こころを受け止める際に邪魔になるからと放り投げたショートソードを回収に行くと、どうやらちょうど木の幹に刺さっていたみたいだった。幸いなことに虫などは寄っておらず、特に苦労することなく引き抜くだけで済んだ。
切っ先の方を観察してみても、刃こぼれした様子はない。
「武器かー。いいなぁ、私も欲しいわ」
そういえばこころは手ぶらだ。さとりは、もしかしてこころも自分と同じようにこのゲームを始めたばかりなのだろうか、と予想する。
だとすれば、開始地点から一歩でも動くとチュートリアルが始まるらしいため、普通に出歩いているこころはチュートリアルを終えているはずなのだが……。
「もしかして報酬を受け取っていないのですか?」
「報酬?」
「チュートリアルを終えてるのなら、〝メニュー〟の〝クエスト〟から受け取ることができると思います。一通りの中から一つだけ選んで、もらうことができるようです」
「ほうほう」
『メニュー・コール』と呟くこころを横目に、ぐるりと一周、さとりは辺りを見渡す。
……まいったわ。急いでこころさんを助けに行ったせいで、どっちの方からここまで歩いて来たのか忘れちゃった。
木々が乱立し、傾斜が複雑なせいで方角がまるでわからなくなってしまっていた。そもそもこれまででさえまっすぐ進めていたかもはなはだ疑問であり、そのことが引き返さない理由の一つでもある。
はてさてどうしたものか。空でも飛べれば――現実でならば妖力を使って飛行ができる――行くべき方向を簡単に決められて楽なのだけれど。
「おおっ、出た!」
足元に虫が近づいてこないよう注意しつつ思索していると、こころが嬉しそうに声を上げるものだから、ちらりと視線を向けた。
剣とは比較にならない、それこそさとりの身長に届こうかというほどに長い柄を備え、その先端にそりのある鉄色の刀身をつけた槍に似た刃物――薙刀を両手で握っているこころの姿がそこにある。
「おめでとうございます。なんというか、センスのいい武器ですね」
「ふっふっふ、これがあればいくらでも最強の称号が手に入るぞっ!」
目をきらきらとさせて、なんだかバカっぽいセリフをはくこころに、さとりは苦笑した。
ずっと変わらず無表情なくせに、どこまでも自分の心には正直そうな少女だ。裏がなさげなぶん、普段のように心が読めなくとも気楽に話せる。
慣らすためか、ぶんぶんと薙刀を振り回し始めたこころからちょっとだけ距離を取り、さとりは空を見上げてみた。当然のことだが、こころが落ちてくるのと一緒に上空を飛び去って行った巨大な鳥の影の姿はもうどこにもない。
「こころさんはどうしてこんなところに落ちてきたんですか? 私は森の隣にあった海から、この森の中まで歩いてきたのですけど」
「あっ! そうだ……あの怪鳥めっ! 次あった時はただではおかぬぞ!」
こころは憎々しげにぐっと拳を握りしめては、誓いを立てるかのように薙刀を掲げ、天へと切っ先を向けた。
しばらくはその薙刀を掴む手が怒りにぷるぷると震えていたが、小首を傾けたままのさとりの様子に気づいたのか、こころは薙刀を下ろすとさとりに向き直る。
「えぇと、目が覚めた時、私はあの怪鳥の足に掴まれていて……確か境遇とやらは『よくわからないけど鳥に攫われてます。あと記憶がないです。チュートリアル終了と同時に落とされます』と」
「な、なるほど」
あまりに雑というか、さとりと違って記憶を失った原因がまったくわかっていない。漂流は案外まともな境遇だったのかもしれない。
「あなたはどうしてここに? なんだかすごく疲れてる顔してるわよ?」
「ええ、まぁ……私は森に迷い込んだというか、森に入って迷ったというか……」
海沿いに進んで行けば村や街の一つくらいはいつか必ず見つかっただろう。そんな境遇をドブに捨てて森に迷いに来てしまったわけだから、自業自得とは言え、なんとも気の滅入る話だ。
この際もう贅沢は言わないから、海辺でもどこでもいいから森から脱出することを目標にすることが賢明かもしれない。帰り道さえわからなくなってしまった今、自分は遭難してしまっていると言っても過言ではない。というか遭難している。
難しい顔をするさとりの視線の先で、こころがふふんと自慢げに胸を張る。
「ふっふっふ、あの怪鳥に捕まえられてた時に、上空から街が見えたのを覚えてるわー。そっちに行けば森から出ることができると思うわ」
「そうなんですか? 助かります。じゃあ、どちらへ行けばいいんでしょうか」
問いかけると、こころが片脚を軸にゆっくりとその場で一回転した。周囲の地形を確かめているらしい。
こころはさとりに向き直ると、しかし何事もなかったかのようにもう一回転をする。今度はかなりゆっくりだ。再度さとりと対面すると、さらにもう一回転。
計三回回ったこころは、こほんと一つ咳払いをすると、気まずそうに視線を逸らした。
「……上から見たのと景色違いすぎて、どっちがどっちだかわからない……」
「まぁ、二回回り始めた辺りから、そんなことだろうとは思ってました」
「ごめんなさい……」
「謝ることではありませんよ。顔を上げてください」
上空から見える程度の範囲に街があるとわかっただけでも儲けもの、と考えよう。怪鳥は今の非力なさとりが落下してきたこころを受け止めて平気な程度の高さを飛んでいたのだから、意外と近くにあると予想することができる。
わずかながら希望が見えてきた。剣を柄を強く握り、その硬さと重みを意識することで、改めて気合いを入れ直す。
「こころさん、もしよければ私と一緒に行きませんか?」
「行く行くー」
はーい先生ー、とでも言いそうなくらいに片手を高く上げて、こころは二つ返事で了承した。というか早すぎる。
彼女はあいもかわらず無表情だったが、そのぶん体の動作の方が子どものように素直なことが今更ながらおかしく感じられて、さとりの口元に微笑みが浮かんだ。
「さて……では、どの方向に行きましょうか」
大してヒントがあるわけでもないので別にどの方角でもいいのだが、正解があると考えるとどうしても悩んでしまう。
そんなさとりの前を横切って、こころがとある一本の樹木の近くに立った。その木の幹をよく見れば鋭い刃物が刺さったかのような部分が見受けられる。
「せっかくだからこの木の向こう側の方に行こうよ!」
「そうですね。じゃあ、そっちに行きましょう」
さとりが一度ショートソードを放り投げた際に、その刀身が刺さった木。その横を通って、さとりとこころは森の中を歩き出した。
足場が不安定なせいで普通に進む以上に大変な上、時間が取られる。ここまですでに数十分は足を動かし続けてきたさとりはそこそこ慣れたものだったが、森に来たばかりのこころは非常に歩きづらそうにしていた。
「うーん、なんで飛べないんだろう……」
飛べればもっと楽なのに。そうぼやくこころに、さとりは心の中で「まったくね」と同意する。
妖力を使って飛行しようと意識してみても、妖力がまるで別の力に置き換わっているように、まるで手応えがない。この世界では妖力の代わりのようなものとしてMPとやらがあるみたいだが、それをそのまま飛ぶ力として利用することがはできないようだった。不便なことこの上ない。
今はさとりは人間として扱われている。そうは言っても幻想郷では、人間でも空を飛ぶことができる輩はいるのだけど。
ため息をはきつつ、どうにもならないことはどうにもならないとして割り切ることにする。
棘のある植物に気づかず通り過ぎようとしたこころに注意を促したり、急な段差で転びかけたところをこころに支えられたりと、互いに助け合いながら前を目指していく。
互いに気を遣い合うぶん、一人で進むよりも時間がかかってしまっていることを、さとりは重々承知していた。しかし同じ苦労を分かち合っている仲間がそばにいるおかげで、精神の方は一人の時よりも何倍も強く保っている自覚がある。
誰かと協力してなにかに臨む。
少し辛くとも、他人との付き合いを拒んでいたがゆえに滅多に覚えたことのなかった心地のいい感覚に、無意識のうちにさとりの顔は綻んでいた。
「ふんふんふん」
しばらく進み続けていると、こころの歩みにも幾分か余裕が出始める。さとりと同様に森の足場に段々と慣れてきたようだった。
互いへの気の遣い合いも最小限なものへと変化し、さとりは、そろそろなにか世間話でもしてみようかと思索する。
話題はなんでもいい。どうしてこのゲームを始めようと思ったのかとか、好きなものはなんなのかとか、趣味はあるかとか。相手の心が読めないなら、どんな話をしても楽しく感じられるような気がした。
とりあえず好きなものでも聞いてみよう。そうしてさとりは口を開きかけ、不意に響いた甲高い鳴き声に、思わず「ひゃっ」と声が漏れた。
「キィー! キィー!」
音のした方へと視線を上げると、樹木の枝の上からこちらを見下ろす、一匹の人型動物の姿が目に入った。
目と鼻だけで見れば非常に人間に近いが、口は人よりも広く出っ張っており、耳はより丸みを帯びた大きなものになっている。顔は比喩ではなく真っ赤で、それ以外の部分はすべて朽葉色の毛で覆われていた。手や足の構造は非常に人間に近しいもののどこか獣じみた作りになっていて、背の曲がり具合からも、人のような二足ではなく四足歩行であることが窺える。
世間一般的には猿と呼ばれるその動物は、さとりとこころと順番に指差して、激しく鳴いていた。森中に響き渡るその音色が仲間を呼ぶ役割を果たしていると理解するのに、そう時間はかからない。
倒すべきか――倒していいのか。初めて出会った敵と思しき存在に、初めてだったがゆえにどう対処していいのかわからず、どうしても硬直してしまう。
そんなさとりに目がけ、枝の上にいた猿が高くジャンプして跳び下りてきた。その手には石を削っただけの乱雑なナイフが握られている。
「ウッキィィイイイイイ!」
「っ、『魔弾』!」
MPを二割ほど込めるイメージで素早く魔法陣を描き、猿との距離が詰まらないうちに完成させた。
さとりの身長の三分の一ほどとなる紫色の塊が魔法陣から出現する。そして電球のように溢れんばかりの力が収められているそれを、脳内に巡るイメージのままに撃つ。
空中にいる猿はまともに回避行動を取ることができない。全力で物を投擲した時のごとき速度で一直線に飛んでいった球体は見事に命中し、そして燻っていた力を一気に解放するかのごとく爆散した。
「キ――」
猿が瞬きのうちに軽く五メートルは飛んでいくと、次の瞬間には木の幹に鈍い音とともに頭をぶつけ、どさりと墜落していった。
こころと顔を合わせ、恐る恐る近づいていく。いつでも迎撃できるよう手元の剣をしっかりと握り込みつつ、そっと倒れた猿を覗き込む。
どうやら、首の骨が折れて絶命しているようだった。
「……やりましたね」
「やったね。ここは喜びの表情?」
幻想郷には人間を喰らう妖怪が多く存在し、逆に妖怪が互いに争い合ったりもする。加えて言えばさとりの住む地底は『強い者が正義』を地で行っている地域なので、襲いかかってきた相手の命を奪う程度のことには大して忌避感はない。
仮に今のさとりの立場が地上の人里に住む人間だとしても、彼らだっていつも妖怪の脅威にさらされているのだから、動物一匹を殺すくらいのことを気負ったりはしないだろう。というか、そもそもMMORPGとは元々が『魔物を倒したりする』ことを主に楽しむものなので、敵を倒すことにいちいち戸惑っていてはやっていられない。
「喜び……は違うかもしれません。ちょっとまずいです。倒すのが遅れてしまったみたいだから……」
すでに死んでしまっているこの猿が最初に叫んだ時に即行で攻撃していれば速やかに立ち去ることも可能だったかもしれないが、躊躇してしまったせいでずいぶんと仲間が集まってきてしまっているようだった。
遠く、それも四方八方から断続的に複数の猿の鳴き声が聞こえる。
「急ぎましょう」
こくりと頷くこころの手を取り、森の中を走り出した。
傾斜がめちゃくちゃだったり段差があったりと、ただ走るだけでも疲れるのに、木の根っこに足を引っかけると転びそうになる。それでもなんとか立て直し、とにかく森の中を駆けた。
あの猿が叫んだ場所にずっといれば、大量の猿に囲まれてやられてしまう。仮想世界での死は現実でのそれと直結せず、復活ができたりするみたいだが、三〇パーセントとは言え痛いものは痛いのだから自分から進んで死にたくはない。
ちょうど木の影から出てきた二匹の猿と鉢合わせをし、びくりと震えつつこころの手を離して、右手の剣を構えた。
甲高い鳴き声とともに猿が振り下ろしてくる石のナイフを思い切り右斜め前に飛び込むことで避けると、勢いのままに剣を横に振り回す。すれ違いざまに猿の首を両断することに成功し、猿の体が倒れるところを見送りながら、ぶんっと刀身についた血を軽く払った。
ちらりとこころの方を確認してみれば、彼女は自分と違って攻撃を避けるまでもなく、薙刀とナイフというリーチの差を利用して相手の攻撃の届かないところから胸を一突きにして倒していた。
彼女は猿から刃の部分を引き抜くとこちらに目配せをしてきたので、頷き合うと再び一緒に走り出す。
「足を止める時間は最小限に抑えましょう! 遭遇した敵は、できるだけ鳴く前に倒す方向でっ!」
「わかったわ!」
前から二匹、上から二匹――さとりが自分と上を交互に指差すジェスチャーとともにアイコンタクトをこころに送ると、その意図を読み取った彼女はこくりと頷いた。
二割のMPを込めて魔法陣を描きつつ、さとりは軽く跳ぶ。直後、こころが全力で薙刀を薙ぎ払い、自分の他にさとりに迫っていた猿ごと、合計二匹の地上の猿の胴体を真っ二つした。
さとりはそんなこころの勇姿を収めつつ、初めて撃ったものよりも一回り小さい〝魔弾〟を二つ作り出し、上の二匹へと放つ。どうやら一番最初に殺した猿に撃っていた球体はオーバーキルだったようで、今回のように威力を抑えて〝魔弾〟でも二匹の猿を軽く樹木まで吹き飛ばして絶命させることができた。むしろもっと制限しても大丈夫かもしれない。
「ナイスですっ!」
「あなたも!」
最初に森に入った時が嘘のように、次々と敵が目の前に現れてきていた。
基本的に同時に出てくる数が一匹ならば小回りの利くさとりが対処し、二匹ならそれぞれ分担して倒し、三匹以上の時はこころの薙刀で一気に薙ぎ払い、残党をさとりが狩る。上からの敵は二匹以上ならばさとりが対処し、一匹ならばリーチの差を生かした一撃でこころが葬り去る。
言わずとも戦いを通じて互いの攻撃の利点や欠点を把握していき、戦い方をよりよいものへと進化させていっていた。時には敵の数だけでなく地形の広さや狭さも考慮して、戦術を変則的に切り替える。剣の欠点を薙刀が補完し、薙刀の欠点を剣が補完する。およそ即席とは思えないほどに息のあったコンビネーションは、いくら猿が集まろうとも絶対に破れやしない。
ただし、それはさとりとこころのどちらかが連携を崩さなければの話だ。さとりたちは常に走りながら転ばないように足元に注意し、いつ猿に襲われてもいいように周囲を警戒しながら、休むことなく幾度と金属製の武具を振るっている――つまり、その疲労の溜まる速度は尋常ではない。
先にガタが来たのは、森を歩いている期間が長かったさとりであった。足元への注意がおろそかになり、根っこに足を取られて地面に倒れ込む。そこへちょうど木の後ろにいた猿が出てきて。
「はぁっ!」
間一髪、こころの振り下ろした薙刀がさとりに近づいていた猿を一刀両断した。さとりは「ありがとうございます」とお礼を口にするとともに、こころの差し出す手を取って立ち上がると、再び駆け出した。
初めに崩れたのはさとりの方だったが、こころも薙刀なんて大きいものを振り回している関係上、すでにさとりの一歩手前まで疲労が溜まってしまっている。さとりたちのコンビネーションは崩壊の一歩手前まで来てしまっており、最初は瞬殺できていた猿への対処も、三匹以上となると少しずつきつくなってきていた。
あまりに猿が多すぎる。このままでは……。
「ど、どうし、はぁ、します、かっ……このま、まじゃ、はー……ジリ貧、です」
「立ち、立ち止まっ、て、休む? つ……疲れた、みたい」
「いえ……囲まれ、るかも……追い、つかれるのは……一番、はあ、まずいです」
このまま森の外まで出ることができればそれが一番いいのだが、世の中そううまくは行かないことは重々承知している。
なにか手はないか、なにか打てる手段は――そんな風に思いながら、正面からこちらに敵意を向けてきていた猿の首をはねた。もう幾度こうして敵を倒したかわからない。
だがその直後、さとりは体が軽くなったような心地のいい違和感を覚えた。こころもそれは同様のようで、疲労で衰退するばかりだった動きのキレが急激によくなり、息もある程度回復する。
原因不明ながらも都合のいいそれを不思議に思っていると、さとりの目の前に『レベルアップ!』と虹色の文字が浮かんだ。
【レベルの上昇を確認、各パラメーターが潜在値に沿ってわずかに上昇しました。また、ジョブごとにレベルポイントを取得しました】
当然ながら、頭の中に響く機械的な声はさとりだけでなくこころにも聞こえている。顔を見合わせ、互いに多少の余裕ができたことに安堵した。
しかし、疲労が完全に消えたわけではないので、すぐにでもまた動作が鈍ってしまうようなことになるだろう。おそらく体力等の最大値とともに現在値もちょっぴり上昇しただけで、単純に回復をしたわけではないのだ。
ほんの少しのいいこと。現状を打破するにはそれだけでは足りなかった。もっとなにか激しい事件がなければ、いずれさとりたちの疲労は限界を迎え、猿に囲まれてしまうことになる。
レベルアップよりも大きな変化が欲しい――そんな望みが通じたのだろうか。
幸運によるものか悪運によるものか、走り続けていたさとりとこころのもとに、確かに状況を変質させる看過できない事態が訪れた。
「これは……?」
何匹かの猿が近くに現れ、これまで通りに攻撃して突破しようとした。けれど猿たちはさとりとこころが構えているのに見向きもせず、全員、さとりたちから少し離れたところを通って必死に走り去っていく。
その慌てようはまるで、自分たちでは決して太刀打ちできない巨大な存在から逃げているようにも見えた。
「どうしてどこかに行っちゃうんだろ」
「……いったん立ち止まった方がいいかもしれません」
さとりが提案をするが、それはどうやら一歩遅かったらしい。
二本の木の合間を抜けた時、二人はそこだけ樹木の生えていない開けた空間に差しかかった。
西へと落ちていく太陽の輝きは高い木々やその枝葉に遮られ、赤らんできたばかりの空の何分の一にも薄暗い。傾斜は鳴りを潜め、ほとんど平地であるこの場にはクモや陸生ヒルと言った生物はいないようだった。
そんな、ただなにもないだけのなんの変哲もない森の隙間には、しかしなくなったぶんだけ他とは一線を画した異常が鎮座している。
全長は三メートルにも及ぶだろうか。鼻や口は獣らしく顔から前方へと飛び出ており、目や耳は小さく、また耳は丸い作りをしている。胴体の大きさは人間の何倍にも及び、四肢も同様の太さを備えているものの、長さだけは巨躯と反して少々短かった。
全身の真っ黒な毛に反して腹にだけ横に一本の線とその上に二つの点、顔のような模様が白で描かれている。
「これは……まずいかもしれませんね」
俗にはクマと呼ばれるその獣は瞑想でもしているかのごとき静けさで広間の中央に座り込み、目を閉じている。
そして、さとりもこころも、そんなクマの姿を一目見ただけで理解できた。
――この獣は、レベルアップした今の自分よりも明らかに格上の相手だ。
猿も同じような危機感を覚え、早急に退散することにしたのだろう。
「ね、ねぇ」
「わかってます。ここは」
私たちも早く逃げましょう。そんな言葉を吐こうとして、クマの目が徐々に開かれるのを目にし、喉に詰まる。
赤く血走った目は、つい数瞬前の、静寂さを体現したかのような雰囲気とはまるで別物だ。
その瞳がさとりとこころの二人を捉えると、クマはゆったりとした動作でその場に立ち上がった。
ただ見つめられているだけなのに、その時だけは思考が停止してしまって、動くことができない。蛇に睨まれた蛙、ということわざが頭をよぎった。
クマが口を大きく開き、歓喜にも似た吐息と涎を垂らし始めてから、ようやっとさとりは正気を取り戻す。
「こころさ――――」
――猿の甲高い鳴き声とはまるで別物の、獲物を絶対に逃がさないとでも叫んでいるかのごとき、大気の震える低い重圧の咆哮――――。
口に出しかけた言葉の内容を一瞬忘れかけてしまうほどの強烈な怒号は、さとりとこころに隙を生まれさせるには十分すぎた。
一〇メートルは確実に遠くにいたクマが、気づけば目の前に迫っている。雄叫びとほぼ同時に走り出しただけだったのだが、隙を突かれたにしても、それが単にさとりたちよりもはるかにずば抜けた速さを誇っていたことに間違いはなかった。
「うっ――!」
クマの前足がさとりに襲いかかる。咄嗟のことに魔法陣は描けず、足が固まったかのように動かない。半ば反射的に剣の腹で防御をしようと試みるも、その結果がクマの力押しでの勝ちで終わることは火を見るよりも明らかだった。
死ぬことはないだろうが、間違いなく動けなくなる。そんな直感的な確信で思考が占められる中、一筋の閃きが視界の端をよぎった。
「させないっ!」
こころは、さとりへとクマの前足が振り下ろされる直前、その側面をタイミングよく薙刀の石突きで突いた。こころの狙い通り前足の攻撃は斜めへと逸れ、さとりに直撃という事態はなんとかまぬがれる。
咄嗟の状況での最善の一手。こころの見事な手腕に少々舌を巻きつつ、さとりもまた体を動かす。
さとりとこころは思いも寄らぬ事態に倒れ込みそうになっているクマの右半身側へと回り込むと、警戒しながら大きく距離を取った。
「こころさん、ありがとうございました」
「どういたしまして。でも、お礼はまだ早いわ」
さとりは剣を、こころは薙刀を構え直す。すでに体勢を立て直しているクマは、そんなさとりたちを一瞥すると、すっと右の前足を真横に伸ばした。
前足、つまりは腕。だがクマとさとりたちの距離はあまりにも開きすぎている。あのまま振るったところで決して届きはしないだろう。
しかし、さとりの第六感とでも呼ぶべき感覚は、これでもかというほどにがんがんと警報を鳴らしてきている。
しゃきん、と。クマの右の前足の鉤爪が瞬きのうちに一五センチほど伸長する。そして。
「ごめんなさいっ!」
こころが突如そんな大声を上げると、さとりの体を横に突き飛ばした。それからすぐにこころも体を伏せ、回避行動に移り始める。
クマが右前足を横薙ぎに払った瞬間、倒れたさとりの真上をとてつもない風圧が過ぎ去っていくのがわかった。
こころは伏せていたおかげで、さとりは突き飛ばされて範囲内から逃れていたおかげで助かった。さとりは心の中でこころにお礼を言いつつ、立ち上がりざまに背後から聞こえたぎしぎしとした音が気になって、振り向く。そして言葉を失った。
三本。それなりに太さのある木の幹が五つの斬撃によって断ち切られ、今まさに倒れ込むところだった。
あのクマは衝撃波を飛ばしたのだ。あの長く飛ばした爪から、真空の衝撃波を。
これが現実世界であれば、多少力がある妖怪ならこの程度のことは容易くやってのけるとして納得できる。戦闘はあまり得意ではないと自負しているさとりでも、似たようなことは確実にできるだろう。
しかし現実よりもはるかに非力な肉体しか持っていない現状では、ただただクマの引き起こした常識離れな事象に血相を変えて
「っ、クマがいない……?」
視線を前に戻してみると、どういうわけかクマの姿はどこにもなくなっている。深く踏みつけられただろう草花の跡が二つ残っているだけ。あれほどまでに敵意をあらわにしていた存在がどこかに去ったということは絶対にないはずだ。
鉤爪から飛ぶ一振りの攻撃に、さとりとこころが目を離した隙にどこかへ身を隠した――けれど身を隠すほどの障害物なんて、この広間にはありはしない。
ならばどこへ行ったかなど、答えは一つしかなかった。
足跡が残るほど強く踏み込んで、上へと跳んだのだ。
「こころさんっ! 上ですっ!」
クマは落下の勢力をそのままに、きょろきょろとクマを探しているこころに右前脚の鉤爪を振り下ろそうとしていた。
さとりの声にこころは弾かれたように顔を上げ、即座に薙刀で防御の姿勢を取る。
防御と言っても、こころは受け止めようとしているわけではなかった。遠くからでも木々を斬り裂くほどの苛烈さを有する鉤爪を前にしては、同じく木でできた柄など豆腐も同然なのだから、まともにガードしても無駄である。
ならばどうするか。止めるのではなく、流す。
こころは薙刀を斜めに構え、クマの鉤爪を柄に沿ってずらしていった。こころ自身にはクマの込めた力の半分も負担がかかっていないはずなのに、あまりの重さに腕が折れそうになるほか、立っていられなくなって片膝をつく。
受け流した五つの斬撃はこころのすぐ横に落ち、容易く大地を斬り裂いた。さらにクマの前足が落ちた衝撃で大きく地面が揺れて。
ほぼ同時にこころは薙刀を取りこぼし、苦悶の表情の代わりと言わんばかりに顔に脂汗をにじませる。
――元々、こころは無傷でこれをどうにかできるなんて思っていなかった。
ほんの少し鉤爪が右肩に掠っただけ。しかしそれでできた裂傷は深く、血は傷口付近の服を染めてあまりあった。薙刀を持っていられないほどに。
その痛みの奔流に加え、足元が揺れていることによって、こころはすぐに立ち上がることができないでいるようだった。
「くっ、ぅ……!」
けれどクマも渾身の一撃が逸らされたせいで、最初にこころから石突きで前足を突かれた時と同じように大きく体勢を崩している。どうにかこころが持ち直す時間くらいはある――そんな風に瞬時に浮かべたさとりの推測は、どうやら甘すぎたらしい。
クマはまるで鉤爪が当たらないこと、というよりもこころの手腕によって攻撃後に体勢が崩されることがわかっていたかのように、不安定になった体勢をさらに傾けて、右前足に全体重を預けた。
「こころさんっ!」
そうして繰り出される片手だけの逆立ちからの回転蹴り――以前書物で知ったカポエイラという腿法にある技の一つ、エリコーピテロに酷似していた――に、こころは苦悶の声を上げる暇もなく蹴り飛ばされた。
一秒もせず、彼女はさとりから比較的近い位置にあった木の幹に叩きつけられる。さとりは、さすがに動きが無理矢理すぎたのか今度は完全にどうにもならないほどぐらぐらと体を揺らしているクマを確認すると、すぐにこころのもとへと近寄った。
「だ、大丈夫ですかっ?」
「う……ぐ……けほっ、けほっ! ん……な……んとか。これで、ガード、したから」
こころの右手と左手には、それぞれ二つに折れてしまった薙刀が握られていた。おそらくクマが追撃をしかけてくると察した直前に、咄嗟の判断で薙刀を拾い直して盾代わりに使ったのだろう。
一応薙刀の刃物部分は無事なため、かなり柄が短くなってしまうものの、武器としての利用は可能だが……それではあまりに心もとなすぎる。
「……こころさん、さきほどはありがとうございました。あなたに突き飛ばされていなければ、私は今頃……」
「ふ、ふっふ。どういたし、まして」
ある程度息を整えたこころは、折れて二つになった薙刀のうち刃のない方を適当に捨て、よろよろと立ち上がった。
そうして負傷した右肩を押さえながら、こちらを観察するようにして動かないクマを見据える。
「あのクマ……かなり体が柔らかいわ。いろいろと巨体に見合わないみたい」
「そう、ですね。加えれば、観察力と対応力もかなりのものです。さきほどこころさんに受け流されることを予見していたかのように回転蹴りに移行できたのは、おそらく最初に私へ腕を振り下ろした際にこころさんにそれを逸らされたことを覚えていたからでしょう」
でなければ、これだけの凶暴性を備えたクマが、こんなにも理知的にこちらを観察してきたりはしない。すぐにでも攻め込んでくるはずだ。それをしてこないのは、おおかた、蹴りを防がれたのは予想外だったからか。きっと今頃はこころの身体能力を頭の中で修正し直している。
知恵を備えた獣。現実にも多く存在し、まさにお燐などがその通りなのだが、貧弱な身で相手にするとここまで厄介なのか。
「逃げる?」
「……確かに、それをしたいところではありますが……」
果たしてあのクマが許してくれるかどうか。
じっと、クマの目を見据えてみる。心の中を見通すように。
血走ったその目の奥は本能と理性が混在し、いかに確実に獲物を仕留めるかという思索を広げていることが透けて見えた。当然ながらそこに獲物を逃がす意思は欠片もなく、むしろ森の中に入ろうとも確実に仕留めるとでも言うような覇気さえ感じさせる。
「たぶん、無理です」
「そうかー。これはもう絶望するしかないか……たぶん、これが哀しみの表情」
あいもかわらず無表情のまま心情を表現するこころ。そんな彼女に、でも、と人差し指を立ててみせた。
「一つだけ、希望のある推測があります」
「希望?」
首を傾げるこころを視界の端に収めつつ、クマからも視線を逸らさない。クマは未だこちらに襲いかかってくる様子は見せていないが、いつそれが転化するかわからないことを自覚すると、さとりも自然と早口になってしまう。
「体が柔らかいということは、それだけ筋肉に柔軟性があるということです。もしかしたら、案外刃……あるいは攻撃自体、当たりさえすれば軽く通るかもしれません」
それは本当に、かなり希望的な観測だった。なにせ現実では、妖怪というものは皆、人の形をしていようがなんだろうが頑丈な者ばかりなのである。人間にとって非常識な事象を軽く引き起こすこのクマがそれに当てはまらないなんて保証はまるでない。
しかし、さとりは自分の立てた推論は存外間違っていないと考えていた。
これまでこの森で見てきた魔物とも呼ぶべき生物と言えば、大して強くもない猿だけだ。これだけ圧倒的な力を持つこのクマほどの動物ならば、猿程度は適当に力を振るうだけでも軽く殺すことができるだろう。つまりこの森で住むのには本来、知恵なんてものはあまり扱う必要がないはずなのだ。
それなのに目の前のクマは随一こちらを観察、分析しながら、一手先まで読みながら戦うようにしている。
もしかしたらクマは、たとえ相手が有象無象の猿であろうとも、その武器がたかが石のナイフ程度であろうとも、当たってしまえば少なくない傷を負ってしまうのではないか?
巨体ゆえに相手の攻撃に当たりやすく、柔らかいゆえに防御に難があるからこそ、生き残るために知恵を絞らなければならなかったのではないか?
さとりはそう推理を立てていた。
今のところクマが基本的に奇襲しかしてこないところなどがそれを裏づけてもいる。最初は咆哮混じりの突進、次は予測困難な遠距離斬撃、相手が目を離した隙に跳び上がって上空からの急襲。
すぐに攻め込んでくればいいのに、こうして過剰なまでに様子を窺ってきているのはきっと、まともに二人同時に戦えば怪我を負ってしまう可能性が高いから。次はどう奇襲するか考えているから。
「どうせなら、あちらが動き出す前に、今度はこちらから攻勢に出てみましょうか」
「えっ? それって、大丈夫なの?」
「どうでしょう。でも意外と、逃げるよりも助かる確率が高いかもしれませんよ」
なんだか仮想世界に来てから思い切って行動することが多い気がする。海沿いに歩くのではなく森に入ることにしたのもそうだし、落ちてきた当時は人型の影にしか見えなかったこころを、地面との衝突から助けることにしたのもそうだし。
案外、自分も変革を望んでいたのかもしれない、なんて思う。なにもない、なにもしようともしなかった鬱屈で退屈な日々――たとえしょせん仮想とは言え、少なからずこの世界はそこから逸脱している。
ちらりと、こころに見やってみた。
無表情なのに不愛想じゃないどころか、とても愛想がよくて、言動がいちいち大げさ。まだ会って少ししか経っていないはずなのにコンビネーションは組みやすく、クマの強襲からは二度も助けられた。薙刀の扱いがうまく、現実でも達人級の強さをおさめているだろうことが容易にわかる。
視線に気づいたこころが、不思議そうに小首を傾けながら、見返してきた。
それを見て、なんとなく、別れたくないと感じる。
この世界で死んでも多少のペナルティを払った上で別のどこかに転移するだけだと、事前の情報から知っていた。けれどそれはこころと同じ場所だろうか。またこころとは会えるのだろうか。会えるとして、それはいつの話になるのだろうか。
そんな疑問が湧き上がってくるのと一緒に、少しずつ、別れたくないと思う心が強まってくる。
「ふふっ」
無意識のうちに笑ってしまっていた。隣でこころが目をぱちぱちとさせているのが視界の端に映る。
――私は私自身が思っている以上に、寂しがり屋なのかもしれないわね。
一つ大きな深呼吸をすると、さとりは軽く指を鳴らして『メニュー』を開き、『能力』からスキルやアビリティの新規取得の画面に移った。
迷っている暇はない。表れたジョブごとに分かれた無数の選択肢のうち、いくらかあったポイントを迷わずすべて〝魔術〟につぎ込む。
――知識が流れ込んでくる。手に入れた力の仕組みが、使い方が。
「こころさん、何度も助けられておいて差し出がましいのですが……どうか、私と一緒に戦ってくれませんか?」
こころと初めて会った時、さとりが下敷きなって、こころが手を差し伸べてきたのとは逆。今度はさとりが手を伸ばし。
こころはちょっとだけ戸惑いつつも、快く、確かにその手を取ってくれた。