上條恭介は絶望した。
己の全てとも言えるヴァイオリンの道が閉ざされたから、ではない。
あらゆる可能性が飲みこまれ、虚ろな闇へと沈みゆく、原初の恐怖。
――――――死だ。
「なんなんだよ、こいつらっ………!」
辛いリハビリのおかげでなんとか動くようになった身体に鞭を打ち、命からがら病室から逃げ延びたのはいいものの、あのノイズの化け物たちの餌食になってしまうのはもはや時間の問題だ。
「逃げられない……。僕はここで、こんなところで……殺されるのか………?!」
ガチガチと歯を鳴らしながら、松葉杖に全体重を預ける。もはや己の足で立って歩くだけの意志力も、恭介には残されていなかった。
一面に広がる、おびただしい量の血、血、血――――――。
ついさっきまで自分の世話をしてくれていた看護婦の遺骸らしきモノも、そこかしこに散見される。恭介は知る由もないが、《魔獣》によって結果内で殺害された人間は、結界の消滅と共にその遺骸ごと消えてしまう。誰に看取られることもなく、何の意味もなく、ただただ無残に殺されていくのだ。
「こんなの人の死に方じゃない……こんなのが僕の最期だなんて、認めない……!」
理不尽な死を前にして、恭介の精神状態はもはや崩壊寸前のところまで来ていた。彼の絶望に誘われるように、既に一歩も動けずにいる恭介のもとへと《魔獣》が迫る。
「ひっ…………!」
体を縮こまらせ、固く瞼を瞑る。それが今の恭介にできる唯一の恐怖に対する抵抗であった。
「………………?」
だが数秒経っても何も起こらないことに気づき、恐る恐る瞼を開く。
少しぼやけた視界の中心には、向こう側が透けて見えるほど存在感の薄い、一人の青年が佇んでいた。とはいえ、佇むというには少々彼の息は荒い。それどころか、そこら中に転がっている魔物の被害者並の外傷が、彼の体には刻みつけられていた。
「け……怪我は、無いか……?」
ぎこちなく振り返った青年が、恭介に手を差し伸べる。恭介はいつの間にか動くようになった足を使って立ち上がることにした。
とはいえ怪我人の手を借りるわけにもいかない。差し伸べられた手は力強くもあったが、本人の怪我もあってか、まるでガラス細工のように脆そうに見える。
ふと気がつくと、目を瞑るまでそこにいたはずの魔物たちは皆、色とりどりの武具によって壁や床に磔にされていた。
状況から推察するに、この見知らぬ青年の仕業と見て間違いあるまい。
しかし、それならば。
この満身創痍の青年が何故、あの化け物たちを退けられたのか。
「あなたは、何者ですか………?」
湧き上がる疑問を素直にぶつけると、青年は苦しげな顔を少しだけほころばせた。
「……そうだなぁ……。道端で倒れてたところを搬送されてきた、身元不明の怪我人、かな」
青年の言葉に、虚飾の匂いは感じられない。どうやら彼の自己紹介は真実のようだ。
「…………あの化け物をやっつけてくれたんですか、さっき」
期待を込めて縋る恭介に、青年はほころんだ顔を再び苦痛に歪ませる。
「まあ、俺はそういうことができる……いや、できた、か。わりいな、もう……」
最後の方はうわごとのようだった。絞り出すように声を出すと、そのまま青年は膝から崩れ落ちてしまった。
「だ、大丈夫ですかッ?!」
倒れた青年に、床の色が透けている。
周囲に現れた魔物のように、この青年もどうやら常識の外からやって来た存在であることに間違いはなさそうである。だが魔物たちと違って彼には害意は無く、またコミュニケーションも可能であった。
「…………えっ………。か、軽すぎる……?」
倒れた青年に肩を貸すが、そのあまりの軽さに恭介は驚きの声をあげた。透けかけていることを除けば本当にタダの青年にしか見えないその外見もあって、彼の持つその異常性はとてもちぐはぐなものに感じられる。恭介は、恩人であるこの青年を助けるという新たな目的とともに、この鮮血病棟で行動を開始した。