キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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05:寄生する奇病

「疑似体験って……どういう事なんですか、それ……」

 

 教会の空き部屋の一室。か細い声でクラインが呟くように尋ねる。あの後、俺達はクラインを連れて第1層へ行き、イリスの下を訪れた。イリスは珍しく自室でリラックスしており、忙しそうには見えなかったため、急患と言ってやるとすぐさま対応してくれて、クラインの診察を始めてくれた。

 

「だから、君の言ってた現象……体験は全て偽物の記憶なんだ。君は何らかの事情によって有りもしない記憶を植え付けられて……自分では目覚める事の出来ない夢を見せられていたんだ」

 

 まるでまだ夢を見ているかのようにクラインは呟く。

 

「嘘だ……そんなわけが……」

 

「じゃあ、私の質問に答えて。奥さんの名前は? 娘さんの名前は? 奥さんとはいつ知り合っていつ結婚した?

 娘さんはいつ生まれて、今何歳? 娘さんの名前を決めたのはどっち?」

 

 イリスは淡々と問いかけるけれど、クラインは全く答える事が出来ない。普通ならば、妻や娘の名前など真っ先に出てくるだろうし、娘が何歳かも、妻とどこで知り合ったのかもわかるはずだ。なのに、クラインは戸惑っているかのような表情をしてるだけで何も言わない。

 

「じゃ、じゃあ、娘の写真は……娘の写真を見れば、すぐにわかる……」

 

 俺はイリスに近付き、例の写真を手渡した。その中身を確認してから、イリスは隣に座るクラインに差し出した。クラインはイリスから写真を掻っ攫うように取り、その中身を確認したが――そこで驚愕したような顔をした。

 

「……あ……れ……」

 

「それが娘の写真だって君が言ってたものだよ。何が映ってる」

 

「確かに、確かに、映ってたはずなんだ。俺の娘が、天使みたいな、俺の娘が、あ、あ…………!」

 

「じゃあ、その子の名前は答えられるはずだよ。でも、君はこうして答える事が出来ない。――君は、夢から醒めて戻って来たんだ。幸せな記憶が偽物だったなんて最悪だ……気の毒に」

 

 クラインは目の前の写真を握り潰し、そのまま額に付けて、歯をギリギリ言わせながら泣き出した。

 

「うぅ……ぅうわ……あ、あぁあぁ…………!!!」

 

 その様子を見ているだけで、クラインの中に絶望、悲しみ、痛み、怒りが混ざり合った感情が渦巻いている事がわかり、胸に無数の針が刺さったかのような痛みを錯覚した。

 

 イリスはそんなクラインの身体に手を伸ばし、そのまま横から抱き締め、その背中をゆっくりと撫で始めた。――イリスが他の精神科医はやらない事をやる医師だとわかる瞬間だ。

 

「イリス先生、クラインは……」

 

 普段診られている患者であるシノンが問いかけると、イリスは静かに言った。

 

「攻略になんか行けないよ。今日の攻略はディアベル君辺りに任せておいて……クライン君はこのまま休ませておいた方が良い。ひとまず、落ち着くまでね」

 

 確かに今のクラインは狼狽しきっていて、心にかなりの傷を負わされて精神的に参っている状況だ。とても刀を握って戦えそうにない。今までクラインを支えてきてくれた仲間達の下でしっかりと休ませてやるのが先決だろう。

 

「という事だ。風林火山の皆、ギルドリーダーを頼めるね」

 

 風林火山の武者達は頷き、じっとリーダーの武士に顔を向けていたが、その表情はとても悲しそうなものだった。しかしそんな表情を浮かべているからこそ、俺はクラインをこの人達に任せても大丈夫だという実感を得る事が出来ていた。

 

 それはイリスも思ったらしく、イリスはそっとクラインから離れると風林火山の者達を呼び寄せてクラインの傍に居させ、音無く立ち上がり俺達の下へやってきた。

 

「……話は私の部屋で聞こう。ついておいで」

 

 俺は泣いているクラインが気がかりだったけれど、詳しい話を聞くためにはイリスに付いて行くしかなかったため、クラインに何も声をかける事無く、俺、シノン、リラン、アスナの四人はイリスの後を追って部屋を出た。

 

 まだ昼過ぎの明るい廊下を歩き、いつもの部屋の前に辿り着く。自宅程ではないけれど、もはや俺達からすればイリスの部屋は入り慣れた部屋になっている。

 

 イリスに扉を開けてもらって中へ入り、見慣れた家具達を見回しながら、いつもイリスに座らされている柔らかいソファに、俺、シノン、アスナの順に座り、リランが俺の膝の上に降りる。その対岸にイリスが座り、軽く溜息を吐いた。

 

「……彼は本当に気の毒だよ。彼にとって素敵な恋人が出てきて、その人と結婚をし、夫婦生活を満喫したうえで娘を産み、そして育てていくっていうのは、至高の夢だったみたいだからね」

 

「それはあの落ち込み具合からしてわかります。でもイリスさん、クラインは一体どうしたっていうんですか」

 

「それは最初に言っただろう。彼は現実世界に妻と娘がいるっていう疑似体験をさせられてたんだよ」

 

 アスナが少し気難しそうな顔をする。

 

「先生、その疑似体験っていうのがわからないのですが……」

 

「おや、そこからかい。まぁキリト君は詳しそうだけど、シノンとアスナは疎そうだしね。そこから教えるとしようか」

 

 イリスはそう言って、アイテムウインドウを操作してカップとティーポットらしきアイテムをいくつか呼び出した。そしてそのままティーポットを掴んでティーポットの口をカップの中に傾けると、ポットの口からはこぽこぽと赤色の暖かい液体、即ち紅茶が落ちてきて、カップの中を満たした。

 

 その動作を一つ、また一つと繰り返し、四つのカップを紅茶で満たして、そのうち三つを俺達の下へ差し出した。

 

「紅茶だ。ちょっと飲んでごらん」

 

「何でこんな時に紅茶なんですか」

 

「いいからいいから」

 

 俺は少し腑に落ちなかったけれど、ひとまずイリスの指示に従い、三つのうちのひとつを手に取り、中身を口の中へと流し入れて、そのまま呑み込んだ。混ざり気のない紅茶の味が口の中いっぱいに広がり、腹の中に温かい液体が落ちて行く感覚が走る。

 

 そんな感覚を少しの間だけ楽しんだあとで、顔を戻してみたところ、イリスはいかにも教師らしい表情を浮かべて俺達を見つめていた。

 

「君達は今、疑似体験をしたよ」

 

「え?」

 

 シノンとアスナが首を傾げるが、俺は既にイリスの言いたい事がわかっていた。

 今、俺達はイリスに言われて紅茶を飲んだけれど、実際の俺達の身体は紅茶を飲んでいるどころか、病院のベッドで寝たきりになっている。つまり、現実に俺達は紅茶を飲んでいるのではなく、飲んだような体験をしているだけだ。現実に起きた事ではない事を、本物に極めて近い感覚を体験する――これが疑似体験というものだ。

 

「俺達はこうして紅茶を飲んだけれど、実際の俺達の身体は紅茶を飲んでいない。つまり俺達がやっているのは、現実に起きた事でない事を現実に近しい形で体験している事って事だ。まぁようするに、やってるけどやってない、飲んでるけど飲んでない、そんな感じ」

 

「あ、うん……」

 

 いまいち感覚がつかめてないシノンにアスナ。今まで接して来たからわかっているけれど、この二人はこういう言葉にかなり疎いし、理解力も低めだ。そんな二人を見ながら、イリスが軽く下を向く。

 

「つまりあの時のクライン君は、奥さんと娘がいるという、現実にはあり得ない体験をしてたんだ。しかもこの疑似体験の世界を上書きする形でね。君達は最初驚く一方で気が付かなかったみたいだけれど、キリト君のところのリランが、気付いて治療したみたいだね」

 

 あの時、リランはクラインに寄生虫(むし)が付いていると言って、項に噛み付いた。その直後に、クラインはまともにものが見える状態になり、あんなふうになってしまったのだが……俺は、クラインの外観に異変があったようには見えなかった。

 

「そうだな……リラン、お前の目には何が映ってたんだ」

 

《我の目には、クラインの背中から異様な黒い蠢きが出ているのが見えていた。ゆらゆらと蠢いていて……まるで寄生虫のようだったぞ》

 

「寄生虫……疑似体験を寄生虫に例えるとは、ずいぶん面白い発想を持ったAIだな君は。あ、いや、君には本当にそうふうに見えているのか。そして君はその寄生虫を取り払うために、虫下しをクライン君に投与した」

 

「疑似体験が……寄生虫によるもの?」

 

 恐らく実際は違うんだろうけれど、イリスとリランの例え話に食いつくアスナ。そんなアスナを横にしながら、シノンが腕組みをする。

 

「クラインに寄生虫みたいなのが寄生してて、それがクラインに疑似体験を与えてたって事? まぁ確かに寄生虫は宿主の脳に影響を与えて操る事もあるわね……カマキリに寄生するハリガネムシ然り、カタツムリに寄生するロイコクロリディウム然り……」

 

「はっ、ハリガネムシ? ロイ、ロイコ?」

 

 シノンが何かに気付いたような顔になって、アスナに向き直る。

 

「アスナ。間違ってもこの両方を検索にかけないでね。ものすごくグロテスクな生き物だから」

 

「ご、ごめん、ハリガネムシしか聞き取れてないわ……」

 

 イリスはそんな二人に目もくれず、リランに顔を向け続ける。

 

「私はその虫下しの正体が気になってるんだけど、何をしたんだい、リラン」

 

 リランはどこか戸惑ったような《声》を出す。

 

《我にも、よくわからぬ。ただ、あの時どうすればクラインの寄生虫を消す事が出来るのかがわかっていた。だが今はもうわからぬ。何故あんな事が出来たのか、我が聞きたいくらいだ》

 

 イリスはリランに向き続けながら、少しだけ姿勢を変える。

 

「私はつくづく君のイレギュラー性というものが気になってたよ。カーディナルに抹消されそうになったユイを切り離し、今回疑似体験に当てられたクライン君を助けて見せた……君は一体何者なんだい、リラン」

 

 リランは首を横に振った。

 

《我は竜ぞ。我は……竜、ぞ》

 

「……まぁ、そうだろうね。君はキリト君のパートナーであり、<使い魔>。その事実があるだけという事だね。私も現実に帰ってみなければ、君の事は理解できそうにない」

 

 ぼそりとイリスが呟くと、俺はふとある事を思い出して、問いかけた。

 

「……イリスさん、クラインの件ですけれど、これってあの時にそっくりじゃないですか」

 

 イリスは俺の頭上のリランから、俺の方へ顔を向け直す。

 

「今はリランの事よりも君達の事、事件の事だね。確かに、今回の事件はサーシャとミナの時によく似ている。違いは疑似体験を埋め込まれているかどうか、だね」

 

「はい。俺はこれを、同一犯によるものだと思うんですが、イリスさんもそう思ってますか」

 

「間違いないだろう。クライン君をあんなふうにした連中と、サーシャとミナを連れ去った連中は同じと考えていい。犯行のやり方としては、クライン君を連れ去り、何らかの方法で疑似体験を植え付けて、サーシャ達の時と同様にその間の記憶を消し、戻すってところだろう。そしてそんな事を行う奴らの名は、私は《ムネーモシュネー》だと思うのだけれど……最近そいつらの事を目撃したかい、キリト君」

 

 サーシャとミナにあんな事があって以降、俺は犯人が《ムネーモシュネー》であるとひとまず断定し、奴らの捜索と警戒を促して攻略を続けてきた。しかし、事件からひと月経ったというのに、未だに奴らの事はわかっておらず、そればかりか、再度奴らを見つけられてもいない。

 

 クラインは疑似体験の寄生虫に付かれる前に、そいつらはもう勝手に潰れたんじゃないかと言っていたけれど、今回で判明した。奴らは多分、まだ生きていて、俺達の知らない、プレイヤー達の目を掻い潜れる場所で暗躍している。

 

「いいえ。ですが俺も《ムネーモシュネー》によるものだと思ってます。決め付けがましいかもですけれど……」

 

「ふむ、私と同意見ってところか。そして、私の勘が当たっているのであれば、奴らは悪い意味でスキルアップしているね。まるで年々変異を繰り返すインフルエンザウイルスみたいに」

 

 ひと月前の事件の時には、カーディナルにかなりの負荷がかかり、ストレアとユピテルが苦しむ羽目になったが、それは同時に、この世界のプレイヤー達の間に何かあったという証拠になっていた。

 

 しかし今回、クラインがあんな事になったというのに、カーディナルは何の異変も起こさず、ユピテルもストレアも平然としている。これが同一犯によるものであれば、そいつらはカーディナルに異変を起こさせずに何かしらの行為に及ぶ事に成功できている。

 

「そいつらってもしかして、カーディナルに気付かれずに、そう言う事が出来るようになたって事よね」

 

 シノンの問いかけに俺は頷く。

 

「そうだ。あいつらは何かしらして……クラインを苦しめる事が出来てる。カーディナルに気付かれず、MHCPなどに何の影響も与えないように……」

 

 アスナが焦ったように俺に声をかけてくる。

 

「そんな、大変だよ! もしこれがわたし達の知らないところで広がってるなら――!」

 

 その時、静かではあるものの、よく響くイリスの声が俺達の耳に飛び込んだ。

 

「もう、リランの言う《疑似体験の寄生虫》で世界は溢れかえってるかもね」

 

 全員でイリスの方に顔を向ける。

 

「な、なんだって……」

 

「だってそうだろう。クライン君はきっと氷山の一角だ。《疑似体験の寄生虫》をプレイヤーに施せる者達がいて、尚且つそれがカーディナルに見つかる事なく動く事が出来ているという事は、既に《疑似体験の寄生虫》はこのアインクラッド中の数多くのプレイヤーに植え付けられているかもしれないんだ。しかもそれはリランにしか気づく事が出来ない。

 もっとも、《疑似体験の寄生虫》に気付く事の出来るリランが何も反応してないって事は、君達に寄生虫はくっ付いてないって事の証明だけどね」

 

 その言葉を受けて、背筋に冷たい衝撃が走る。

 

「じゃあ、今アインクラッドはクラインみたいな連中で溢れかえろうとしてるって事なんですか……?」

 

「そうなるね。それこそ、《疑似体験の寄生虫》に取り憑かれた連中は、寄生虫の思うがままに動き続ける事になるだろう。そして、それは寄生虫の産み主にとって都合のいい動きだ。

 何らかの方法でプレイヤーに《疑似体験の寄生虫》を植え付け、プレイヤーは実に様々な事柄を疑似体験させられ、最終的に植え付けた者に取って喰われる……」

 

 イリスは顔を半分手で覆った。

 

「まるで鳥に喰われるためにカタツムリを徹底的に操る寄生虫……ロイコクロリディウムだな。しかもプレイヤーがカタツムリときてる」

 

「ま、またロイコ……」

 

 長い名前なせいで覚えられないんだろう、アスナが少し戸惑ったような顔をすると、シノンが咄嗟に付け加える。

 

「あぁアスナ、現実に帰っても検索しないようにね。本当にグロテスクな生き物だから」

 

「え、えぇ」

 

 そんな二人を見つめながら、イリスは紅茶の入ったカップを手に取った。

 

「恐ろしい話だ。今見ているものが真実なのか、《疑似体験の寄生虫》によって見せられている疑似体験なのか……その差が曖昧になり、わからなくなる。しかもそれは、自分自身では気付く事が出来ない。そして駆虫薬(むしくだし)はリランのみ……最悪の状況だ」

 

 《疑似体験の寄生虫》。そんなものが、このアインクラッド中に広がったりしたら、それこそ《笑う棺桶》の時とは比べ物にならないくらいの恐怖とパニックが蔓延し、攻略どころではなくなってしまうだろう。

 

 ……いやそもそも、イリスの例える《疑似体験の寄生虫》が疑似体験をプレイヤーにさせるのであれば、攻略している光景すらも疑似体験である可能性さえ浮かび上がる。

 

 そうなった場合、駆虫薬(リラン)を使わなければ、本当に攻略できているのかすらもわからなくなってしまう。これら恐怖の現象が、人為的に起こされている事ならば――何としてでもそいつを潰さなくてはならない。それこそ、《笑う棺桶》の時よりも更に徹底的な殲滅戦を仕掛けて。

 

「今も尚、疑似体験の犠牲者みたいなのが出てるって事なのか……?」

 

「あぁ。しかもこのアインクラッドの中で駆虫薬であるリランを持っているのは君だけだ。もし、リランが寄生虫の気配を感じたならば、君がリランに指示を下して、プレイヤー達から寄生虫を引き離し、疑似体験から解放してやる他ない」

 

 アスナが戸惑った顔になる。

 

「そんな、攻略もあるっていうのに、プレイヤー達の事も助けなきゃいけないなんて……」

 

 普通に考えればこれ以上ないくらいにきつい任務となるだろう。だけど、リランが疑似体験させられているクラインを助けたのは確かだし、リランが駆虫薬の役目を持っているのであれば、それを利用できるのは俺だけだ。俺が何とかするしか、無いのだ。

 

「……やるよ、俺」

 

 




クラインの真実。

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