「む、もうこんな時間か……遅くなってしまったな」
カオルとの個人練習に夢中になるあまり、日が暮れた事にも気が付かなかった己を恥じながら、貴虎は手にしたタオルで顔をふいた。
「先生、ほんとサッカー上手いっすね」
「そうか? 今はもちもん、学生時代も特にサッカーをやっていたわけではないのだがな」
「いやいや、こう言っちゃアレですけど、現役選手でもないのにここまであたしを圧倒するのって割と冗談じゃないっすよ? これでも日本代表目指してるんすけど……」
「まぁ、そこは男女の差というものだろう。自信を持て。実際お前の腕前は相当のものだぞ。長い休みでなまった分、早く取り戻すんだな」
「ぐっ……。ガンバリマース」
貴虎自身に自覚は無いが、彼のサッカーにおける実力には目を見張るものがある。全国を目指すだけの実力を持つスーパー中学生牧カオルをして、しかしそのスキルはプロ並みと称された。
だが貴虎の無敵伝説はこれだけにとどまらず、球技全般、陸上競技、格闘技、水泳と、ほぼ全てのスポーツに長けている。修学旅行で雪山に行った際、彼が元プロの指導員すらも圧倒する超人的なボード捌きを披露したのも、あすなろ中生ならば記憶に新しい。
勉学優秀、スポーツ万能、憂いを帯びた甘いマスク、生真面目で責任感の強い人柄と、呉島貴虎は教員の身分にありながらにして学校のアイドルの座を欲しいままにしていた。
だが、貴虎が幼い頃からの努力で身につけたそれらは、決して学校のアイドルになるために身につけたものではない。望んだ形とは違いすぎる現在に、貴虎は内心歯噛みしていた。
※※※※
満員電車に揺られ終えて、くたびれた体を引きずるようにして帰路につく。毎日繰り返していればさすがに慣れるが、それでこの生活に対する不満が無くなるわけではない。贅沢がしたいわけではないが、せめて駐車場のある家に移りたいものだと貴虎はため息をついた。
「………ん?」
ふと、鼻腔をくすぐる甘い匂い。
「これは………?」
確かに時間としては夕食時かもしれないが、これはそういった類の匂いではない。そう。昔、あの使用人の部屋で嗅いだことのあるあの――――
「――――藤果?」
朱月藤果。
少年時代、ずっと傍にいてくれたあの使用人の匂いだ。
甘酸っぱい林檎を連想させる、そんな匂い。
少女の匂いなど変態的すぎる記憶だと貴虎は理性で否定したものの、しかし思い出に焼き付いたそれは容易にぬぐい去れるものではない。
「………馬鹿な」
朱月藤果は死んだ。それは絶対だ。
だというのに、どうして――――
ふらふらと匂いに釣られ、夢遊病患者の如き足取りで歩を進める貴虎。一歩を踏み出す毎に、彼と藤果の記憶がフラッシュバックしていた。
あの日あの時、彼女は海の彼方の米国で、自分と光実のために命を落とした。
あれからずっと、彼女のことは思い出さないようにしていたのに。
辛くなるから。
切なくなるから。
どうしようもなく―――――愛おしくなって、しまうから。
※※※※
たどり着いたのは、自宅とは正反対の方角にある土手だった。ここまで来ると、もうすぐ隣町の見滝原だ。すっかり暗くなったことで、見滝原の街のネオンがよく見える。
その、見滝原のはずれの土手で
〈………私が、見えるんですか?〉
貴虎は、土手に座り込む、薄いピンク色の光に包まれた少女に出会った。
「きっ、きみは……?!」
光る少女という超常現象を目の当たりにして、貴虎は思わず冷静さを取り戻した。
ピンクと白を基調としたフリフリな衣装に、ツインテールの髪型。まるでアニメに出てくる魔法少女のようであるが、それが薄ぼんやりと光をまとっているというのだから余計に現実感が無い。貴虎は再び混乱してきた頭を落ち着かせるために咳払いをした。
「ん、んんっ、……確認しよう。私はきみが見えている。これは、おかしいことなのか?」
〈は、はい。普通の人には私は見えません。えと………私、鹿目まどかっていいます〉
「…………その自己紹介には、どんな意図があるのか?」
〈あ、その、意図っていうか。この世界で初めてお話する相手なんで、つい……〉
まどかの言う意味の半分も分からないが、取り敢えずこちらも名乗った方がいいのかもしれない。あくまでも冷静さを保ちつつ、貴虎は自己紹介をすることにした。
「私は呉島貴虎だ。………鹿目、見たところきみはまだ中学生くらいに見えるが」
〈は、はい〉
「今は夜の八時だ。……中学生の女子が、一人きりでうろつく時間では無いな。私も一応、教職者でね。見てしまった以上、見逃してやるわけにはいかない。送ってあげるから、ちゃんと家に帰りなさい」
貴虎が帰宅を促して手を差し伸べると、しかしまどかは悲しげに俯き、沈んだ口調で呟いた。
〈…………帰れるおうちなんてありません。…………この世界のどこにも、私の居場所なんて無い。独りぼっちなんです〉
「――――」
抽象的ではあるが、今のはこの少女にとってとても大切な一言だ。教育者として、一人の大人として、貴虎はこの少女を放っておくわけにはいかないと決意した。
「…………………そうかもしれないな」
貴虎の思いがけない言葉に、思わず顔をあげるまどか。貴虎は普段の憂いげな表情を浮かべて、まどかの隣に腰掛けた。
「私もかつて理不尽に居場所を奪われたことがあった。―――そしてそれから今に至るまで、私は“居場所”なるものを見つけだせずにいる。――――笑わないで聞いてくれると嬉しいが、実は私も独りぼっちなんだ」
貴虎のこけた頬に、少年のように素直な笑みが浮かぶ。初対面の、しかも子どもを相手にこんな話をするべきではないことくらいの常識は承知している。だがそれでも、貴虎は後からこみ上げてくる言葉を飲み込みきれずにいた。
「独りぼっちだというのならそれでもいい。だが私は、私の一番大切な人に、そうなって欲しくは無い。………だから、私は独りでも戦うことにした」
〈…………戦う?〉
「ああ。戦うことは誰でもできる。きみのような格好をしたテレビアニメのヒーローやヒロインになれなくても、人間は何かのために戦うことができるんだ」
戦うと言いながら、スーツの襟を正すジェスチャーをするこの男に、まどかは“大人の男”にとっての“戦い”とは何なのか、なんとなく察した。
〈………でも、それでも独りぼっちは嫌です〉
貴虎の言わんとしていることは何となく理解できるが、それでもまどかは己を奮い立たせることができない。
「そうだな……。きみは、“ノブレス・オブリージュ”という言葉を知っているかな?」
〈のぶ……なんです?〉
――――悩み、苦しむ少女に、貴虎は己の信じる信念を語った。
「“ノブレス・オブリージュ”。力を持った人間こそ、それを持たない人間のために戦わなければならないという意味だ。きみの孤独は私には分からないが、それでもその孤独は意味のあるものだ。………少なくとも私は、私の孤独をそういうものだと思っている」
〈意味のある、孤独…………わたし、わたしっ…………!〉
貴虎の偽らざる言葉に何を感じ取ったのか。まどかは後から後からこみ上げてくる涙を抑えきれず、そのまま泣き崩れてしまった。
「お、おい、鹿目。………参ったな」
まどかの感情が高ぶるのに呼応するかの如く、彼女のまとっていた淡い光が粒子状になって放散していく。それはまるで、ピンク色の妖精たちが舞を踊っているかのようだった。
闇夜の中、貴虎とまどかを幻想的な桃色の光が包み込んでいった。