゃあ……、紫様は今ドコにいるか知ってる?」

「知らないわ」

「検討は?」

「つくわけがないじゃない」

「それじゃあ――」

 

「だから、知らないって。あの世の屋敷でおせんべいでも食べてるんじゃないの」霊夢は、橙を遮るようにして言う。

「それは巫女の勘?」己と似たような思考をする霊夢に、橙は若干の可笑しさを感じながら問い掛ける。

「いいえ」霊夢がNOと答える。

「じゃ、博麗の巫女の勘によると、紫様は今何処で何をしているのかな?」

 博麗の巫女の勘については、しばしば妖怪の間で噂になるほどだった。巫女にちんちろりんで挑んで、すってんてんにされたある妖怪が唱えた説によると、“博麗の巫女は単に運が凄くいいだけ”ということらしく、幸運というものは単純明快で強力無比な性質を持っているため、妖怪達は皆、巫女を恐れているのだった。

 

「アイツは、すぐ近くにいるわ」

 

 片目を薄く開け、しめやかに言う霊夢。

 その無味乾燥とした言い方に、橙は、どうしてだか心臓が縮み上がる。まるで、絶対の真実を告げるかのような、そんな物言いだった。

 妖猫は慌てて周囲を見回し気配を探る。しかし、八雲紫はいない。居る訳がない。

 

「……いないよ」橙は恐る恐るといった風に言う。

「あんたが庭に立っているのを見たとき、……変だったのよ。あんたは余所見をしていたのに、何かがこっちを見てた」霊夢は、この妙な感じはあのスキマでしょ、と続ける。

 橙は、不気味なことを言い始める巫女が恐ろしくなる。気を落ち着けるために茶でも飲もうと、湯飲みを口に近づけたとき、茶柱が一本立っている事に気が付いた。さすが、巫女のいれた茶だ、縁起がいい。

 近くにスキマ。ここで化け猫は思い出す。最近、主の主の夢をよく見るような気がすると。その内容をこの巫女に話して夢占いしてもらったらどうか。

 そう思って、橙が口を開きかけたとき。

 

 空から人が降ってきた。

 

 そいつは、風圧でスカートを思いっきりめくらせながら急降下してきて、勢いよく地面に着地する。

 そして、少しバランスを崩しかけて、わっ、と言いながら急いで身を起こし、橙の方へ顔を向けると快活にこう言った。

 

「よう、珍しい猫がいるな」

 

 黒の胸当て付き吊りスカートに白いエプロン、右手には草箒、左手には妖しげな本。魔法を使う人間、霧雨魔理沙(きりさめまりさ)がそこに居た。

 

「そう言うあなたは珍しくもない人間だね」橙は少し嬉しげに言う。この白黒も自分のことを憶えているようだと知って、何となく安心したのだった。

「そこはせめて“珍しくもない魔法使い”と言ってくれ」黒魔術少女は歩み進めながらそう言って、橙の隣に腰を下ろす。

 化け猫は、シャーマンとマジシャンに挟まれる格好となった。

 

 霊夢は、“なぜか”お盆の上に置いてあった湯飲みに、魔法瓶からお茶を注ぎ、「ん」と言いながら魔理沙に差し出す。魔理沙はそれを「おう」とだけ言って当然のように受け取ると、ズズッと音を立てて飲み始める。

 橙はその様子を興味深げに見守っていた。

 ひとつ余計にあった湯飲みは、この白黒のために用意されていたのだろうか。巫女はこの魔法使いが来ることを知っていたのだろうか。もしかして、魔法瓶とやらでお茶を保温しているのも、魔理沙がいつ来てもいいようにそうしているのだろうか。巫女は浮世離れしているように見えて、意外と世話焼きなのだろうか。

 化け猫は、目の前にいる人間ふたりの関係を理解できなかった。

 

「今日は何しに来たの?」霊夢は魔理沙に尋ねた。

「何も。香霖(こうりん)のトコで本を“借りて”帰るところだったんだが、神社にミコネコが見えたんでちょっと寄ってみただけだな」

 

 魔理沙がどこで本を借りたにしても、郷の端の端にあるこの神社が帰路の途中にあるわけがない。

 

「この本なんだが」魔理沙はそう言って、先程から脇に抱えていた本を、橙の膝の上に勝手に置いた。「どうやっても開かないんだ。困ったことに――おお、そうだそうだ」わざとらしい声を上げて魔理沙は手のひらに拳をポンと落とした。

「霊夢。お前の問答無用インチキ封印解除で開けてみてくれないか?」魔法使いはニヤリと笑った。

 

「はぁ……、あんたねぇ、最初からそのつもりだったんでしょ」巫女は呆れ顔を返す。それから目つきを鋭くして言葉を継いだ。

「ねえ、もしそれが危険な妖魔本で、あんたが間違って封印を解いてしまったときはどうするつもりだったの? 封印されている妖怪が幻想郷のルールを知らなかったら、“弾幕ごっこしようぜ”なんて言ってる間に頭から喰われておしまいになるかもしれないのよ」

 

 巫女は割と本気で、魔法使いの少女のことを心配しているようだ。その口調には平素の無気力が一切含まれていなかった。

 魔理沙は言葉を詰まらせる。彼女にとって、己の過信から来る不注意で、霊夢の手を煩わせるような事態になることだけは、絶対にあってはならないことなのだった。

 橙は、突然シリアスな空気を醸し出す人間達に挟まれて、ただ黙ってせんべいをバリバリ齧ることしかできなかった。

 

「死ぬのは勘弁だな。永遠に生きることができなくなる」と、魔理沙は呟く。

 しょんぼりしている魔法使いを見た化け猫の脳裏に、弱っている人間に追い討ちをかけてやろうという妖怪として至極全うな考えが思い浮かぶ。橙は口元を歪めてこう言った。

 

「一度死んだら、もう死なずに済むよ。そうなったら永遠に生きるのと同じじゃないかなあ」

 

 呪詛を吐く凶兆の黒猫。だが、魔理沙は普通に笑って返した。

 

「何が同じなんだ? 私は一度だって死にたくないんだ」

 

「ふーん、あっそう」手応えを感じなかったので橙は流した。「……妖魔本って妖怪が書いた本のことだっけ? でもコレ、妖魔本とかじゃなさそうだけど」そう言って、猫少女は膝の上に置かれた本を開こうとしたが、指がツルツル滑ってどうしようもこうしようもないので諦めた。

「そうね。変な気配も感じないし……、題名もそれっぽくないし、おまけに装丁も地味だし。ダイジョブそうね」霊夢は化け猫から本を奪い取り、上下左右からじろじろと眺め回す。

「変な封印ね。この本自体が何か別の場所にあるような……。まあいいわ」

 

 巫女はそう言って、おもむろに片手を振り上げる。そして、「よっ」という間の抜けた掛け声とともに手に持っていた本へ手刀を振り下ろした。

 

 パンッ!!

 

 小気味の良い破裂音が響く。

 

「解けたわよ」霊夢はあっさりと言って、魔理沙に本を手渡した。

「本当に強引だな」魔理沙は苦笑して、それを受け取った。

 

「ねえねえ、それでその本は結局なんなの?」橙が興味津々といった風に魔理沙へ尋ねる。そういえば自分は何か重要な用件があって神社へ来たのではなかったか、と思わないではなかったが、とりあえずそれについては捨て置くことにした。

「これか? フフフ……、まあ、まずはこの本のタイトルを見て欲しい」白黒の少女は、自身ありげな様子で表表紙の題字を指差した。

 

 化け猫は、改めてその本を観察する。

 大きさは横20cm、縦30cm程度。表紙は表、裏、背の全面が薄緑色で、少々ごわごわした厚紙が張られている。そして、光沢を放つ黒文字のタイトルが表表紙に刻印されていた。

 

『永安15年度 宇宙航空研究開発事業 超光速通信機械設備工事 設計図面(縮小版)』

 

「どうだ。凄いだろう?」魔理沙は満面の笑みを浮かべた。

「何がよ?」霊夢は、本当に何が凄いのか分からないので尋ね返す。

 

「現在の日本の年号を知っているか?」

「確か……。“平成”だったかしら?」

 

 外の世界のどっかの偉い人がそう決めたということくらいは、情勢に疎い楽園の巫女でも知っていた。

 そして、無知無学の化け猫は知らなかった。が、ウムウムと訳知り顔で頷いて知ったかぶりをしていた。

 ちなみに、幻想郷の暦は現在130季、博麗大結界構築から130年が経過している。

 

「そう、今は平成27年だ。まあ、年度区切りだと、まだ平成26年度だけどな」

「ずいぶん詳しいのね」

 

 幻想郷という閉鎖社会で暮らす者が、外の世界の最新情報を仕入れる手段は限られている。スキマとか極一部の連中のみが自由に内外を行き来できるが、普通の人間はその限りではないはずだ。

 現在が平成何年か、という問いに迷いなく答えられる者は、そうはいない。

 

「ついさっき、もうひとりの巫女と化け狸に確認を取ってきた。間違いないぜ」

「ああそっか、あいつらなら……って」霊夢は小さなため息をついた。「用意周到ね。何が“ちょっと寄ってみただけ”よ。やっぱり封印を解くのが目的だったんじゃない」

 魔理沙は大声で笑い、「まあな」と言った。

 

「ちょっと、分かんないんだけど。つまり?」

 

 じれったくなった橙が、話の先を促した。結局、何が“凄い”のか。化け猫はとにかくそれを早く知りたかった。

 二尾をフリフリしている猫に対して、諭すように魔理沙は言う。

 

「つまり、今は平成であって永安とやらじゃない」

 

「それは分かってるよ!」いい加減にしろ、この白黒キノコ。橙は全身の毛を逆立てる。

 

「まあ、そう慌てなさんな」白黒キノコは飄々としている。「今は永安じゃないが、今までも永安だった時代なんて、我らが日本国にはない。……どうだ? おかしくないか? この本は、過去に作られた訳でもないし、当然、現在作られたわけでもない、とするとつまりこれは――」

 

 魔理沙は、目を輝かせて言った。

 

 

「未来で作られた本なんだよ!」

 

 

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