「大丈夫ですかっ?」
少し大きめの樹木を背に、緑髪の少女が怯えた目で前方を見つめていた。この少女が悲鳴を上げたのだろうと予想しつつ、彼女を庇うように前に立ち、その視線の先をさとりとこころは見据える。
そこにいたのは、二本の後肢で立つカエルの化け物だ。
カエルとは言っても、その色や外見の大体のイメージからさとりがそう感じただけで、一般にカエルと呼ばれる動物とは大幅に体の構造は違っている。まず全長が二メートル弱もあり、後肢だけでなく前肢も太い。肘や膝、背中からは泥色に変色した棘のようなものが無数に生えていて、だらりと口元から垂れた舌には毒々しい紫色の液体が滴っていた。
カエルが獣に近づいたというよりも、獣がカエルに近づいた。そんな印象を受ける。そういうカエルのモンスターが五匹程度、樹木を背に怯える少女を睨みつけていた。
「あ、あなたがたは……?」
「あなたの叫びを聞いた、ただの通りすがりです」
緑髪の少女の質問に答えながらも、さとりは鋭い目線でカエルのモンスターを観察していた。
この森に来るまでの草原ではマッドウルフなどの魔物と幾度か戦ってきているが、森の魔物と出会うのは今回が初めてである。さすがに、すぐ隣にある草原とかけ離れたレベルの強さを持っているとは思えないが、初めて戦うタイプのモンスターのため、油断はできない。
さとりはこころと視線を交わすと、互いに頷き合った。今のさとりとこころであれば、これだけで軽い意思疎通は可能だった。
すなわち、近接戦闘の得意なこころが先行し、さとりは緑髪の少女の護衛を主としてできるだけ動かないでいること。
「行くよ!」
手慣れた手つきで素早く扇子を一回転させると、こころは地面を蹴って五匹のカエルのもとへと突っ込んだ。それに応じ、カエルたちもそれぞれ威嚇するように口を大きく開き、ゲロゲロと、しかしおよそカエルのものとは思えない獣のごとき鳴き声を上げた。
こころはまず、一番近い位置にいたカエルを片付けることにしたらしい。一匹目のカエルに素早く走り寄ると、そのカエルが迎撃するように繰り出した裏拳を懐に潜り込むことで回避する。そして駆けていた勢いを乗せ、カエルの腹へと扇子の突き出した。
薙刀の柄頭でこれを打っていたならばこれだけで相手を戦闘不能まで陥らせることも可能だったかもしれないが、扇子にそれほどの威力はない。けれど腹を突かれた衝撃と苦しさゆえか、攻撃を受けたカエルにわずかな隙が生じる。
こころはそこへ薙刀ではほぼ不可能な怒涛の連続攻撃を繰り出した。まるで流れるような最小限の動きで、胸元や関節、首などの急所を的確に狙い打つ。そうして最後には、苦悶に膝をついたカエルの頭部を、わずかな風の刃を纏った扇子で突き刺した。
この間、五秒にも満たないほんの数秒の出来事である。あまりにもこころとそのカエルとの距離が近すぎて巻き込みかねなかったためか、周りのカエルのモンスターたちが助太刀を戸惑っているうちに、こころは一匹目のカエルを確実に始末してみせた。
「さて……」
まずは一匹、と言った具合だろう。今のこころの突撃はうまくいったが、二回目以降はきっとそうはいかない。今のそれはスムーズに一対一に持ち込めたからすぐに終わっただけで、四匹と同時に戦うことになれば簡単にはいかないはずだ。ただ、こころならば遅れを取ることはないだろうとも思う。
さとりも、できるだけ動かないでいる作戦ではあるものの、手出ししないつもりではない。『魔術師』であるさとりには遠距離から攻撃する手段があるのだから。
「こころさん、舌から垂れている紫色の唾液にはできるだけ触れないようにしてください」
「もちろん。見るからに毒って感じだものね」
「それから後肢の攻撃も、受け止めるよりも避けたり受け流したりといった対応でお願いします。この二本足で立つカエルもそうだとはわかりませんが、普通のカエルはその構造上、他の生物と比べて後肢が発達しています。用心に越したことはありません」
まずはこころが突撃して様子を見てから、さとりが軽い指示を出し、こころが、あるいは二人で一緒に実行する。二人の間ではよく行われるパターンだった。
仲間をやられた怒りからか、さきほどよりも鋭い声音で吠えるカエルのモンスターへと、こころが再び駆け出す。さとりはそれをサポートするために『魔弾』の魔法陣を描き出していく。
緑髪の少女は、息の合ったコンビネーションを見せるそんな二人を、ほんの少し輝いた瞳ときょとんとした表情で眺めていた。
カエルたちは草原の魔物と比べれば強かったが、油断さえしなければ二人の障害になるほどではなかった。大した怪我もなく殲滅を終えると、さとりは他にカエルの気配がないことを『既知探知』――レベルが上がることにより自動で覚えた『斥候』のアビリティ。一度のログイン内で倒した魔物と同種類の魔物が周囲にいないか察知する――で確認し、それをこころにも伝える。そうていから、二人はやっと息をついた。
平原を歩いていた時は視界が開けていたのでこういうことは必要なかったが、入り組んだ森の中や洞窟ではこうしてこまめに警戒していかなければ、不意打ちを食らって二人ともやられてしまうということもありえた。
相手がいくら格下であろうとも、こちらは二人しか人数がいないのだ。
たとえば、油断したところに奇襲され、さとりかこころのどちらかが、あるいはどちらもが麻痺かなにかの状態異常にさせられてしまうと言ったことが想像できる。そうなれば、よほどの力の差がない限りは戦況を覆すことはかなわない。
――せめてあと一人……いえ、少なくても二人でも仲間がいれば、いちいちこんなに精神をすり減らさないでいいんだけど。
とは言え、それが難しいことをさとりは知っている。
おそらくはプレイヤーの中では妖怪の数が一番多いのだろうが、妖怪などの幻想の存在は総じて協調性というものが欠けているうえ、基本的に自分勝手である。ならば人間を仲間に、なんて考えても、人間は妖怪と違って日々の生活を生きるために忙しいため、さとりやこころのように頻繁にログインできる者なんてごく少数だろう。その少数を見つけるのはさすがに骨が折れるし、そもそも妖怪である自分たちと息が合うかも仲間になってくれるかもわからない。
そしてなにより、さとり自身が人見知りをしてしまい、初めての人と親しくなりにくいということが挙げられる。冷たく突き放すことが目的ならばいくらでも刺々しい言葉を吐けるのだが、誰かとの親しくなり方というものが、ずっと人を拒絶してきたさとりには未だによくわからなかった。
「……さて」
ぐちゃぐちゃと中身を撒き散らすカエルの死体をインベントリにいれることで軽く片付け、改めて緑髪の少女に向き直る。
こんな辺鄙な森にいたこのプレイヤーらしき少女が、さとりの探していた人物なのかどうか。
……おそらく違う、とさとりは半ば確信気味に思う。
もしもこの少女が本当に《恐ろしい波動》が使っていたものと同じシンクロシステムを自在に操れる使い手なのだとすれば、あの程度のモンスターを相手に遅れを取るはずがない。たとえさとりとこころのように二人ではなく、一人であろうともそれは変わらないはずだ。
なんにせよ、話しかけてみないことにはなにもわからない、か。
さとりは座り込んだその少女に視線を合わせるように膝をつくと、そっとその瞳を覗き込んだ。
「もう大丈夫ですよ。怪我はありませんか?」
誰かと親しくなる方法はわからなくても、誰かを安心させるためのそれは知っている。ペットたちをいたわる時と同じように優しげな声音を意識して、ありきたりな言葉でさとりは問うた。
実は内心、これで正解かどうか不安でいっぱいなのだが。
これまでずっとぽかんとした表情でさとりたちの戦いを眺めていた少女は、さとりのその声にはっとしたように顔を上げた。
「も、問題ないです! あ、あの! ありがとうございましたっ!」
少女がばっと勢いよく頭を下げ、そのサイドテールが揺れる。
なんとなくさとりは、この少女が妖怪ではないことを悟る。よしんば妖怪であったとしても大した力は持っていないだろうと感じた。
なぜなら、もしもこの少女が力のある妖怪だとすれば、この場面で心からのお礼なんて言ってきたりはしないだろうからだ。
力に自信のある妖怪からしてみれば、よほどの理由がない限りは、他人に助けられて、こうして心配されることなんて屈辱でしかないはずだから。
「いえいえ、どういたしましてー」
さとりの代わりに、後ろに立つこころが軽快に少女のお礼に答えた。
さとりはさきほど抱いた『力のある妖怪にとっては他人に助けられて、心配されることは屈辱』だという考えに対して、もちろん例外はいるが、とこころを横目で見る。こころはどうやら自分の力というものが他者と比べてどうなのかということに、それほどの執着を持っていない。
「怪我がないなら、急いで駆けつけたかいがありましたね。よかったです。それで……あなたはどうしてこんなところに? ここは道から少し外れているようですが……」
さとりとこころは看板が立っていた、人の歩いたような跡がある道をまっすぐに歩いてきた。しかしここは辺りを見渡してみても、草木が好き勝手に広がっているばかりで、進んで入り込むべきような場所ではない。
あるいは、こういう人の手に入っていないところでこそ見つけることのできる特別な植物やアイテムでもあるのかもしれない――とも思ったが、別段そうでもないらしい。
「いえ、その、必死で逃げていたら道から外れてしまって……正直、ここが森のどの辺かもわからないんです。途中まで一緒に逃げてた友達ともはぐれちゃったし……」
「友達、ですか。その方もあなたと一緒で、あのカエルの魔物に追われているんですね?」
「はい。たぶん、魔物の数も私の三倍くらい多いんじゃないかなぁ……怒り買うようなこといっぱいやってたし。まぁ、なんだかんだで生き延びてそうだけど」
「……こころさん、どうしますか?」
どことなく不安げな少女を横目に、さとりはこころに顔を向けた。
こころはただ目をぱちぱちと瞬かせては、首を傾げる。
「え? 探さないの?」
まるで探すことが当たり前のように問い返された。さとりが「探そう」と思っていることを、言わずともこころはとっくにわかっていたようだった。
なんとなくさとりは、もしかしたら、こころの中で自分という存在は『お人好し』のように映っているのかもしれない、なんて思う。
なにせそもそも、悲鳴を聞いたからと言って、すぐに助けに行こうとすること自体、妖怪の思考回路としておかしい。妖怪なんてものは自分勝手で、自分のことしか考えてないのが普通で。悲鳴なんて耳にしても「助けに行こう」となるよりも、「面白そうだから見に行こう」という反応をする者の方が多いだろう。
別に、私は『お人好し』なんかじゃないのだけど。
きっと現実でなら、心を読む力を備えてしまっている世界でなら、どこかで誰かの悲鳴が聞こえたところで、ペットたちにその様子を見に行かせるくらいだ。特に興味も持ちはしない。自分の足を動かそうとも思わない。
なにせ行ったって感謝なんてされるわけがなくて嫌われるだけなのだ。自分自身が嫌な気持ちになるだけ。
でも、この世界ではそれがない。なら、人探しをしていることもあるし、助けに向かってもいいかもしれない。今回はそんな気持ちになっただけだった。
「いえ、探しますよ。こころさんがそれでいいかどうかを確認しようと思っただけです」
「それなら大丈夫よー。今日はさとりの人探しの手伝いに来てるんだもん。さとりの決定には従うわ」
「ありがとうございます、こころさん」
「いえいえどういたしまして」
そんな二人の様子を、緑髪の少女は不思議そうに眺めていた。
「どうかしたんですか?」
「あ、いえ、その……戦っている時のお二人は息ぴったり、っていう感じに見えたので。その、さっきから『こころさん』なんて他人行儀な呼び方なのがちょっと気になって……」
その少女の疑問に、こころが大げさに両腕を広げて、いかにも『驚いた!』と言ったリアクションを取った。
「はっ! そういえば確かにっ! 初めて会った時からずっと同じ対応だったから気づかなかったわ! 私は呼び捨てにしてるのにっ!」
「いえ、まぁ、こころさんは初めて会った時から呼び捨てでしたが」
「それはそれ、これはこれ。さとりー、さんづけなんてしなくても、呼び捨てにしてもいいんだよー」
穏やかな催促とは裏腹に、両手を広げ、『どんと来い!』とでも言いたげに胸を張るこころ。これは、ここで呼び方を変えなければいけない流れなのだろうか。
こころとはもう数か月ほどの付き合いになるし、冗談を言い合えるほどにも仲は深まったと感じていた。彼女の言う通り、確かにもう呼び捨てで呼び合っても構わない頃合いだろう。
そう思い、試しに一度だけ呼んでみようと口を開きかけて、喉に言葉が詰まった。
本当に、いいのかしら。
無表情ながらに、わくわくとした感情をめいっぱいに主張する天真爛漫な少女を目の前にして、どうしてか、そんな風に迷う自分がいることに気がついた。
急に呼び方を変えるのが恥ずかしいから。そうやって恥ずかしがる姿を見られたくないから。そういう気持ちはもちろんある。けどそれだけじゃなくて、どこか後ろめたいような、今の自分ではそれをしてはいけないような、言いようのない感覚。
こころは自分のことをさとりにいっぱい話してくれるのに、さとりはずっと隠しごとをしたままだから。
「さとり?」
「あ、いえ……」
こころに顔を覗き込まれて、さとりはぶんぶんと首を横に振った。
もしもこころのことを呼び捨てで呼ぶことに抵抗感があろうと、こうして、こころ自身がそうされることを望んでいる。なら、やはり呼び捨てで読んであげるべきだ。
一度息を吸い込み、はく。心を落ちつけたところでこころに向き合い、今度こそ呼び捨てで彼女を呼ぼうとした。
「こころ、さ……い、いえ」
「うんー?」
彼女の名を口にしかけた時点で、さとりの中から後ろめたい気持ちは消えていた。しかしそれに代わり、今度は羞恥の念が、胸のうちどころか血を伝って顔の部分まで浸透し始めている。
少し、頬が熱い。もしかして、赤くなってしまっているだろうか。それが、こころにもわかってしまっているだろうか。
咄嗟にこころから視線をそらしてしまう。視界の隅で、そんな自分の様子にこころが首を傾げているのが見えた。
気づいていないのだろうか。いや、こころのことだ。気づいていて、『どうして赤くなってるんだろう?』なんて疑問に思っているかもしれない。そして彼女のことだから、直接それを聞いてきてしまうかも。それはできるだけ避けたい。
――恥ずかしいから、なんて自分の口で言うのは、なんというか……もっとこそばゆいし。
早くこの少女の名前をしっかり呼んでみせないといけない。そう思い直し、改めて彼女に向き直り、口を開く。さらに顔に熱がこもっていくのがわかるが、そんな気恥ずかしさを無理にでも無視して、さとりは思い切ってそれを言葉にした。
「こ、ここ、こころっ!」
「おおうっ!? 声大きいっ!」
さとりの突然の大声に、こころは両腕をさらに大きく広げ、『驚きに驚いたっ!』と言わんばかりにのけぞってみせた。
当然、さとりとしては、もっと平坦な反応をされることを望んでいた。もちろん、その方が照れくさくないからだ。けれどそれとは真逆の、いつにもまして変な反応をされるものだから、やってしまったと言わんばかりにさとりの顔にはさらに熱が溜まっていく。
あ、あれ?
あまりの熱さに、めまいさえ覚えてきた。木々の枝が風で擦れる音も遠くなり、胸のうちでなにかが激しく鼓動して、少しだけ苦しい。
思考が、まとまらなくない。重心を保つことができず、その場でふらふらと体を揺らしてしまう。
「わっ」
「うぅ……」
そのまま地面に倒れ込みそうになって、痛いのは嫌だ、と半ば無意識にこころの方へと倒れる方向を変更した。そうなれば当然こころに寄りかかる形となり、両手を広げていたこころの胸に顔を埋める。
こころはわずかに戸惑ったように目をぱちぱちと瞬かせるが、ずるずるとさとりが力なく下に沈んでいくことに気づくと、慌てた様子で素早く膝をつき、こころの方からもさとりを抱き寄せた。
名前を呼ぶことなんかよりもよっぽど恥ずかしい体勢ではあるが、あまりの熱さに脳がオーバーヒートしてしまった今では、そんなことは全然気にしようとも思えなかった。
「すみません……少しだけ、このままでいてもらってもいいですか……? その、恥ずかしすぎて貧血が……」
「う、うん。あの、ね。そんなに急じゃなくてもいいんだよ? えっと、少しずつ変えてくれるだけでも嬉しいから、えーっと」
無表情ながらに今のこころが困惑していることは、誰が見ても理解できるだろう。そして、それに加えてさとりには、彼女が申しわけないという感情を抱いていることがわかった。
呼び捨てで呼ぶことを強要して、そのせいでこんな状態にしてしまったのではないか。この少女が、そんなふうに不安を感じていることが理解できた。
ふふっ、と小さく笑う。そうじゃない。本当にただ言ってみただけのこと。いろいろなことが恥ずかしすぎたばかりに頭が真っ白になってしまっただけ。
ペットたちのことは昔からずっと愛称で呼んでいる。妹も、初めて呼び始めた時からずっと呼び捨てで続けていた。だからこれまで親しくなった誰かの呼び方を変えるなんてことはしたことがなかった。いや、そもそもとして、誰かと対等に親しくなっていくこと自体が、今の自分には初経験で。
頭に血がのぼっているせいかしら。
どうしてか、今なら、どんな素直な気持ちだって口にしてしまえるような気がした。どんなこっ恥ずかしいことだって聞いてしまえるような気がした。
今の自分に正常な思考ができていないことは理解している。それでも、たぶん、こんな時くらいでしか言えないだろうから。
わずかに涙目になっていた目元ごと、さとりはこころの胸に顔をさらに深く埋める。
「こころさん……いえ、こころ」
「う、うん?」
「あなたに会えてよかった。あなたと会ったあの日から、毎日が本当に楽しくて……あの時会ったのがあなたじゃなかったら、こうはなれなかった。あの時会ったのがあなただったから、私はこうしてここにいるんです」
「あり、ありがとう? さ、さとり? ど、どうかしたの?」
「こころ。あなたにとって、私はいったいどういう存在なんでしょう。あなたにとって、私は、少しでもあなたが利するような存在になれているでしょうか」
少しだけ、気になります。そんな風に締めくくって、さとりは目を閉じた。
この気持ちを抱くことがただの傲慢だということはわかっている。
現実の世界でならば、自分は他人の心を読み取ることができる力がある。だからペットたちが自分を心の底から慕ってくれているのがわかるし、それを疑う余地もない。けれど、この世界ではそんなことを可能とする力は自らに備わっていない。
多くの生命にとって心を読めないことが当たり前のことであろうとも、さとりにとって、目の前にいる他人の気持ちに確信を持てない状況というものは初めての経験だった。
相手が自分をどう思っているかがわからない。態度通りに少なからず好いてくれているのか、それともその内心では自分を嫌っているのか。いつも理解できるはずのそれが、この世界ではどうしても見えてこない。
どんなに小さなことであろうと、ほんの些細な相手の言動で不安になってしまう。この世界で絆を深めたはずの少女の胸にこうして体を預けている今でさえ、こうやって自分勝手な憂心を打ち明けることを、この少女が煩わしいと思っていないかどうか。
こころは初め、唐突なさとりの質問に動揺していたが、なにを思ったのだろうか。しばらくすると体の力を抜き、されるがままになった。
「うーんと、その……利するだとかなんだとか、難しいことはわからない……けど」
「……けど、なんですか?」
「さとりは私にとって、『友達』……なのかな。他の誰かとこんな風に毎日遊び合ったりとかしたことないから、本当はよくわからないけど……人間たちの関係で表すなら、きっとそう」
友達。こころは確かに、そう言った。
さとりはこころの胸の中で顔を上げ、彼女の顔を見上げた。あいかわらず、感情の読めない無表情のまま。けれど、こころもさとりを見つめ返していた。
今は他人の内心を正しく悟ることはできない。そのはずだ。けれどこの純粋な桃色の瞳を通して、さとりにはどうしてか、こころが本心からそう思ってくれていることを理解できた気がした。
友達。そうか、友達か。
私の初めての、友達。
心地いい響きだ。そう思いながら、さとりはもう一度こころの胸の中に顔を埋めた。
「ふ、ふ……ありがとう、ございます」
「……? どういたしまして?」
こころはあいかわらず頭の上にハテナマークでもついていそうな反応しかしなかったが、それでもさとりは満足だった。
顔に集まった熱が収まるまではこのまま甘えさせてもらおう。こんなにも鈍感なこころのことだ。それくらいはなにも聞かずにされるがままでいてくれるだろう。
――でもたぶん、いや、きっと。この熱が収まった頃には、今この時のことを思い返して、あまりの恥ずかしさに穴があったら入りたい気分にでもなるんでしょうね。
それでもいいか、と今は思う。きっと後になったら、こんな気持ちを抱いていたことに間違いなく心底赤面することになるんだろうけれど、そんな感情は全部後々の自分に丸投げだ。
今は、今抱いているこの感情と、体中に染み渡る優しげな匂いを大事にしていたい。
そんな風に、さとりは感じていた。
「あ……あのー……わ、私もいるんですけどー……」
なお、緑髪の少女が二人から少し離れたところで居心地が悪そうにそんなことを小さく呟いていたが、誰の耳にも届いていなかったという。
「さとりー、どうしてそんなに急いで歩くの?」
「ちょ、ちょっとそういう気分なんですっ」
あれから数十分の時が過ぎ、現在さとりとこころは、元々進んでいた少しばかり開けた道のもとに戻り、緑髪の少女を連れて森の再探索を開始していた。
二人はろくにこの森のことを調べずに、大雑把な場所だけ把握して訪れていたが、緑髪の少女はこの森の構造をほとんど把握しているという。というのも、ずいぶんと前から友達とやらとこの森に住み込んでいたらしい。
森に住み込む、なんて回答が当たり前に出てきた時点で、さとりは緑髪の少女が決して人間ではないことを理解した。だけど妖怪でも、神でもない。そうなると、残る答えは一つしかない。
「さとりー……やっぱり、まだちょっとおかしいわ。まだ熱が収まらないの? 体調悪いなら無理しちゃダメだよー」
「だ、大丈夫だから……」
後ろの方からこころの心配する声が聞こえてきて、少しだけ申しわけなくなるが、そうではない。そうではないのだ。
――バカ! 数十分前の私のバカ! なんてことを思って、なんであんなことしたのよ! バカバカバカっ!
こころがすでに平然としていることが逆に羞恥の感情を誘う。気分的には、布団の中に潜り込んで思い切り丸くなりたいような気分だ。こころのことを呼び捨てで呼ぶ時とはわずかに違った恥じらいの念が、さっきからずっと頭の中を巡っている。
こころの胸の中に飛び込んで。弱音を吐いて、甘えて。
明らかに冷静さを欠いていた。熱で頭がぼんやりしていたにしても、本当に、なんて恥ずかしすぎることをやってしまっていたのだ、自分は。
「その、そ、それよりっ! えっと、その、本当にこっちで合っているんでしょうか」
こころにこれ以上追求されることを避けるために、振り返って、こころの鈍感さに苦笑を浮かべていただろう緑髪の少女に問う。
いきなりのことに彼女は一瞬だけびくりと体を震わせるものの、すぐに顎に手を添えて考え込むような姿勢を取った。
「うーん……あの子のことなので、もしかしたらまだ逃げ回っているかもしれないですけど……なんとかまいて逃げ帰ってたり、一度死んで、私たちが拠点にしていたその岩場に戻ってる可能性も十分にあります」
この緑髪の少女たちは今のところこの森に住んでいる。それなら、その友達とやらはもうすでに二人が拠点としている居場所に戻っているかもしれない。そういう考えのもと、ひとまずさとりとこころは緑髪の少女の案内で進んでいた。
そもそも、さとりが熱を出してこころを困らせていた段階――つまりは緑髪の少女を助けてから軽く数十分の時が経過している。普通に考えれば、すでにどうにか逃げ切っているか、あるいは撃退、その逆にやられてしまっているだろう。
そう考えていたから、『まだ逃げ回っているかもしれない』なんて答えられたことに、さとりは目を瞬かせた。
「もうあれから結構な時間が経っていますよ? 体力的に無理がありそうな気もしますが……それに、いくらなんでもカエルの魔物の方も、そこまで必死に追いかけまわすとは思えませんし」
「あの子は元気が一番の取り柄みたいなものだし……あのカエルの化け物の怨みも、その、いっぱい買うようなことをやってたから……まだ追いかけられてるってこともありえるかなー、なんて」
最後の方は言いづらそうに目線を逸らしながらの発言だった。単純に、適当にうろついていたカエルのモンスターから逃げ回っていただけだと考えていただけに、わずかに目を見開く。
「襲われた原因に心当たりがあるんですか?」
「心当たりっていうか、なんていうか……あっちから襲いかかってきたんじゃなくて、その実あの子の方から喧嘩を売ってたっていうか……その、自業自得? な部分もあるんですよね……」
「……いったいなにをしたんですか」
緑髪の少女が襲われていたように見えたからカエルのモンスターを退治したが、もしかしたら悪いのは逆の方だったかもしれない。
そんな感情を込めた、じとっとした目でさとりに見つめられていることに気づいた緑髪の少女は、慌ててぶんぶんと首を横に振った。
「わ、私はなにもしてないですよっ!? やめなよってちゃんと注意はしたんですっ! でもあの子は私の話なんて全然聞かなくて、えっと」
「ふむ……それで、その友達はいったいあのカエルの魔物に対して、なにをしたんですか?」
「そ、そのぉ……はぐれてた子どものカエルを水で包み込んで、外側の表面だけを凍りづけにして閉じ込めたり……それを蹴ったりして遊んだり……」
「えぇ……」
その回答には呆れざるを得ないというか、さすがのさとりも唖然とするしかなかった。そんなことをして、あのカエルの魔物たちの怒りを買わないわけがないだろう。
立ち止まったさとりに対して、見捨てられるかも、なんて不安でも抱いたのだろうか。緑髪の少女はさらに慌てた風に、今度は両手をぶんぶんと横に振って弁明を図っていた。
「ほ、本当は優しい子なんですっ! ……たぶん。わ、私のこともよく守ってくれるし、遊ぶ時はいつも誘ってくれるしっ! ……いや、まぁ、大抵振り回されるだけというか、主にトラブルはあの子の方から持ってくるんだけど……と、とにかく! 言うほど悪い子じゃないのは確かで、そのっ!」
「はぁ……わかりましたよ。別に、初めから見捨てようだなんて思ってません。乗りかかった船ですからね。それに、妖精のやることなんてしょせん善悪のわからない子どものイタズラ程度です。人間が恐怖に苦しむさまをスパイスに、それを食している妖怪なんかよりも数倍はマシですよ」
さとりのペットたるお燐こと火炎車だって、葬式の最中にその死体を奪うことを本来の生業としているような妖怪だ。カエルだとかなんだとか、自分とは明らかに違う生き物を相手にするだけ、妖精の方がまだマシだと言える。
まぁ、そういう動物たちをペットとして飼っているさとりからしてみれば、あまりいい気分にはなれないけれど。
「あ、ありがとうございますっ……って、あれ? 私たちが妖精だなんて、私言いましたっけ……?」
「そんなこと、あなたを見ていれば簡単にわかりますよ」
妖精とは、この幻想郷でもっとも数が多い種族だ。それについで妖怪が多く、一番少ないのが人間である。
一番多いだけあって、地底にも妖精はいる。大抵はゾンビのフリをして遊んでおり、屋敷の中でもたまに見かけたりすることもあった。あちらがこちらを見つけると一目散に逃げていくが。
妖精には力がなく、一般の妖精となると大人の男性でも軽く勝てる程度である。総じてイタズラ好きであり、人間が見ていない隙に持ち物を盗んだり、木の上からつららを落としたり、という被害があることが地底に住むさとりの耳にもよく届く。
あいにく、半ば妖怪化したペットたちがそこら中を徘徊している地霊殿から勝手になにかがなくなっていたり、地底でもっとも嫌われ者たる自分がイタズラされたりしたことなんて、一度足りともないけれど。
「そ、そうなんですかっ! すごいですね!」
「すごくはないとは思いますが……こころさ、いえ、こころは気づいてました?」
「全然よ? ふっふっふ、自慢ではないが、我には人間も妖怪も妖精も見分けがつかんのだっ! みな、おんなじように見える!」
「さすがにこころはもう少し世間について学んだ方がいいと思います」
緑髪の少女からなぜか尊敬するような目線を向けられたり、こころに軽い見分け方を聞かれたりしながら、道を進んでいった。
しばらくすると前方に少しだけ開けた場所があり、その中央に大きな岩が刺さっているものが見えてくる。さとりが指で示して「あれがそうですか?」と緑髪の少女に確認すると、彼女はこくりと頷いた。
「こころさ……まだ呼び慣れないませんね。こころ、一応、いつでも戦闘できるように準備はしておいてください。目をつけられるようなことをやっていたのなら、あの中でカエルの魔物たちが待ち伏せていた、なんてこともあるかもしれません」
「む、わかったわ。それから、呼び慣れないなら無理しなくてもいいのよ?」
「無理はしてませんよ。ただ……あれだけ恥ずかしい思いをしておいて、なにも変わらないでいるっていうのは、ちょっと」
また頬が熱くなり始めたので、思考をかき消すように首を横に振った。それから今度は緑髪の少女に向き直る。
「あなたは背後の警戒をしてくださると助かります。もしもなにか出たら、叫ぶなりなんなりして私かこころに知らせてください。すぐに対処しますから」
「わ、わかりましたっ」
さとりも背につり下げていた鞘から剣を引き抜くと、『既知探知』を使いながら歩みを再開した。
鬼が出るか蛇が出るか――いや、
警戒を重ねつつ、三人は巨大な岩のあるフロアへと足を踏み入れた。