Touhou NET-GAME   作:にゃっとう

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二.無表情(wooden face)

 ざぁざぁとうるさい音が耳に届く中、眠りから覚めるように、ゆっくりと頭と体が覚醒していく。回転を始めた思考が現状の確認をしようと半ば無意識に瞼を開けさせ、視界は景色の情報を読み取って脳へとどうすべきかの判断を仰ぐ。

 気がついた時、さとりは砂の上に寝転がっていた。

 

「ここは……」

 

 倒れたままでは見えるものも限られてくる。上半身を起こし、まったく見覚えのない周囲の光景を一つ一つチェックしていく。そうして目を見開いて、感嘆の息を漏らした。

 川や湖など比較にならないほどの量の透き通った水が、地平線まで窺えるほど遠く、広くそこにある。青い空には爛々と輝く太陽が鎮座し、その美しさをわずかに浮かぶ白い雲が装飾品のように彩っていた。独特の潮の香りが鼻を刺激し、なんとも言いがたい落ちついた気分にさせてくる。

 海だった。生を受けてから一度たりとも直接見たことはない、本でしか知らなかった広大な情景が目の前に広がっていた。

 灰色がかった薄い黄色の砂浜は海沿いにどこまでも続いており、いつまでも見ていたくなるような気分になってしまう。

 元々、さとりは美しい光景とはほとんど無縁の生活を送ってきた。地霊殿自体も地底と言う、主に嫌われ者の妖怪が住む闇ばかりの世界に建てられており、光溢れた壮観に目を奪われてしまうことは必然であったと言えた。

 少なく見積もっても三分は、座ったままの状態で海を眺めていただろう。正気を取り戻して見入っていた自分に気づくと、さとりは小さく頬を綻ばせた。

 その笑みの中には、これからもこういう美しい景色がたくさん見れるのだろうかという、わずかな期待も含まれている。

 

「えぇと」

 

 海があるのはわかった。だが、それ以外はなにもわかっていない。他にはなにかないかと、辺りを見回してみた。

 まず自分の近くだけに木片が散らばっているのが見かけられる。一つ一つだけではなんとも言えなかったが、いくつかの形からして、さとりはそれが元は簡素な小舟だったのではないかという推測を立てた。海とは反対側には砂浜に沿うようにしてどこまでも続いている森があり、目を凝らせば木々の上で追いかけっこらしきことをして仲良く戯れる小鳥の姿が窺える。

 MMORPGを起動し、仮想世界とやらにやってきた。それはいいのだけど、さて、ここからなにをすればいいのだろうか。

 腕を組んで考えようとして、ふいといつもと比べてなにかが決定的に足りないという違和感が駆け巡る。

 目をぱちぱちとさせる。しかしすぐにその原因に思い至り、さとりはばっと自身の体を見下ろした。その時に着ているものが簡素な灰色の布の服に変わっていることに気がついたが、そんなことよりも何倍も重大な変化がさとりの身に起こっていた。

 第三の目(サードアイ)がなかった。当然、いつも心臓付近に浮かんでいたそれと体中を繋いでいた管もない。

 

「……ふふっ」

 

 本来なら、妖怪としての力が使えなくなってしまっていることに落胆を覚えるところなのかもしれない。けれどさとりからしてみれば心を読む能力が備わっていないということに改めて実感が沸いてきて、歓喜や期待と言った感情がより高ぶってきたのだった。

 このままだと海を観賞した時のように何分も笑っていてしまいそうだったので、一度深呼吸をして落ちつくことにする。その際に潮の空気から、ほんのわずかな痺れが頭を刺激するような特有の感覚を味わった。少しだけ、目をぱちぱちとさせる。

 

「とりあえず……」

 

 いつまでもここにいてもしかたがない。足の裏を砂浜につけ、その場に立ち上がった。

 木片と一緒になにか役に立ちそうなものが転がっていないだろうか。もしもあってもなくても、その確認が終わったら、とりあえず森の方に行ってみよう。

 そんな風に考えながら一歩を踏み出したところで、目の前に真っ白な球体が出現した。そこには黒い文字で『チュートリアル』と書かれている。

 

【対象の移動を感知しました。これよりチュートリアルを開始します】

「あ、はい」

 

 妖怪という種族はいい加減で自分勝手な者が多い。製作者が妖怪ならば、なんの説明もなしに仮想世界とやらのどこともわからない変なところに放り出すなんてことも普通にやりかねないと思っていたため、きちんと解説機能があることにさとりは若干驚いた。

 しかし少しだけ頭を働かせてみて、それも当然かという結論に至る。カラパソは多くの人間や妖怪、それこそ製作側の妖怪よりも強いとされる者たちも利用したりする。それなのに少しの手間を嫌がって、そんな存在たちにわざわざ文句を言われる要素を残すのはリスクが高い。

 

【その一。メニュー画面の開き方。デフォルトでは『メニュー・コール』と呟くことで開くよう設定されています。では、そのように口にしてみてください】

「『メニュー・コール』」

 

 指示通りにしてみると、胸から三〇センチほど先の位置に四角い形をした半透明の画面が出現した。ステータスやインベントリ、コンフィグやヘルプ、クエストやメッセージなどさまざまな項目が並んでいる。

 MMORPG(ネトゲ)とやらは今日までやったことはなかったが、普通のゲームならば何度か妹とやってみたことがあったので、この時点で大体の使い方を把握した。

 

【ステータスではあなたのパラメーターや装備の確認、ジョブに沿ったスキルやアビリティの新規習得などを行うことができます】

 

 ステータスという文字がいかにも押してほしそうに点滅していたので、指で触れてみる。画面が切り替わり、桃色の髪をした半眼の少女――さとり自身が直立した状態の絵が中央に表れた。やはり第三の目はどこにも見当たらず、服はなぜか見覚えのない簡素な布の服となっている。

 さきほどは第三の目にばかり注意が向いていてまったく気にしなかったが、ほぼ引きこもりゆえにおしゃれに気を遣う方だとは言えないようなさとりでも、さすがにこれだけ特徴もない服装には不満を感じざるを得なかった。なにか他にマシな服があればすぐにそちらに着替えようと密かに誓っておく。

 さとりの絵のすぐ横にはレベルやジョブ、筋力Cや耐久C+等のアルファベットほか、それらの実際の数値も記されていた。上の方には『装備』や『能力』、『メッセージ』と言った項目がまとまっており、『装備』に触れれば装備の詳細を表示、『能力』に触れればスキルやアビリティの新規習得やらができるようだった。

 

【インベントリにはあなたが獲得したあらゆるアイテムを保存することができます】

 

 説明が次に移っていたので、右下の方にあった『戻る』から画面を最初のものに戻す。

 

【保存は非戦闘時に限り行うことができます。対象に触れた状態で『保存する』と口にする、もしくは保存の意志を持って強く念じることで、対象をインベントリに保存することが可能です。ただし、合計所持制限を越える際は保存を行うことができません】

 

 制限とやらが量によるものか、大きさによるものか、重さによるものか等は不明だが、その辺りの比較的重要でない事柄は『メニュー』の『ヘルプ』を参照しろとでも言うのだろう。

 

【保存したものの具現化はインベントリの画面から直接行うことのみに限られます。非戦闘時には一瞬で具現化させることが可能ですが、戦闘時に実行する際はクールタイムが発生します。ご注意ください】

 

 普段使うようなものはできるだけ身につけておけ、ということらしい。

 

【コンフィグではメニュー画面の呼び出し方法や出現位置、デザインの変更、痛覚等の再現度、シンクロシステムのオンオフなどを設定し直すことができます】

 

 『コンフィグ』をタッチしてみると、いろいろとややこしげな項目がたくさん出てきた。ほとんどは後日いじる時間ができた時にでも設定するとして、とりあえずメニュー画面の呼び出し方法だけは指を鳴らすと出てくるように変更しておく。なにせ何度も口頭で『メニュー・オープン』なんて言うのは煩わしそうだ。

 痛覚も重要な風に思えるが、妖怪は元々肉体が丈夫に作られていることもあって痛みに強い者が多く、さとりも例外ではない。痛覚を完全になくすと逆に障害が出そうであるし、三〇パーセントがデフォルトのようなのでそのままでいいだろう。

 他に気になることと言えば〝シンクロシステム〟とやらのおかしな項目なのだが、よくわからないのでデフォルトであるオンのまま放っておくことにした。

 

【ログアウトからは仮想世界からの離脱を行うことができます。非戦闘時には一瞬で実行することが可能ですが、戦闘時には二〇秒ほどのクールタイムを要します。また、クールタイム中に一定以上動いた際はキャンセルと見なされますのでご注意ください】

 

 殴られる直前にすぐに消える、みたいなことはできないらしい。この世界に入る前の注意事項にあった強制ログアウトの判定が少しばかり気になるが、それもヘルプを見れば載っているだろうと思う。製作者がめんどくさがって書いていない可能性もあるというか、普通に高いけれど。

 

【その他のことはヘルプをご覧ください。大体そこに載ってます】

 

 いきなり説明が雑になって、ちょっと笑ってしまった。まぁ、あんまり解説ばかりしているとつまらないと苦情が来るからかもしれない。もしくは説明を作っている最中に普通にめんどうになってきたか。どちらもありえそうで困る。

 

【その二。現在のあなたの境遇、および目的について簡潔に説明いたします】

 

 表れた文字を確認しつつ、ちらりと改めて足元を見渡してみた。おそらくは小舟の残骸だろう木片が転がっている。この辺からおおむねのことに予想がつくが、それに間違いがないか確かめるために球体をタッチして説明を進めた。

 

【あなたは小さな舟に乗って海を漂流していたところ、魔物の襲撃か竜巻の発生か、なんらかの事件に巻き込まれた結果として今の場所まで流れ着きました。どうやら記憶に混濁が見られ、言語等の基礎的な知識しか備わっていないようです】

 

 世の中にはロールプレイ勢というものが存在すると聞いたことがある。キャラクターの境遇を脳内で設定し、それに沿った行動を取るというものだ。こういう設定が事前にあるのなら、それに則ってみるのも面白いかもしれない。

 それも基礎的な知識しか備わっていないとは、この世界に来たばかりのさとりにまさしくふさわしい境遇である。いや、あるいはこれは密かにそういう親近感や没入感を覚えさせるための製作者の意図の一つなのかもしれない。

 

【基本的にこの世界でのあなたの行動には現実と同様に制限はありません。NPC(ノンプレイヤーキャラクター)の依頼を受けていくもよし、こなすだけの力があれば街を一つ攻め落とすこともよし。クエストや立ち位置の関係から他のプレイヤーと敵対することもあるかもしれません】

 

 街が一つ攻め落とされようものならNPC以外にも他のプレイヤーへの被害も尋常でないものになりそうだが、その辺は問題ないのだろうか。

 ちょっと不安になったものの、さすがにそれほどのおおごとになれば守る側の戦力もかなりのものとなるはずだ。そこまで心配しなくても大丈夫だろうと思うことにする。

 

【特にすることが決まっていなければ、今後は街を探すことをオススメいたします。チュートリアルは以上となります。もう一度行いますか?】

 

 はい、いいえ。二つの選択肢のうち、いいえに触れてチュートリアルを終了させる。

 すると白い球体が消え、鈴が鳴る音とともに、『クエストクリア!』という虹色の文字が宙空に浮かび上がった。

 

「クエスト……」

 

 そういえばメニュー画面を開いた時にそんな項目があったような気がする。指を鳴らして〝メニュー〟を呼び出し、〝クエスト〟に人差し指で触れてみた。

 画面が切り替わり、クエスト一覧の中に『チュートリアルを受けよう!』があること、そしてその横の小さな枠の内が『clear』と虹色に光っていることを確認する。

 報酬を受け取れるようだったので、『クエスト完了』を押して、報酬の受け取りへと移行した。

 どうやら数多く候補の中から一つだけ武具を手に入れることができるようである。

 

「ふむ」

 

 ショートソードやロングソード、ランスやナイフなど、刃物系統が最初に目につく。そこから徐々に視線をずらしていくと、弓や猟銃と言った遠距離武器、杖や魔導書等の魔法を使うのに便利だろう道具が確認できた。

 『魔術師』なので杖でも選ぼうかと思いかけ、ふいと、さとりは仮想世界に来たばかりでそんなものが役に立つだろうかと疑問に思う。さきほどステータスで確かめた限り、当然ではあるものの、今のさとりのレベルは一番低い一桁の数字であった。おそらくは魔法を使うのに必要なMP(マジックポイント)も決して多いとは言えないほどだったし、一対一ならばともかく、あれでは連続で戦うことになったらすぐにやられてしまうだろう。

 ここは手軽に扱えそうなショートソードを選択することにした。

 

「ひゃっ」

 

 指で決定を押した瞬間、光とともに小振りの直剣と鞘が現出する。いきなり目の前に刃物が現れたせいで、思わず悲鳴が出て数歩後ずさってしまった。

 ざくっと砂浜に刺さったショートソードの柄に、ちょっとだけ及び腰気味になりながらも触れてみる。きちんと硬い金属の感触があることを実感し、一度小さく深呼吸をして息を整えると、改めて剣の前に立ってそれを引き抜いてみた。

 鈍色の刀身が太陽の光を反射し、薄っすらとさとりの顔を映し出す。

 金属でできているからそれなりには重いが、片手で振り回せる程度は容易にできた。現実ならば妖怪としての力もあって、もっと楽に持てると思うのだが、やはりこの仮想世界ではパラメーターに則った力しか発揮できないらしい。

 

「これでとりあえずは安心、なのかしら?」

 

 鞘も拾って、それに刃を収める。とりあえず曲がりなりにも近接戦闘ができるようになったのはいいが、魔法なんかはどうやって使うのか。一切説明はなかったので、おそらくはヘルプを見ろということなのだろうけど……。

 『メニュー』から『ステータス』を選び、『能力』へと画面を移す。スキルやアビリティの新規習得をしようとしてみると、ジョブごとに分かれた無数の選択肢が表れた。

 『調教師』の枠には『意思疎通』や『調教』、『支援〟や『魅了』など、『斥候』には『観察』や『隠密』、『罠』や『追跡』ほか『地形把握』等、『魔術師』には『魔術』や『魔術改造』、『強化魔法』や『弱体化魔法』――。

 気になるのは、それぞれの枠が重なっている部分があり、そこにある文字も選択できることだった。『調教師』と『魔術師』では『魔術継承』、『調教師』と『斥候』の間には『感覚共有』等、『斥候』と『魔術師』では『術式保存』等々。なによりも目が行ったのは三つの枠が重複した位置にある『術式共有』だった。

 ただし、そのどの項目も薄暗くなっている。選択しようとしてみても『レベルポイントが足りません』と拒否されてしまう。

 しかたなく新規習得画面を閉じた。もしかしたら今は使える魔法がないのかしら、と今度は習得済みのスキルやアビリティに目を向けてみる。

 どうやら、別になにも使えないわけではないらしい。〝魔弾(まだん)〟というスキルだけは使用することができるようだ。

 

「〝魔弾〟……」

 

 ふと口に出してみた瞬間、あまりにも不可思議な感覚に、無意識に左手を額に添えていた。

 スキルの概要と魔術の使い方が頭の中に流れ込んでくる。

 ――仮想世界における魔法は、現実で妖力――妖怪としての力――を扱うのと同じ要領で、指先に力を灯して魔法陣を描く、もしくは声に込めて詠唱をすることで発動が可能。熟練度が高ければ思考内で形成した魔法陣を扱うこともできるが、その場合は威力が極端に下がる。

 ――〝魔弾〟は魔術に区分される魔法の一つであり、MPを直接エネルギーへと変え、弾として相手へぶつける技。MPの量を調節することによって、量や威力の調整も可能。

 ちょっと口に出すだけで使い方がわかるとは。なかなか便利な機能だと舌を巻く。

 基礎的な知識を把握し終えると、左手を額から下ろした。

 

「弾幕が張れるのは助かるわね」

 

 武器を手に入れ、現状使える魔法も確認した。次にやるべきは、やはりチュートリアルの最後に言われた通り、街探しであろう。このまま誰もいない海岸なんかでぼーっとしていたってなんの意味もない。

 

「とは言え……」

 

 海、砂浜、森。見事にその三つしか見当たらず、生き物と言えば森の方でたまに見える小鳥くらい。

 海沿いに歩いていけば港街の一つくらい見つかるかもしれないが、近くに森があるという事実が、どうにもシステムが暗にそこへ入れと告げてきているような気がしてならない。ただ、チュートリアルの途中で『魔物の襲撃』という言葉が出てきていたことから察するに、森の中にも魔物とやらが闊歩していたりして危険そうだ。

 どちらにするか。

 少し考え、ここは勘を信じて森へ入ってみることにした。現実ならば迷わず堅実に海沿いに進むことにしていたけれど、ここは仮想世界なのだから好きに動いてみるのも一興だ。

 砂の足が取られるという独特の感覚を味わい、森の方へ向かって歩き始めた。右手に抜身の剣を持ち、左手はいつでも〝魔弾〟の魔法陣を描けるように空けておく。剣の鞘はインベントリに保存しておいた。

 

「荒事は、あんまり得意じゃないのだけど」

 

 それでも妖怪だけあって多少は戦える自負がある。そんじょそこらの魔物とやらにおくれを取るつもりはない。

 足場が確と踏み込める土へと変わったのを確認しつつ、森の中へと歩を進めていった。

 一歩一歩足を動かすたび、段々と森が深くなっていくのを実感する。絶え間なく木々を揺らしていた潮風は勢いを失い、ゆらゆらと変化し続けていた草木の影は次第に落ちついていく。潮の匂いは未だ漂うものの、気づけば緑溢れる草や土の匂いの方が強くなっていた。

 海岸は海や砂浜がこれでもかというほどに日差しを反射して明るかったが、森の中はその何分の一にも薄暗い。夜というほどではないにしても、若干の不気味さを覚えざるを得ない。

 

「むぅ」

 

 最初は平坦な足場ばかりだったけれど、進むごとにそれも荒れたものへと変わっていく。大きさを問わず石があちこちに転がり、木々の根っこが進むのを邪魔してきて、無意味に上がったり下がったりと傾斜もひどい。最初は林くらいの作りであったのに、樹海というほどではないにせよ、すでに間違いなく森と言った地形になっていた。

 

「いたっ!」

 

 棘のある植物に手が当たってしまい、思わず声が漏れる。涙目になりつつ、足元の他に植物がどんな風になっているかも注意するようにし、歩みを再開した。

 さすがに不安定な足場をずっと進んでいると疲れてくる。途中で休憩しようと思い、手ごろな大きさの根っこに腰を下ろす。一息をつこうとして、ふいと、足元に視線を下ろしてみた。

 すぐそばでアリがなんらかの甲殻類の昆虫の死骸を食い破っていたり、ムカデとクモが威嚇し合っていたり、小さな陸生ヒルが今まさに靴に引っついて来ようとしていたりしていて、ぞわっと寒気が体を駆け巡った。

 即座に休憩をやめにして、さらに先へ進む行為を再開する。この頃になると、森へ立ち入ることと海沿いに進むことの二択で、どうして後者を選ばなかったのかと激しい後悔の念が胸の内で渦を巻いていた。

 さとりは今でこそ地底という地下深くの世界に住んでいるが、かつては地上で生活をしていた。そしてそこそこ力のあった妖怪ゆえに、普通の虫はさとりを恐れ、危害を加えてくることはなかったのだ。

 しかし、この仮想世界ではさとりは人間という判定である。

 完全に森をなめていた――大分焦燥した顔で、さとりはほぞを噛んだ。

 

「でも、今更戻るわけにもいかないし……」

 

 もうかなり進んできてしまっている。戻る選択をしてしまえばここまでの苦労が無駄になってしまう。というかそもそも道を覚えていないので、正しく海岸に帰れるかがわからない。結局さとりにはこのまままっすぐ進む選択しか残されていないのだった。

 肉体以上に気分が消沈し、ショートソードを握る手が重い。魔物との戦闘を警戒していたのに、実際には森の恐怖と大変さを味わうという、あまり面白くない事態になっている。

 ここまで役に立っていないし、この剣はインベントリにしまってしまってもいいだろうか。少しだけ悩んだが、すぐに頭を振ってその考えを掻き消した。

 戦闘中にインベントリからなにかを取り出すにはクールタイムを必要とする。つまりショートソードをインベントリに収めてしまえば、急に戦闘に陥ってしまった時、さとりには一度も使ったことのない〝魔弾〟という魔法しかなくなってしまう。いざという時、それではあまりにも心もとない。

 海を初めて見た時と真反対の感情を抱きながら、初期と比べてずいぶんと遅いペースで歩を進めていく。

 早く森が終わってくれ、勘なんて頼りにならないものを信じて意気揚々と森に入ることにした過去の自分を殴りたい。幾度とそんな風な思考を繰り広げつつ、それでも足だけは止めなかった。止めれば虫が足を伝ってのぼってくるからである。

 

「はぁ……ん?」

 

 いい加減もうログアウトしようかしら……でもそうしたら森から始まるのが嫌になって、このゲームをやらなくなるのは目に見えてるから、もう少しだけ……いや、でも。やっぱりやめようかしら。

 そんな風に苦慮してしまうくらいには精神が摩耗してきた矢先、不意と、大きな影がさとりのいる辺りを遠すぎていく。

 木の葉が折り重なっているせいでわかりにくかったが、なにやら巨大な物体がはるか上空を通りすぎていったのは確かだった。

 

「あれは……」

 

 半ば反射的に空を見上げてみると、どこかに飛び去っていく鳥型の影と、ちょうどこの付近に落ちてくる人型の影の二種類が目に飛び込んできた。

 厄介なのは、日の光のせいで落ちてくる方の人型の影がどんな容姿なのかわからないことだ。人型の魔物である可能性は十分にある。

 傍観するか、受け止めるか。

 そんな思案も、落下が迫っている現状では長くは続けられなかった。

 瞬きを一つ。

 決意を固めたさとりはショートソードを放り出すと、人型の影が地面に衝突する地点を予測し、いち早くそこへと体をすべり込ませた。さらに合間の時間を使って素早く足元の虫をどけ、人型の影との距離が目測五メートルを切ったところで全力で真上へと跳んだ。

 現実世界でさえ妖怪としては非力の部類だったと自負しているさとりは、それ以上に筋力のない現状で、高いところから落ちてきた人一人をまともに抱きとめるのは危険だと判断していた。だからこそさとりも直前で跳躍し、その勢いを利用しての空中での落下の減速を図ったのである。

 

「うっ……!」

 

 ただしそれは人影と地面に挟まれる危険性を大幅に下げる代わりに、自身のジャンプと相手の降下の衝突の負担が、空中でまとめてさとりの肉体にかかることを意味していた。

 がっしりと支えた両腕が軋みを上げ、取りこぼしそうになる。抱きしめるようにしてなんとか耐えてみても、さとりの跳躍よりも人影の落下の勢いの方が強かった関係で体の向きが逆に、つまりは抱えている誰かの方が下側になってしまった。

 これでは下敷きにしてしまう。

 

「ふ、んっ!」

 

 

 すでに不安定な体勢であることを織り込み済みで、つま先が上空を向くように宙空を蹴り上げた。無理に伸ばされた体が軋むように痛み――三〇パーセントと言えど、痛くないわけではない――、苦悶の表情が浮かぶものの、さとりの目論見は達成された。

 くるりと人影との位置がちょうど半回転し、代わりにさとりの方が人影の重みと土の固さに挟まれた。

 

「あぐっ――――!?」

 

 一拍。まったく息ができなくなると同時、一瞬のうちに白に黒にと視界が幾度となくちかちかと切り替わった。

 ほんのわずかなその時間が過ぎ去ると、強烈な苦しみのすべてが瞬きのうちに襲いかかってきて、げほげほっと何度も荒い咳をする。暴れるように人影を振り払い、空気を求めて胸の付近をかきむしった。

 

「えっ、えっ!? その、えっと、だ、だだい、大丈夫? うーんと、うーんと……ど、どうしよう……」

「は、ぅぐ……」

 

 涙でにじむ視界の中で、人影が立ち上がったのがわかった。どうやらさとりが下敷きになったおかげか、無事なようだ。

 落ちついて呼吸ができるようになり、なんとか心も平静を取り戻したところで、よろよろと立ち上がる。涙を拭おうと手を上げたところで、その腕が土だらけなことに気づいた。服も髪も同様で、正直言ってあまりいい気分ではない。

 目元を拭うのは却下だ。少しだけ考え、さとりは思い切り目をつむると、それを勢いよく開いた。そのおかげである程度は視界もマシになる。目の前に立つ人影の詳細も、ようやく確認できるようになった。

 どうやら危惧していた魔物なんかではなく、その人影は、頭半分ほどさとりよりも大きい人間の形をした女の子だったらしい。服装はさとりと同じなんの変哲もない単なる布の服だが、さとりが下敷きになった関係上、さとりとは違って汚れてはいない。薄い桃色のロングヘアはとても緩やかで、なんだか触ってみたらとても気持ちよさそうだ。

 問題は、その表情だった。

 どうしていいかわからないという風な感情が、よろよろと所在なさげに動く仕草から嫌でも伝わってくる。しかしその顔はまるで人形のように一切の変化がなく、無をそのままに映している。

 

「そんなに慌てなくても……もう、平気だから」

 

 本当に本心から慌てているかは半信半疑で。だけれどさとりがそう告げると、薄桃色の髪の少女はふいにぴたりと動作を止め、桜色の瞳でじっと見つめてきた。

 ちょっとだけ警戒していると、少女は息を大きく吸って、ほーっと大げさなくらいに安堵の息をつく。

 

「よかったよかったぁ。いやー、本当に焦ったわ」

 

 少女は今さっきまでの慌てようが嘘のように、完全に安心した風に胸を撫で下ろしている。

 ……わけがわからない。

 さきほどあたふたとしていた時も、こうして相対している時も、この少女はずっと変わらず無表情のままだ。動作のおかげで感情の機微は容易に察することができるとは言え、表情のせいでそれも本当かどうかまるでわからない。あまりにも歪だ。

 

「ところで私の名は(はたの)こころと申します。今後ともよろしゅうございます」

 

 本当に『ところで』だった。それに、慌てようがなくなったのと同じように、今度は助かったことへの安堵の様相が完全に消え去っているのが、これまで多くの生命の心を読んできたさとりにはわかった。

 切り替えが速すぎるというレベルではない。

 なんというか、感情を自由自在に操っているというか、異様にメリハリのようなものがハッキリしているというか。顔はずっと無表情のくせに。

 妙に馴れ馴れしげな口調に変わった少女――こころが、手を差し出してきた。ほんの少し警戒しながらも、さとりはそれを握り返す。

 

「……私はさとり。古明地さとりよ。よろしく、でいいんでしょうか」

「うんうんー、よろしくぅ」

 

 こころがぶんぶんと握った手を振ってくる。それから思いついたようにぱっと離したかと思ったら、突然頭を下げてきた。

 

「さっきはありがとう。とっても助かった」

 

 その顔があいかわらず無表情であることは確かめるまでもないことだろう。しかしそのお礼の声は明らかに喜びと感謝に満ち溢れていて、さとりは思わず、微笑みを浮かべてしまっていた。

 これまでまともに人と関わらない生活を送ってきた上、ペット以外の、それこそ他人に感謝されるようなことなんてろくにやってこなかった。だからなんというか、今、こそばゆいような気持ちになってしまっている。

 

「どういたしまして。こころさん」

「ふぅ、優しい人でよかったー。これが喜びの表……え? あれ? 表……情……? あれ? あれっ?」

 

 落下直後の慌ただしさが戻ったきたかのごとく、こころがきょろきょろと辺りを見回し始めた。あの時と違うのは、まるでなにかを探しているかのようなことだった。

 こころの頬を冷や汗が伝っていくのが見える。よく見れば目じりに涙が溜まり、その体が震えているのもわかった。

 

「ない! ない! き、希望の面どころか、全部の面がないぞ! どうして……? なんという、なんということだっ……!」

 

 こころは、がくんと膝をついては、がくりと項垂れた。表情がない代わり、あいかわらず過剰なくらい仕草で感情を示してくる。

 さとりが見る限り、こころは自分と同じようにMMO(ゲーム)を始めたばかりに思えた。だというのにこの仮想世界で面だなんて変なものを、それも複数手に入れていたなんて考えにくい。だとすれば導き出せる答えなんて一つである。

 

「えぇと、こころさん? 現実で持っていた道具とか服とかは、ここには持ち込めないみたいですよ」

「え?」

 

 顔を上げ、あっけにとられたように口を半開きにするこころ。そのくせして無表情なことがちょっとおかしくて、くすくすと笑ってしまった。

 こころは顔を真っ赤に染め上げると、素早く立ち上がって顔の前でぶんぶんと両手を横に振り始めた。

 

「ち、違う違うっ! 慌ててない慌ててない! 今の私は至って平静の表情っ!」

「ふふっ、ええ、わかってます」

「本当、本当にわかってるの?」

「わかってますよ。だから落ちついて……」

 

 さとりは、こころを警戒することをやめることにした。なんだかアホらしくなってしまったというのもあるが、なによりも、目の前の不思議の少女が理由もなしに他人に危害を加えるようには思えなかったからだ。

 ふと、自分が笑っていることを自覚する。

 ペットや妹以外の前で笑顔を浮かべたのは、ずいぶんと久しぶりのような気がした。

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