上條恭介は、有り体に言ってしまえば“有名人”だ。
整った顔立ち、誠実な人柄、そしてなによりも、天才的なヴァイオリニストの素養……。
世界的に注目を集めつつある彼は、まさに飛び立つ直前の若鳥だ。そのさえずりに女たちは心酔し、その羽の美しさに男たちは嫉妬の念さえ抱くだろう。
誰からも愛され、賞賛されるだけの能力を持った、若き天才。
だがそれだけに、それを失った今の彼に対する周囲の目の落差というものは、やはり残酷であった。
※※※※
「恭介、お弁当食べよっ」
「うん。場所は屋上でいいかな」
昼休み、上條恭介はランチをとるため、さやかに手を引かれながらエレベーターで屋上に登った。
「うーん、やっぱ屋上が開放されてる学校って貴重ですわ~。なんていうか、開放感がすごいよね!」
明るい笑顔で語りかけてくる幼馴染と手をつなぎながら、応じる様ににっこりと微笑む。病院での倒錯ぶりが嘘のように、今の恭介は落ち着きに満ちていた。
「………良かった」
「え?」
「あっ、ううんなんでもないなんでもないっ。さささ、早いとこ食べましょうぜ」
動転したような口調でわたわたと受け応えながら、適当な段差に腰掛けて弁当箱を開く。恭介もそんなさやかに習うように腰掛け、持ってきた弁当箱を取り出した。
「――――――あっ――――――」
だが、蓋を開けようとした瞬間、弁当箱はするりと恭介の手の中からこぼれ落ちてしまった。
「――――――――――――」
…………結論から記すと、上條恭介の指は未だ回復していない。正確に言えば、回復の見込みすらない。
翼を失い、大空を羽ばたく術を失った若鳥―――――。
周囲の生徒から向けられる同情と憐憫の視線から逃れるために、さやかが気を利かせて屋上に彼を引っ張ってきたのは、恭介も何となく察してはいた。
「ははっ……駄目だな。やっぱり、僕の指は治らなかった」
「そんな、恭介……」
支えるように、それでいてどこか頼りなさげな目をしたさやかが恭介の麻痺した手を握る。それを払うでもなく包み込むでもなく、恭介は淡々とした眼を床落ちた弁当箱に向けていた。
「分かっていたことさ。今さら気に病むようなことじゃない。………さやかにも、悪かったって思ってるんだ。入院中、キツく当たったりして、本当にごめん」
『さやかは、僕をいじめてるのかい?』
あの夕暮れの病室の出来事を想起し、思わずさやかは暗い表情でうつむいた。迷いを振り切って恭介を支えていく覚悟を決めた今であっても、やはり辛い思い出ではあるのだ。
「ううん。私もあの時は、恭介の気持ちを分かっていなかったし」
「それでも、僕を心配してくれるさやかに当たるようなことを言ったのは事実だ。―――あの時、僕はさやかの優しさに甘えていたんだ」
恥じるように、項垂れながら語る恭介。
「恭介………」
うまい言葉が見つからない。所在無さげに目を泳がせながら、沈む想い人をなんとか元気づけようと、さやかは思わず彼の手を強く握り締めた。
「さやか……」
手のひらから伝わる想い―――それで全てが伝わったのだろうか。
「ぇ――――――」
恭介は、そっと傍らに寄り添うさやかの肩を抱き寄せた。
◆◆◆◆
―――――――拭えない違和感が、触れる肌から伝わってくる。
◆◆◆◆
「心配かけてごめん。………もう、さやかの優しさに甘えない。こんな僕だけど、これからはさやかの優しさに報いられる男になってみせる」
◆◆◆◆
妙に饒舌に、愛を囁く恭介。
――――だが幸せであることに嘘は無い。
徐々に加速する違和感に背を向けて、さやかはこの甘美な言葉に酔いしれた。
◆◆◆◆
「きょうすけ………っ」
事故から始まった苦しみの日々が、一気に溶けていく。
―――――その言葉で、全てが報われた。
「もう演奏はできないけれど、これからの人生、演奏に使う予定だった全ての時間をかけてきみに報いるよ。だって僕には――――」
―――――幸せが、喜びの涙が、あとから溢れて止まらない。
なのに――――――
◆◆◆◆
どうして、その先の言葉が怖くてたまらないの?
◆◆◆◆
「今の僕には、演奏の代わりにこれがあるからね」
澄んだ笑顔で、恭介は制服の懐から《戦極ドライバー》を取り出した。
「―――――ッ!? 恭介、あんたなんでこれを………!!」
―――――焦燥、困惑、怒り、嘆き、恐怖、悔恨――――――
ありとあらゆる感情が、さやかの胸の中に吹き出してくる。
人生の全てであった音楽を失って、どうしてこんなに穏やかでいられるものか?
音楽に代わる代替物を見つけたのではないか?
懸念はあった。
予感はあった。
だがそれでも――――甘い夢に浸っていたくて、全てから目をそらしていた。
「実はさ、《魔獣結界》のこと覚えてたんだよね。それで、あの時きみが変身したあれ――――僕も、欲しくなったんだ」
感じていた違和感の正体が判明し、とたんに景色がその様相を変化させていく。
想い人の優しい笑顔が、虚ろで醜悪な笑みに変わっていくのを、さやかは知覚した。
「さやかが戦うっていうのなら、今度は僕がきみを助ける番だ。……いや、実際には、サーヴァントさんの方からこの話を持ちかけてもらったんだけどね」
「恭介、あんた」
「今日の放課後、僕は《魔法少女》を相手にデビュー戦を飾る。………よかったら、見に来てね。コンサートに欠かさず来てくれた、あの頃みたいにさ」