思い出は遠く、セピア色の夢の中に
「
メイドの
「………どうした藤果。まだ五時じゃないか」
「うふふ……ぼっちゃまでも、寝ぼけることがあるのですね」
む、と眉間に皺を寄せて藤果の微笑を睨めつける。だがその直後、何かに気がついたようにはっとすると、貴虎はバツが悪そうにうつむいた。
「そうだったな……。今日が、その日だった」
※※※※
呉島家は、いわゆる大企業の社長一族だ。クレシマ製薬といえば、知らぬ者は日本人にいないだろう。そんな家の息子である貴虎は、親の教育の方針で、今日を以て米国へと移住することになっていた。
「良いか貴虎。お前も将来の呉島を支える男。十五歳ともなれば、もう子供を卒業しなければならん。アメリカの一流ハイスクールで人を統べる者としての学問を身に付けなさい」
そんな父の言葉に従って米国のサウスハービー大学付属高校へ進学することになったことを振り返りつつ、貴虎は内心ではため息をついていた。
「いかがなされました、おぼっちゃま。食指が止まってらっしゃいますが……」
いつもより早い朝食の席で一人きりで食事をとる貴虎に、傍らに控えた藤果が声をかけて来た。
「ああ。………どうにも気乗りしなくてな」
「光実おぼっちゃまのことですね。………言われずとも分かります」
もう三年以上も身の回りの世話をしているだけに、藤果は自分の主人が何を考えているかを熟知している。貴虎は察しのいいメイドに僅かばかりの微笑みを向けた。
「ああ。この春にやっと小学生になるあいつを残して、遠いアメリカに行かねばならない……。そう思うと、父が恨めしくてな」
こんなことが言えるのも、藤果の前でだけだ。常に公を意識しなければならない立場にある貴虎少年にとって、唯一本音を言えるのがこの少女の前だけであった。
「本当に、弟様を愛してらっしゃるのですね」
「たった一人の、年の離れた弟だからな。………さて、愚痴を言っても仕方がない。ああそれと」
気がついたように振り返って、貴虎は厳格な顔に年相応の少年らしい表情を滲ませながら、藤果に眼差しを向けた」
「………なんでしょうか」
「俺……いや、私のことを“ぼっちゃま”と呼ぶのはもうよせ。この門出を以て、私は金輪際、子どもであることを捨てるのだからな」
「かしこまりました、貴虎さま。…………ふふ」
「? 何がおかしいんだ?」
「いえ。他の方は存じませんが、貴虎さまのそんな可愛らしいところを知っているのが私だけなのだと思うと、こう……」
「………主人をからかっているのか? とんだ不良メイドだな。連れて行くメイドを吟味する必要がある」
「まぁ、これはとんだ御無礼を……。申し訳ございませんでした」
頭を下げる藤果だが、表情には隠しきれない笑みが広がっている。それは、彼女を咎めた貴虎も同じであった。
※※※※
空港に着くと、黒服の一団が貴虎と藤果を出迎えた。期待を込めずに見渡してみるが、やはり父の姿は無い。ふんと鼻を鳴らして見送り集団を振り切るように早足で歩き去ろうとすると、眼前に奇妙な出で立ちの少年が立っていることに気がついた。
「………どけ。貴様が誰かは知らんが、取るべき態度というものを知らんのか?」
「当然、よ~く知っているよ。貴虎のぼっちゃま? そっちこそ、天樹氏に聞いてないのかい?」
半ズボンにアロハシャツ、白いメッシュの入った髪と、少年の外見には奇妙な記号が無数に散りばめられている。しかしそれ以上に貴虎の興味を惹いたのは、この少年の堂々とした態度だった。
「………あなたは………」
小声で囁くように、藤果が少年を見つめながら呟く。しかし貴虎はそれに気づかぬまま、少年に声をかけた。
「………なるほど。父さんの差し金か。それを差し引いても、貴様の無礼は度し難いがな。………名前は?」
「ボクの名前は
物怖じすることなく、大胆不敵に手を差し伸べてくる凌馬。
これまで出会ったことのないその態度に戸惑いを覚えたが、しかし同時に貴虎はこの不遜な少年に興味を抱きつつあった。
「…………ふん。貴様のその態度、本来であれば許しがたいが、父さんの言いつけとあらば仕方があるまい。……………私のことは、貴虎と呼べ。それが私の求める、友への条件だ」
「ああ。きみとはうまくやっていけそうで安心だ。………“貴虎”」
凌馬の華奢な手を、幼くも鍛えられた手で握り返す。
―――――これが、二人の友情の始まりだった。