キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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16:初めての……

 シノンが着替えた事による効果というか、周囲の目はがらりと変わった。服屋を出たところ、仲間同士で歩いているもの、カップル同士で歩いている者達とすれ違ったりしたのだが、その時には大体の者が、「うわ、なんだあの娘、滅茶苦茶可愛い!」「待てよ、あれって血盟騎士団の団長と団長夫人じゃないか」と声を上げたけれど、俺達はそういうのには一切合財答えずに歩き続けた。

 

 しかし、そういう事を快く思わないのか、シノンは服屋を出たところから急に黙り出して、何も言わなくなってしまった。もしかして、具合が悪化したのかと思って声をかけたとしても、「大丈夫だから」と答えるばかりで、シノンは何も詳しい事を言ってくれなかった。

 

 イリスならば何とかできたかもしれないが、精神科医でもない俺では今のシノンを何も理解してやれない。けれど、もしこのデートが嫌な物ならば、即座にやめるべきだという事だけはわかり、試しにシノンに言ってみたところ、シノンは俺の言葉を受けたところで吃驚(びっくり)したような反応を示し、「やめないで」と首を横に振った。

 

 その時のシノンが余りに深刻な表情をしていた事に、俺も驚く事になったけれど、今回はひとまずシノンを優先するデート――療養のための散歩――である事を思い出して、シノンの願いを聞き入れる事にし、デートを続けた。

 

 だが、シノンはその後もあまり大きな事を言ったり、願ったりせずに街をただ歩き続け、夕食の時間になってレストランに入っても、無難なものを注文して黙々と食べるだけだった。

 

 所持金はそんなにきついわけじゃないんだから、もっといいものを頼んだっていいんだぞと言ってやっても、同じように「大丈夫、これでいい」と言うばかりで、何も変えようとはしなかった。そして、食事をする時以外、シノンは俺の手を絶対に離そうとはしなかった。

 

 そんな事を続けて夜の9時。俺達は80層の夜景を見た後に22層の家に戻ってきて、早速寝室に入り込んだ。家に帰って来たというのに、シノンは俺と手を繋いだまま離そうとはしておらず、月明かりに照らされている寝室の、ベッドに腰を掛けても、デートの時のままだった。

 

「……どうだった、今日の散歩というか、買い物」

 

 俺の隣に腰を掛け、その手をしっかりと握ったまま、月明かりを浴びているシノンは何も答えない。手を離してしまうと、そのままどこかに消えていってしまいそうなくらいに、今のシノンはどこか儚く見える。

 

「もしかして、楽しくなかった? 嫌だった?」

 

 シノンは首を横に振ったが、やはり何も言わない。

 

「急に何も言わなくなったけれど、どうかした」

 

 シノンは反応をやめる。

 

「……わからないの」

 

「わからない?」

 

 シノンは俯いたまま、言葉を紡ぎ続けた。

 

「今日の買い物、すごく楽しかった。こんなにいい服を買ってもらえて、美味しいものも食べさせてもらえて、何より、あなたに綺麗だって言ってもらえて、すごく嬉しかった。ひょっとしたら、この世界に来てから、一番楽しくて嬉しい日だったかもしれない。いいえ、すごく幸せだった。すごく幸せな日だった。

 でも、それを……信じられないの。信じたくても、信じられないの」

 

 シノンの言葉に思わず静かに驚く。今日、この服を着てからシノンはどこか落ち込み気味というか、声をかけてもあまり答えないような状態が続いていた。この事から、今日という日が余りに嫌だったのではないかと思っていたけれど、やっぱり、そういう事ではなかったらしい。

 

「信じ……られない?」

 

 シノンは頷いて、もっと深く俯く。もはや横顔すらも見えなくなる。

 

「私、ずっとこの世界に拳銃なんかないって、銃なんてどこにも存在しないって、そう思ってた。この世界に居れば、銃に襲われたりする事なんかないって、そう思ってた。だけどあの時、銃はこの世界にもあった事がわかった」

 

「いや、あれは《壊り逃げ男》が持ってきたものだよ。この世界に元からあったものじゃない」

 

 シノンは俺の言葉には何も返さない。そればかりか、シノンは靴を脱いでベッドに足を乗せ、そのまま三角座りの姿勢になる。けれど、俺の手は一向に放そうとしなかった。

 

「あの時現れた銃は……私を、夢から覚まそうとするものなんじゃないかって、思うの」

 

「君を夢から覚ます? 一体何を言ってるんだ」

 

 シノンは身体を縮こまらせる。

 

「……クラインのあの時の事、覚えてるでしょ」

 

「あぁ、《疑似体験の寄生虫》に憑かれて、奥さんと娘さんがいるって思い込んでたな……」

 

 その時に、俺はハッとして、シノンが今何を考えているかわかったような気を感じたが、ひとまずそれを呑み込んで、身体の奥底へ仕舞った。そして、シノンは続けた。

 

「……私って、本当にこの世界にいるの? 私って、本当にあなたの妻で、ユイのおかあさんなの? この日々は、あなたと居るこの瞬間は、本物なの?」

 

 やはり、と俺は内心思っていた。シノンは今、発作を起こした事により意識がぶれて、自分が今どこにいるのかわからなくなっているのだ。

 

 俺の事を良く思ってくれているシノンの事だ、恐らく今までずっとそうだったけれど、一緒にすごく俺に心配かけまいとして、じっと自分の中に閉じ込め続けていたのだろう。そしてそれは、俺が綺麗だとか言ったせいで余計に大きくなってしまったのだ。

 

「おいおいおいおい、何を言ってるんだよ。本物に決まってるじゃないか。君は確かにここに居て、ユイの母親で、俺の妻だ。それはずっと変わってないよ」

 

「そう……そう思いたい。でもね、そう思うと同時に、思ってしまう、考えてしまう。

 もしかして私は最初からこの世界に来てなんかなくて、ずっと現実世界で、この世界に来てあなたに出会って、幸せな日々を過ごしている夢を見ているんじゃないかって、ずっと幻視しているんじゃないかって……思いたくないはずなのに、あり得ないってわかってるはずなのに、考えてしまって……止まらなくなる……」

 

 これまでシノンはずっと辛い目に遭い続けて、幸せな日々を過ごした事なんてなかった。しかし、その中で突然シノンはこの世界へやってきて俺と出会い、様々な事を経て俺を愛してくれるようになり、俺との結婚も受け入れてくれた。

 

 そしてその時からシノンは、クールで冷静沈着ではあるものの優しく、穏やかになり、とても幸せそうに見えるようになった。いや、実際幸せだって何度も言っているのを聞いている。

 

 今までからすれば有り得ない、信じられないような幸せな日々はいつしかシノンの中で当たり前になり、日常に変わっていった。暗くて冷たい世界での日常がようやく終わって、暖かなる世界、幸せな日々が日常になったという現実。

 

 そのおかげで、傷付いたシノンの心は癒され、トラウマやPTSDの発作に苛まされる事もなくなっていった。自分が犯してしまった罪の事について、悩む事もなくなって、俺やユイとの日々をただ送る事が出来るようになった。――あの時まで、そのはずだった。

 

 《壊り逃げ男》が取り出したあの銃。シノンの心に傷を付けたものである、忌まわしき拳銃。それを目の当たりしたシノンの心の傷は瞬く間に開き、出血。更にトラウマという魔物が出てきてその心の傷を掻きむしり、更に大きなものへと変えてしまった。

 

 結果、シノンの中で大きな混乱が起こり、俺達との日々が自分の夢や幻なのではないかという、有り得ない疑惑が生まれ始めてしまっていたのだ。しかもそれを、クラインや他のプレイヤー達が苛まれた《疑似体験の寄生虫》の存在が助長している。

 

 自分が過ごした幸せな日々は、辛い日々に疲れた自分を守るために、自らが作り出した疑似体験なのではないか――話を聞く限り、今の彼女の中にはそういう疑惑と不安が起こり、それが徐々に大きくなりつつあるのだろう。

 

 彼女は今、ずっと嫌がっていた冷たい世界というものに、自ら戻ろうとしている。

 

 だけどそれは大きな間違いだ。シノンがこの世界で過ごしてきた日々は間違いなく現実だし、俺と出会ってこうして一緒に暮らして居る事も、イリスに診察をしてもらう事も、アスナ達と一緒にお茶をしたりするのも、ユイと一緒に買い物を楽しんだりするのも、家族皆で団らんとするのも、全てが真実だ。

 

 現にこうして、俺の目の前に、シノンは、朝田詩乃は存在している。彼女の存在は間違いなく現実の彼女と同じであり、夢でも、幻でも、ましてや疑似体験でもない。

 

 そして彼女が見ているこの世界、過ごしている日々もまた、すべて現実。夢なんかじゃない。

 

「私……私……やだ……やだぁ……こわい……こわいよ……」

 

 まるで小さな子供に戻ってしまったかのように、ついに声を震わせて泣き出したシノン――詩乃の手を一旦離して、その身体を引き寄せ、そのまましっかりと抱きしめる。詩乃の身体は小刻みに震えていたが、その震えを取り除こうと、俺は詩乃の頭をそっと撫でる。

 

「大丈夫だ。君が見ている、感じているものは全て真実だよ。現に俺の目の前にいる君は幻なんかじゃない。君は確かにここに居て、俺の傍にいるんだ」

 

「……本当なの……?」

 

「あぁ本当だとも。俺達はリランの傍にいたし、イリスさんっていう名医の傍にもいたから、《疑似体験の寄生虫》にやられてる可能性はゼロに等しい。そして君は、もう俺と半年以上も一緒に居る。半年以上も夢を見続けられると思うかい。それに君は今、何を聞いてる?」

 

 詩乃は何も言わなくなり、俺の胸に耳を付けた。俺達プレイヤーの生体情報は完全にここへ送られてきており、こうしてプレイヤーの胸に耳を当ててみたりすれば、心臓の音を聞く事が出来るし、首や手首などに手を当てれば、脈を感じる事だって出来る。

 

「……鼓動が聞こえる……あなたの、心臓(むね)の音……」

 

「それは生きていなければ、現実で無ければ聞く事が出来ないはずだよ。君が俺の胸の音を正確聞き取れているんなら、君は間違いなく俺の目の前にいて……この世界にいて、俺から音を聞いてるんだ」

 

 詩乃は俺の胸に耳を当てるのをやめたが、そのまま俺の胸に顔を擦り付けるような仕草をしてから、胸の中に顔を埋める。

 

「……けど……不安なの……怖くて、仕方がないの……」

 

 そっと髪の毛を、そして頭を撫でてやっても、詩乃の震えは中々収まらない。これも恐らくだけれど、今、詩乃はあの時ほどではないけれど、大きな不安と恐怖というものに襲い掛かられているらしい。そう、イリスが言っていた発作の小さなのが、詩乃の中で起こっている。

 

 次に、どんな言葉をかけようかと思ったその次の瞬間、詩乃は空いた右手でウインドウを操作し始めた。表示されているのはオプションウインドウであり、詩乃が操作を繰り返すごとにどんどん深層まで入り込んでいき、やがてある場所で止まった。

 

 そこは、倫理コードのオンオフを切り替える事の出来る場所であり、詩乃はそれを素早くオフにして、ウインドウを閉じた。いつもならば、詩乃がこうして倫理コードを切った時にはドキッとしてしまったものだが、今は口の中から「あぁ」という小さな声が漏れただけだった。

 

 そして俺もまた、詩乃に答えるべく、オプションウインドウを開いて深層まで進み、詩乃が選択したところ同じ場所を開いて、倫理コードをオフにした。今、俺は詩乃が一番最初に頼んだ事を成し遂げられる状態にある。

 

()()、いいんだな……」

 

 小さく声をかけると、詩乃は俺の胸に顔を埋めたまま、言葉を返してきた。

 

「……これしかないもの。これしか、あなたにこうしてもらう事しか、不安は消えないもの。あなたと一緒になって、あなたとすれば、忘れられるから、昔の事も、嫌な事も、こういう不安も怖さも、みんな。でも、あなたにこうしてもらう事でしか、私はこの気持ちに勝つ事が出来ない……ごめんなさい」

 

「謝る事ないよ。俺だって、嫌じゃない」

 

 詩乃は何も言わなくなって、俺の胸からそっと離れて顔を見せた。涙の跡がくっきり残っている、激しく泣いたばかりの顔。そんな顔のまま、詩乃は静かに言葉を紡いだ。

 

「……もう一つだけ、お願いをしていい?」

 

「何でも言ってごらん」

 

 詩乃は少し躊躇っているかのように軽く下を向いた後に、顔を上げた。

 

「あなたの名前を教えてほしい。この世界での名前じゃない、本当の名前を」

 

 その言葉を受けて、俺はハッとする。今まで俺はかつての名前を告げて、黒の剣士――途中からは黒の()剣士――キリトとしてこれまで戦い続け、生きてきた。このキリトという名前はこの世界で活動する上での仮の名前であり、本当の名前は別にある。

 

 そして詩乃の声を受けた事により、身体と心の中で再び目を覚ました事を、俺は自覚する。

 

 詩乃は一番最初に、この世界がSAOというゲームの中の世界である事を知らなかったがために俺に本当の名前を教えたけれど、俺は詩乃に本当の名前を一向に教えずにいた。いや、ひょっとしたら俺は本当の名前を忘れて、この世界ではないところでの生活を、どこか別な世界の出来事のように感じていたのかもしれない。

 

「マナー違反だって事もわかってるし、きっとあなたに嫌な思いをさせてしまう事もわかってる。でも、今日は……あなたと繋がれる間は……あなたを本当の名前で呼びたいの。駄目、かしら……」

 

 自信を全く感じさせない口ぶりで言う詩乃。確かにこの世界での常識として、本当の名前を名乗ってはいけないという決まりがあるけれど、今の俺達からすれば、もはやどうでもいいものだ。

 

 この世界で最も、いや、俺が生きてきた中で最も愛しく感じる女性の瞳をじっと見つめつつ、その願いを聞き入れ、名前を発音した。

 

 

桐ケ谷(きりがや)和人(かずと)。それが俺の本当の名前だよ、詩乃」

 

 その途端、俺の中でもう一人の自分が――黒の竜剣士キリトではない、桐ケ谷和人としての意識がゆっくりと広がってくるのを感じた。そしてそれは、まるで詩乃が与えてくれる温もりのようにとても暖かく感じられ――それで、詩乃の冷えた身体を暖めてあげたいという欲求に駆られ始める。

 

「き、り、がや……かずと……桐ケ谷和人……それが、あなたの名前なの」

 

 何も言わずに頷くと、詩乃はそっと瞳を軽く見開き、やがて微笑んだ。その様子はまるで、ずっと聞いてみたかった言葉を聞く事が出来て、その内容に軽く驚き、そして満足したようだった。

 

「桐ケ谷和人……苗字の《きり》と、名前の《と》を合わせて、《キリト》?」

 

「まぁ、そんな感じだな。簡単だろ」

 

 そっと笑うと、彼女の瞳から一粒の涙が零れ、それを皮切りにどんどん涙が溢れ出してきた。しかし、彼女の顔に浮かぶのは悲しそうなものでも、悔しそうなものでもない、大きな喜びを感じているかのような嬉しさの表情だった。

 

「簡単過ぎよ……でも、なんだかあなたらしい……」

 

 詩乃はそっと俺の頬に手を伸ばし、掌を当てる。詩乃の温もりがその手を介して、頬へ広がり、すぐさま全身に回り、身体が奥からじんわりと暖かくなる。

 

「それじゃ……お願いするわ……和人」

 

 俺は頷くよりも先に、彼女の桜色の唇を自らの唇で塞いだ。

 

 それから数秒も経たないうちに彼女はそっと目を閉じて、俺の背中と後頭部に手を回して背中と髪の毛をまさぐり始めるが、俺も同じように目を閉じて、柔らかい髪の毛に包まれた彼女の後頭部を少し強めに撫で上げ、そして今日買ったばかりの彼女の服、そのスカートに当たる部分をまくり上げて手を入れ、服の中に隠れている彼女の肌に置き、その温もりを直に感じ始める。

 

 そこから装備を全て外し……彼女に受け入れてもらうまで、時間はそんなにかからなかった。

 

 

 桐ケ谷和人としての俺が朝田詩乃に受け入れられ、朝田詩乃としての彼女が桐ケ谷和人としての俺を受け入れるのは、これが最初(はじめて)だった。


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