怪物でギュウギュウ詰めのエレベーターを諦め、階段を駆け上ること数分。やっと上條恭介の病室があるフロアにたどり着いたさやかは、荒い息を整える暇もなく周囲を見渡した。
比較的、ここは怪物の侵食が薄いようだ。まだ何人かの人間が生き残っている。
「たっ……助けて、助けてくれぇ!」
「家に帰りたいよぉ……!!」
とはいえ、それはあくまで“まだ生きている”というだけの話。彼らの精神は完全に恐怖で萎えきっていた。無理もない。さやか自信、恭介を探すという支柱を持たなければとっくに心が瓦解していた。
「どうしよう、恭介は、いやでも、この人たちを見捨てるなんて……!」
具体的に何を為すことができるのかは分からない。だが、さやかはここでこの人たちを見捨てて恭介を探しに行くのは何かが違う気がした。
だが、冷静に考えれば何が正しいかなど明らかだ。
パニックに陥った彼らの避難誘導をする心得など持ち合わせていないし、そもそもこの中に今までずっと探していた上條恭介はいない。
彼らを見捨て、上條恭介を探し出し、速やかに脱出……それが最も生存の可能性が高い。さやかは踵を返して引き返した。
「…………『心が変われば、態度が変わる。態度が変われば、行動が変わる。行動が変われば、習慣が変わる。習慣が変われば、人格が変わる。人格が変われば―――』」
ふと気がつくと、仁美に教わった言葉をぶつぶつと呟いていた。
爆発し、次々と湧き上がる衝動が、さやかの引き返す足を止めた。
「――――――『人格が変われば、運命が変わる』!!!」
こんな運命、打ち破ってやる。
たかだか人知を超えた怪物の脅威に晒されたところで、諦められるはずがない。
こちとら、想い人にまだ告白もしていないのだから――――――!
気合一発、膝小僧を殴りつけると、さやかは恐怖の海に沈殿していた勇気を引き上げた。
「こっちです! ついて来てください!! 大丈夫、助かります!!!」
きっと、あの
決意と覚悟が、さやかを強くした。
「本当か……?」
「あの娘についていけば助かるぞ!」
「天使さま………!」
心折れ、ただ震えるばかりであった人々が、さやかの強さに釣られて一人、また一人と立ち上がる。
生きようとする意思を、彼らは再び取り戻したのである。
――――だが、現実は非情だ。
「えっ――――――」
壁や床を透過し、無数の《魔獣》がフロアに突如出現した。
《魔獣》たちがノイズの壁となって、生き残ったさやかたちを飲み込もうと迫る。
そして、決定的な絶望をその場にいる誰もが悟る。これ以上の抵抗は無駄。何をしようとも、この病院から逃れることはできない――――――
「俺が相手になってやる!」
「お前らなんかに負けてたまるか!」
「もう……怖くないんだからぁッ!」
涙が溢れそうになるさやかの前に、一人また一人と立ちふさがる。無論、彼らにも自分たちでは勝てないことは分かっている。だがそんな絶望よりも、さやかの勇気によって得た“希望”の方が大きかった。理屈ではない。ここで諦めて死ぬのが正しい理屈だというのなら、そんな理屈はぶち壊してみせる。
さやかの強さが、彼らの強さに火をつけたのだ。
「うおおぉおぉおおぉおお――――――!!」
瞬間、どこからともなく響いた雄叫びと共に空間に亀裂が走った。亀裂はそのまま暴風を巻き起こし、人々を吸い込んでいく。そのわずか一瞬の出来事に、さやかは息を飲んで目を見張った。
ふと気がつくと、空間の裂け目は閉じきり、代わりに通路の奥から患者衣に身を包んだ男性が二人現れた。
「恭介?!」
一人は上條恭介。そしてもう一人は――――
「こ、今度は諦めなかったんだな………。よく、頑張った…………」
掠れ、すっかり弱々しくなってはいるものの、この声は間違いない。
透け通るほどに存在感が薄まってしまっているあの青年こそ、以前に自分を救ってくれた声の主であるとさやかは確信した。
「こ、紘汰さんっ! さやかも早く病院の外に出してくださいっ!!」
狼狽した様子で、恭介が青年に叫ぶ。我に返ると、さやかは自分が未だ怪物たちの只中に突っ立っていることに気がついた。
「すまねぇ………もう、これでホントのホントに品切れなんだ……」
弱りきった声で青年がギブアップを宣言する。苦渋に満ちた表情が、彼の無念を如実に物語っている。
「さやか! こっちに来てくれ! 早く!!」
いつになく必死な恭介の声に、弾けるようにしてさやかは走り出した。怪物の隙間を縫って全速力で駆け寄ると、恭介はさやかの手を掴んでヨロヨロと走り出した。
「きょ、恭介っ……あんた、そんなに動けるように……」
「そんなことどうでもいいだろっ! それよりもさやか、紘汰さんがもう動けない以上は、もう僕らにできることはない。出口まで案内してくれ!」
「あ、いや、あたしもここまでどうやって来たか……」
「…………………その必要は、ない」
困り顔を付き合わせるさやかと恭介に、青年――――葛葉紘汰が消えかけの体で言葉をかけた。
「ちょ、さっきから気になってたんだけど、あなたさっきから色がスケスケですよ?!」
「さやか、お前の強さ………しかと見せてもらった。本当は避けたかったんだが、お前ならきっと……この力を使いこなせる。かつての俺のような過ちを犯すことなく、な」
さやかの心配もどこ吹く風か、紘汰は早口で言葉を紡ぎ続ける。これ以上喋れば命に関わることを察し、恭介は慌てて紘汰を支える肩に力を込めた。
「紘汰さん、もう喋っちゃ駄目だ!」
「いいんだ恭介。大丈夫、俺はぜってぇ死なねえ。………さやか、俺の手を取ってくれ」
促されるまま、もはや輪郭すらぼやけている紘汰の手を取る。すると一瞬の閃光とともに、さやかの手の中に黒い機械と橙色の錠前が出現した。
「『L.S.-07』……? これって……?!」
だが、さやかの問いかけに応える者はいない。
「消えた……?!」
ほんの一瞬、わずかな隙をついて、さっきまでそこにいた青年は姿を消してしまっていた。
「紘汰さん!」
「……………」
悲痛な声をあげて膝をつく恭介。喪失感に上の空となったさやかもまた、背後に迫る《魔獣》から逃れることもせずに立ち尽くした。
「…………でも」
手の中で胎動する力はさやかに『戦え』と叫んでいる。
「でもまだ、私たちがいる」
頭の中に浮かんできたイメージに従って、さやかはベルトを装着し、錠前を構えた。
「さやか……?」
「恭介、私ね、変身したんだよ。………だから、今からそれを見せてあげる」
穏やかな顔で想い人に言葉をかけると、さやかはすぐさま表情を切り替えて眼前に迫る敵を見据えた。
『ORANGE』
錠前がイグニッションを告げる電子音声を響かせる。
武神の神話が、今ここに新章の幕を上げた。