「先生、呉島先生?」
声をかけられ、貴虎ははっと眠りから目覚めた。
空港のそれとは違う、開けたグラウンドや走り回る学生たちの姿。思わず自分の手を見やると、硬くて無骨な大人の腕だった。
「―――――あ」
それで初めて、さっきまでの光景が、呉島家が滅んだ“あの日”以前の思い出の風景であることに貴虎は気がついた。
そして、今の自分はこの《あすなろ中学校》に勤務している教師であることも。
「どうしたんです、先生。あたしの個人練習に付き合ってくれるって約束だったじゃないですか」
「ああ、すまない。………どうやらベンチに座って、そのまま眠ってしまったようだな」
「どうやら~じゃないですよ! 長いこと風邪で休んでたせいでカンを取り戻すのが大変なようだから、特別に見てくれるって言ってたの先生ですよ!」
ユニフォーム姿の少女―――牧カオルが、ふてくされたように頬を膨らませながら、抱えたサッカーボールをぼすぼすと叩く。先日の約束を寝ぼけた頭でなんとか思い出すと、貴虎はいそいそと起き上がってグラウンドを踏みしめた。
「いや、本当にすまない。生徒との約束を破って居眠りなど……。まだ時間は大丈夫か?」
「え? 私はまだ大丈夫ですけど……」
太陽はすっかり西に傾いているが、日没までには時間がある。貴虎は時間いっぱい、カオルの練習に付き合うことにした。
「よし。ではさっそくはじめよう。お前には早々にブランクを取り戻してもらわないと、うちのチームの戦力に支障をきたすからな……行くぞ!」
「おうっ!」
茜色の夕焼けに染まった、下校時間間近で人の少なくなったグラウンドに駆け出す。
さっきまで見ていた子供の頃のの夢を、振り切るように。
※※※※
満員電車。
クレシマの御曹司だった頃は、このような庶民的な交通機関にまるで縁が無かったが、今となってはそうも言ってはいられない。そんな風に考えながら庶民的な生活に身を染めていく自分が、貴虎にはとてもあの頃の自分と同一人物には思えなかった。
中学校教諭として昼間は生徒たちに英語を教えつつ、午後からはサッカー部の副顧問としてグラウンドを駆ける日々。そんな今の暮らしに充足感が無いと言えば嘘になるが、人の上に立つ者として教育を施されてきた自分にとって今の生活は、どうにも本当の自分とはズレているような気がしてならなかいのだ。
「ノブレス・オブリージュ………」
今は亡き父の教えの中で、唯一正しいと思えた理念。『優れた者こそ真っ先に犠牲を払わなければならない。それが本当の名誉』………。
しかし、富も権力も失い、“呉島の男”から“ただの貴虎”に成り下がった今となっては、その理念も無効だ。一介の凡夫に過ぎぬ身で差し出せる犠牲など、自らの命以外にあるはずもなく、そして何よりも、それを差し出すべき身分でさえない。
自らを支えていたアイデンティティーである呉島家という“エリートとしての自覚”の支柱を失くした今、貴虎はまさしく
『藤果、凌馬――――私は――――』
『俺は――――』
揺れる電車の中で、その他大勢の大衆の中に埋もれながら、彼らのリーダーになるはずだった男は車窓の向こうで音も無く通り過ぎる無情な世間を見つめていた。
※※※※
全てを失った貴虎だが、彼には血を分けたたった一人の肉親がいる。それが弟、呉島光実だ。
彼のためを思えばこそ、これまで貴虎はなんとか壊れることなく、この社会という戦場で戦ってこられたと言っても過言ではない。来年に高校受験を控えた弟のためにも、貴虎の戦いは常に全力だった。
飛び級で高校をパスした後、18歳でサウスハービー大学から日本の城南大学に転入して教職免許をきっちり4年をかけて取得。23歳の若さで社会に出たことで、なんとか光実の受験に間に合ったカタチである。
そして24歳になった今、貴虎は持てる力の全てを注いで光実のために貯金を貯めている。全ては、来年に控えた光実の受験と、その先にある大学受験のため。
家を失い、財を失い、地位を失った呉島家であるが、それを理由に弟の人生を阻むことだけは許せなかったのだ。そしていつか、光実にはかつての呉島家を再興して欲しいという欲もある。貴虎自身、それを口には出さないが、光実もそれを何となく察している。
だが、そんな弟のための毎日を自身のアイデンティティーであるとも思えない。もっと大きな何かのために奉仕することこそが、かつて貴虎が己に掲げていた使命であったはずだからだ。
近親者のためだけの労働――――それしか今の自分にできることはないと理解してはいても、貴虎の持つ価値観や視野というものは、もっと大きなモノのためになるために教育され、矯正されてきたものだ。
だがそれは、結局のところは我が儘だ。社会は既に、呉島貴虎を必要とはしていない。
これが、地位を失ったかつてのエリートの末路―――そう思うと、貴虎は怒りすら通り越して、ただただ自嘲の微笑みを浮かべるしかなかった。
「どうしたの、兄さん。変な顔をして」
向かい側の席で夕食をとる弟に声をかけられ、ふと我に返る。
どうやら考え事をしているうちに、食指が止まっていたようだ。
「………近頃、ぼんやりするクセがついてしまったようだな……。すまない光実」
「疲れているんじゃない? ここのところ、得に働き詰めだったから……」
「いや、この程度ならまだ大丈夫だ。………それよりも、また腕を上げたんじゃないか? …………いや、違うか。お前の料理の腕が上がるということは、それだけお前に家事の負担をかけているということ。………昔のように、使用人の一人でも雇えれば良かったんだが……」
「やめてよ兄さん。確かにあの頃は裕福だったけれど、こうして兄弟揃って食事をとったりすることも無かった。今のこの、慎ましいけれど兄さんと一緒にご飯が食べられる生活の方が、僕は好きだよ」
「…………そうか………。ああ、そう、だな………」