適当な嘘をついて逃げ出して、でも結局は物陰から見つめている。
矛盾に満ちた自身の行いに嘆息しつつ、しかしまどかは改めるでもなく、ただこの卑屈な覗きを続けた。
―――早乙女和子。改めて考えると、彼女こそが自分にとって生涯最後の先生だった。男性関係に一生懸命で、でも生徒たちのこともちゃんと考えてくれている、公私ともにパワフルな人物。母の詢子の学生時代からの親友。………大好きな先生。
だけど、彼女は鹿目まどかを知らない。
鹿目まどかの存在にまつわる何もかもが、最初からなかったことになったこの世界に、人としての鹿目まどかが挟まる余地などどこにもない。世界は一見乱雑にできているようで、実際は緻密に計算された上に成り立っている。規格外のピースが決してパズルに収まらないように、鹿目まどかの存在もまた、この世界には存在し得ない。 だが、それを孤独だと感じる心は消えていたはずだった。己の行為を後悔することも、彼女にはできなかったはずだ。有り体に言えば、彼女は思考と感情を持たない自然現象に成り下がったはずだったのだ。
にも関わらず、まどかは消えたはずの自我を取り戻してしまった。……女神は自らの行いの報いを受ける羽目になったのだ。
見えるものすべて、合わせ鏡の作り出す鏡像の彼方の出来事のように思えてくる。実体化すらできない今の自分には、あの彼方へと行くことができない。手を触れられない。駆け寄って、「先生、お久しぶりです」の一言もかけられない。自分のことが分からなくてもいい。ただの一瞬でも構わない。想いを伝えたい。
永遠の孤独を、抜け出したい。
宇宙が再び始まって、地球が誕生して、たくさんの生き物が誕生して、滅んで。
どうしてあれだけの永い永い時を、待ち続けることができたのか、今となってはわからない。
人類が起って、インキュベーターが星の彼方からやって来て、そうしてやっと女神としての仕事が始まって。
それでも、無限に等しい時を数えてきたという自覚すらも持てなくて。
営まれてきた宇宙のすべてに比べれば、円環の理の努めを果たす期間などというものは、瞬き以下の一瞬でしかない。その一瞬の一瞬。ごく小さな時間のなかで、宇宙に変化が訪れた。
自然現象である円環の理は、その働きを阻害するその“変化”を取り除かねばならなかった。そのために異なる次元、もう一つの宇宙から召喚したのが、あの葛葉紘汰という男であった。
女神にとっての永遠の世界は、彼とともに地上に降りた時からその様相を変えた。“まどか”を再現し、そこに今の円環の理としての情報の一部を上書きしてしまったことが、まどかにとっての地獄の始まりだった。
――――そこにずっとあった孤独に、気付いてしまったのだ。
「こんな気持ち、気づかなきゃ良かったんだ……。あのまま永遠に、消えたままで良かったんだ……」
――――いや、違う。
――――もっと根本的な後悔。
ひとりはいやだ。
だいすきなみんなに、もういちどあいたい。
じゃあ、どうしたらよかったの?
「………ッ!」
喉元まで出かけた最悪の言葉を慌てて飲み込む。
「ダメ……。それだけは、絶対」
希望を信じる魔法少女のためだった。
彼女たちの願いを絶望で終わらせないためだった。
だから、この想いはあってはならない。
※※※※
「ふう……危ない危ない。あんな素敵なヒト、実在したのね……」
洗面所で紅潮したままの頬をさすりながら、和子がひとりごちる。これまでに何度となく男性と交際してきた彼女ではあるが、それでもあの青年―――呉島貴虎のようなタイプの人間とは会ったことがない。
モノにしたいという下心も最初はあったが、彼を知れば知るほどに、和子の中で彼に対する感情は恋愛的なそれよりも、尊敬や畏怖というものに近くなっていった。
「正直、年上のはずの私が全然年上っぽくないのが問題よね……。私、いえ彼がしっかりしすぎてるだけよ! 人間なんですもの、もっとふわふわしてたっていいはずだわ!」
年上の面目丸つぶれではあるが、それでも白旗を上げるような気分にはならない。鏡の中の自分をじっと睨んで何とか自信回復を試みる。
「…………ん?」
鏡の奥で、妙に懐かしい桃色の光がちらついたような気がした。
「…………気のせいよね」
※※※※
「………ふむ」
自分といると、女性はトイレが近くなるとでもいうのか。
一人取り残された客席でコーヒーを啜りつつ、他愛のない冗談を考えながら和子とまどかを待ちわびる。
「………まどか………」
思えば、彼女のことは何も知らない。彼女がこの世界を作り替えた女神であるということは聞いているが、それ以前はどういった存在だったのかもよく聞いていない。かつては人間だったとは言っていたが、それがいつの時代、どこの国で生きていた人間なのかまでは語らなかった。
自分のことを喋りたがらないのは結構であるが、彼女の生い立ちとこの見滝原に関係があるのであれば、喋ってもらったほうが都合はいいのだ。現状、真相の外周を彷徨っているだけの貴虎にとって、まどかの言葉だけが真相を窺い知る手立てなのである。
「うわぷっ」
考え事をしていて上の空だった意識が、大腿に何かがぶつかった感覚で現実に引き戻される。何事かと机の下を見やると、ミニカーに手を伸ばす小さな子どもがもぞもぞと股下で蠢いていた。どうやら、走らせたミニカーが想定外の暴走をしてしまったのだろう。
「どれ、私が取ってやろう」
幼い頃の光実をなんとなく思い返しながら、ミニカーを拾って渡してやる。すると子どもは、満面の笑みを浮かべて舌っ足らずな礼を言ってきた。
「ありゃと! おにいちゃん!」
「いや、構わんさ……」
にっと微笑んで頭を撫でてやると、子どもはくすぐったそうに笑う。数秒ほどそうしていると、向こうの方からこの子どもの両親と思しき二人の若い夫婦が歩いてきた。
「どうもすみませんでした。ほらタツヤ、ありがとうは?」
夫の方が子どもを諭すように息子の目の高さまでかがみ込む。頭ごなしに子を叱らない良い親なのだなと貴虎はひとり感心した。
「いえ、この子はちゃんとお礼を言ってくれましたよ。ちゃんとお礼のできるいい子なんですね」
微笑みながら言葉を返す貴虎に、申し訳なさそうな表情をしていた若夫婦もどこか安心を覚えた表情を浮かべる。
「いえいえ、この通りのやんちゃ小僧ですよ。今日だってこの子のためにシャルモンに来たっていうのに……このきかん坊はっ」
母親の方が息子―――タツヤを抱き上げて幸せそうに微笑む。貴虎は、自分が得られなかった両親の愛をそこに重ね、どこか寂しい気持ちになった。
「三名でお待ちの鹿目さまー」
「あっ……それじゃ」
店員に呼ばれ、軽い会釈とともに三人が去っていく。過ぎ去った幼い日々の残影を見送るような心境でその背中を貴虎が見つめていると―――
〈待って!! 行かないで!! たっくん、パパ、ママァッ!!〉