プロローグです。艦娘は次回から登場します。
本作に登場する『橙花』は架空艦です。現代の護衛艦あたりを想像してくれれば幸いです。
私の艦が沈む。
この事実だけが私の胸を痛める。
(…頼むっ!私を『橙花』と共に死なせてくれっ!)
声になったのかも分からない。
周りの音さえも聞こえない。
私はしゃがんだまま自分の体を支えてくれる二人の乗組員の手を振り払おうとした。しかし私の体にそれをさせる力は残っていない。
あぁ…どうしようもできない…
包帯を巻かれた額から赤い血が溢れる。全身に無数の傷も作った。しかし死んだ部下たちに比べたら、私の傷など、どうということでもない。
艦橋にある操舵室は血の海だ。周辺は大量の機材と部下たちの体の一部があちこちに散らばっている。この艦橋では一体何人が死んだか。いや、何十人か。そこらじゅうに、誰かの手、足が落ちている。
少し前まで私の近くで海図に鉛筆を走らせていた航海士の頭がない。その右手に鉛筆を握ったまま、海図台に突っ伏している。その姿はまるで膝立ちのまま、器用に居眠りしているかのようにも見えるが、頭がない。
あの航海士は一瞬のうちに逝けたのだろうか。自分が死んだことも、痛みさえ分からずに。それが不幸中の幸いとなったのかは私には分からないが。
聴力を失いかけていた耳が、やっと音を拾いだした。聞こえるのは艦が軋む音と、波の音と、誰かの大声。
「……長、大波艦長!生存者は皆カッターと内火艇に乗り移りました。最後は大波艦長だけです。離艦しましょう」
私は声の主が私の左半身を支える年若き航海長だと気がつく。
「…航海長、私はこの艦の責任を取らねばならない…私はこの艦に残る」
力を振り絞り、やっと出せた声はすぐに航海長の大声でかき消された。
「ハッキリ言います!ダメです!認めません!この艦の責任を取りたいなら…もう一度、私たちと戦ってください!それが仲間たちに対する最大の慰めであると感じます!」
ははっ…若いってのはいいな…
航海長もまた、無傷ではない。血だらけの赤い顔で苦痛に耐えながら、私に笑顔を見せている。その笑顔がまた私の胸を痛めた。
しかし航海長…
私は責任だけで死ぬのではない…
ふと、『橙花』の思い出が蘇る。
「…なぁ、お前は『橙花』が好きか?」
私の右半身を支える若い船務長に聞く。彼もまた右足に赤くなった包帯を巻いている。
「えっ、あっはい。もちろんであります」
「私もです!」
堪らず航海長も答えた。
私はその答えだけで笑みがこぼれる。この艦は愛されてるなと感じる。
「…この艦で過ごした思い出は皆いいものだったよな…」
「はい、もちろんです」
「厳しい訓練に明け暮れ、食事はくだらない話題で盛り上がった…」
この艦での様々な思い出が蘇る。
「艦長…」
航海長も船務長も俯いている。
慣れ親しんだ自分たちの艦との別れは辛いものである。
別れか…
その別れの根源となった黒い敵が脳裏に浮かぶ。
「アイツらさえ、出て来なければ今頃は…」
ここで艦が大きく揺れる。ついに沈没へのカウントダウンが始まったのだ。
「…ッ!か…艦長!早く脱出しましょう!」
航海長は頭が痛んだのか、右手を頭に当て、私の左腕を肩に乗せた。
船務長もそれに続き、私の右腕を肩に乗せた。
「やめろっ!お前ら!私は『橙花』に残るんだ!『橙花』と共に死なせろ!」
「ヤです!無理矢理でも連れて帰ります!」
私は必死の抵抗を見せるが、二人は許さなかった。
ますます艦の角度が高くなってきたとき、ラッタルを勢いよく駆け上がる音が聞こえた。その足音は私の前まで来て止まった。
「はぁ…やっぱりな」
ため息と呆れ声。
見上げれば相棒の副長であった。
「船務長、航海長、ありがとう。この艦はまもなく沈む。名残惜しい気持ちは分かる。だが貴様たちの若い命を散らせるほうが惜しい。脱出するぞ」
「はいっ!」
航海長は先にラッタルを下りようとするが、足に包帯を巻いた船務長を見て引き返した。
「船務長!私に乗ってください!急いで!」
「すまない…貴様も頭の傷大丈夫か?」
航海長は何も答えないまま、船務長を背負うと操舵室を一度眺めた。
仲間たちの遺体はそのままである。まともな葬式を行うことができないことを心の中で詫び、冥福を祈った。
「敵は必ず取るからな。安心して眠れよ」
航海長と船務長は副長に敬礼し、操舵室を後にした。
「…艦長、俺らも帰るぞ」
「…降ろしてくれ、私は『橙花』と…」
私の精神がどうにかなってしまいそうだ。ここを離れたらもう二度とここには戻れない。
艦内はさらに傾き、床は大きな坂となった。まだ沈まないのが不思議なくらいだ。我々の脱出を待っているのかもしれない。
「今さら何言ってんだ、急ぐぞ」
副長は私を担いだままラッタルを駆け下りる。操舵室を目に焼き付ける暇さえ与えずに。
「あぁ…」
操舵室はあっという間に視界から消えた。もう二度と見ることはできない。
「……」
ラッタルを下りる衝撃が体に響く。体のあちこちにある傷口がまた開きだした。それと共に熱気も体を襲ってきた。艦内は火災が発生している。
しかし副長は迷うことなく、私を担いだまま急ぎ足で火災を避け、狭い通路を進んでいった。
「副長、私を担いでたら、脱出しようにできないぞ…置いてけ…」
「うるさい、黙れ」
さすが副長だ。上官にも言葉が容赦ない。
艦内は火災よる煙が充満してたが、行く先行く先、火災などで進めないところがなかったのが幸いだった。おかげですぐに外に出ることができた。
「艦長ー!副長ー!こっちでーす!」
一隻の内火艇が艦に横付けされていた。中から数人が大きく手を振っている。
私と副長はすぐにこの内火艇に乗り込んだ。乗組員たちの喜びの声が、私と副長を迎えた。
内火艇はすぐに艦から離れ、他の内火艇やカッターが待っている方を目指した。
内火艇内は乗組員が艦長と副長の無事を喜んでいる。副長も笑顔で乗組員と会話を始める。
しかし私はそれらの声を聞こうとはしなかった。ただ視界の先にある光景を見つめていた。
艦首を天高く持ちあげる『橙花』の姿である。
夕日に照らされた『橙花』は徐々に艦尾から沈んでいった。私が先ほどまでいた艦橋を波が飲み、数十秒ほどで『橙花』はその姿を海の中に消した。
「『橙花』…本当にすまない…」
私は『橙花』が私の脱出を待っていてくれたような気がしてならなかった。
『橙花』と死んだ乗組員たちに感謝の気持ちを込め、私は『橙花』が沈んだ海に敬礼をした。
海は何も言わず、我々の内火艇を揺らすだけだった。