ーーー私の左手は右手と違って不器用で、何かを支える事すら得意ではなかった。故に私は左手に美的な価値を与えることにした。
一切の労働を器用でよく働く右手に任せ、左手には丹念なケアと休息、そして少々の自尊心を与えてやった。
そのお陰か左手は一切のシミも傷もなく美しさを保ったが、その煽りを受けて右手は傷が多く、指も少し曲がってしまった。
私は恐怖しているのだ。
明らかな差別を与えたこの両手が、いつか反逆し、寝ている間に私を絞め殺してしまわないかと。
そう、私は恐怖しているのだ。
そうなる事を望んでいる私自身を。
・奇譚file-7.【辻狐/膝落】
どうしてこんな事になってしまったのか。
見知った町の、見知らぬ姿を見てその男は焦燥に包まれていた。
元はただの噂話だったはず、いや『噂話ですらなかったはずだ』
しかし彼を取り巻く現状はそれを事実として認識させている。
いつもの通勤路、特に代わり映えのない道の筈だった。
巷に流れている噂話はよく知っていたが、よく知っていたが故にただの与太話であるとも知っていた。
喉が渇く。季節はまだ春の気配を残している。それでも確実に夏の足音を感じさせる陽射しが彼を焦らせる原因の一つにもなっていた。
公園が見える。時間帯的にも人気が無いのは違和感はない。しかし鳥のさえずりの一つも聞こえないのはやはり不自然だった。
水くらい、飲んでも大丈夫だろうか。
そんな思考が彼の頭によぎる。
所詮噂話だ。実際に経験したという者もいない、いない筈だ。
ならばその話が間違っている可能性もーーー
「やめておいた方が良いんじゃないかな」
今にも公園の水飲みに吸い付こうとする彼に、そんな声が届く。
「ひ、人がいるのか?じゃあやっぱり」
彼の声に驚きと安堵の感情が混じる。
「残念だが、僕はそこにはいない。そこは『君が良く知っている』通り『誰もいない町』で、僕は、うん、何と言ったらいいかな。まぁ君のいるそことは違うところから君に話しかけている」
彼は理解できない顔をしたまま、しかし声の指す言葉にもう一度焦燥を見せた。
「ど、どうしたらいいんだ。俺だって別にーーー」
「知っているさ。この町のことなら僕は大体知っている。ああ、とは言っても神様とかそういう類じゃないよ。この街は多少特別なところがあってね、『そういうもの』が湧きやすい。依代があったなら尚更ね」
彼は訳がわからない、という表情を一層濃くする。
「まぁ、僕はさっき言った通り別に神様ではないしし『知っている』だけで直接君を助けることができるわけではない。そういう義理も特にない。ただ見過ごすのも本意ではない。だから一応確認しようか。君は『そこから出たいかな?』」
その言葉に彼の顔から他の一切の感情が消え、懇願が姿を現す。
「助けて欲しい。ここから出たい。出してくれ、お願いだ。いや、お願いします」
「ふん、別に僕が原因なわけではないけどね。後1時間……いや状況によってはもう少しかかるかも知れないがまぁ待ってろ。多分なんとかなるだろうさ。それまで木陰にでもいて休んでいろ。ああ、少なくとも現時点で君に降りかかっている『噂話』は本物だ。そのルールに外れる事をしたら保証はできないからそのつもりで」
その言葉に彼は、安堵と放心を足して二で割ったような表情でふらふらと木陰に歩み寄ると、とすん、と軽い音を立てて座り込んだ。
*
ここ二ヶ月程の間に辻音小学校の児童の間である噂が流れていた。
辻音小学校は小高い丘の上に建っており、例えどの地域に住んでいようとも通らなければならない一本の坂道がある。
長さにしたら200m程で、大した距離があるわけでもないが、そこそこの傾斜を持っており小学生、それも低学年にとってはそこそこ辛い坂道という事もあってか『心臓破りの坂』等と言うオリジナリティの欠片もない渾名が付けられていたりもする。
その坂の中間程に1m程の大きさの小さな祠が立っていて、普段は常にその扉は閉まっているのだが、希にその扉が開いており、その中を見たものは『別の世界』に連れていかれる、と言う噂が流れているのだ。
別の世界と言っても別段特別なことはなく、この街と全く一緒の作りの、ただし『何一つ生物が存在しない』世界であるという。
迷い込んだものがどうなるかは諸説あるが、大きく分けて『違和感に気づいたら元の世界引き戻される』パターンと、『そのままその世界に取り残されてしまう』パターンだ。
戻ってこれなければその話を流布出来る者もいないだろうに、という疑問はあるもののまぁその辺りは噂話の噂話たる所以、と言ったところか。
小学生というのは兎角そういう話が好きなものだから、話が生まれること自体はそう珍しい事ではない。
問題はこの街がそういう話に敏感すぎる事だ。
噂話を耳に挟んでから1週間。流れ始めたのがもっと前、と言う話を聞いてから私は刑罰の執行を待つような気持ちで毎日を過ごしていた。
そして今日。
学校が終わった帰り道、校門を出たのを見計らったかの様に携帯電話が鳴った。
着信相手は予想の通りの相手で、見計らったかの様、ではなく、本当に見ていたのだろうな、とため息をつく。
「どうも、お久しぶりです。ヨウさん。そろそろ来るかとは思ってました。来ないならその方が良かったんですけども」
「……いつも言葉にトゲを感じるのは僕の気のせいかな。別に僕が原因というわけでもないだろうに。まぁ久しぶりだね。以前の話から二ヶ月、と言ったところか。その反応を見るに噂話は聞いてるようだね」
「はぁ、辻音小学校のあの噂話ですよね。あれ以外とかで最近できたとかなら分かりませんけども」
「うんうん、その話だ。そして僕が君にこうして連絡を取ってるということは」
「そんな勿体付けなくてもいいです。実際に被害者が出たんでしょう?取り敢えずヨウさんのとこに行けばいいんですか?それとも別に?」
「うん、話が早くて助かるよ。僕の家に来てもらえるかな。今回は分かり易い話だし、何より分かっていることも多いしね」
「わかりました。……まぁ分かってそうですけども今学校を出たばかりなので、15分位かかりますよ。特に急ぎとかではないんですよね?」
「うん、被害者にも余裕を持って時間は伝えておいたし早々すぐに事態が悪化するような話でもないからそんなに急がなくてもいいよ」
「わかりました、では後で」
電話を切って、歩いていた道を引き返す。私の家とヨウさんの家は逆方向だ。
電話が来た時点で予想はついていたのだから最初からそっちに足を向けておけば良かったが、それはそれで思い通りに動かされているようで癪だった。
とはいえそんな思いを持っていることすら彼の思い通りのような気もするからどうしようもない。
何にせよやることは変わらないのだ。
*
いつ見ても文化財に指定されそうな家だ、とヨウさんの家を見る度に思う。
赤茶けた煉瓦で固められたその外壁は洋の雰囲気をまとわせつつも、造りは組木細工のような和風建築だ。
歴史の資料で見た明治や大正の頃に立てられた建物がこんな雰囲気をしていたのを記憶している。
しかしあれは民家ではなく庁舎や図書館、駅舎と言った公的建築だったはずだがこういう民家もあったのだろうか。
一度いつ頃建てられたのか訪ねた事があったが「少なくとも僕よりは年上だね」適当にはぐらかされた。
インターホンの代わりに置かれた弾き鐘を鳴らし、返事を待たずに家に入る。
どうせ来たことくらいわかっているだろう。
勝手知ったる他人の家、という事もありそのまま入ってすぐに見える階段を上り、『たかめようのしょさい』と平仮名で書かれた頭が悪そうな札のかかっている部屋に入る。
「おや、早かったね。まだ10分程しか経ってないよ」
ヨウさんは振り向きもせずにそう言った。
いつもの様に黒い帽子を被り、黒いインバネスのような羽織を着て高級そうな木製の書斎机の上で横になっていた。
「……いつも思うんですけど、机は横になるところじゃないですよ」
「知ってる。でも僕にとっては横になるところだ。睡眠もここで取る」
本当なのか嘘なのか判断に困る返答が返ってくる。実際これまで二度程しか彼がこの書斎机以外の場所に陣取っている姿を見たことがないから、もしかしたら本気であの大きな書斎机の上のみで生活しているのかも知れない。
「まぁそんなことはどうでもいいか。さて、今回の件、君はどう見てる?少なからず既に調べてるんだろう?」
こちら側を向いていないので彼の表情は伺い知れないが、愉しそうな、ニヤニヤとしたような声を投げかけてくる。
「……典型的な『神隠し』系のお話ですよね。色々候補は考えましたけど多分、今回は『辻狐』か『膝落』じゃないかと」
ほう、とやはり愉しんでいるような、相槌とも吐息とも取れない音を彼は漏らす。
「またマイナーな所を持ってきたね。神隠しと言えば素直に天狗、地蔵童、拐風当たりだと思うんだが、ふむ。そう思った経緯を聞かせてもらってもいいかな?」
「膝落の方の理由は場所の問題です。神隠しに会うとされる所は坂道の中腹、そして小さな祠の前。噂話は複数ありましたが全ての話で神隠しに合うのは『登っている時』で降る時に起こるというパターンは有りませんでしたし、これには理由があるかな、と」
「成程。『上り坂、ふうと息つきゃ、膝落』なんて川柳もあるしね。シチュエーションとしては他の候補より当てはまるという事か。悪くないね」
「辻狐の方は、祠が関係してる点ですね。あの祠、ちょっと調べてみたんですが、今は特に何も祀られてない空っぽなんですが、数年前まではお稲荷社だったそうで」
「成程成程。野干や卑狐と言った野良が神様ごっこをしてるって考え方か。うんうん、悪くない。
やっぱり君は優秀だね。おそらくその二つのどちらかが正解だ。たったあれだけの噂話の中からこれだけ短期の間にそれだけ絞れるとはびっくりだよ。
さてじゃあ『どっちを呼ぼうか』」
愉しそうな声を上げ、ようやく彼は振り向きながらそう言った。口元は思ったとおりニヤニヤとした笑みを湛えているが、大きく巻かれた目隠しがそれ以外の表情を隠している。
「……今回はヒントとかないんですか?」
多分意味はないだろうな、と思いながらも尋ねてみる。ここまで絞ったもののそこからの決め手が見つからないからこその二択提示だった。
「ヒントも何も、僕自身正解を知ってるわけじゃ無いからねぇ……。そもそも僕の役割は聞く事と見る事、そして呼ぶ事だけだ。そしてそもそも正解なんてないんだ。後は辻褄合わせだけだってことはそろそろ解っているだろうに。
ああ強いていうなら、彼は今この陽気で喉の渇きや空腹と戦っているようだね。まだ春とは言えこの陽気だし、隠されてからほぼ半日が過ぎようとしている。一日くらい水分を取らなくったって人間は死なないが、訳のわからない状況、なかなか辛いことだろうね」
私に、と言うよりはただ独り言を呟くかのように彼は言葉を落とした。
喉の渇き、空腹。それはつまり。
私は今まで聞いた噂話のパターンを幾つか思い出す。
「……辻狐を呼んでください」
「そんな簡単に決めていいのかな?そもそもわからないのなら『見捨てる』という選択肢だってあるんだよ?」
「……別に人助けだなんて思ってるつもりもないですけどね。やれることがあって、やらない理由も特にない。それだけです。
それに当てずっぽうって訳じゃ、ないですし」
「うん、それならいい。元より僕は解決さえ出来ればなんだっていいしね。じゃあ呼ぶけど、一応いつものように確認しておこうか」
彼はそう嘯いで横臥から胡座へと体勢を変える。
「噂話から生まれた怪奇。それを形取らせる事を僕は出来る。そして君はその怪奇を『怪奇からただの噂話に戻す』が出来る。ただし、もしそれに失敗するような事があればーーー君の身の安全は保証しない」
「初めてならともかくもう何回目だと思ってるんですか。大丈夫ですよ、覚悟はできてます」
ふふ、と彼は口元だけで笑うとならば、と前置きして、
「七つ目の怪奇、名を【辻狐】と称す」
呪文のように言葉を落とした。
*
彼がそう口にすると、部屋の四隅から黒いもやのようなものが這い出してきて、部屋の中心、ちょうど書斎机と私の間の辺りで曖昧な輪郭を形作った。
それは60cm程の大きさの耳と尻尾のある生き物の形を取ると雷鳴のようなくぐもった声で話しかけてくる。
『我は、何、か』
「貴方は噂話から生まれようとしている怪奇、名前は辻狐」
『我は、何を、するか』
「人を拐かし、別の世界に閉じ込める」
『我は、恐怖、か』
「幼い子供にとってはそうでしょうね」
『汝は、恐怖、せぬか』
「噂話と知ってるからね。まだ貴方は完全に怪奇にはなっていない」
『我は、偽物、か』
「残念ながら今の所は。後10年も語り継がれれば力を持つでしょうけど」
『汝は、我を、否定する、か』
「否定はしないわ。貴方はここにいる。ただこの街で好き勝手に被害者を増やされると迷惑にはなるの。だから場所を変えて欲しい」
『移動の、術を、知らぬ』
「貴方を含む『噂話』を私が記録してあげる。記録の中の世界なら好きに生きてもらって構わない」
『消失、ではない、のか』
「私がこの街にいる限り、この記録はどんどん続いていく。つまり世界は広がっていくのよ」
『断る、ならば』
「噂話が消えたなら、貴方は完全に消失するでしょうね。さっきは『語り継がれれば』と言ったけどそれだけの力は貴方には無いわ」
『我は、怪奇、か』
「ええ、今の所は」
『我は、消える、か』
「ええ、このままならね」
『話を、呑もう』
「ありがとう。もう一度あなたの名前を呼ぶわ。名前は辻狐」
『辻狐』
「そう、忘れないでおいてね。貴方は此方側の住人ではないけれど、それでも貴方は存在してるのだから」
黒いもやはその影のような輪郭で薄くうなづく。
納得してくれたようだ。私は辻狐を形作るもやに近づき、頭と思われる部分を右手でそっと撫でる。
すっ、と手の重くなる感触がして右手にするするともやが吸い込まれる。
これで一時的な『記録』は完了だ。
もやの晴れた部屋で、ふぅ、と息をつく。
「お仕事完了、おめでとう。お見事だったね。いやぁ流石流石」
愉しそうに手を叩きながら彼はそう言った。
「うん、後の始末は僕に任せたまえ。しかし何だね、生まれたばかりとあってか疑うことをあまり知らない奴だったな。正直適当なことを言っても諭せたんじゃないか?」
「どうでしょうね……。適当な事を言いたくもないですから、結果は結果でしかないですけども」
「まぁそうか。うん、失敗して被害を受けるのは結局君だしね。さて、本記録もあることだろうし、もう帰った方がいいんじゃないか。僕も後処理をする姿を見られたくもあまりない。何せ、他人から見たら何もない空間に独り言をつぶやいてるだけだろうからね」
全くもう少し労ってくれてもいいだろうに、と思いつつ私は彼の家を後にした