キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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多分今までで一番ヤバげな回。


09:宿痾の蠢き

           □□□

 

 

 突如として現れた白い仮面の人間。合成音声を使い、白い鎧とローブに身を包んでいる事によって男か女かわからず、人間としか呼称できない存在。

 その人間はやってきたキリト達にナイフを投げつけて麻痺状態にし、その身動きを完全に封じたところで接近を開始した。その際、ユイがシノンを守ろうと飛び出してきたが、それさえも人間は取り払い、シノンのすぐ目の前にまでやってきていた。

 

 自分達に手を出せばいいのに、子供であるユイに手を出した――その光景を目の当たりにしたシノンは、すぐにでも動き出して、短剣でその首を抉ってやりたかった。しかし、そんなシノンの思いと怒りさえも、SAOの麻痺状態は叩き伏せた。

 

 そして、ユイを跳ね除けた人間は懐に手をやり、やがて引き抜いた。自分達の聖域を侵した愚者を屠るための刃物は如何なるものなのか、《笑う棺桶》のそれよりも凶悪なものなのではないかと思ったシノンは、その手に握られている武器を目の当たりにした途端、足の先から頭の先まで凍り付いた。

 

 人間の持っている武器は、この世界に存在するはずのない、拳銃。剣とその他刃物と、弓矢だけがプレイヤーの武器として存在しているこの世界に、存在してはならないはずの拳銃を、目の前の人間は持っている。

 

 それだけではない。白き人間が懐から銃を引き抜いた際に、ちらと拳銃のグリップ部分がシノンの目の中に映り込んだ。滑り止めのためのざらざらとした質感の全金属のグリップ部分と、そこに刻まれている紋章。

 

 円の中にある星のマーク。黒き星――《54式黒星》。そう、あの日の、あの時の、忌まわしき銃と同じ銃。

 

「あ……あぁ……あ、あ……」

 

 身体中の痺れが大きくなり、耳の中が心臓の音で埋め尽くされ、喉からか細い声が漏れる。

 

 愛する人との、親しい人々との暖かな日々によって封印されていた記憶が、治ろうとしていた《宿痾》が、()()の中で目を覚まし、動き出す。《宿痾》が動く度に頭の中があの記憶で支配され、完全に身体の動きを奪い尽くされる。

 

「シノン、シノンッ……!」

 

 銃を向けられているシノンへキリトが叫ぶが、シノンの耳には何も届かない。聞こえてくるのは心臓の音だけ。

 

 そしてその目は、あの忌まわしき銃の銃口に向けたまま動かす事が出来ない。目を離したい、見たくないと考えているのに、身体は言う事を聞かない。――じっとただ、銃口の奥を見つめるしか出来ない。

 

 その銃口の奥に一人の男の顔があった。――あの時、銀行に54式を持って強盗に入り、客だった詩乃の母親を撃ち殺そうとしたあの狂人。まだ幼かった詩乃が飛びかかり、拳銃を奪い取り、結果として射殺したあの狂人の顔が、銃口の奥に浮かび上がっている。

 

 まさか、ここにいたというのか。この世界に迷い込んだ自分を追って、ここまでやってきた、そしてこの時を迎えたというのか。そしてあの時の自分と同じように、拳銃で撃ち殺そうとしているというのか。

 

 いや違う。あいつは生きていたのだ。

 

 自分への復讐を成し遂げるために鬼となって、この世界に潜み、ずっと復讐の機会を伺い続けていたのだ。良いものに浸って記憶を忘れようとしている自分を、じっと影から観察して、監視し続けて。

 

「ぐ、ぐぅぅ……」

 

 どんなに身体を動かそうとしても、身体の痺れが強すぎて動く事が出来ない。きっと、あの男がこの時のために周到に用意していたのだろう。自分をここまで追い込んで、自分のいる場所と同じ場所に引きずり込むために。そう、この麻痺は、この男が自分を殺すために用意していた鎖なのだ。

 

 あの男を見に宿す白き人間は、白き鬼はじっとシノン(詩乃)に銃口を突き付け続けて、バレルを引き、縦走内部の銃弾を本体の中に込めて、引き金に手を指にかける。そしてあの時の復讐を果たすべく、引き金を引いた。

 

「――――――ッ!!!」

 

 ずどんっという、忌まわしき破裂音と共に銃弾が吐き出された。

 

 詩乃はそれが自分に当てられたと思い込んで、身を縮めていたが、銃弾が当たったような痛みは一向に来なかった。それが激しい違和感となり、身を縮めるのをやめて詩乃は無意識に近しい形で右を向いた。銃弾がめり込んだような、小さな穴が床に開いていた。

 

 白き鬼は発砲した。この世界で初めて、拳銃を発砲した。だが、弾丸は詩乃ではなく、詩乃の頭から見て右方向にある床の中にめり込んで、そのまま消えた。

 

 ――撃たれなかった。撃たれずに済んだ――そんな確信と小さな安心感を抱いた詩乃の中で、同時に膨大な恐怖が溢れ出てきて、瞬く間に心を満たして安心感と確信を消し去り、目を覚ました《宿痾》に栄養を与えた。

 

 栄養を受け取って喜んだ《宿痾》の叫び声を、詩乃は代弁した。

 

「嫌ぁあぁぁああああ゛ぁぁぁ゛ッ!!!」

 

 まるで小さな子供に戻ってしまったかのように、詩乃は叫び散らし、鎖に縛り付けられた身体を動かそうともがく。

 

 そんな事をすれば、銃に並みならぬ恐怖心を抱いている事を悟られてしまうと言うのに、詩乃は叫ぶのをやめる事が出来ない。心の中の恐怖を、叫びとして吐き出さずにはいられない。たとえそれが、愛する人が見ている中だとしても。

 

 撃たれる。

 

 撃たれる。

 

 撃たれる。

 

 次は撃たれる。

 

 次は撃たれる。

 

 次は撃たれる。

 

 助けて。

 

 助けて。

 

 助けて。

 

 助けて。

 

 心の中で溢れ出続ける言葉を全て、詩乃は叫び声にして発する。もはや、詩乃の中に叫び声を止めなくてはなどという考えは、生まれなかった。

 

「……!」

 

 無様に叫び散らす対象を、白き鬼は冷酷に眺めているが、やがて眺める対象を少女から手持ちの銃へと移す。光を浴びて黒銀に輝く銃身をしばらく見つめた後に、白き鬼は仮面の内側で笑んで再度銃口を少女へと向けた。

 

「なるほどな……これはいいじゃないか」

 

 そう、仮面の隙間から声を漏らした直後、白き鬼は再度引き金を引いた。ずどんっという破裂音が、《疑似体験の寄生虫》の卵が沢山植え付けられている部屋の中に再び木霊した。

 

 火薬が爆発し、弾丸が放出される――その先にあったのは、詩乃の左手首。

 

 弾丸が左手に突き刺さったその時に、詩乃は猛烈な痛みを感じたかのように、声にならない叫び声をあげるが、白き鬼はもう一度引き金を引き、同じ場所に銃弾を浴びせる。次の瞬間に、詩乃の左手首が腕から引き千切られた。

 

 勿論、現実に腕が千切れたり、四肢が欠損したりしたわけではない。この世界では、部位欠損という状態異常が存在しており、同じ部位を何度も攻撃されたり、切断されたりすると陥る事がある。

 

 しかし、現実の様にそのまま一生部位がなくなってしまうわけではなく、一定時間経てば元に戻るようになっている。痛覚の方だって、ダメージを受けた時と同じように不快感が走るだけで、実際に痛んだりするわけではないのだ。

 

 普段の詩乃だったならば、部位欠損状態になっただけだと冷静に分析し、回復を待つ事が出来ただろう。だが、今の詩乃にそれは出来ず、本当に左手を千切られたとしか思えなかった。不快感も、本物の痛みと錯覚している。

 

「あ、あぁ゛、ああ゛、ああああああッ」

 

 身体が欠損する感覚に見舞われた詩乃は、声に出せる叫びと声にならない叫びを混ぜ合わせたように声を出す。

 

 これはきっと、あの時あの鬼の腹に銃弾を撃ち込んだ時のそれだ。あの時の報復として、この鬼は自分の左手を引き千切ったのだ。

 

「ぁ、ぁぁぁぁぁ、ぁ」

 

 もはや叫ぶ事すらできなくなりつつある詩乃は、か細い声を上げる。しかし、白き鬼の怒りはまだ収まらず、次の標的として詩乃の右脚を狙い、怒りと報復を込めた弾丸を撃ち込む。一度目の破裂音で詩乃の右脚が弱くなり、二度目の破裂音で詩乃の右脚が砕けて消える。

 

「――――ッ」

 

 もはや何度目かわからない痛みと感覚の消失に、詩乃はひゅぅひゅぅという喉からの音を出す事しか出来なくなっていたが、その中では、これの理由がわかっていた。右脚はあの鬼の肩に撃ち込んだ時の報復だ。あの時の報復として、鬼は右脚を持って行ったのだ。

 

 そして、三回目の射撃で、自分はあの鬼の命を奪った。その時と同じように――三回目の報復を成すべく、目の前の白き鬼は銃を向けている。その先にあるのは、額。

 

 この白き鬼が次に引き金を引けば、自分の額が貫かれ、命がなくなる。もうじき、あの鬼の報復は完了となり――その瞬間を夢見て、銃口の奥にいる鬼は微笑んでいる。

 

[さァ、こッチに来イ]

 

 あの時の混濁した声が再び耳元に届く。もうじき、あの鬼の居る場所へ、鬼と同じ場所へ連れて行かれる。この世界からも、現実世界からも抜け出して、鬼の居る世界、即ち地獄へ連れて行かれてしまう。

 

「いや、い、いや、いやぁ、やあ、いやあああ、ぁぁぁああ……」

 

 麻痺の鎖で縛り付けられた身体。詩乃は唯一動く部位である首を懸命に横に振る。視界は溢れ出る涙のせいでぼやけているが、煙を出している銃口と銃身、そしてその奥に座するあの鬼の顔だけはしっかりと見えている。

 

 その鬼から逃げられる方法を、詩乃は無意識のうちに考え出す。心の中は恐怖で満たされているというのに、詩乃の頭は、無意識は通常の何倍もの速度で思考をし、やがて一つの言葉を組み上げて、詩乃の口と声帯を動かした。

 

「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……ごめん……な……さい」

 

 今まで、あの男が鬼となって現れて、腕や足を引き千切るような事など無いと思っていたからこそ、絶対に口にしなかった言葉。その言葉を一心不乱になって口にし続ける。もはや詩乃自身の意志など無い、詩乃の記憶が、心が、そしてその中に取り憑いている《宿痾》が、詩乃にそうさせる。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 

 白き鬼となって甦ったあの男は、詩乃に銃口を向け続ける。詩乃の謝罪の言葉など耳に届いていない。自分と同じ地獄へ、詩乃を引きずり込む最後の手順を踏もうとしているのだから。

 

 全身を麻痺の鎖で縛り付け、左手と右脚を引き千切り、完全に抵抗手段を無くした。後は額を撃てば、詩乃は地獄へ落ちる。その瞬間を現実にすべく白き鬼は詩乃の額に狙いを定め、引き金を引いた。

 

 次の瞬間、とてつもない轟音が鳴り響き、詩乃の宿痾の叫びを断ち切った。詩乃はついに訪れた瞬間を無意識のまま受け入れさせられ、ぎゅうと瞼を閉じて、自分の意識が消え果る瞬間を待った。

 

 しかし、いつまで経っても意識が消える事はなく、詩乃は大して思考が出来ないまま、目を開いた。そこにはあの白き鬼の姿はなく、代わりに白金色の甲殻に身を包み、背中から天使のそれを思わせる翼を四枚、ところどころに白金色の毛を生やしている巨大な狼竜だった。

 

 そう、愛する人キリトの相棒である、リラン。

 

「……ぁ」

 

 突然現れた狼竜に詩乃が声をかけると、狼竜はくるりと詩乃の方に向き直って顔を下げ、そのまま鼻先で詩乃の身体をひっくり返し、うつ伏せの状態にした。そして唇を少し捲って歯を覗かせると、静かに詩乃の小さな項に噛み付き、牙を食い込ませた。

 

 まるで電撃が走ったかのように詩乃の身体は一瞬びくりと跳ね、そのまま動かなくなった。

 

 その時すでに、詩乃の意識はこの場から消えていた。

 

 

           □□□

 

 

 愛する娘が傷付けられ、妻が滅茶苦茶にされる光景を見ているだけしかなかったキリト。もし、あの人間があのまま愛する人である詩乃に銃撃をしていたならば、詩乃はそのまま死んでいただろうと、心の中で思っていた。

 

 詩乃を助けたのは相棒のリランだった。リランはキリトと共に倒れていたのだが、キリトの何倍も早く麻痺から復帰し、狼竜に突進をぶちかまして壁に吹っ飛ばしたのだ。

 

 しかし、リランには状態異常から早めに復帰するようなスキルなど備わっていないはずだった。他のプレイヤー達と同じタイミングで麻痺状態に陥れば、ほぼ同じ時間拘束を受けて、やがて同じタイミングで起き上がる。

 

 この時点で、既におかしな現象が起こっているというのに、キリトは既にそれを気にする事など出来なくなっていた。

 

 リランが活動を再開し、人間を吹っ飛ばした直後にキリトはようやく麻痺から解き放たれた身体を猛スピードで動かし、倒れ込む愛する人――詩乃の身体を抱いた。

 

「詩乃……詩乃――――――ッ!!!」

 

 詩乃は既に意識を失っており、どんなに揺すってもその目を開く事はなかった。酷い恐怖に見舞われて涙を散らしたせいなのか、目の周りと頬に泣いた跡がくっきりと残っており――それと同じように、キリトの頭の中には取り乱して狂う詩乃の姿が映像となって流れ続けており、声は木霊し続けている。

 

「詩乃……詩乃……!!」

 

 詩乃の過去を知ったから、キリトの中には愚直な疑問があった。もし詩乃が拳銃を見たならどんな反応をするのか、という疑問が。

 その答えは今、自分が動けない中で再現された。突き付けられる銃から逃げようとするけれど、目を離す事が出来ず、そしてパニックを引き起こし、付き付ける人間を極度に恐れるというのが、結果だった。

 

「……くそっ……!!」

 

 あの時の詩乃はきっと、目の前にいた人間が、詩乃が撃ち殺してしまったという男に見えていたのだ。いや、もしかしたら、拳銃そのものが男に見えていたのかもしれない。

 

 あの男はもう死んだから、この世のどこにも存在しないし、この世界に入って来る事だって、ましてや詩乃に報復をする事も出来やしない。しかし、銃を突き付けられた詩乃の中では、あの男の報復の鬼となって甦り、襲い掛かって来たという妄想にも似た錯覚が起きていたのだ。あの時の詩乃の怯えは、それが原因なのだろう。

 

 どうしてあの時、このゲームのシステムに逆らえなかったのか。麻痺状態を食い千切って、詩乃の元へ駆けつけて、あの拳銃を、詩乃の中に生まれた報復の鬼を斬り殺してやる事が出来なかったというのだろうか――キリトは初めて、ゲームのシステムに逆らえなかった事を、従うしかなかった事を悔しく思い、あの時自分を拘束したシステムを憎く思った。

 

「……!!!」

 

 ……いやそもそも、あの白き人間が拳銃なんてものを取り出して詩乃を脅したりしなければ、詩乃はあんなふうにならなかっただろうし、詩乃が報復の鬼に襲われる錯覚なんてものを感じる事だってなかっただろう。全てはあの白き人間が原因だ。そればかりか、あの白き人間は怯える詩乃の身体を撃ち、左手と右脚を引き千切った。

 

 拳銃に深いトラウマを持つ詩乃に、拳銃で攻撃し、必要過多に脅し、怯えさせたあの人間。壁にめり込んでしまうくらいの威力のリランの攻撃を受けているが、それでは足りない。

 

 身体の中に溢れ出る激しい怒りをぶつけて、そのまま叩き壊したい。その命を叩き壊してやらなければ、もはや気が済まない。――その考えは瞬く間にキリトの中全体に広がってゆき、やがてそれですべてを満たしたキリトは詩乃を離して、両手に剣を握った。

 

 そのままキリトはふらりと振り返り、背後の壁、その中に埋まる白き人間をぎろりと睨みつけ、走り込む姿勢を取った。

 

「貴様……貴様ァァァァァァァァァァァァァァッ!!!」

 

 無数のプレイヤー達がベッドに寝かされる部屋の中をキリトは咆哮、雷鳴の如きその声を木霊させながら一気に床を蹴り砕き、人間目指して一目散に走り出した。頭の中は愛する人が苦しめられる瞬間が何度もフラッシュバックを繰り返しており、視界は怒りのあまり紅くスパークしているが、目標であるあの白き悪魔の姿だけはしっかりと映っている。

 

 先程は動けなかったが、衝撃のあまり気を失ったのか、今はあの人間が逆に動けない。今殺さないで、いつ殺すというのだ。

 

「があああああああアアアアアアアアアアッ!!!!」

 

 愛する妻を極限まで苦しめ、愛する娘に傷をつけた忌まわしき白き悪魔。キリトの身体は白き悪魔の元へすぐに到達し、モンスター達を狩る時と同じように剣に光を纏わせる。

 

 そして仮面で隠された顔に、鎧で覆われた身体の中の心臓に、もしくは、仮面と鎧の境目にある首に――命を一撃で奪う事の出来る場所にとにかく狙いを定めて、頭の中に描写される、悪魔を切り殺す瞬間を現実のものにしようとしたその刹那に――

 

《キリト、止せ!!》

 

 赤熱し、スパークする頭の中に聞き慣れた《声》が響いて、キリトは動きを止めた。両手に握った剣は、白き悪魔の首に当たる寸前の位置で停止していた。

 《声》は続いた。

 

《そいつを殺しては、ならぬ》

 

 キリトはぎりっと歯を食い縛って、《声》の主に振り返る。白金色の鎧のような甲殻と四枚の翼、大剣のような額の角と金色の鬣が印象的な紅い眼の巨大な狼竜の姿がそこにはあった。

 

「なんでだよ」

 

 狼竜――リランは答える。

 

《そいつはこの場でプレイヤー達に寄生虫を与えていた元凶だ。そいつが持っている情報は、お前が欲していたものだろう。そいつの持っている情報が欲しくて、ここにある情報を、真実を知りたくて、ようやくここに来たのだろう》

 

 確かに最初はそう思っていたかもしれない。だが、今のキリトはそんなものを欲しいとは思っていなかった。寧ろ、今はこの悪魔の首の方が欲しいと思っていた。

 

「もういらねえよそんなもの! こいつは、詩乃を……いや、そもそもなんでだよ! お前、動けたならなんでこいつを殺さなかったんだ!」

 

 狼竜の顔が一気に険しいものに変る。

 

《我だって何も見ていないわけではないぞ! そいつが詩乃を苦しめ、ユイを傷つける瞬間を見ていたのは同じだ。我だってなぁ、そいつの事を今すぐ噛み千切りたいところだ!》

 

「じゃあ噛み千切れよ! <ビーストテイマー>として命令するぞ<使い魔>! こいつを殺せ!! こいつを地獄に叩き落として鬼に許しを乞わせろ!!!」

 

《拒否する!!》

 

「なんでだよ!!」

 

 <ビーストテイマー>とその<使い魔>の口論。キリトとリランの組が結成されるまでアインクラッドではありえなかった光景が繰り広げられる中、小さな声がキリトの耳に届いた。

 

「パパ……リランさんの言う通りです……」

 

 聞き慣れた声色による言葉にキリトとリランはハッとして、声の方向に顔を向ける。強くぶつけてしまったのだろう、右肩を左手で押さえながらよろよろと歩いて来ているユイの姿がそこにはあった。その弱弱しい呼吸と千鳥足を目の当たりにしたその時、キリトは両手から剣を滑落させ、ユイの元に駆けつけて、その身体を支えていた。

 

「ユイ……お前……」

 

 父の身体に倒れ掛かりながら、ユイは小さく言った。

 

「ここは今までアインクラッドを混乱させてきた異変の原点です……そしてそこにいる人はきっと、この場所について一番情報を持っていると思われます……だから、その人は殺さないで……牢獄に閉じ込めておくべきです……それに……」

 

 ユイはそっと、部屋の奥の方に指を指した。娘の指の先に顔を向けてみたところ、見覚えのある大理石の台のようなものが設置されていた。

 

「あれは……第1層のコンソールか……?」

 

「恐らくあれが、先程まで操作されていたコンソールです……きっと、ここに関するすべての情報があそこに集められているはずです……一緒にアクセスしましょう、パパ……それに、わたしは歩けますから、わたしよりもママを守ってあげてください……ママはパパの背中にいる方が、安心できると思うから……」

 

 ユイの力ない声にキリトは頷き、ユイの手を引きながらゆっくりと歩いて、横たわるシノンの元へ行き、その身体を負ぶった。そのまま、狼竜の方に顔を向けて指示を送る。

 

「リラン、壁にめり込んでるそいつを銜えておけ。攻略組が応援に来たら、そいつの身柄を拘束させろ。この命令には従えるな」

 

《……承知した》

 

 狼竜から帰ってきた声を受け取ったキリトは、シノンの身体を負ぶったまま、ユイを連れて部屋の最奥に座する大理石のコンソールへ向かった。

 




宿痾(しゅくあ)→長く治らない病気の意味。劇中ではシノンのトラウマの事。

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