キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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13:暖かなる刻

           ◇◇◇

 

 

 アスナ、ユイ、ユピテルの三人は俺達が予想したよりも遥かに早く部屋に戻ってきた。ミトンに覆われたアスナの手には、白と緑色を基調とした小さな土鍋が持たされており、ほかほかとした湯気が蓋の小さな穴から出ているのが見えた。

 

「ほらシノのん、出来たよ」

 

 アスナは二人を連れながら、笑顔でベッド近くのテーブルに土鍋を置く。そのままアスナがそっと蓋を開けると、心地よい暖かさといい匂いを含んだ空気がふわりと舞い上がり、俺達は思わず土鍋の中に釘付けになってしまった。

 

 土鍋の中はシノンが頼んだものである卵を溶かしたお粥が満たしており、まるで銀の粒の様にきらきらと輝いている。現実世界でもこんなふうにお粥を見た事はあるけれど、俺の記憶の中に残る度のお粥よりも、これは美味しそうに見えた。

 

 風邪の時に出された時には、震えるほど喜べそうだ。実際、シノンの目もかなり輝いているし。

 

「美味しそう……こんなに美味しそうなお粥を見たのは初めてな気がする」

 

「俺も同じだわ。流石料理スキルカンストの人が作っただけある……」

 

 二人で瞠目している中、アスナがふふんと言った。

 

「実はそれ、わたしが作ったんじゃないんだよ」

 

 二人で一気に驚き、アスナの方に向き直る。そこでアスナは得意そうに、ユイの頭に手を置いた。

 

「実はユイちゃんが、ママのためって言って作ったの。わたしはあくまでその手伝いをしてあげただけだから」

 

「ユ、ユイが!?」

 

 二人でユイに顔を向ければ、そこにあるのは笑顔のユイの姿。

 

「はい。いつもはママが美味しい料理を作ってくれますから、今回はそのお礼ですよ」

 

「かあさんが監修してるから、美味しいよ」

 

 ユイとユピテルの言葉を受けて、もう一度俺達は玉子粥に目を向ける。てっきりアスナが作ったんじゃないかと思うくらいに美味しそうにできているけれど、作ったのは本人とアスナ曰くユイ。

 

 ――まさかユイがこんなに美味しそうなものを作ってしまえるなんて思ってもおらず、俺はひどく驚くと同時に、娘がここまで成長している事に喜びを感じる。

 

 直後、ユイはアスナから離れてシノンの元へ向かい、土鍋の近くに置いてある木製スプーンを手に取り、お粥を少量掬い取って、ふぅふぅと息を吹きかけて軽く冷まし、シノンへ声をかけた。

 

「はいママ、あーんしてください」

 

「えぇっ。それしなきゃ駄目なの」

 

 シノンは顔を少し赤くして戸惑う。あーんなんてものは、小さな子供が親にしてもらうような事だから、シノンがしてもらうにはあまりに年齢が大きすぎるし、何よりシノンはそう言う事とは縁のない生活を送ってきただろうから、流石に戸惑ってしまうのだろう。

 

「シノン、応じてやれって」

 

 声掛けすると、シノンは俺と目を合せてきたが、すぐさまユイの方に向き直り、ユイに応じる気になったのか、その口を小さく開いた。

 

「あー……ん」

 

 ようやく反応をもらえたユイは、そっとシノンの口の中へ木製スプーンの先端を入れ、シノンはすかさず口を閉じた。そして口からスプーンを抜かれると、シノンは口の中のお粥をしっかりと咀嚼し、下を向く。

 

「ん……んー……」

 

「どうですか、ママ。上手く、出来てるでしょうか」

 

 ユイが問いかけても、シノンは答えなかった。どうしたのかと思ったその時に、シノンの身体が小刻みに震え、目の元から大粒の涙が零れ落ちているのがわかり、シノンが今、どう思っているのかわかった気がした。

 そして、シノンの口はゆっくりと開いた。

 

「お……いしい……」

 

 シノンは顔を上げて、ユイと向き合った。その顔は、泣き顔と笑顔が混ざったようなものであり、身体の震えは嬉しさによるものだと理解する。

 

「ユイ……すご、く……美味……しいわ……」

 

 シノンは涙をこぼしながらゆっくりとユイの身体に手を伸ばし、そのまま一気に寄せて、力強く抱き締めた。一瞬、ユイの少し驚いたような顔が見えたが、シノンの胸に埋められた事により、すぐに見えなくなった。

 

「ありがとう、ありが、とう、ユ、イ」

 

 ユイはシノンの胸に顔を埋めながら、その背中に手を回す。

 

「どういたしまして、です」

 

 病気になった時に食事が出てくると言うのは、俺達にとっては当たり前の事。しかし、今まで一人きりでいたシノンからすれば、こうやって具合がよくない時に食事が出てくる事などなかっただろうし、そういう事を羨ましいと感じる時もあったに違いない。

 

 その、羨ましいと思う事しか出来なかった事が現実になっているというこの瞬間が、シノンはたまらなく嬉しいのだ。しかも今は、かつてのトラウマがぶり返してしまった直前だから、尚更嬉しく感じているのだろう。

 

「ほらシノン、ユイがせっかく作ってくれたんだ、しっかり食べろって」

 

 俺は木製スプーンを手に取って、お粥を掬い、息を軽く吹きかけた後に、ユイの身体を離したシノンへ差し出す。

 

「ほらシノン、あーん、だ」

 

 先程は少し抵抗感がある事を示していたシノンだったが、今はそんな事をせずに、素直に俺の差し出したお粥をはむっと食べて見せた。そこでもまた、シノンは微笑む。

 

「やっぱり美味しい。上手に出来たわね、ユイ」

 

「えへへ。でも、やっぱり決め手はアスナさんが手伝ってくれたのが……」

 

 そう言いながらユイがアスナに向き直ったその時、ユイはその顔を少しきょとんとしたものに変えた。何事かと思ってユイと一緒に顔向けすれば、そこにあるのは不思議そうな顔をしてこっちを見ているアスナ。

 

「あれ、アスナどうした」

 

「あ、いや……ねぇキリト君。貴方って、わたしにそういう事してもらったり、したりしてないよね?」

 

 あまりに唐突なアスナの言葉に驚く。俺はずっとシノンと一緒だったし、アスナと過ごした時間よりも、シノンと過ごしている時間の方が遥かに長い。だから、こういう事をした事も、してもらった事もない。

 

「何を言ってるんだ。話が読めないぞ」

 

 ユピテルがアスナを見上げる。

 

「かあさん、どうしたの」

 

「んーと、なんていうか……今の光景に既視感があるっていうか……わたしが今のキリト君がシノのんにやった事を、キリト君にやってあげた事があるような気がして、それで、わたしもキリト君にそういう事してもらった事がある気がするっていうか……」

 

 ユイが首を傾げる。

 

「既視感……デジャヴって事ですか?」

 

「そういう事だけど……変な話をしてごめんね。ほら、早く食べないと覚めちゃうよ、シノのん」

 

「お粥だからそんなに早く冷めないと思うけれど……わかったわ」

 

 少し腑に落ちなさそうだったが、シノンは頷いて、土鍋の近くにある茶碗を手に取ってお粥を盛り付け、それを木製スプーンで食べ始めた。流石に、もう俺達が食べさせてやる必要はないとわかり、俺は安心感が胸の中に溢れるのを感じ取る。

 

 やはりシノンはかなりしっかりしている娘だけど、その反面、脆く崩れやすい。この後何かあるようならば、前みたいな事が起こりそうになったその時には、俺がしっかりと守ってやらないと。そう思いながらシノンを眺めていると、ユイがシノンに声をかけた。

 

「早くよくなってくださいね、ママ。そしたらみんなで、22層の家に帰りましょう」

 

「そうだな。イリスさんは、シノンが良くなるまでここに居させるって言ってるから、シノンが良くなった事がわかれば、きっと帰らせてくれるよ」

 

 シノンはお粥を食べつつ、ユイと俺を交互に見ながら、小さく微笑んだ。

 

「……現実で病院生活をした時は、本当に辛かった。治るまで、すごく時間がかかった。

 でも、ここにはあなた達がいるから、すぐによくなれると思う。ありがとう、みんな」

 

 シノンから出た言葉に、俺達は思わず笑んで、頷いた。ここには現実にいた時からシノンが信頼していたイリスもいるし、MHCPであるユイとストレアもいるし、いざとなった時は彼女達の先輩AIであるMHHP、ユピテルもいる。ここはシノンの治療をするには、最高の施設ともいえる場所だろう。まぁ、子供達も一緒に居るわけだけど。

 

「俺達がいる事もそうだけど、今は休む事が先決だ。食べ終わったら寝た方が良いぞ、シノン」

 

「うん、そうさせてもらうつもり」

 

 そう言って、シノンはユイの渾身の力作であるお粥を食べ進めた。その様子を見つめながら、今後の事を頭の中で考えようとしたその時に、ユイが声をかけてきた。

 

「あ、そうですパパ。ちょっとお話があるのですが、よろしいですか」

 

「別にいいけれど、どうした」

 

「ここだとちょっとお話ししづらいので……廊下に出ましょう」

 

 ユイはアスナとユピテルに向き直る。

 

「アスナさん、ユピテルさん、ママとちょっと一緒にいてほしいんですが、よろしいですか」

 

 アスナは少しきょとんとしながら答える。

 

「構わないけれど……」

 

「ありがとうございます。それじゃあママ、ちょっとわたし達は部屋を抜けます」

 

 シノンは軽く驚きながらユイに目を向ける。

 

「えっ、どうしたのよユイ」

 

「ちょっとした用事です。5分以内に戻ってきますので、ちょっと待っててくださいね。

 それじゃあパパ、廊下に出ましょう」

 

 少しユイの考えが理解できなかったけれど、ひとまず話だけでも聞いておこうと思った俺は、ユイに連れられる形で廊下に出た。

 

 イリスも子供達も一階に行っているため、人の気配が全くしてこない、静寂に包まれた廊下。そこでユイは俺に振り返り、俺はユイに声をかける。

 

「それでユイ、話って何なんだ」

 

「実はですね……これを見てください」

 

 ユイは懐からノートのようなものを取出し、見せつける。その表紙というかそのノートそのものに、俺は見覚えがあった。

 

「これって確か……前に《ムネーモシュネー》の本拠地に忍び込んで、コンソールをいじった時に暗号化されてなかった情報をお前がノート化させたもの、だよな」

 

 あの時、ユイはどうにかしてデータのコピーを取ろうとしたのだが、如何せん暗号化されていたり、難しい記号などを多用されてる情報ばかりだったため、全部コピーする事は出来なかった。

 

 そこで、ユイはわかる情報だけをコピーし、ノートという形にして保存したのだった。これはその時に作成された情報ノートだ。

 

「そうです。ここには《ムネーモシュネー》の計画……と言っても、実験データとか内容まではコピーできませんでしたが、実験の名前や、実験が行われた日付が記してあります」

 

「それが唯一コピー出来た事だったもんな。それで?」

 

「ママの具合を見ながら、それを読んでいたりしたのですが、どうも気になる点が沢山ありまして……まずは、開いて一ページ目を見てください」

 

 俺はユイに言われるまま、ノートを開いた。そこには確かに、ユイが採取した実験データのタイトルや日付が書かれているが……特に変わっているような点は見られない。

 

「色んな日付やタイトルが書いてあるけれど、これがどうかしたのか」

 

「その日付です。実験が行われた日付を確認してみたところ、パパ達の身やこの世界で大きな異変が起きた前日もしくは当日に、《ムネーモシュネー》の実験が行われているんです。最初は……去年のクリスマスまで遡りますね」

 

「えっ……」

 

 ユイから飛び出した言葉に思わず驚く。去年のクリスマスと言えば、俺がリランと出会った記念すべき日であり、その翌日にシノンと出会った。いや、正確にはメディキュボイドの運用をしていたシノンとイリスが、ネット世界に手を伸ばしていたこの世界に巻き込まれてきてしまったんだ。

 

「去年のクリスマスって……確か俺は、その日にリランと出会って、その次の日にシノンと出会ったぞ」

 

 ノートを捲り、日付を辿っていくと、ユイの指定した日を本当に見つけた。詳しく見てみれば、そこには『2023年12月24日 ネットの海からの誘導実験Ⅰ 実行者《壊り逃げ男》』と書いてあった。

 

「本当だ……これはあの日の前日……あれが、《ムネーモシュネー》……《壊り逃げ男》によって引き起こされた事だって言うのか……!?」

 

 俺はてっきり、何らかのエラーが起こしたこの世界そのものが、ネットの海に手を伸ばして、別なソフトという全く別の島にいたシノンやイリスを拉致してきたものだと考えていた。しかし、この記録を見る限りでは、あれはこの世界そのものがやった事ではなく、《壊り逃げ男》がやった事だったとしか考えられない。

 

「その実験が行われたのは一回だけじゃないです。Ⅱ、Ⅲ、って実験は続けられてるんです。その日は……」

 

 まるで砂粒を探すように目を細くしながら、俺はノートを捲り続けたが、その過程の中で、先程の実験名にⅡ、Ⅲが付け加えられている部分を見つけた。Ⅱはユウキが俺達の元へ落ちて来た日、Ⅲはリーファがプレイヤー達に見付けられた時の日付になっている。

 

「まさか……ユウキとスグまで、《壊り逃げ男》が連れてきたっていう事なのか……!?」

 

「わたしも、それが偶然だとは思えないんです。ユウキさん、リーファさん、そしてママとイリスさんの訪問――これら全ては、《壊り逃げ男》の計画によって起こり得たものだとしか考えられません。しかもそれだけじゃないんですよ、パパ」

 

「まだ何かあるっていうのか」

 

 ユイは俺の隣に並んで背伸びをし、ノートを覗き込んだ。

 

「パパ達は、前に《笑う棺桶》を討伐しましたよね。その時の日付と実験が行われた日付も、合致している部分があるんです」

 

「な、なんだって!?」

 

 俺は思わず驚き、慌ててノートを捲りながら、あの《笑う棺桶》との戦いの日付を頭の中で思い出す。――そしてその日付を、ノートの中に見つけた。『殺人者達の排除・疑似信号実験Ⅰ 実行者《壊り逃げ男》』と書いてある。

 

「殺人者達の排除……しかもこれ、あの戦いの二日前じゃないか……まさか、あいつらも《壊り逃げ男》が!?」

 

「パパ、前にわたし達に話してくれましたよね。あの時の彼らはどこかおかしかったって……」

 

 ユイの言葉を受けて、俺はあの時の事を改めて思い出す。あの時、普段なら危険を感じて隠れていそうなPoHさえも飛び出してきて、異常に興奮しているかのように暴れ回り、リランの逆鱗に触れて、そのままリランの攻撃の餌食となって死んだ。

 

 普通なら絶対にしそうにない行動を起こしてそのまま死んだPoHと、完全にアインクラッドから殲滅された《笑う棺桶》。あの事件を受けて、俺はあの時のPoHや《笑う棺桶》がまともな精神状態ではなかったのではないかとずっと考えていたのだが……。

 

「!!?」

 

 そうだ。《疑似体験の寄生虫》だ。《ムネーモシュネー》がプレイヤーに仕掛け、このアインクラッド全体を混乱の渦に叩き落とした最大の要因。

 《疑似体験の寄生虫》に寄生されてしまったプレイヤーは、正常な信号を受け取る事が出来なくなり、感情や記憶を操作されて、まるで別人のようになってしまう事さえある。

 

 しかも《疑似体験の寄生虫》はビーコンの役割も果たしており、寄生されたプレイヤーの感情の動きや快楽、思った事、感じた事の全てがデータ化されて、《ムネーモシュネー》

の本拠地に流れるようになっていた。

 

 もし、あの時のPoHが、《笑う棺桶》の全員が《疑似体験の寄生虫》に寄生されていたのだとすれば――常人からは絶対に手に入れられない、殺戮の快楽、殺戮者の狂気と言った、レアアイテムに等しい感情や記憶の動きを手に入れるために、そう言った疑似体験をさせられて、いつもの判断が出来なくなっていたのだとすれば――。

 

「まさか……《笑う棺桶》は、《壊り逃げ男》の掌の上で踊らされていたっていうのか」

 

「恐らくですが、彼らだけが取れる方法で《笑う棺桶》の全員を捕縛し、《疑似体験の寄生虫》を寄生させて解き放ち、快楽のための殺人を最優先事項にさせる疑似体験を見せてパパ達を襲わせ、パパ達が討伐戦にやって来る前にさらにそれを過激化させて殺人衝動を完全に暴走させ、更に強い感情や記憶の動きを採取……用済みとなったところでリランさんに殺害させた……ってところなんでしょうけれど……」

 

 淡々と推測を喋るユイの姿に、俺はイリスの姿を重ね合わせる。ユイは俺達の娘として振る舞っているし、俺達もそう思っているけれど、やはりイリスが作り出したものだって事が、こういう部分でわかる時がある。

 

「って事は、リランの暴走も《壊り逃げ男》が!?」

 

「いいえ、リランさんの事については何も書かれていないようなので、リランさんの暴走と殺戮は、《壊り逃げ男》の予想を超えた出来事だったんだと思います。

 けれど《笑う棺桶》は自分の命さえも脅かしかねない存在であると、《壊り逃げ男》は理解していたみたいですから、あの場でリランさんが暴走しなかった場合は、《疑似体験の寄生虫》を使って……《笑う棺桶》の全員を自殺させたのではないかと推測できます……」

 

 散々利用し続けて、用済みになった上に危険だとわかったから、自殺させる……まるで、産卵のためにカマキリに寄生して脳を操り、水に飛び込ませて溺死させる、ハリガネムシの生態そのものだ。

 

「全部、仕組まれていたっていうのかよ……!?」

 

「わたしも信じられないです。しかもそれだけじゃないんですよ、パパ」

 

「まだあるのか……もうやめてくれ……」

 

「そうはいかないんです。マーテルの出現……あれも、《壊り逃げ男》がやった事なんです」

 

 俺は目を見開いて、あの時の戦いを思い出す。76層を超えた辺りから、モンスターやボスモンスターが姿を消すと言う怪奇現象が起こり、83層まで行ったところでその黒幕が動き出した。

 

 黒幕の正体は、イリスが最初に作り上げたMHHPであるマーテルが異形の姿に変異した存在、《ハオス・マーテル》。《ハオス・マーテル》は、層を登ってきた俺達を襲い、最終的に80層で俺達に倒され、消滅した。

 

 まさかあれさえも、《壊り逃げ男》がやった事なのか――ユイの言葉が信じられず、ノートを捲り、マーテルとの戦いが起きる前――いや、あの異変そのものが確認される前の日付を探したところ……見つける事に成功した。

 

 『NPCの研究・MHHP改造計画 実行者《壊り逃げ男》』という一文を。

 

「そんな……マーテルまでも、《壊り逃げ男》の掌の上で踊らされていたっていうのか……」

 

 もはや信じられない。俺達が経験して、全て叩き伏せてきた異変の数々。その全て《壊り逃げ男》の仕業だという事、そしてそれに巻き込まれた者達はすべて、《壊り逃げ男》の掌で踊らされていた哀れな道化だったという事。

 

 何もかもが、《壊り逃げ男》の仕組んだ事という真実。

 

「いや待てよ。まさかヒースクリフ……茅場も《壊り逃げ男》にやられたのか!?」

 

「多分そうなんじゃないかってわたしも思います。《壊り逃げ男》は様々な実験をこの世界で行っていくうえで、ヒースクリフを最も邪魔な存在とみなし、何らかの方法で排除を試み、それを成功させたのだと推測できます。なので、パパと戦っている最中に、剣と盾だけを残して消えたヒースクリフは、《壊り逃げ男》によってやられてしまったと考えるのが妥当だと……」

 

「って事は、茅場は、死んだ……?」

 

 俺の問いかけを受けて、ユイは俯く。

 

「そう考えるのが現実的だと思います。そして《壊り逃げ男》はあの場所で様々な実験を繰り返し行い、アインクラッドに異変を起こし、つい先日まで起きていた《疑似体験の寄生虫》の異変を引き起こしたんでしょう。実験は様々な結果の元成功し、次の実験に行こうとしたところでパパ達に見つかり、捕縛されました」

 

 そうだ、俺達は《疑似体験の寄生虫》をばら撒こうとしていた《ムネーモシュネー》の構成員を捕まえて本拠地に入り込み、そのまま制圧。シノンの心身に重傷を負わせた《壊り逃げ男》に打ち勝ち、牢獄にぶち込んで完全に幽閉した。

 

「ので、もうこれ以上の被害を出される事を懸念する必要はないかと思います。イリスさんの言う通り、牢獄は例えマスターアカウントを持っているような人でも、脱出する事は出来ないように出来てますから」

 

「……そうかな」

 

 俺はずっと、胸騒ぎを感じて仕方がなかった。確かに俺はあの時、《壊り逃げ男》を牢獄に幽閉させたが、相手はここまでの事を仕組めるような奴だ。

 

 俺達に捕縛されて、牢獄にぶち込まれる事さえも計算の範囲内であり、今頃牢獄を破る方法を成功させているのではないか……そんな事ばかり考えてしまう。

 

「パパ」

 

 娘の声で、俺はハッと我に返った。目の前にはノートではなく、娘の顔があった。ノートは既に娘の手の中にあり、顔は非常に真剣な表情が浮かべられている。

 

「パパ、不安になっちゃ駄目です。今のママを元気付けられるのは、わたし達と、パパです」

 

 ユイは続ける。

 

「ママの心は深く傷ついています。でも、わたしはママには元気になってもらいたいです。

 あの戦いに行く前の、優しくて元気なママでいて欲しいです。そしてママを元気付けられるのは、今言った通り、わたしやイリスさん、アスナさんやユピテルさん……その中でも最もママに近付けるのは、パパです」

 

「俺が、最もシノンの心に近い?」

 

「そうです。だからパパ、元気を出してください。パパだってママに元気になってもらいたいはずです。パパがそんなんじゃ、ママだって元気になってくれませんし、何より安心してくれません。ママの心を、癒す事は出来ません」

 

 ユイの瞳を見つめてきょとんとしていると、俺は手に温もりを感じた。いつの間にか、ユイが俺の両手を掴んでいた。

 

「だからパパ……そんなに不安にならないでください。パパは考えてしまう人ですから、考えずにいられないかもしれませんけれど、それでも、ママの前ではそういう事を考えるのやめて……ママとわたしとリランさんの事だけ考えてください」

 

 確かに、今のシノンは何とかなっているものの、いつ発作を起こしてパニック症状を起こしたり、極度の不安などに襲われてしまうかわからないような脆い状態だ。もし、俺が不安そうにしていれば、それはシノンに余計な負担をかけてしまう事に繋がるだろう。

 

 シノンの苦しみを、俺の手でなんとか出来るのであれば――その手を実行しないわけにはいかない。

 

「そうだな。シノンの方が不安だって言うのに、俺まで不安になってどうするんだ。

 こんな事してたら、いつまで経ってもシノンが元気にならないから、22層の家に帰れないな」

 

 俺はぎゅっと、ユイの手を握った。

 

「だけど、俺だけじゃママを元気付けるのは難しそうだから、手伝ってくれるか、ユイ」

 

「はい。一緒にママを元気付けましょう。それで、22層の家に皆で帰りましょう!」

 

 ユイの太陽のような笑顔を見た俺は、思わずその身体を抱き締めた。

 

 そうだ、俺が何とかしなければならないのは《壊り逃げ男》ではなく、《壊り逃げ男》に傷付けられたシノンだ。シノンの夫として、愛する者として……しっかりしなければ。

 

 そう思うと、俺の中に会った不安は消え去り、代わりにシノンと一緒に居たいと言う気持ちが溢れてきた。

 

 その気持ちに導かれるように、俺はユイの手を引いて、シノンのいる部屋に戻った。




《壊り逃げ男》の策略。

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