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ほんの一度の歩みでまるで知らない場所にたどりついてしまったかのような、あいかわらず他とは逸脱した異質な感覚の後、さとりはすっと瞼を開く。
さとりがいたのは、ほとんど人気のない狭い横道だった。壁にかけられたランタンが少なく、夜ともなれば相当に暗くなることが容易に想像がつくが、太陽が真上に来ている時間帯だったので今はその心配はなかった。
後ろに体を向ければ、出入口のすぐ横に『よろずや』と書かれた看板が立てかけられた、あまり大きくない石造の建築物が目に入る。扉は固く閉じられており、どうやら現在は店は開いていないようだ。
視線を下げる。きちんと昨日購入した通りの長袖のブラウスと、その上に革のワンピースを着ていた。
「行きましょうか」
確認するように呟いて、さとりは路地を歩き始めた。武器や防具が調達できる場所という風に目的地が曖昧だった先日とは違って、行く先がはっきりと決まっていたさとりの足は速い。
一つ問題があるとすれば、速いことと比べ、あまり足取りが軽いとは言えないことだろう。
さとりが進むたびに人通りが多くなっていく。それは横道から表通りへと近づいている証拠でもあった。
――昨日のちょうど寝る前の時間にこころと明日の何時頃に一緒に遊ぶかの詳細をメールで話し合い、クマを倒して転移した直後の地点を集合場所とすることになっていた。そしてそこは行き交う人の多い表通りにある。
基本的に自宅で引きこもっていたさとりからしてみれば、周囲を見知らぬ人たちが歩いているだけで、そちらに必要以上の注意や警戒を払いたくなってしまう。できるだけ気にしないように前だけを向くようにしてみるのだが、もしかしたら見られているのでは、なんてありもしない危惧が頭をよぎるのを自覚する。
そんな妄想を振り切るように歩く速度を上げた。走れば目立つので、ギリギリ歩行と言える程度の速さで道を進む。
そうして、気づいた時にはすでに目的地にたどりついていた。
そこはいくらかの通路が合流した大きな円形の広場になっていた。街路樹はそこかしこに、中央にはそこそこ大きな噴水が置かれ、うるさくない程度に水を噴き出している。これまで歩いてきた表通りよりも人は多く、隅の方にある露店や屋台もなかなか賑わっていた。
「ふぅ……」
一度落ちついて、辺りを見渡す。
多くの人が往来を繰り返していた。通路を行き来するためだけに広場を通過する人、なにかいいものがないかと、あるいは冷やかしとして露店を見回っている人、食べ物を口にしながら自分のように周囲を観察している人、特になんの用事もない人――。
さとりは、その誰もが自分へは特に注意を向けないことを再確認する。そうしてさきほどまで抱いてしまっていたような、無意味な自意識過剰さを抑制するように心がける。
落ちつけ。慌てなくてもいい。私が今いるのは『他人の心を読めない世界』だ。誰もかれも、理由もなしに私へ嫌悪の感情を向けてきたりはしない。
さとりは言い聞かせるように心の中で囁き、胸に手を当てて長く息を吐く。なにも問題はない、自分はここにいても構わない。
それから、いつも通りに空気を吸い込んだ。
「――なぁ、知ってるか?」
精神が平常心に近づいてくると、周りに溢れる情報を冷静に聞き取れるようになる。
人二人ぶんほどの空間を挟んで、同じく噴水の縁に座っている二人の会話に、ふいと耳を傾けてみた。
「またアレ、出たんだってよ」
「アレ……? あのな、アレなんて急に言われてわかるわけないだろ」
「だからアレだって。ほら、最近有名の、炎の剣の」
「……ああ、もしかしてあれか? 《恐ろしい波動》とか呼ばれてるプレイヤーキラー」
「そうそれ!」
炎の剣? 『恐ろしい波動』? それに、プレイヤー
妙に気になって、さとりは無意識のうちに耳を澄ませていた。
「《恐ろしい波動》ねぇ……確かに最近有名だけどさ、あれだろ? そいつって、なんか一〇歳くらいの見た目してる上に精神も大して成熟してないとか。仮にそいつの元がすげぇ強い妖怪なんだとしてもこの世界にその力は持ち込めないし、そう考えていくとあんまり強そうには思えないんだが」
「わかってないなぁ、お前。いいか? よく聞けよ。まず第一に前提として、元々弱い力しかない人間の俺たちは、こっちの世界の力を完全に扱うことは困難だ。それはお前にもわかるだろ?」
「まぁ、目に見えて力が強くなられたって、正直感覚が違いすぎていろいろ振り回されるよな」
「でもそれは元々力の強かった妖怪どもにとっては『この程度』とか言えちゃうレベルでしかないんだよ。俺たちと違って完璧に使いこなすことができる。なにが言いたいのかというと、強い妖怪はこの世界でもある程度強い、らしい」
妖怪としての強さは仮想世界でのそれにも少なからず関係する。そんな事実を匂わせる発言に、さとりは少々目を丸くした。
しかし、確かにそうなのかもしれない、と納得もする。
確かに、人間などの力のない種族が急に超人的な能力を得たって、そうすぐに使いこなせるはずがない。しかし逆に人外の力に何十何百何千年と付き合ってきた中級以上の妖怪からしてみれば、超人程度の力を操るくらいは造作もない。
力を扱う感覚。それもまたこの世界に持ち込める限られたものの中で重要なものの一つということだ。
「あー、つまりお前が言いたいのはあれか。《恐ろしい波動》はその力を完全に制御してるから手強い、と」
「むしろ『もっと強く』と言わんばかりに滅茶苦茶暴れてるとかいう噂だぜ」
「ほー。そんじゃ、俺とかお前じゃぜってぇ敵わねーな。あー怖い怖い。街を歩いてて急に襲われたりなんてのはごめんだぜ」
「そいつは同意だけど、ま、目撃証言はゲーム内時間での夜にしかないっぽいし、気をつけてればまず遭遇することはないだろうさ」
「へえ。あれだな、夜にしか活動しないってなんだか吸血鬼みたいだな。ゲーム内でも夜にしか活動しないってのもおかしな話だが」
さとりの眉がぴくりと動く。
吸血鬼。何百年か前に初めて世界に出現し、ほんの少し前に幻想郷にも姿を現した、妖怪としては新参ながらも非常に強大な力を持つひどくわがままな悪魔という種。
かつて地上から地底へと移り住み、そのまま数百年もの間を過ごし続けているさとりは、ちょっと前まで地上を騒がしていたその吸血鬼とやらとは一切面識がない。特徴もほとんど知らず、せいぜいが『日差しに弱い』、『わがまま』、『見た目が幼い者が多い』、『とにかく強い』というくらいしか情報を持っていなかった。
さとりとしては、吸血鬼がどれだけ強いにしても、古来より最強の妖怪と謳われ続けている鬼にはさすがに劣るだろうと考えている。鬼なんて、まともに戦えばまず勝ち目はない。
だが、今のように妖怪の中でも規格外とまで言われる鬼を引き合いに出してしまうくらいには、吸血鬼の強さの噂は地底、ひいては地霊殿のさとりのもとへ広がってきていた。
普通に考えれば《恐ろしい波動》とやらが吸血鬼の確率なんてかなり低いのに。どうしてだろう。無意識にのうちに想像が確率の低い方へと寄っていってしまう。
――吸血鬼のプレイヤーキラー、か……もし、その《恐ろしい波動》とやらに遭遇してしまったとしたら、私はきちんと逃げ切れるのかしら。
「――――とり、さとりー」
「あっ……」
自分の名を呼ぶ声に気づき、さとりは顔を上げた。
「すみません、ちょっと考え込みすぎていました。おはようございます、こころさん」
「おはよー。ふむふむ、その服似合ってるねー! って言えばいいのよね? こういう時って」
つい先日森の中で初めて出会い、そのままともにクマ――鋭き右の柔熊――を倒した薙刀使いの戦友が、さとりの顔を覗き込んできていた。一切の感情を映さない表情はあいかわらずなのだが、その服は昨日とはまるで違う。
「こころさんもその服、似合ってますよ。とても」
「えへへー、ありがとー!」
首周りがもふもふとした茶色い毛皮に包まれた少々ぶかぶかな青いコートを着込み、胸元ではリボンを小さく結んでいる。リボンの結び目から先端までは意外と長さがあり、こころが動くたびにひらひらと揺れていた。下には桃色のフレアスカートを穿いていて、それをよくよく観察してみると、なにやらケイトウらしき花の模様が赤色で描かれているのがわかる。
それだけなら、ずいぶんと可愛らしい変化を遂げている、という感想で終えることができたのだが、どうにも無視できない奇妙な要素も一つ追加されていた。
「それでその、こころさん……えぇと、それは?」
「その質問を待ってたわっ!」
こころは、歓喜に満ち溢れた声音で返事をすると、頭の横につけていたそれを顔の前まで動かした。
「ふっふっふ、これはこの世界での私のお面一号である! ひとまずは全部の感情をこれからこれで表現していくわ!」
こころの頭には、昨日戦って倒したクマの仮面……と表現するにはあまりに覇気がなさすぎる、かなりデフォルメされたクマのお面が装着されていた。
全部の感情をクマの面で表現……それってこれまでのように無表情でいることとなにが違うのかな。
質問してみようかとも思ったが、上機嫌にお面をつけたり外したりと繰り返すこころを前にして、さとりは口を閉じて苦笑いを浮かべる。
こころが満足なら、わざわざ水を差すようなことなんて言わなくたっていいか。
「こころさんは、お面、好きなんですか? 初めて会った時もお面がないって騒いでいましたけど」
「好きというかなんというか、お面が私、ひいては我々というか……」
「お面が私? ……もしかしてなんですが、こころさんは
「そう! 最近自我に目覚めたばっかりなの! いやまぁ、目覚める以前からも元々意識はあったんだけどね」
付喪神は、神という字が名に含まれてはいるものの、実際的には妖怪というくくりにあるために神としての特徴は一切備えていない。少々ややこしいが、こういう事情は
しかし、こころはお面の付喪神なのか。しかも最近目覚めた……そうなると、少しだけ不可解なことがある。
「確認なのですが……こころさんは薙刀の付喪神ではないんですよね。それならあれだけの技術はどうやって身につけたんでしょう。少なくとも、一朝一夕には身につけられないくらいには洗練されていたと思うのですが」
「褒められてるのかな? ありがとう。薙刀はねー、えーっと、我々の元々の持ち主が能楽に通じてたから、妖怪化した時に私もその特徴を受け継いだみたいなの。それで能楽には武芸が混ざってるのもあったりして、その時に薙刀を使うことがあるから、なんだかよく手に馴染むのよ」
「そういうことでしたか」
能楽。その単語を耳にしたことは、これまでの人生でも数えられる程度でしかない。自室に大量の本を保管しているさとりでも、能楽に関しては、大勢の人の前で芸をしてみせるというほどしか知識がなかった。
「……能楽というのは、あまり想像がつきませんね。そういうものとは無縁の生活を送ってきましたから」
「大丈夫だよー、最近の人間や妖怪は皆ほとんどよく知らないみたいだから。さとりは能に興味あったりするの?」
「そうですね、それがこころさんの特技だと言うなら、一度くらいは見てみたいです」
「本当っ? それなら今度さとりの前で舞ってあげるよ! 演目は、えっと、えーっと、前に評判がよかった『心綺楼』とかっ!」
「ふふっ。ええ、どういうものかまるで想像がつきませんが、楽しみにしています」
こころの弾んだ声を聞いていると、自然とさとりの頬も緩んできてしまう。ただ見せてほしいと言っただけでこの喜びようだ。こころは能楽のことが相当好きらしい。
「さとりはなにか特技とかある?」
「特技は……そうですね、モノマネが得意ですよ。それからよく本を読みますので、あまり役に立たない豆知識なども結構知っていると思っています」
「へー、モノマネかぁ。その豆知識って、たとえばいったいどんな風なものなの?」
「ふむ、たとえば……」
いくらか頭の中に候補が浮かび上がる。さとりはそのうち一つを適当に選定すると、こころに見せるように指を一本立てた。
「眠い時にはあくびが出ますよね」
「出る出るー」
「そういう時のあくびというものは脳を活性化させるために行われるようでして、いっぱいに口を開けて息を吸い込んでしまいますと、逆に目が覚めてしまうんです」
「え、そうなの?」
「みたいですよ。ですから、眠いから起きていたい、という風な時にあくびが出かけたら、我慢なんてせずに思いっ切りした方がいいんです。そうすれば睡眠への欲求を多少和らげることができますから」
「へえー。さとりって物知りなのね」
「ですから、豆知識程度ですよ。そもそも思い切りあくびをする効果なんて微々たるものですし、周りに人がいればあくびなんて見せてしまうのは恥ずかしいものです」
そもそも妖怪は体が丈夫にできているため、あまり睡眠などは必要としない。本で手に入れた知識であるのだが、妖怪であり、地底という時間間隔が曖昧な世界に住んでいるさとりにとっては、あまり役に立つ情報だとは言えなかった。
こころも付喪神という妖怪の一種である以上、こんな雑学を知っていようといまいとほとんど関係はない。さとりの言う通り、単なるどうでもいい豆知識にしかならない。
それでも、目を輝かせて――いるように見える――こころを眺めていると、自然と頬が緩んでしまうのをさとりは感じていた。自分の話で、
こころがさとりの隣に座る。それから、また違う豆知識のことを教えてくれとせがむ。さとりはさきほど脳内に浮かんだ候補の中から再び選び、それをこころに話す。
「――というわけです」
「それなら治療して三〇日で治る怪我はいったいどういう分類になるの? 軽症? 重症?」
「ぎりぎり重症ですね」
「重症なんだ。これが驚きの表情!」
「三〇日以上の以上というのは、その数値を含むということですから。というかそのクマのお面、ちょっと口の両端が上がってて笑ってるようにしか見えませんが……」
ふいと、さとりは今回集まった目的を思い出す。
「っと、今更ですけど結構話し込んじゃってますね」
こうして落ち合ってから、すでに二〇分、あるいは三〇分近くの時間が経過してしまっていることに、ようやく気づく。
さとりはこころが口を開くよりも一瞬早く頭を下げた。
「すみません。元々は一緒に冒険をするために待ち合わせをしていたのに……」
「そんなっ! さとりと話してるの、私はすっごく楽しかったよ! さとりはそうじゃないの? 私からは話せることがあんまりなくて、さとりにしゃべらせてばっかりだから、ちょっと申しわけない……」
「そんなことはありません。とても楽しかったですよ」
「そう? ならよかったわ! これが喜びの表情!」
それは励まそうという気遣いから出た言葉ではなく、不安と言う感情から垣間見えたこころの本心。だからだろう。意識せず、さとりの口元にまた笑みが浮かんだ。
「そうですね。きっとそのクマのお面のような感じが、今のこころさんの本当の表情なのかもしれませんね」
微笑しているように見えるクマのお面を見つめ、思ったままのことをさとりは口にした。それに、こころは無表情のままにぱちぱちと目を瞬かせる。
「そうなのかな」
「そうですよ、きっと。今のこころさんは仕草も声音もとても嬉しそうで、楽しそうですから」
「楽しそう、なんだ……うん。ありがとう」
ほんの少しだけ、本当にわずかにこころの口の端が吊り上がったように見えたのは、気のせいだろうか。
さとりには、こころが感情豊かながら、その顔がずっと無表情である理由に大体の察しがついていた。
お面というものはつけた者の顔を隠し、決められた役になり切るために扱うものだ。そして、こころはそのお面の付喪神――数ある『役』や『感情』を司るお面が元となっている以上、
妖怪にはそのように、人間と比べれば欠陥や欠点とも呼べるものを抱えている者が少なくなかった。特に付喪神は多くがその対象にある。まず付喪神の共通事項として、道具が本体である以上その道具が壊れれば死ぬし、弱い力しかない付喪神であれば、本体たる道具が人型の肉体の手元を離れただけでも自我が消滅してしまうこともある。
妖怪は人間と比べれば非常に丈夫で長生きではあるものの、決して人間の上位互換というわけではない。妖怪とひとくくりにされてはいてもそれぞれが別々の生物であり、別々の特徴を抱えている。そしてこころという妖怪には表情という特徴がなかったという、ただそれだけの話。
「こころさんは、表情が欲しいんですか?」
ただ、そんな自分の特徴を疑問視しているようなこころの態度が少し気になった。最初に会った時は無表情であることを不気味に感じたものだけれど、今はそんなものはまったくなく、むしろ無表情こそが『秦こころ』という妖怪のトレードマークのように感じている。
興味から湧き出ただけ。しかしそんなさとりの問いかけに、こころはまっすぐとさとりを見据えて、こくりと頷いた。
「えっとだな。昔の話になるが、実は我々が妖怪としての自我を確立したのは、ちょっとした事故が原因だったのだ」
「事故、ですか」
「うむ。その事故は一応は解決したのだが、そのせいでというか、感情というものを正しく理解して制御できるようにならなければ我々は物言わぬ
いつの間にか普段の調子から、ずいぶんと大仰な話し方になっている。というか彼女の口調はいつもだいぶ不安定だ。おそらく、彼女の中でなんらかの変化があった時だけ口調を変えているのだろう。
少なくとも、今は付喪神の立ち場として話す、真剣な時の口調。さとりは口を挟まず、黙って彼女の話を聞き続ける。
「もうすでに放っておいても大丈夫だと言われはしたのだが、やはりたまに怖くなるのだ。またなにかの拍子で物言わぬ道具に戻りかけてしまわないかと」
「物言わぬ道具に……」
「妖怪としての自我に目覚めてからは毎日が充実している。我は、我々は、これからもずっとこの生活を続けていきたいと思っている」
だから今もさまざまな感情を学ぶように努めている。そうして締めくくるこころの発言に、さとりはなるほどと呟いて目を閉じた。
感情を学ぶ、か。
心というものがどんな構造、仕組み、形をしているか。感情がどう変化し、どう組み合わさり、どんな思いを構成するか。
それは単純怪奇でありながら複雑明快。数多の心を読んできたさとりでさえ、知っているにしても、決して理解し切っているわけではない。そもそもさとりだって相手の考えていることがわかる程度であり、深層心理などという無意識に潜む感覚や記憶を見通すことはできなかった。
しかし。
――さとりがこれまで覚妖怪としてもっとも多く見てきたものは、心を盗み見る覚妖怪というものに向けて唾棄、嫌忌、嫌厭、忌諱。刺々しく、濁り切った泥のような思い。
それだけは完全に理解してしまっていた。嫌悪の感情が、どんな回路をたどって生まれてくるのか。
人が、妖怪が、その心のどす黒く染まりゆく変わりようを。
どくんっ、と心臓が強く鳴る。傷口を抉られ、広がっていくような感覚に、視界が歪む。
「さとり?」
「あ……」
無意識のうちに、自分の胸を強く押さえていたことに気がついた。すぐに手を下ろし、笑みを浮かべるように意識して、なんでもないと首を左右に振る。
そうだ、なんでもない。なんでもないのだ。この世界は人の心なんて読めやしない。自分が嫌われる理由なんてどこにもないのだから。
大きく一回、二回。深呼吸をして、改めてこころと向き直った。そしてその頃にはもう、さきほどまで体を襲っていた嫌な感覚は消失している。
「大丈夫です。気にしないでください」
「……今日はもう、冒険はやめておく? 調子が悪いなら無理しない方がいいよ」
すでにいつもの口調に戻っているこころに向け、さとりはもう一度首を横に振った。
「大丈夫ですから。その、ちょっと昔の苦い経験を思い出してしまっただけです」
「苦い経験?」
「大したことじゃありません。もう解決だってしてます。今は……いい経験だと、思っていますし」
嘘だった。
でも、浮かべた笑みが不自然なものになっていないか。それを一番注意して、さとりはこころと見つめ合う。
笑顔の具合の答えは、自分の表情を見れないために定かではない。見抜かれているか、いないか。しかし、こころがこくりと頷いたのを見ると、さとりの口からはほっと息が漏れた。
「さとりが言うなら……でも、無理しちゃダメだよ」
「もちろんです。さて、もう行きましょうか。少ししゃべりすぎましたね」
噴水の縁から立ち上がり、こころと並んで歩き、街の外を目指す。広場から続く大通りをまっすぐ進んだ先に外へ通じる門があるので、訪れて二日目と言えど迷う心配はなかった。
さとりができるだけ笑顔を浮かべるよう意識していたからか、数分も経てば、少し暗くなりかけていた空気は完全に弛緩している。門につくまでの間に、さとりはこころに現在の装備を手に入れる経緯を話していた。
「そうかー、じゃあその服は、その変なカエルの着ぐるみを着た人が店主のよろずやで買ったのね」
「はい。いろいろと親切にしてもらいましたから、今後もお世話になろうかと思ってます。こころさんはその服とお面はいったいどこで?」
「こことは反対の大通りをまーっすぐ進むと、なんだかお屋敷みたいに大きなお店があるの。その中で青い髪の店員さんにちょいちょいっとお面と、あとついでに服とか武器の方も仕立ててもらって」
「服の方がついでなんですね」
こころが当然とでも言いたげな雰囲気を発しているような気がして、さとりの顔に思わず苦笑いが浮かぶ。
「それにしても新しい武器、ですか。インベントリにしまっているんですか?」
「うん。いやぁ、最初はそのまま背負って歩こうと思ってたんだけどさー。お店の中を歩いてるだけでいろんなものに引っかかって、なんだかいっぱい迷惑かけちゃって……」
「ああ、なるほど」
確かに、薙刀ほど長いと常に所有しているだけでもめんどくさそうだ。こころの言う通り、特に室内などは大変だろう。上にものがあるかどうか注意しなくちゃいけなかったり、扉の上枠に引っかかったり。
さとりの持つ剣はちょうどいい長さのため、そういう弊害はなく普通に背負っていられる。薙刀はリーチやパワーなどいろいろと兼ね備えているが、やはり利点ばかりとはいかないようだ。
「そのうち狭いところでも戦えるような武器も使うようにしようかなって思ってるの。扇子とか」
「そうですね。室内で持ち運ぶだけで大変だったように狭いところで薙刀を使いこなすのも難しいでしょうし、いいと思いますよ」
扇子が武器、と当たり前のようにこころが口にしていたのはつっこまないことにする。というか現実には、天狗という鬼に次ぐ強大な種族はうちわを武具として扱ったりもしているので、別に扇子程度が武器だと主張したところでなにも問題はない。少しでも攻撃に使えればそれは武具なのだ。妖怪社会の常識である。
「私も、近いうちに杖でも買ってみようかと思ってるんです。この世界に来た当初は、慣れない魔法だけでは不安でしたので初期装備として剣を選びましたが、今はもう十分ですから」
「じゃあこれからは剣は使わないの?」
「いえ、杖を手に入れたとしても使っていくつもりですよ。相手に近づかれた時などはそちらの方が断然いいですからね」
それに、剣を使わないとなれば昨日第三の目を使って動画を眺めた意義がなくなってしまう。『魔術師』が剣を使ってはいけないなんてルールもないのだし、好きにやればいいだろう。
そろそろ門が見えてきた。森へは半強制的に入ったようなものなので、自主的に冒険に出るのは初めてのことだった。
さとりの胸の内には、この世界に来たばかりの時のような期待にも似た感情が燻ぶっていた。そしてそれはきっとこころも同じことだろう。気づかぬうちに、さとりとこころの声は弾んでいる。
ただ一瞥するだけでなにもしてこない衛兵のNPCの横を通り抜け、こころとともに門を跨いだ。
門からまっすぐ続き、途中で三手に分かれる舗装された道と、木々の点在する緑に溢れた丘。三手のうち左の道の先にはさとりやこころが迷い込んだ森があるらしく、さとりとこころは互いにほぼ同時にそちらを一瞥してしまう。そのことに気づいて二人して目を合わせ、さとりは小さく笑った。
空高く、少し西側にそれた位置から爛々と降り注ぐ太陽が、草木や野花に元気を与えているように見えた。
「さて、行きましょうか」
「よしっ、やってやるぞ! おー!」
三手の道を右側へと進むと、道中に初心者用の小さな洞窟があると言う。メールでこころと相談し、事前に決めていたそこへ行くために、さとりとこころはともに歩き出した。