午後九時を過ぎた頃、貴虎はまどかを伴って自宅に帰り着いた。
「お帰り兄さん、今日はやけに遅かったね」
「ああ……。ただいま、光実。帰る途中、妙なのに出くわしてな」
「妙なの?」
「お前が知る必要はない。………そうだ、見滝原中もそろそろ期末テストだろう? 家事で時間を割いては元も子もない。これからは私が……」
「大丈夫だよ、家事も勉強もちゃんと両立してるから。兄さんこそ、僕のことばっかり心配しすぎだよ。恋人とか探さないの?」
「それこそ余計なお世話だ」
不機嫌そうに光実の言葉を一蹴すると、貴虎はくたびれた体を食卓の椅子に預けた。目の下のクマやこけた頬が、二十四歳という彼の実年齢よりさらに老けた印象を見る者に与えている。そんな疲れきった兄の顔を、光実はそれからも不安そうに何度も覗き込んだ。
〈兄弟なんですか? ………なんだか熟年夫婦みたい〉
「ぶっ」
「兄さん?!」
予想外すぎるまどかの言葉に貴虎が吹き出し、そんな兄に対して光実が狼狽する。貴虎は、この自分にしか見えない少女の存在を改めて認識し直した。
「鹿目、少し黙っていろ……」
「兄さん、誰としゃべっているの?! ああ………やっぱり疲れているんだ……」
「そ、そんなことは無いぞ光実! 私は元気だ! すこぶるな!! というわけだから早く夕飯をよそってくれ!」
※※※※
食事を終えて部屋にまどかを放り込むと、貴虎は心労でふらふらの体を引きずって洗面所に行き、シャワーを浴びた。
牧カオルの長期欠席による、あすなろ中サッカー部の弱体化。
弟の進学、就職。
そして、己を《円環の理》と自称する、自分にしか見えない少女、鹿目まどか。
考えることはいつだって山積みで、休まる時などありもしない。気の利いた趣味のひとつもないので、積み重なったストレスの解消も一苦労だ。
「…………もう寝よう」
シャワーからあがると、貴虎は上半身裸のままで自室のベッドに倒れ込んだ。ボクサーパンツとスウェットの下を履いてはいるものの、むき出しの上半身が妙に艶かしい。湯上りでほんのり赤みがさしているところなど、ますます扇情的だ。
とはいえ、その持ち主である貴虎自身は、自身の肉体美を人前で晒すような性格ではない。飾らない性格もまた、彼の美徳の一つと言えた。
「んんっ……ふぅ……」
人目をはばかることなく思う存分にリラックスした状態にはいると、貴虎は掠れた呻き声をあげながらベッドで寝返りをうつ。
「………………」
寝返りをうったその先で、貴虎は顔を真っ赤にしてこちらを見つめるまどかと目があった。
〈ウェッヒー! いやえっとあのその見とれてたっていうかカッコイイなっていうかですねその見てはいけなかったのでしょうかみたいなえーっとごっごごごめんなさいっ!!〉
「あ、いや、こちらもすまなかった。私としたことがきみの存在をすっかり忘れ……あいたぁっ?!」
※※※※
「兄さん……疲れているのか……?」
ドアに聞き耳を立てながら、おののく光実。
まさか自分と同い年の女の子と兄が同衾しているなど、彼が知る由もない。
※※※※
やがて夜は更け、街全体が寝静まる。
呉島家のある住宅街より少し離れたホテルでグラスを傾ける、二人の男たち以外には。
「泉宮寺会長。この世界を、どう思われますか?」
「突然だね、槙島くん。……我々の育ってきた《森》とは比べ物にならない、豊かな文明を持っている。これが最盛期の人類の世界……そう考えると、少しばかり高揚するね――――だが、それは上辺だけのモノだった。ここもやはり、我らの求めたエデンとは程遠い。インキュベーターという存在によって管理された、箱庭の中の世界だ」
泉宮寺と呼ばれた人形じみた老人が、つまらなさげに酒をあおりながら呟く。
もう一人の男―――槙島聖護は、視線に応えるようにして薄く笑った。
「しかし、《戦極凌馬の遺産》のおかげでこの世界はインキュベーターの管理から開放された。我々の求めるエデンは完成間近だ。あとは尖兵である《魔法少女》を排除するのみではないかね」
槙島の微笑みをこちらの更なる発言を促すものと理解した泉宮寺が、槙島にさらに語りかける。だが、当の槙島はというと本に目を落としながら意味深な笑みを浮かべるばかりだ。
「………邪魔な人間を殺し尽くしたその先に待つのは、無人の荒野だけですよ。《魔法少女》は殺さない。彼女たちには、今度は僕らの尖兵になってもらいますよ」
本をぺらぺらとめくりながら、表情一つ変えずにさらりと《魔法少女》の私物化を宣言する槙島。だが、泉宮寺はその無機質な瞳に少々の戸惑いを浮かべて反論した。
「………しかし、《ソウルジェム》の改造は手間がかかる。この世界の全ての《魔法少女》の《ソウルジェム》を片っ端から改造していくのは、ちと無理なのではないかね」
「その無理を解決する方策こそが、《円環の理》です」
ぱたんと本を閉じ、口端を釣り上げる槙島。さらさらと銀髪をなびかせて、彼は腰掛けていたソファから立ち上がった。
「あれは本来、僕らの手の出しようのない“宇宙の法則”そのものですが、一月ほど前、《森》で視覚化可能なカタチとなった《円環の理》を観測しました」
「………それは、本当かね」
「ええ。インキュベーターだけではなく、《円環の理》すらも手中に収められるかもしれない可能性が出てきたということですよ。そうなれば、我々は《魔法少女》を支配することができる。それはつまり、この世界を支配することにさえ繋がる」
「世界征服、か……。まるで、悪の秘密結社ではないか」
口では講義しつつも、泉宮寺はその無機質な顔面にこらえきれない笑みを刻んでいる。そんな彼を振り返りながら、槙島は天使のような微笑みを見せた。
「人間の価値をはかるには、ただ努力させるだけでは駄目だ。力を与えてみればいい。法や倫理を越えて自由を手に入れたとき、その人間の魂が見えることがある………ああ、でも」
白い天使は語る。小さく、囁くように。
「彼女たちは退屈だ。彼女たちの力は、インキュベーターに取り決められたシステムの上でしか成り立たない。プレイアデスの時もそうだった………。奇跡という甘い誘惑に頼ってしまったその時点で、彼女たちに人間としての価値は無い」
眼下に見下ろすは、寝静まった夜の街。そしてその先には、まだネオンの灯る見滝原のビル群が伺える。
「――――『さあ狩りが始まるぞ。白々開けの朝。野原は馨しき香り。森の緑は濃い。ここで猟犬を解き放ち、声高く吠えさせよう。真夜中になるとここは、何千もの悪魔やシューシューと威嚇の音を立てる蛇、何万もの子鬼や体の膨れ上がったヒキガエルどもが集まって、身の毛もよだつ狂乱の叫び声を上げる』」