キリト・イン・ビーストテイマー   作:クジュラ・レイ

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「だけどな。俺は《壊り逃げ男》の話を聞くと、どうも複雑に感じるんだよな。いや、感じるっていうか、思うんだよ」

 

「えっ、どんなふうにですか」

 

「《壊り逃げ男》は犯罪者だが、その技術力はすごいものだって、俺はつくづくそう思うんだ」

 

 朝靄に包み込まれつつも、朝日を浴びて煌めいている、石造りの塔を目前にしたキリトが呟く。

 

 この塔の中にいかなる存在が待ち構えているかは定かではないが、そのラストボスを倒す事が出来れば、プレイヤー達をこのデスゲームの世界から解放する事の出来るゲームクリアを迎えられる。

 

 第1層から攻略を始めた時にはとても遠いものだと感じていたものが目の前にある事を、キリトは少し信じ難く感じていたし、これが現実ではないのかもしれないとも思っていた。

 

 しかし、第1層から100層を目指す冒険の途中で出会ったシノンという存在がキリトに確かな現実感を与えており、その現実感を強くするためにキリトはシノンに軽い話をしていたのだった。

 

「《壊り逃げ男》……名前の由来は確か、色んな物を壊してしまうから、だっけ」

 

「警察のインターネットもそれで逝ったらしいし、更にテレビ局やネットにもハッキングを行い、マスコミへの警察や政財界の重鎮達の癒着、賄賂、捏造、その他偽装工作などを全て全国放送させたらしいな。SAO事件並みの報道がされてたらしいけれど……シノンは知らなかったのか」

 

「うん。テレビはほら、拳銃とか出てくる事が多いから、イリス先生に止められてたし、くだらない番組ばっかりで興味を示す事もなかったから……でも、ネットのニュースとかでだったら見た気がするかも」

 

 キリトが少し首を傾げる。

 

「それを調べようとは思わなかったのか」

 

「興味を持てなかったのよ。あの頃は今よりも物事に興味を持ったりしなかったから。

 でも、今や日本中を騒がせているサイバー事件の数々が、全部《壊り逃げ男》のやった事なのだとしたら、《壊り逃げ男》はとんだ大罪人よ」

 

 もし《壊り逃げ男》を逮捕する話になったならば電子計算機損壊等業務妨害罪といった複数の容疑がかけられ、終身刑や無期懲役が課せられると思われているが、警察もマスコミも、政治家達さえも、自分達の後ろ暗いところを暴露されてしまう事を恐れて、《壊り逃げ男》逮捕へ漕ぎ付く事が出来ない。

 

「だけど、そういう話を聞くと、つくづく《壊り逃げ男》にはこう言いたくなる」

 

「なんて?」

 

「何でそれだけの抜きん出た技術力を持っているのに、平和活用できないんだって。

 あいつの技術力があれば、色んな技術の…………発展に………………」

 

 言いかけたところで、夫は急に黙った。まるで何かを感じ取っているかのような夫の様子を不安に思った妻が小さく声をかける。

 

「どうしたの、キリト。具合悪いの?」

 

 シノンの問いかけを受けたキリトは、すーっと顔を動かしてその目を見てから、首を横に振った。

 

「いや、なんでもないよ」

 

 いつもならば何人もの仲間でレイドを組んでボスに挑むが、今ここにいる攻略組はキリト、シノンのみ。圧倒的に戦力も突破力もないはずなのに、シノンは負ける気というものを一切感じておらず、そればかりか心の中に不思議な安心感が満ちているのを感じ取っていた。

 

「さぁ、行きましょう」

 

 シノンの静かな号令と共に、僅か二人の攻略組は、最後の迷宮区を目指して歩き始めた。だが、フィールドそのものがもう迷宮区と言えるくらいに狭かったので、大して時間をかける事無く、二人はその鬱蒼とした巨大な石扉の前に辿り着いた。

 

 そこへキリトが手をかざすと、客の到来を察知したかのように石扉は轟音を立てながら開いていき、瞬く間に完全に開いてしまい、中身を二人に見せびらかしたが――それを見た二人は少し驚いてしまった。

 

 100層と99層を繋ぐ塔。外から見た時にはこれまで見てきた迷宮区のそれとほとんど変わりがなかったが、その内装は宮殿のようなものだった。壁を見てみれば金色の装飾が施されていたりするし、床をよく見てみれば大理石によく似た質感を持つチェック柄。けれど、どこも紅一色だった。

 

「今までと雰囲気がかなり違うな……」

 

「見渡す限りの紅一色ってところね……なんだか目が痛くなってくるわ」

 

 視覚や聴覚に厳しいダンジョンは早く抜けてしまおう――いつもならばそうするところだが、今現在のここは《壊り逃げ男》が潜伏場所として選んでいる可能性の高い危険なダンジョンだ。

 

 いつ何か起きてもおかしくないから、用心しなければならないという考えを、シノンはダンジョンに挑む際に必ず持っていたのだが、今はそれがいつもよりも大きなものに変わっていた。

 

 現に、この紅き宮殿に足を踏み入れてから、ここには大きな危険が潜んでいる事を動物的な本能で察しているかのような寒気を感じている。しかしいくら索敵スキルをかけてもモンスターの気配を察知する事が出来ない。

 

「目が痛くなるのはわかるけれど……問題は《壊り逃げ男》だ。だけど何も感じない。壊り逃げ男どころかプレイヤーやNPCの気配も、モンスターの気配さえも感じないぞ」

 

「あなたの索敵スキルでも無理という事は……《壊り逃げ男》が全てを消し去ったと考えるべきか……障害がないのは好都合だけど、更に気を引き締めていかないとね」

 

 そう言ってシノンが進み始めると、キリトもまた音を立てないように、紅き宮殿の中を歩き始めた。

 

 本来は金色の光が照らしているはずなのに、周りが紅いせいで光も紅に変色している、紅だけの世界。いかにも敵が沢山いそうなところであるが、モンスターが姿を現す事も、宮殿を守るために配備されている警備兵の姿も見えてこないし、気配すらもない。静寂だけがそこに存在している、まるで廃墟のような完全に無人の宮殿。

 

 出来る事ならば、こんな不気味な宮殿は早いところ抜けてしまいたい。そのためには早いところ《壊り逃げ男》を見つけなければ――そう思ってキリトはいつも以上に広域に索敵スキルを展開するが、《壊り逃げ男》らしき気配が捕捉される事は一切なかった。

 

「何もいないわね……」

 

「あぁ。全く何も見えてこない。ここは真の意味で無人らしい」

 

 聞こえてきたキリトの声に、シノンは軽く安堵する。《壊り逃げ男》は、まるで忍者のように音無くプレイヤーを拉致するなんて事を平然とやってしまえるような存在であるため、目を離した隙にキリトが居なくなっているなんて事が起こるのではないかと心配していたのだ。

 

 しかし、未だに《壊り逃げ男》の言っていた制裁のようなものがくる気配がない。もし、ここに来る事であの言葉が現実になるなら、何かしらの制裁のようなものがあるはずだが、未だにそのようなものが来そうな気配も、それをするための罠にかかったような感じもない。

 

「あまりに何もなさ過ぎて不気味ね……ん?」

 

 目の前に広がってきたものを見たその時に、シノンはその足を止めた。まるで巨大な会場に繋がっているかのような、巨大な扉がいつの間にか姿を現して二人の前方に立ち塞がっていた。

 

 その扉の質感は床のような大理石のそれに近いが、金色の刺繍にも似た模様が走っており、どこか豪華さを感じさせるようなものだったが、これまでキリトと一緒に攻略を行ってきたシノンからすれば、その正体は安易に掴めるものだった。

 

「この扉は……ボス部屋の扉によく似てるわね。という事は……この先がボス部屋って事かしら」

 

「らしいな。だけど、扉の奥からは何も感じない。普通ならボスの気配くらいするもんだけどな……」

 

 この塔を外から見た時には、まるで複数のフロアが重なって出来ているような構造に見えていた。これまで見てきた迷宮区とは全く違う構造――その事から、99層の迷宮区はボス戦を連戦して登り詰めていく、所謂ボスラッシュ制になっていると、ネットでゲームの情報を拾う事もあったシノンは予測していたのだった。

 

「てっきり連続ボス戦だと思ったんだけど……ボスの気配がないとなると……」

 

「《壊り逃げ男》がこの先に潜伏している可能性がある……そう考えてよさそうだな」

 

 これまで探してきた中に《壊り逃げ男》らしき存在は確認されなかった。この事から単純に考えれば、この大扉の先に《壊り逃げ男》がいるという結論に辿り着く。

 

 ボス部屋の目の前にいるというのに、ボスの気配が感じ取る事が出来ないという事は、《壊り逃げ男》にボスが消滅させられてしまったからだろう。

 

「……《壊り逃げ男》との戦いになるかもしれない。準備はいい、キリト」

 

「そういうシノンこそ、準備はいいんだろうな」

 

 キリトの強気な顔を見て、シノンは安堵を感じた。キリトはこのアインクラッド最強ギルド血盟騎士団の団長を務めるほどの実力者であり、最強の《二刀流》使いだ。そしてその隣にいる自分は、アインクラッドで唯一遠距離攻撃を可能としている《射撃使い》。経った二人だが、双方共にユニークスキル使い。負ける気がしなかった。

 

「さっさと《壊り逃げ男》を倒すわよ」

 

 そう言ってシノンが音無く戸に手を当てた直後、この宮殿の入り口の時のように重い音を立てながら扉はゆっくりと開き、同じように内装を見せつけてきたが、それを目にした二人は、驚く事はなかった。

 

 

 荘厳なる扉の先に広がっていたのは、紅を基調とした壁や床に、金色の装飾などが施されている、それこそ伽噺(おとぎばなし)などに出てくる貴族達の舞踏会会場にも思える、豪勢で優雅な大部屋だった。

 

 しかしその大きさはあまりに広大で、舞踏会などに使うものではなく、戦闘に使うものである事が一目見ただけでわかった。その中へと入り込んで、キリトとシノンはそれぞれの武器を構えてボスを探す。

 

「ここはボス部屋……絶対にどこかにボスがいるはずだわ」

 

 弓矢を構えて、いつでも放てるようにしながら周囲を見回す。だが、どんなに壁を見回してもボスモンスターらしき影は見つからず、天井を見回してもシャンデリアと紅色の天井が広がっているだけで、やはりモンスターらしき存在は確認されない。

 

 索敵スキルや望遠スキルを使っても、なにも引っかからない、自分達以外の生き物が存在していない虚無にも思える空間。ボス部屋だと思って入り込んだその部屋は、そんなものでしかなかった。

 

「なんなのよ、ここは。ボス部屋じゃないのかしら……」

 

 ボス部屋じゃないならば、上に行く階段があるはず――そう思ってもう一度隈なく周囲を見回しても、階段らしきものは見つからないし、あるものは金色の装飾が施された紅色の壁とチェック柄の床のみ。

 

 まさか、道を間違えてきてしまったか……そう思いながら、虚無の部屋を見回したその時に、部屋の奥にあるものを見つけて、シノンは吃驚した。紅と金に彩られた大部屋の奥側、そこに人影がぽつんと存在している。その大きさは大人ほどのものではなく……11歳くらいの子供のそれと同じくらいだった。

 

「……?」

 

 シノンはその人影を注視した。いや、子供と同じくらいじゃない、あれは、子供だ。その証拠に、着ている服が小さめの薄黄色の長袖のトレーナーと、赤色のスカートという、いかにも子供が、女の子が着ていそうなものになっている。そしてその髪の毛は……どこかで見た事があるような黒色のセミロングだった。顔は俯いているせいで見えない。

 

「女の子……?」

 

 だけど、ここは99層であり、あのような子供がやって来れるような生易しい場所ではないはず。上級プレイヤーですら苦戦させるモンスター達が数多く潜んでいるようなこの場所で、武器すら持たずにいるあそこの子供は一体何者なのか――そう考えたと同時に、シノンはある事に気付いて、また驚く。

 

 いくら見ても、アイコンが出てこないのだ。普通、プレイヤーかNPCならば遠目で見たとしてもアイコンが出てきて、その名前がわかるようになっているのだが、あの少女からは何も出てこない。それはつまり、プレイヤーでもNPCでもない存在を意味する。

 

「……?」

 

 プレイヤーのような姿をしているのに、プレイヤーのようにアイコンを出す事のない、この世界の常識から逸脱してしまっているかのような少女。その顔は一体どのようなものなのか――子供のような好奇心に駆られたシノンはじっとその少女を見つめたが、シノンの視線に気付いたかのように、その少女はゆっくりと顔を上げた。

 

「……あ」

 

 その顔を目の当たりにしたシノンは言葉を失った。少女の顔の目元、鼻、口元、輪郭、耳、その全ての作りが、シノン/朝田詩乃と全く同じだったのだ。

 

 驚いたシノンは咄嗟に手鏡を取り出して自分の顔を確認して、もう一度少女の方に顔を向けるが――やはり、少女の顔は何度見ても自分の顔と同じだった。それだけではない、髪型も髪の色も、よく見れば完全に同じ作りに出来ている。

 

 この世に二人と存在するはずのない自分自身が、そこにいるという、所謂ドッペルゲンガー現象。しかし、シノンは咄嗟に首を横に振って、弓の弦を引き絞り、矢を少女に向ける。

 

 ――自分が二人も存在するなんて事は有り得ない。あれは、モンスターの類だ。そうだ、そうに違いない――シノンは頭の中で何度も呟きながら、自分と同じ姿に化けているモンスターに問うた。

 

「誰、誰なの、あんたは!」

 

 シノンの声を受けるや否、虚無を映しているかのように真っ黒い瞳をしている少女は、小さく口を開いた。

 

「やっと……見つけた」

 

 その声色すらも自分のそれと同じもの。いや、どちらかといえば自分の声を少し幼くしたようなものだが、自分のものである事に変わりはない。――完全に、11歳の時の自分自身、朝田詩乃だった。

 

「なんなの……なんなの、あんたは……!?」

 

 11歳の詩乃はゆっくりとシノンに向けて歩き出した。その足音はしたっ、したっという何とも言えないような音だった。

 

「ひどいよ、あなたは。一人だけ、出ていっちゃうんだから。私に全部、押し付けて」

 

「……?」

 

 11歳の詩乃は淡々と言葉を紡ぐ。

 

「私、ずっと辛かったんだよ。あなたに離れて欲しくなかった。閉じ込めて欲しくなかった。なのにあなたは私の事を忘れて、閉じ込めて、いつの間にか自分一人だけ幸せになろうとしてる……ずるいよ、ずるいよ、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい、ずるい」

 

 唐突に言葉の数が増してきた詩乃に、シノンは背筋を凍らせる。しかし、何とか意識をしっかりと持って、弓を構え直し、弦を引き絞り続ける。

 

「なんなのよ、あんたは……モンスターなの? だとしたら、最悪のモンスターね……」

 

「モンスター? 違うよ。私はモンスターなんかじゃない。私はあなたを迎えに来ただけ……一人だけ違う世界に行こうとしてるあなたを、迎えに来ただけ。ううん、寧ろあなたがモンスターよ。すごく危ない、化け物」

 

「えっ……」

 

 11歳の詩乃は懐に手を入れて、何かを探るような仕草をした後に、手を引き抜いた。そして、その手に新たに握られているものを見た瞬間に、シノンは全身の血液が凍ってしまったような錯覚に襲われて、弓矢を床へ落とした。

 

 11歳の詩乃が持っていたそれは、グリップ部に黒い星のエンブレムが刻み込まれている、黒銀の《拳銃》だった。その黒光りする忌まわしき姿を見た瞬間に、シノンの中の《宿痾(しゅくあ)》が再び蠢き始め、シノンの身体を震わせ始める。

 

「だってあなたは、こんなふうに」

 

 11歳の詩乃は、シノンの事を見たまま銃口を自らの額に付けて、トリガー部分に人差し指をかける。シノンは次の瞬間の映像を瞬時に頭の中に描き、声を出そうとしたが、それよりも先に11歳の詩乃は額に銃口を付けたまま、そのトリガーを引いて見せた。

 

 それから一秒も経たないうちに、部屋の中の空気が一気に膨張して破裂したような、鋭くて大きな音が鳴り響き、シノンは思わず耳と目を塞いだ。そしてそっと瞼を開いた祭、見えてきた光景に完全に言葉を失う。

 

 自らの額を撃ち抜いたりすれば、普通の人間はその場で死体となり、地面に転がる。だが、そういった自殺行為をしたはずの11歳の詩乃は額に風穴を開けて、手と顔を粘り気のある血で真っ赤に汚しながら、立ち続けていた。

 

 そして、動くはずのない口を動かして、再度言葉を発した。

 

「頭をぶち抜いて、人殺しをしちゃったんだから」

 

 その光のない穴のような瞳に睨まれた瞬間に、シノンは無意識のうちに口から声を漏らし始めた。身体が強い寒気に襲われているかのように震えてがちがちと歯が鳴り、喉の奥に舌が張り付いて息が吸ったり吐いたり出来なくなる。

 

「う、う゛ッ」

 

 同時に、胃が何かに掴まれたかのように激しく萎縮し、強い吐き気を催された。なんとか耐え込もうとしてもシノンの身体はその意思を一切無視し、その場で下を向いて、握り締められた胃から熱い液体を吐き出した。

 

 何度止めようとしても、突き上げてくる吐き気には勝てず、シノンは全身にあるものをすべて出そうとするかのように激しく嘔吐した。

 そして胃の萎縮が収まったその時に、死体になっているはずの詩乃が目の前にまでやってきている事にシノンは気付き、軽く悲鳴を上げる。悲鳴を上げるシノンに、11歳の自分自身は小さく言う。

 

「そうだよ。今あなたが感じてる苦しみは、全部私の苦しみなの。なのにあなたはそれを全部私に押し付けて、一人だけ幸せになろうとしてた。ひどいよ、許せないよ、許せないよ、許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない」

 

 淡々と同じ言葉を紡ぎつつ、頭から粘り気のある血をどろどろと流しながら、詩乃はゆっくりとシノンに近付いてくる。現実感が完全に欠如している光景のはずなのに、シノンにはこれが現実ではないという認識は出来ない。ただただ、迫りくる11歳の自分自身の、その底なし沼のような瞳を見続ける事しか出来なかった。

 

「いや、いやぁ、いや、いやあああ……来ないで……こないで……」

 

 どんなに後ずさろうとしても詩乃から距離を離す事は出来ず、身体が上手く言う事を聞かないせいで立ち上がる事さえも出来ない。そして詩乃は、まるで恨みを晴らそうとしているかのように血を垂らしながら、したしたと足音を立ててシノンに迫る。涙で視界がぼやけても、詩乃の姿だけはしっかりと映し出されている。

 

「ずっと寂しかったんだよ。だってあなたが急にいなくなっちゃうから。でもそれだけじゃない。いなくなって、私の事を思い出さないようにして、一人だけ暖かい世界に行こうとしてた。どうしてなの」

 

「いや……やぁ……やぁぁぁぁぁ……」

 

「あなたは出ちゃ駄目なの。化け物だから。あなたは化け物だから、寒い世界に居なきゃいけないの。幸せになっちゃ、いけないの。そんな事は、許されてないの」

 

 耳を塞いでも詩乃の声は頭の中に直接響いてくる。拒絶する方法はない。――この声から逃れたい、どうすれば逃れられる――声を浴び続けたシノンの頭は無理矢理そんな考えを作り出し、やがて答えを導き出したその時に、シノンの口を強引に動かす。

 

「ごめんなさい、ゆるして、おねがい、ゆるして。いやぁ、もどりたくない」

 

 次の瞬間、再び破裂音が鳴り響き、シノンはその場に硬直した。言葉を失っているシノンの右横に、生きる死体の詩乃は弾丸を放っていた。自らの額を撃ち抜いたものと完全に同じものを。

 

「黙れ糞虫」

 

 詩乃は銃を下げて、淡々とシノンに言う。

 

「誰のせいだと思ってるの。私がこんなに痛くて、辛くて、悲しくて、怖くて、寒い思いをしなきゃいけなくなったの、化け物扱いされなきゃいけなくなったの、誰のせいだと思ってるの。全部、あなたのせいなの。なのにあなたは、それを全部私に押し付けて、逃げようとしてた」

 

 次の瞬間、詩乃の口元から頬にかけて顔が一気に裂けていき、笑顔を作り出した。

 

「あなたは私の事を見てた。私は何度もあなたに近付こうとしてた。だけど私を、あなたはあの時の男に無理矢理変換して見てた。私だって事に気付かなかった。気付かないようにしてた。だけど、こうして私は、あなたに近付けた。もう、あなたから逃げられる事はない」

 

 その時、シノンは宿痾が蠢く度に見える男の正体を理解した。宿痾が見せつけるあの男は、あの時自分が撃ったあの男が復讐の鬼となって現れたものではなく、あの時あの男を撃った自分自身だったのだ。

 

 あの時自分は既に殺人の化け物になっていたけど、あの男を復讐の鬼という化け物に仕立て上げる事によって、自分が化け物でない事を信じ込んでいた。本当は、あの時の自分こそが復讐の鬼であり、化け物なのだ。そうわかった瞬間に、頭の中にちらついていたあの男の姿が、一気にがらがらと崩れ去り、消え果てしまった。

 

 そして自分の身体から抜け出してしまった、いや、追い出されてしまったあの詩乃は、今ようやく戻るべき場所を見つけ出したのだ。今まで殺人の化け物である事を忘れて、幸せな日々を送っていこうとしていた自分という場所を。

 

「いや、いやいやいやいや、おねがい、ゆるして、もどりたくない、おもいだしたくない、ゆるして、ゆるしてぇ」

 

 一心不乱になって首を横に振ったその時に、シノンは身体が完全に動かなくなり、床に固定された感覚に襲われた。目を開けて周囲を見てみれば、口元が裂けて血塗れになっているあの時の詩乃が、何人にも増えて取り囲み、シノンの身体を床に抑え込んでいた。

 

「いやあああああ、おねがい、ゆるして、ゆるして、ごめん、ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、ごめん、なさい」

 

 抑えがたい恐怖に襲われたシノンはもがくが、11歳の子供とは思えないような力を、あの時の詩乃は発揮しており、シノンの身体を一切動かさせない。

 

 そして銃を持ったあの時の詩乃は、ゆっくりと動けないシノンに近付くや否、その身体に馬乗りになって完全にシノンの身体を床に固定し、血塗れになった手でシノンの頬を抑え込み、狂気と歓喜に満ちた表情のまま、ゆっくりとシノンの顔に迫った。

 

 

 

「 お か え り な さ い 」

 

 

 

 シノンは喉を裂きながら叫んだ。

 

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