デート・ア・ライブ 士道デイリーライフ 作:サイエンティスト
十香にとってのグッドなナイト(良い夜)と、夜のデートの終わり(おやすみ=グッドナイト)をかけた、言われないと分からないノーグッドなタイトル。何でグッドナイトでおやすみなんだろ……。
今回の出来は少し自信がないというか、何とも言えぬ出来になってしまいました。後編に見せ場が集中したせいか、詰め込み過ぎてまとめられていないかもしれません。悪ノリし過ぎたことも原因かも……。
「むっ、真っ暗ではないか。停電でも起こっているのか?」
エレベーターを降りるなり、十香はその階の暗さに首を傾げた。
時刻は午後十時。雑貨屋で写真立てを購入した後、十香が夜のデートらしいことをしたいと言ったので、天宮タワーからの夜景を見に行くこととなった。本当にそれが夜のデートらしいことなのか、士道にはいまいち分からなかったが。
「いや、これは景色が見やすいようにわざと暗くしてるんだよ。ほら、町の方が明るくてよく見えるだろ?」
士道が窓の方を指差すと、つられてそちらを見た十香は訝しげな表情を浮かべた。まあエレベーター前からではガラス張りの壁の向こうに見えるのは暗闇だけなので、そう思われるのも無理はない。
「まあここからじゃ見えないよな。もっと近くに行こうぜ、十香」
頷いた十香の手を引いて歩き出す。途中までは士道が引っ張っていたのだが、夜景が見えてくるなり十香は驚きの声を上げ、一人で走って行ってしまった。
「おお! すごいぞシドー! ぴかぴかしていて綺麗だぞ!」
「と、十香! ここでは静かにな……」
興奮した様子で声を上げる十香に、士道はすぐさま駆け寄って注意した。どうもこの場所では静かにするのが暗黙の了解らしく、話し声さえほとんど聞こえなかったからだ。周りを見れば非難するような視線がそこかしこから向けられている。ただ視線の主たちはカップルが多かったので、デート場所のチョイスは間違っていなかったらしい。
「ぬ、すまん。つい興奮してしまってな……」
「はは、まあ仕方ないよな。十香はこういう景色を見るのは初めてだもんな」
思い返すと十香と見たことがあるのは、夕焼けに染まる町並み程度だ。一緒に夜景を見たことは一度もない。
ガラスに手をつき、興味津々といった様子で景色を見下ろす十香にならい、士道も隣で眼下に目をやる。そこに広がっていたのは、地上にできた星空とでも表現すべきものだった。
暗い町並みに明るく輝くのは信号やネオンサイン、車のライトといった人工の光。普段意識することはないがこうして遠くから見てみると、小さな星々の如く瞬いているのが分かる。それらが密集している渋滞した道路などは、まるで天の川のように美しい光景だ。ただ視点と距離が変わっただけだというのに、見渡す限り幻想的な光の園が広がっている。これほどの光景ならば、十香が興奮を覚えるのも無理はない。
「なぁシドー、シドーの家はどの辺りにあるのだ?」
夜景に見入っていた十香は、ガラスに手をついたままこちらに顔を向けてきた。楽しそうな笑みを浮かべているところを見るに、ここにつれてきたのは正解だったらしい。
「そうだな……大体あの辺かな? 多分あれが精霊用マンションだろうし」
「おお、そうか。ということは学校は……あそこか!?」
「うん、逆方向だな。ていうかそんなビルの密集したところにはないだろ」
自信満々に明後日の方向を指差す十香。どうやら方向感覚に難ありのようだ。
「先ほどの焼肉屋があそこで、ラーメン屋があそこで、パン屋があそこで……」
「何で食べ物関係のところだけピンポイントで分かるんだよ!?」
学校の場所は間違えたにも関わらず、食品関係の店舗は驚くべき精度で当てている。何というか、実に十香らしい。
その後も次々と店舗(やはり食品関係)の位置を十香は正確に指し示していく。きっと天宮市食べ歩きマップなるものが頭の中にあるのだろう。士道は呆れと感心が混ざり合った複雑な気持ちでそれを見ていたが、やがて十香の手がぴたりと止まった。不思議に思ってその手を辿って見てみると、今まで浮かんでいた眩しい笑顔は慈しむような穏やかな笑みに変わっていた。
「やはり世界は美しいな、シドー。以前までの私なら、こんな美しい光景に気が付くことなどなかっただろうな」
どこか遠い目を眼下の夜景に向ける十香。確かに以前までの十香なら、こんな素晴らしい光景も知りえなかっただろう。現界する度にASTに攻撃を加えられ、ひたすらに存在を否定され続けていたあの頃は。
だが次にこちらへ顔を向けた十香は、そんな辛い日々を過ごしていたのが嘘のような無垢な笑みを浮かべていた。
「だが今は違うぞ。シドーのおかげで、こんなにも素晴らしい光景を目にすることができるのだ。それもシドーと一緒にな。だから私はとても幸せだぞ?」
「そ、そうか……よかったな……」
『そうか、よかったな。じゃないでしょ、士道。もっと気のきいた台詞を言いなさいよ』
本当は自分でももっと気のきいたことを言ってやりたかったのだが、十香の笑顔に当てられて上手く言葉が出てこなかった。もしかすると周りが暗いからこそ、十香の笑顔が何倍にも輝いて見えるのかもしれない。これが夜の魔力というやつなのだろうか。
「じゃあどんなこと言えばよかったんだよ?」
なるべく十香に聞こえないよう、士道は小声で知恵を求めた。流石に先ほどの言葉ではあんまりだ。
『そうね、例えば「俺も幸せだぜ、十香。この夜景の美しさが霞んじまうくらいの美女が、隣にいるんだからな……」とか言ったら面白いんじゃない?』
「面白さは求めてねえよ!」
『まあ、とりあえず言ってみなさい。前にも言ったけど、女の子は気持ちを言葉にして欲しい生き物なんだから』
色々と怪しく思うことはあるが、先ほど自分で口にした台詞よりはましな筈だ。正直あまりにも臭すぎて引かれそうな気がするものの、他に何かいい言葉がある訳でもなかった。
「と、十香……」
「ん、何だシドー?」
「その……俺も幸せだぜ? この夜景の美しさが霞んじまうくらいの……美女が、隣にいるんだからな……」
うん、どう考えても臭すぎる。
こちらを見ていた十香も、嫌悪にも似た感情を露にする。と思いきや、瞬間的にその顔を真っ赤に染めた。
「な、なななななな何を言っているのだシドー!」
「いや、すまん。俺にも分からん……」
あまりにもばつが悪く、士道は十香と同時に顔を背けた。気まずい沈黙が場を支配していたが、士道の耳には琴里の馬鹿笑いが絶え間なく響いていた。まさか本当に面白いと思って言わせただけなのだろうか。
隣を見ても十香は向こうを向いているので、その心情を表情から判別することはできない。だが正面のガラスには、顔を赤らめながらも嬉しそうな笑みを浮かべている十香の姿がはっきりと映りこんでいた。琴里には一応お礼を言っておくべきかもしれない。
「……でも、残念だな。曇ってなければ星空も見えて、もっと綺麗に見えたのにな」
「そうなのか? これでも十分綺麗だと思うが……」
沈黙を破るために話題を出すと、幸い十香は話に乗ってきてくれた。妙に上機嫌に思えるのは気のせいではないようだ。
「いやいや、世の中にはもっと凄い景色があるんだぜ。夜景だって、百万ドルの夜景って言うくらい凄いものがあるんだからな」
「何だと!? そ、それは凄いな、シドー……」
十香は驚愕に目を見開く。しかしどこか驚き方がおかしい。より美しい夜景が存在することに対する驚きではなく、どちらかといえば恐ろしいものを目にした驚きに近い気がする。もしかすると何か勘違いしているのかもしれない。
「しかし、それは近づいても大丈夫なのか? 百万度もあるのなら燃えてしまうのではないか?」
「ドルなドル。度じゃなくてドル。温度じゃなくて通貨の単位だからな。ていうか百万度って……どっかの宇宙怪獣の吐く火じゃあるまいし……」
やはり聞き間違えていたらしい。というか百万度もあれば燃える程度ではすまないだろう。一瞬で蒸発するかもしれない。
間違いに気付いた十香の顔から恐怖が消え、ただ純粋な驚きと期待が浮かんだ。
「何だ、違うのか。しかしそんな高そうな夜景もあるのか……いつか見に行けたらいいな、シドー?」
「おう。いつか一緒に見に行こうな、十香」
別に夜景そのものが百万ドルするわけではないのだが、まあとりあえず頷いておいた。実際のところは何故百万ドルと謳っているのか士道にも分からなかったからだ。
「うむ。約束だぞ?」
念を押すように繰り返し、笑みを向けてくる十香。
冷静に考えてみると、これはなかなか大変な約束かもしれない。少なくともここ天宮市とその近辺には、百万ドルの夜景に数えられるほど見事な夜景は存在しない。要するにいざ見に行こうものなら、かなりの遠出をする必要があるということだ。気軽な日帰りデート、というのは難しい。
「おう、約束だ」
それでも士道は頷いた。十香の喜ぶ顔が見たかったし、何より綺麗な景色をもっと見せたいからだ。そのためなら多少の苦難も望むところである。まあ<フラクシナス>で目的地に転送してくれるなら、その限りではないが。
「……ところで、シドー」
「ん、どうした?」
「百万ドルとは高いのか? きなこパンがいくつ買えるのだ?」
当然と言えば当然の疑問だった。あまりお金の価値を分かっていない十香が、現在の為替相場を知っているはずがない。
首を傾げる十香の様子に呆れやら微笑ましさやらを感じながら、士道は頭の中で計算を始めた。
「なかなか順調みたいね。まあ私たちのサポートがあるんだから当然でしょうけど」
<フラクシナス>艦橋のモニター上の情報を見やり、琴里はそんな感想を抱いた。好感度はもとより、精神状態や感情値も非常に良好な値を示していて、文句の付けどころがない。
士道たちがデートを始めて一時間弱。特に失敗やアクシデントもなく、夜のデートは順調に進んでいる。たまに士道が女心を理解していない寝ぼけたことを言う点を除けば、とても理想的なデートだ。精霊攻略の時にもこれぐらい頑張って欲しいものだが、士道にそこまで求めるのは酷というものだろう。
「……琴里、問題発生だ」
順調と思っていた矢先、艦橋下段の令音が眠たげな声で告げてきた。その言葉に琴里は少々緩んでいた気を引き締める。
「何があったの、令音?」
「……まあ、まずはこれを見てくれ」
そう口にして手元のコンソールを操作する令音。するとメインモニター一面に簡素なマップが表示された。具体的には道路などの通路や、ビルなどの建築物の位置関係を表したマップだ。見た目はRPGによくあるミニマップに近く、非常に分かりやすい作りになっている。
「……シンたちの後方、約十五メートルの地点だ」
琴里は令音の言う通り、士道の位置を表す光点の後方へ目をやった。
特におかしなものは見当たらない。あるのはせいぜい一般人を示す光点くらいだ。その数や動きにもこれといっておかしなところはない。少なくとも問題と言えるほどの何かは発見できなかった。
「ちょっと令音、一体何が――えっ?」
痺れを切らして尋ねた瞬間、士道たちの後方にあった光点の一つが、何の前触れもなく消滅した。例え生命反応が消えたとしても光点は色を失うだけなので、消滅することなどありえない。つまり考えられる理由は一つ。その光点を表す人間が、文字通り完全に消え去ったということ。
少なくとも人間は自然に消え去ったりはしないので、恐らく何者かが何らかの目的で消し去ったに違いない。精霊か、あるいはDEMの仕業か。判断はつかないが放っておけば士道たちに危険が及ぶかもしれない。すぐに士道たちを<フラクシナス>に回収しなければ。
「おや、また反応が現れましたね」
いざ指示を出そうとしたその時、神無月が驚いたような声を上げた。見れば確かに消えたはずの光点が復活している。しかも今度はその近くにあった光点が消え去り、再び現れていた。
これは一体どういうことなのだろうか。次々と消えていくだけなら、肉体の欠片も残さない大量虐殺で説明もつく。とはいえ周囲の光点には逃げるような動きは見られなかった。おまけに一度消えたはずの光点が再び現れるというのだから、どうにも分からない。流石に琴里も理解が追いつかず、首を傾げた。
「……数分ほど前に気付いたんだが、どうもこの反応の消失と出現を繰り返す現象がシンたちを追うような形で発生しているんだ」
「ふむ、常に十五メートルの距離を保っている辺り、どうやら何者かが士道くんたちを尾行しているようですね」
顎に手を当て、神無月が冷静に分析する。天気や周囲の状況によって多少前後するが、確かに十五メートルというのは徒歩での尾行に最適な距離だったはずだ。
「反応が確認できないのは、自身の存在を察知されないよう電子妨害をかけているからでしょう。他の光点が消えるのは、効果範囲に一般人が入ってしまうためだと思われます」
「……何か嫌な予感がするんだけど、確認しなきゃ駄目よね」
二人の話から考えると、尾行している人物が何となく予想できた。正直確認したくはなかったのだがそういう訳にもいかない。自律カメラを飛ばして妨害を受けない距離から確認すると、やはり予想通りの人物がそこにいた。元AST隊員にして、霊力を封印された精霊。そして士道の恋人(自称)。
「あーもう、一体何してるのよこの女は……」
「それはもちろんストーキングでしょう。私もよくやります」
さらりと答える神無月。琴里はこの事態で湧き上がってきた苛立ちを、その鳩尾へと肘鉄に乗せて叩き込んだ。
「ごはっ!」
「令音、一体いつからストーキングしてたか分かる?」
「あ、ありがとうございます……司令……ぐふっ」
「……遡って調べてみたんだが、どうやらデートが始まった時から尾行しているようだ。とはいえ何をするでもなく、ただ遠くから見ているだけのようだがね」
「ふぅん、邪魔をする気はないのかしら?」
ただ遠くから士道たちの様子を眺めているだけなら、放置しておいても問題はない。だが今後も邪魔をしないという保障があるわけでもなかった。とはいえ連絡をして帰れと言っても素直に頷くとは思えないし、そもそも携帯が繋がるかどうかも怪しい。<フラクシナス>に強引に回収する手もあるが、周囲には一般人もいる上、転送装置の射線を分厚い雲が見事に阻んでいる。これではどちらにせよ回収もできない。
「どうしましょうか、司令?」
クルーの一人が困ったような顔を向けてくる。大いに不安だが他に選択肢はなかった。
「放っておくしかないわね。神無月、無能で役立たずなあなたでも折紙の行動を監視することくらいはできるでしょう? 何かおかしな行動をとろうとしたらすぐに報告しなさい」
「はっ! お任せ下さい、司令!」
イスを回してそちらを見ると、うつ伏せで倒れている神無月がその状態で敬礼してきた。
「……ところで司令、今日は白と水色の縞パンですか。とても良くお似合いです。しかし私的には、くまパンなどのより子供向けなものも司令にお似合いだと思います」
琴里の組んだ足の間に視線を向けながら、無駄に輝く笑みを浮かべる神無月。琴里は無言で右足を上げ、その鼻っ面に思いっきり叩き込んだ。
「十香……本当にそれ全部食べる気か?」
「む、そうだが……何故だ? シドーも食べたいのか?」
胸に抱いた紙袋からきなこパンを取り出しかける十香を、士道は必死に制した。
「いや、聞いてみただけだよ。ていうか俺はもう頼まれても食えん……」
多少時間が経過したとはいえ、まだまだ胃の中には無理につめた肉が残っている。この上水分まで奪うパンなど口にできるはずもない。
天宮タワーを出た士道と十香は、閉店直前だった近くのパン屋へと足を運んだ。個数は多くないもののきなこパンが残っていたので、十香はかなり上機嫌である。今はおいしそうにきなこパンにかぶりつく十香と共に、特に目的地もなく道を歩いていた。まあ目的地がないというよりは、もう選べないといった方が正しいのだが。
「それでシドー、次はどこにつれて行ってくれるのだ? 早く行こう!」
楽しくてたまらなさそうな笑顔を向けてくる十香。そんな表情をされると非常に言いづらいのだが、どうしても言わなければならない。
「それなんだけどな、十香……そろそろ帰った方がいいと思うんだ」
「な、何故だ!? まだデェトは始まったばかりではないか! まさか……私とのデェトはつまらなかったのか!?」
『十香の言う通りよ。まだ二時間もたってないじゃない。何? 士道ったら早漏?』
琴里の言葉に顔を引きつらせながらも、士道は何とか声を荒げずに答えた。
「違う違う。十八歳未満は夜遅くまで出歩いちゃいけない法律があるんだよ。だからそろそろ帰らないと駄目なんだ」
「何だと!? くっ、何と忌々しい法なのだ……」
『あー、そういえばそんな法律があったわね。確か夜十一時以降だったかしら』
琴里はともかく、十香が知らないのも無理はない。そして知らなかった分、反応も大きかった。デートを続けられないのがよほどショックなのか、白くなるまで拳を握りしめている。その顔はどことなく悔しそうだ。
「とにかく、今日はもう帰ろうな? デートの続きはまた今度にしようぜ」
優しく諭して、士道は帰り道へと足を向けた。
「ま、待ってくれシドー!」
歩き出そうとしたところで、服のすそを掴まれつんのめった。振り返ってみれば、そこにあったのは悲しみに歪んだ十香の顔。おまけに上目遣いなのだから破壊力は抜群だ。
「もう少しだけ……もう少しだけ一緒にいては駄目か?」
そんな顔でそんな言葉を、頭に超がつくほどの美少女にかけられては、拒める者などいるわけがない。当然、士道も拒むことなどできなかった。
「ま、まあ、もう少しだけならな……」
「そうか! まだ一緒にいてもいいのだな!」
頷いた途端、喜びを露にする十香。通行人からの冷やかしの視線に耐えられず、士道は目をそらした。実際のところは十香の笑顔が眩しすぎたからなのだが、まあそういうことにしておいた。
「よし! ではシドー、ついてくるのだ!」
「おわっ!? いきなり引っ張るなって!」
一秒でも無駄にしたくないのか、十香は士道の手を取り走り出した。驚く通行人たちの間を駆け抜け、人気のない方へと向かっている。やがて何の変哲もない公園に辿りつき、十香は足を止めた。士道も何度か訪れたことのある公園だ。あるのはせいぜいベンチにブランコ、滑り台やシーソー、それからグヨグヨ揺れる動物の何か(正式名称不明)程度の普通の公園である。
「よし、では座ろうシドー」
十香に誘われ、士道は二人でベンチに腰掛けた。ベンチは詰めれば五、六人は座れそうな幅があったものの、十香は肩の触れ合いそうな距離まで詰めてくる。しかしそこから十秒がたち、二十秒が経過しても他の行動はなかった。一分たっても一言も喋ろうとしない。
「なぁ、十香。何でここにつれてきたんだ?」
静寂に耐えられず、士道は疑問を口にした。
「うむ。どうせもうどこかへ行く時間はないのであろう? ならばせめて二人きりで過ごしたかったのだ。ここならシドーと二人きりになれるからな」
『ひゅう! 十香も言うようになったわね』
実際には外野が空の上にかなりの人数いるので、二人きりとはとても呼べない。唯一の救いは十香がそれを知らない、ということか。
「それに、あれだ……見られていたら恥ずかしいではないか……」
不意に十香は俯き、顔を赤くして呟く。まさか二人きりで過ごしたいと笑顔で口にした十香が、その場面を誰かに見られた程度で恥ずかしがりはしないはずだ。となると何を見られていると恥ずかしいのだろうか。
「そ、そうか。確かに二人きりだよな?」
「うむ。二人きりだぞ!」
呟きを聞こえなかったことにして言葉を返すと、十香は何度も大仰に頷く。
どうも様子がおかしい。うずうずしているというかそわそわしているというか、妙に落ち着きがない。それに何故か期待するような目をちらちらと向けてくる。
『うわあ……分かりやすいわねぇ』
耳に笑いを含んだ琴里の声が届く。しかしその笑いは司令官モードにしては珍しく、蔑みを含んだ笑いではなかった。どちらかといえば微笑ましさにもらす笑いに近い。
『ねえ、士道。あなたまさか、分からないとか言わないわよね?』
残念ながらそのまさかである。口にすると十香に聞こえてしまうので、インカムを二度小突いた。それで伝わったらしく、呆れたため息が聞こえてくる。
『夜の公園! 二人っきり! このおいしいシチュエーションでデートの終わりに女の子が求めてくるとしたら、キスしかないでしょうが! そんなことも分からないなんて、やっぱり一から訓練させ直すべきかしらね……』
できれば訓練(恐らくペナルティあり)だけは勘弁して欲しいが、今はもっと気にすべきことがある。琴里が若干熱を込めて口にした、キスという言葉だ。
学校での亜衣麻衣美衣と十香の会話を思い出すと、確かに思い当たる節があった。キスして貰えるかもしれないと言われた時、とても嬉しそうにしていたのを覚えている。となるとやはり琴里の言う通り、キスを期待しているということになるのだろうか。
「……む?」
考えを巡らせていると、不意に十香が声を上げた。その目は黒雲の広がる空に向けられている。一体何を見ているのかと疑問に思った士道は、やがて僅かな驚きと共に理解した。
空から降ってくる、白い小さな粒を目にして。
「ああ、雪か。この辺りで降るなんて珍しいな」
「おお、これがそうなのか」
黒い空から緩やかに降ってくる粉雪。それが十香の見ていたものだった。
舞い落ちる雪の一粒に手の平を差し出し、それを受けとめようとしている。しかし肌に触れた時点で溶けてしまったらしい。興味深げに手の平を覗くものの、そこには僅かな水滴しかなかった。そういえば四糸乃の天使<氷結傀儡(ザドキエル)>の起こす吹雪を除けば、十香はもしかしすると初めて雪を見るのではないだろうか。
時刻を確認すると、琴里が予報した通り本当に十時半だ。疑っていた訳ではないものの、流石に驚きである。天宮市は南関東に位置するので、それほど雪は降らないのだが。
「むうっ、溶けてしまうぞ……」
十香は何度か頑張っていたが、やがて諦めたらしく頬を膨らませた。そして寒気を感じたのか、微かに体を震わせる。雪はまばらですぐにやみそうだとはいえ、少々気温が下がってきたのは確かだ。
「……少し冷えてきたな、シドー」
「そうか。じゃあ風邪引くといけないし、そろそろ――」
帰るか。と続けようとした途端、琴里の怒声に耳を貫かれた。
『違うでしょ、士道! 女の子が寒がってるのよ? 他にするべきことがあるでしょうが!』
他と言われても、せいぜい上着をかけてやるくらいしか思い浮かばない。それが正しいことなのかはともかく、寒がっているのは事実なので暖かくしてやるべきだろう。
『無知で無能な士道のために選択肢が出たわ。ありがたく思いなさい』
いざ上着を脱ごうとした時、琴里の報告が聞こえた。とてもおかしなことをさせられそうなのは、今までの経験から何となく察していた。
①「それじゃあ、もう帰るか」デートを終えて家に帰る。
②何も言わずに上着をかけてやる。
③「これで寒くないだろ?」ぎゅっと抱きしめてやる。
メインモニター上に表示された三つの選択肢。どうやら士道はキスするべきか迷っているようなので、雰囲気を良くして逃げ場をなくしてやればいいだろう。そのために選ぶべき選択肢は考えるまでもなく明らかである。
「各自、選択。どうせ一択でしょうけどね」
琴里の予想通り、艦長席のディスプレイに表示された結果は満場一致で③だった。②でも悪くはないが、③ほどの劇的な効果は期待できない。
「まあ当然ね。キスに持っていくにはこれが一番だわ」
「寒空の下、熱い抱擁を交わす二人は、どちらからともなく唇を近づけ、そして――」
熱っぽく語る<藁人形(ネイルノッカー)>椎崎の言葉に、クルーたちから歓声と口笛が上がる。もうすぐキスシーンが拝めるためか、皆一様にテンションが高い。もっとも琴里の方もテンションが上がってきたので、人のことは言えないのだが。
「士道、③よ。「これで寒くないだろ?」って熱く囁いて、抱きしめてあげなさい」
琴里が指示を伝えると、モニター上の士道は明らかに困惑の表情を浮かべた。そのまま視線を彷徨わせる辺り、本当に実行しても平気なのか悩んでいるようだ。
「早くしなさい、士道。あなたが優柔不断だから、段々十香の機嫌が悪くなっていってるわ」
実際にはかなり高い状態で安定している。これは逃げ場をなくすための嘘だ。
なおも士道は迷っていたが、ついには覚悟を決めたらしい。一度大きく深呼吸すると、緊張した面持ちで十香に両手を伸ばしていった。何だか妙に痴漢臭い手付きだが、贅沢は言っていられない。
やがて士道は十香の体に腕を回し、軽く抱き寄せた。横合いから突然抱きしめられたためか、僅かに頬を染めて体を硬くしているのが見て取れる。
『シ、シドー? 何をしているのだ……?』
口調にはあまり驚きが感じられない。どちらかと言えば軽く混乱しているように思える。恐らく突然のことに反応が追いつかないのだろう。
『……これで寒くないだろ?』
負けず劣らず赤い顔の士道が答える。その甘い(かもしれない)囁きを耳にした十香は、瞳を閉じて穏やかな笑みを浮かべた。
『うむ……とても暖かいぞ……』
そして体の向きを士道の方に変え、その背中に手を回していく。正面から抱き合う形になったところで、十香は士道の肩の辺りに頭をもたれさせた。もう完全に安心しきって身を任せている。士道の方はともかく、十香の方は恋愛映画のワンシーンのように絵になっていた。
「十香ちゃんの機嫌、上限値に達しました!」
「感情値や精神状態も同様です! いつでもいけます、司令!」
口笛や歓声に混じって、報告が艦橋内に上がる。
シチュエーションも十香の状態も完璧だ。ここまできたら実行あるのみ。琴里は艦長席から身を乗り出し、マイクに向かって声高に告げた。
「さあ士道! 十香にキスしなさい!」
途端に士道は目を見開き、驚きを露にする。ここまできて何を尻込みしているのだろうか。お膳立てはこの上ないほど完璧だというのに。
「今さら純情ぶってるんじゃないわよ。これまで何人もの精霊の唇を奪ってきたくせに」
それは仕方ないだろ、みたいな顔をしているがそんなことはどうでもいい。重要なのは一刻も早くキスをさせ、その光景を目にすることだ。そうでもしなければ琴里を含め、<フラクシナス>クルーのテンションは治まらない。
「ほら、キース! キース!」
段々楽しくなってきた琴里は、士道を追い込むためにキスコールを始める。指示は出していないがすぐにクルーたちもコールに加わり、艦橋内はさながらライブ会場のような騒々しさに沸いた。
「キース! キース!」
多重のキスコールに眉をひそめながら耐える士道。しかしすぐに限界が訪れたらしく、大きなため息をついて表情を引き締めた。十香の背中に回していた手を両肩に移動させ、僅かにその身を遠ざける。
『……シドー?』
士道の行為に疑問を覚えたらしい十香が、瞳を真っ直ぐに見据えながら尋ねる。
当然ながらこの時点でキスコールは止んでいた。艦橋内には声どころか物音一つしない。ここからは見逃せないシーンなので、皆集中して事の成り行きを見守っている。
『……十香』
名を呼ぶだけで答えない士道。いや、この状況で言葉など不要だ。その証拠に二人は見つめあうだけで、言葉を交わそうとはしなかった。
まるで琴里たちを焦らしているかのように、見つめあったまま動かない二人。もどかしさでとてもイライラする。二人が動いたのはおよそ五秒後だったが、異常なまでに長く感じる五秒だった。
両目を瞑る十香。僅かに顔を傾け、十香に迫っていく士道。縮まっていく二人の唇の距離。
誰もがモニター上に目を釘付けにされ、最早呼吸すら忘れそうになるほど見入っている。だからこそ二人の唇が触れ合う寸前、モニターから一切の映像が消えてしまった時には、<フラクシナス>全体を揺るがす凄まじい怒声が上がった。
がんがんと耳の奥まで鳴り響くキスコールに、士道は段々と頭が痛くなってきた。もう少し音を小さくしたいところだが、あいにくこのインカムには音量調節機能はない。<フラクシナス>の方で調節しているので、今この場では必死に耐える以外の選択肢はなかった。しかしそれももう限界かもしれない。
抱きしめている十香の体から感じる、温もりと柔らかさ。それだけでもすでに頭が沸騰しそうなほど熱い。心臓に至っては胸から飛び出そうなほど強く鼓動を刻んでいる。そんな状態でキスをしろなどという指示をされたせいで、より強い興奮を覚えてしまったからだ。十香の唇はどんなに柔らかいのか、どんな味がするのか。邪な思考が次々と浮かんでくるほどに。
それでも士道は何とか自分を抑え込んでいた。別にキスをするのが嫌な訳ではない。むしろ嬉しい。十香のような美少女とキスできるのだから、嬉しくて当たり前である。ただ霊力を封印するためでもないのにキスをするというのは、何と言うかいけないことに思えたのだ。
しかし琴里の言葉を信じるなら、十香はキスを望んでいる。同意の上なら問題はないはずだし、何よりこれは精霊の精神状態を安定させるためのものなので、とどのつまりキスは必要不可欠なものであり――
「はあ……」
もはや理性的な思考もままならなくなってきた士道は、ついに根負けしてため息をついた。ここまできた以上、望みを叶えてやらなければ精神状態に悪影響が出る恐れがある。色々思うところはあるが、十香のためにやるしかない。決して士道が邪な気持ちに負けたわけではない。決して。
「……シドー?」
十香の両肩に手を置き、押すような形で体を遠ざける。その顔に浮かんでいるのは疑問と期待、そして僅かな恥じらい。正直言って異常に可愛かった。見ているだけで胸に心地よい痛みが走る。
「……十香」
名を呼び、夜色の瞳を真っ直ぐに見つめる。
しかし続く言葉は口にできなかった。というのも肝心の言葉を決めかねていたからだ。キスするぞ、と告げるべきなのか。キスしていいか、と尋ねるべきなのか。どちらにするべきなのか全く分からない。無理に引き締めていた表情が、焦りで今にも崩れてしまいそうだった。
何とか表情を保ち時間を稼ごうとすると、全身に無意味な力が入った。それは十香の肩に置いていた手も例外ではなく、微かに力が込もってしまう。だが十香はそれをキスの前兆と感じたのか、瞳を閉じて顔を僅かに上向けた。もしかすると、言葉を続ける必要はなかったのかもしれない。
流石に士道ももう迷わない。十香の桜色の唇へと、自身の唇を近づけていった。
耳の奥に響く心臓の鼓動がとてもうるさい。例えインカムから声が届いても分からないほどだ。十香との距離が縮まるにつれて、鼓動はさらに大きさと速さを増していく。
吐息が感じられるほどの距離まできたところで、士道も瞳を閉じた。もう見なくても唇を重ねることはできる。そして士道は最後の距離を詰め、唇を重ねた。
だがその直前、不思議なことが起こっていた。手の平に感じていた十香の肩の感触が消えたのだ。それだけならあまり不思議とは呼べないものの、口付けを交わす十香の腕が、不自然なまでに激しく体に絡み付いてきたのなら別だろう。
不審に思って目を開けた士道は、一瞬自分が幻覚でも見ているのかと本気で心配した。何故なら今キスしている人物が、どう見ても十香ではなかったからだ。その人物の髪の色は白、長さは肩口程度までしかない。唇を重ねているので視界が限定され、その程度の情報しか得られなかったが判断材料としては十分だった。
今キスしている少女は十香ではない。間違いなく折紙だ。
「ぷはっ! ちょっ、折――むぐっ!?」
即座に離れる士道だったが、折紙の反応は早かった。すかさず腕を首の後ろに回され、そのままかき抱くように引き寄せられる。必然的に一度離れた唇は再び触れあい、言葉は途中で遮られた。
「んぐっ! んー!?」
拘束から逃れようともがくも、絡められた腕はびくともしない。さらに恐ろしいことに、折紙は興奮した様子で士道の唇を開こうとしている。一体何をするつもりなのか。
「何をしているのだ折紙!」
十香の怒声が響いた瞬間、折紙はもの凄い勢いで後ろに吹き飛んだ。開けた視界に映ったのは、ボールを投げた後のように腕を振り下げた十香の姿。こちらに背を向けている状態なので、恐らく折紙を放り投げたのだろう。軽く見積もっても高さ四メートル、距離十メートル程度は放り投げられた折紙だが、二、三回宙返りを決めて難なく着地した。この二人、やはりどう考えても人間ではない。
『神無月……何かしそうだったら報告しなさいって言ったわよね。私の話聞いてなかったのかしら?』
怒り心頭といった様子で十香が折紙の方に足を踏み出すと同時、インカムから琴里の冷たい声が聞こえてきた。<氷結傀儡(ザドキエル)>もびっくりするほどの冷たさに、士道は思わず身震いする。
『とんでもありません! 私は司令のご命令通り、ストーキングしている折紙さんから片時も目を離さず、じっくりねっとりと監視を続けていました。当然十香ちゃんの邪魔をしようとしていたことも、いち早く察知しておりました』
どうやら折紙は突然湧き出てきた訳ではないらしい。真面目な口調だが少々気持ち悪い神無月の答えに、士道は納得したものの驚きは感じなかった。別に折紙がストーキングしていようと、今さら驚くような理由などどこにもない。
『そう……ならどうして報告しなかったの?』
明確な怒りを感じる問いに、神無月はさらりと答えた。抑えきれない興奮を滲ませながら。
『報告しなければ司令にお叱り頂けると思ったからです!』
仕事しろよこの変態!
反射的に叫びそうになったが、士道は何とか抑え込んだ。不思議なことに誰よりも早く罵倒しそうな琴里も、沈黙を決めている。たぶん本気で呆れて言葉もないに違いない。
『……<灼爛殲鬼(カマエル)>』
違った。本気でキレてる。何か天使を顕現させようとしてる。
おまけに本来琴里を止めるべきクルーたちは、むしろその逆に煽っていた。『やっちゃって下さい司令!』とか『火葬だぜヒャッハー!』とか色々聞こえてくる。いつから<フラクシナス>は無法地帯と化したのだろうか。
「何故邪魔をした折紙! シドーは私にキスするところだったのだぞ!」
「それはありえない。寝ぼけて夢でも見たに違いない。早く帰ってベッドに入るべき。私はこれから続きを始める」
気が付くと十香と折紙の言い争う声が聞こえてきた。どうやら<フラクシナス>で交わされる会話に気をとられていたらしい。見れば異様に険悪な空気を漂わせながら口げんかを始めている。とはいえ十香の声には常人なら恐怖で腰を抜かすほどの、殺気に近い迫力が込もっていたので、口げんかという表現はかなり甘めだったかもしれない。
『……今はあっちの状況をどうにかするのが先決ね』
十香たちの会話が聞こえていたらしく、平静を取り戻した琴里の声がインカムから届いてきた。その直後に爆発音染みた凄まじい轟音も響いてきたが、何があったのかは定かではない。
「大体貴様は――むっ!? どこへ行った折紙!?」
数秒後、折紙の姿が音もなくかき消えた。恐らく<フラクシナス>に回収されたのだろうが、それを知らない十香は鋭い目つきで辺りを探し始めた。
『あとお願い、令音。ちょっと行ってくるわ』
『……ん、任せたまえ』
短いやり取りの後、足音が遠ざかっていくのが聞こえた。ついでに何かを引きずっていくような怪しい音も。そういえば先ほどから神無月の声がしない。
『……聞こえるかい、シン。すまないね、こちらのミスだ』
「いや、令音さんたちのせいじゃないですよ。神無月さん一人のミスじゃないですか。しかも話を聞く限り意図的みたいですし……」
そもそも誰があんな変態――ではなく、少しおかしな人を副司令などという重要な立場に任命したのだろうか。誰がどう考えても人選を間違えている。
『……聞いていたのなら状況を説明する必要はなさそうだね。とりあえず十香のフォローに向かってくれ』
「分かりました。でもその前に一ついいですか?」
一つ気になることがあったので、向かう前に士道は尋ねてみた。
『……ん、何だい?』
「その……神無月さんはどうしたんですか?」
『……ああ、彼なら――』
そこで令音の言葉は途切れる。何か言いにくいことなのか、たっぷり五秒は沈黙していた。
『……人の形は保っているよ?』
「そりゃあ保ってなきゃヤバイですからね!? 何したんですか一体!?」
驚きの返答に追求を重ねたが、令音からははっきりとした答えは返ってこなかった。
十香のフォローに向かって十秒後、どうしたことか士道は帰路についていた。
理由は分かっている。歩み寄ったところでいきなり十香が「帰ろう」と言ったからだ。その言葉だけならフォローを続けようとしたのだが、有無を言わさぬ迫力が込もっていたので断念した。たぶん琴里がいたら腰抜け呼ばわりしただろう。
現在、十香は士道の二メートルほど前方を歩いている。歩調はかなり早く、まるで士道を置いていこうとしているかのようだ。令音に状態を尋ねるまでもなく、機嫌が悪いのは明らかだった。
「な、なぁ、十香?」
「何だ。さっさと帰るぞシドー」
その証拠に返ってきたのは、怒りを抑えた低い声。不可抗力とはいえ折紙とキスをしてしまったせいだろうか。かなり怒っている。
「は、はい……」
素直に頷くことしかできず、士道は肩を落とした。
「令音さん。十香がもの凄く不機嫌なんですけど、今どんな状態なんですか?」
機嫌が悪いのは一目瞭然だ。ただ精神状態や感情値については士道にも分からなかった。普段ならそれらが低下すればインカムを通じてアラームが聞こえてくる。しかし今回はインカムが不調になったらしく(恐らく折紙のせい)、アラームは聞こえてこなかったのだ。
『……ん、ほぼ全ての値が霊力逆流の一歩手前というところだね。まあそう悲観したものではないよ』
「どの辺が!? 問題大ありじゃないですか!?」
予想の上を行く答えに声を上げてしまい、とっさに士道は口をつぐむ。しかし人も車もほとんど通らない静かな住宅街では無意味だった。当然声の聞こえていた十香が、こちらを振り向き怪訝な視線を向けてくる。
だがそれも一瞬のことだった。十香はすぐに興味を失ったように顔の向きを戻し、歩みを進めていく。もはや口も利きたくない、ということか。
「……今無視されたんですけど、本当に悲観したものじゃないんですか?」
『……ああ、断言してもいい。理由は――ふむ。ちょうど戻ってきたようだから琴里に聞くといい』
一旦艦橋を離れた琴里が戻ってきたようだ。何故離れたのかは知らないが、恐らく回収した折紙に注意でもしに行っていたのだろう。まあ折紙が素直に聞き入れるとは到底思えないが。
『いい、士道? 確かに十香の状態は最悪の一、二歩手前ってところね。でもあなたに対する好感度だけは変化してないわ。この意味が分かる?』
「……俺に怒ってるわけじゃない、ってことか?」
もしも十香が士道に対して怒りを抱いているのなら、少なからず好感度も下がるはずだ。それがないということは、この怒りは士道に向けられているものではない。恐らく折紙に対しての怒りが、行き場を失っているだけなのだ。
「そうよ。つまり士道なら十香の機嫌を直すことができるってわけ。方法は当然キスしかないから、とっととキスしなさい。早く」
「いや、待て。何でそうなるんだ」
まくし立てるような指示に、士道は僅かな疑念を抱いた。機嫌云々より、単純にキスさせたいだけに思えたからだ。
『キスで機嫌を損ねたんだから、キスで解決するのが筋ってもんでしょうが。それとも何? 折紙とはしたのに十香とはしないわけ?』
前半はともかく、後半の言葉には一理ある。途中で邪魔が入って雰囲気は台無しになったが、期待させてしまった責任はとるべきだ。
「……分かった。それで機嫌が直るんならな」
『分かってるじゃない、士道! あ、飲み物持ってきたから、皆好きなの取ってていいわよ。残念ながらつまみはないけど』
色々突っ込みたいことはあるが、いい加減疲れてきたのでもう何も言わないことにした。
好感度は変化していなくても、その他の値は危険なまでに低下している。あまり長い時間放っておくこともできない。士道は心の準備も雰囲気作りも諦めた。
「十香!」
なりふり構わず十香に駆け寄り、その手を掴んでこちらを向かせる。ただ名前を呼んでも無視されるかもしれないからだ。
「シ、シドー?」
驚きで怒りを忘れたのか、十香の声はいつもの調子に戻っていた。まだ期待が残っていたのか、微かに顔が赤い。
流石にもう邪魔は入らないと思うが、念を入れるにこしたことはない。士道は一瞬湧き上がってきた迷いを振り払い、一気に十香と唇を重ねた。
「んっ――」
僅かに身を震わせた十香が、小さな喘ぎをもらす。それは唇を重ねているせいで声にはなっていない。代わりに十香の唇が形を変え、柔らかさと温もりを伝えてきた。触れ合っているだけでも相当な興奮を覚えるというのに、さらに刺激されては理性がかなり危うくなる。
だが士道は理性を保ったまま口付けを続けた。保てた理由は歓声を上げる見学者がいるからか、見るのも嫌になったステーキの味がしたからか。詳しいことは分からなかったが、胸に流れ込んでくる暖かさの前ではどうでもいいことだった。
どれほどの時間がたった頃だろうか。キスを終えて目を開けると、もう十香の顔には怒りなど微塵もなかった。あるのは妙に色っぽく思える、夢心地な表情のみ。琴里に確認するまでもなく、機嫌が直っているのは疑いようもない。
「……よ、よし。じゃあ早く帰ろうな?」
興奮で火照った顔を背けながら、士道は提案した。目当てのものが見られて奇声を上げている<フラクシナス>クルーはともかく、十香もきっと満足してくれたに違いない。
そう思っていたのだが、何故か両手で胸倉を掴まれた。
「えっと……どうかしたのか、十香?」
意図が分からず、乾いた笑みを作って尋ねる。何か気に障ったのかもしれない。そうでもなければむっとした表情で見上げてこないはずだ。
「……まだだ」
「へ?」
「まだだ! こんなものではまだ足りんぞ、シドー!」
「むぐっ!?」
叫ぶなり十香は体を引き寄せ、もう一度キスをしてきた。
『おっと、第二ラウンド開始ね。これはずいぶんと見ごたえがありそうだわ』
再びヒートアップする<フラクシナス>艦橋のボルテージ。しかし士道にはそれを認識する余裕はなかった。何故なら十香の唇が先ほどより激しく動いていたからだ。このままではかなりヤバイ。ものを食べるような色気の欠片もない動きだがかなりヤバイ。
必死に逃れようとしたものの、十香に力で勝てるはずがなかった。抵抗虚しく、士道は背後にあったブロック塀に背中を押し付けられ、激しい口付けに晒される。そのうち抵抗する気力も思考する余裕も奪われ、頭の中は真っ白になっていった。
「――うむ! 今日はこのくらいで勘弁しておいてやろう!」
キスを止めた十香は、捨て台詞のような言葉を嬉しそうに口にした。時間の感覚すらなくなっていたので、どれほどの間キスをしていたのかは分からない。分かるのはやっと解放された、ということだけだった。
「さあ帰ろう、シドー」
今度こそ満足したらしい十香は、とびっきり嬉しそうな笑顔で手を取ってくる。
「お、おう……」
正直まだ頭がぼうっとしていてふらふらするのだが、十香が手を引いてくれたので何とか歩くことができた。キスでこんなことになってしまうとは、情けなくて涙が出そうだ。
「なぁ、シドー。また夜のデェトをしような?」
振り向き、笑いかけてくる十香。学校では夜のデートがどんなものか分からなかったようだが、実際に体験してみて理解できたらしい。ただしそれが正しく理解されているのかは疑問である。
夜のデートではキスをしてもらえるもの。亜衣麻衣美衣の怪しい吹き込みにより、恐らく十香はそんな風に思っていたのだろう。そして今回は実際にキスをされてしまった。きっと誤った形で定着してしまったに違いない。夜のデートでは、必ずキスをしてもらえるのだと。
「……ああ、そうだな。またしような」
しかしその間違いを訂正しようとは思わなかった。あまりにも上機嫌な十香の笑顔を前にして、間違っているとは口にできなかったからである。
そしてもう一つ。たまにならそれも悪くはない、と士道も思ってしまったからだ。
「えっ!? 昨日五河くんと夜のデートに行ったの!?」
「流石十香ちゃん。何という行動力……」
「それでキスしてもらえた? 口付けを交わした? 接吻を受けた?」
翌日、登校するなり十香は亜衣麻衣美衣に囲まれていた。話を聞きたそうにしているのは一目瞭然だった。三人の目は一様に輝いている。
顔を合わせても士道に襲いかかってこなかったところを見るに、夕弦と耶倶矢はこの三人の誤解も解いてくれたらしい。ただ三人がポケットに手を伸ばしかけたのが気になった。そのポケットが怪しげに膨らんでいて、何かがはみ出ていればなおさらだ。とりあえず見なかったことにしておいたものの、あれは一体何が入っているのだろうか。
「む……いや、キスはされなかったが、とても楽しいデェトだったぞ?」
十香はちらりとこちらを見ると、登校前にも言っておいた通りの嘘をついた。この様子なら放っておいても昨日のような騒ぎは起きない。士道は安心して席を立つことができた。
「それに、あれだな。シドーが私を抱いてくれたのは、とても嬉しかった……」
うっとりとした十香の声に、教室中が静まり返る。士道には何故皆が凍りついているのか全く分からなかった。抱きしめたくらいでここまで驚くことはないだろう。
「最初は突然だったので驚いてしまったが、シドーは優しく抱いてくれたからな。とても暖かくて、気持ちよかったぞ……」
待て。何かおかしい。大体あってるのだが何か違う。
頭をフル回転させること数秒。殺意の込もった視線が殺到してくると同時に、士道はその何かを理解した。
「待った! 抱きしめて、だからな!? 抱きしめただけだからな!?」
最も近くにいた三人娘が口を開く前に、慌てて訂正した。先ほどの十香の言い方では、違う意味に取られても仕方ない。というか反応を見る限り、教室中の生徒が間違った意味で捉えている。
「何故言い直すのだ、シドー? 意味は同じではないか」
「いや、うん、そうなんだけどな!? ちょっと十香の言い方は他の意味もあるっていうか……」
他の意味が分からないらしく、首を捻る十香。その様子で勘違いだと納得したようで、三人娘の目から殺意が引いていった。教室にもいつもの騒々しさが戻っていき、危機が去った安心感に士道は安堵のため息をもらした。
「おはよう、士道」
だが新たな危機が迫っている。抑揚のない挨拶が背後から届き、士道はそう直感した。
「昨日のキスは……素晴らしかった」
再び沈黙する生徒たち。振り返れば、そこにいたのはやはり折紙だった。あろうことかその表情は恥らう乙女のものであり、誤解させるには十分な魅力を持っていた。これは色々な意味で言い訳のしようがない。
「出たな折紙! 昨日はよくも邪魔をしてくれたな! シドーは私にキスするところだったというのに!」
おまけに頭に血が上ったらしい十香が、言いつけを完全に忘れている。
士道は冷静に現状を分析し、最善の行動を選択した。
すなわち、逃走を。
「この女たらしがああああぁぁぁぁ!!」
「この色魔がああああぁぁぁぁ!!」
「この万年発情プレイボーイがああああぁぁぁぁ!!」
各々の叫びを上げ、三人娘がそれぞれの得物を手に追ってくる。無駄にでかいハサミと、凶悪な突起のついた金槌、そして禍々しい形状のペンチ。恐らくあれらがポケットに入っていたものの正体だ。
ふと、あれらで処理されても再生するのだろうか、という疑問が頭をよぎる。しかし試してみたくはないし、士織ちゃんにもなりたくない。
足が折れようと肺が破れようと走る覚悟で、士道は恐怖の鬼ごっこを始めた。
お疲れ様でした。十香のお話はこれで終了です。
やはり動きの少ない場面は書くのが非常に難しく感じます。夏休みなのにほとんど進まなかったのは、後半で度々詰まったことも要因の一つです。ちなみにキスシーンはもっと濃厚にしたかったのですが、R指定に引っかかると嫌なので止めておきました。分の悪い賭けはしない主義。
それから活動報告の方でちょっとしたアンケートを取りたいと思います。ゲーム版のキャラクターのお話を考えたりしているのですが、少し決めかねていることがありまして。「力及ばず何の決定も下せませんでしたぁ、手伝って下さいってかぁ!? 手伝ってやるよぉ!!」という方は是非ご協力をお願いします。